ドンブルーアーカイブ 作:鰻の蒲焼
十二軒目、洗濯物を干した。
二十九軒目、部屋の掃除をした。
三十三軒目、買い物を手伝った。
四十一軒目、アイロンがけをした。
五十二軒目、庭の草刈りをした。
六十八軒目、出口にたむろしていた不良を追い払った。
七十四軒目、屋根裏に設置された爆弾を解除した。
そして、八十五軒目のことだった。
錠前サオリは、『彼女』に包丁を突きつけられていた。
「────うそつき、うそつき! 信じてたのにっ!!」
震える切っ先に込められているのは、粘ついた憎しみだけではなかった。引き裂かれたような哀しみと、心の底から湧き上がる怒り──他にも、色々と。
人間が抱く悪感情のおおよそが、その鈍い切っ先に詰め込まれていた。
だが、先端を見据えて、サオリは少しも動じない。
淡々と冷静に、自らの主張を伝えていく。
「信じることを選んだのは、お前だ。私は頼んでいない。そのせいで生じた不都合など知ったことか。そちらの都合や期待を、勝手に押しつけるな」
「それが、人を裏切って、最初に言うせりふ!?」
サオリは心底疲れたような溜め息を吐きつけて、
「何度も言わせるな。私は、裏切ってなどいない──お前が勝手に、裏切られただけだ」
「……あ、ああッ」
噛み締めた唇と歪んだ表情は、裡に燻る憎悪を正しく表していた。
サオリはそれを、ひたすら静かに見据えている。その態度が『彼女』の癪に障ったのだろう。
最後に残っていた理性の綱が引きちぎれる音が聞こえ、
「──うわああッ!」
『彼女』は激昂のままに、包丁の先端をサオリの腹に向かって──
ぴん、ぽーん。
「あ! ママかえってきた────っ!!」
憐れ、包丁は投げ捨てられた。
フローリングから聞こえてくるのは、鉄のそれではなく、プラスチックが奏でる軽々しい音である。
サオリは回転しながらすぐそばまで転がってきたそれを拾い上げると、近くにあったカゴに放り込んだ。
カゴのなかには、同じくプラスチック製の、雑な作りをした玩具が所狭しと入っている。
要するに、おままごとである。
ちなみに『彼女』は、まだ六歳にも満たない幼児だったが、たった一度の映画出演で演技法のおおよそを把握していた桃井タロウによる細かな指導によって、渾身の演技を身に付けるに至った。
あれは確かな質量を持っていた──と、サオリは自分のなかにあった小さな緊張をほどく。
ふう、と今度は演技ではなく、本物の溜め息を吐き、天井に設置された電灯を見つめた。
発端は確か、留守番の付き添いだった。
──そういえば、アンタとは一週間ぶりか。まあいい。これも縁だ。なにか困ったことがあれば言うといい。
そう、いつもの調子で台詞を吐いたタロウに、外へ買い物に出る格好をしながら、ぐずぐずと半泣きの子供を片足に纏わりつかせている母親は言った。忙しくなければ、娘と留守番をしていて欲しい、と。
驚異的なスピードによって、午前中にこなすべきノルマは、この家への配達をもって達成している。だから、タイミング自体に問題は無かった。
しかし、単なる宅配人に子守りを──ましてや家番を任せるなど、普通なら考えられないことだと、サオリは思う。もし、宅配人がなんらかの賊心を持った人物だったとしたら、その悪意の前に、自らの弱点をむざむざと曝け出しているようなものだからだ。
だが、母親はタロウと知り合いらしく、タロウならば任せられる──とたちまち笑顔になった子供をタロウに渡して、飛び出すように出ていった。
そういう経緯で一時的とはいえ、共に配達員として働いているサオリも、同様に留守番の任務を果たすことになり──侵入者用のトラップを仕掛けようとして止められたり、子供に引っ付かれて身動きが取れなくなったり、ままごとに付き合うなかで徹底的に演技にダメ出しされたり──色々あった末に、今の状況に落ち着いたのだった。
「──なかなか上達しているが、やはり熱が足りない。精々十九点といったところか」
「それは、褒めているのか? それとも貶しているのか?」
「両方だ」
「……そうか」
壁に寄りかかっていたタロウに応えながら、サオリは立ち上がった。同時に居間の扉がひらき、買い物袋を両手に下げた鶏顔の──比喩ではなく──母親が、足元に先ほどまでサオリとままごとを演じていたヒヨコの幼児を引き連れて、入ってきた。
「──ふう。もう、ほんっとに、助かったよ。ありがとうね!」
「礼はいい。おれが運ぶのは、荷物だけではないからな」
「助かったのは事実なんだからいいじゃない。ほら、ちゃんとお礼言っときなさい」
「おにーちゃんおねーちゃんありがとう」
「気にするな。アンタには、いい演技を見させて貰った」
「……」
母親に促されて、ヒヨコはぴょこっ、と頭を下げる。
タロウは腕を組みながらそれを受け取り、サオリは──ひたすら、困惑していた。真っすぐに向けられる感謝の気持ちの取り扱い方など、まるでわからなかったからだ。
「……私も、気にする必要は無い」
だが、うろたえる訳にはいかないと、鉄面皮を作って抑え込む。幸いにも異変は誰にもバレずに済んだようで、タロウはさっさと家から出る準備を始めだした。サオリもそれにならって、椅子の背にかけていた制服を羽織る。
その最中に、母親が、サオリになにかを手渡してきた。
一抱えほどはある、大きなビニール袋だった。その表面に栗のマークと、ポップな字体で『マロンせんべい』と記されている。
サオリはそれを見下ろし、それから母親へと視線を向けた。青い瞳のなかには、隠し切れなかった戸惑いが見て取れた。
「……これは?」
「今日のお礼! 良かったら、会社のみんなで食べて」
「いや、だが──」
──手伝おうと決めたのは、桃井タロウだ。それに自分は正式な社員ではない。受け取る資格など、持ち合わせてはいない。
そう言おうとした直後、腰にヒヨコをひっつけたタロウが、横から口を出してきた。
「今のアンタは社員だ。素直に受け取っておけばいい。別に、爆発したりはしない」
「あらやだ。いつの間に冗談を言えるようになったの?」
「おれは冗談は言わない」
「えんぎは冗談みたいだったよ」
「…………」
すぐ目の前で交わされている筈のやり取りが、なぜかくぐもって聞こえている。
サオリは、抱き締めるようにせんべいを抱えながら、自分のなかで静かにのたうち回る得体の知れない衝動と、必死に戦った。
〇
そして、九十六軒目のことだった。
八畳半の和室である。
左手には通路と台所を部屋から隔てるための襖があり、右手には縁側があった。日中だからなのか、窓は開かれており、陽光と風が時折はいり込んでくる。庭を飾るのは、緑が眩しい草木の群れである。
そんな和室の中央で、サオリは座布団の上にあぐらをかいて、ちゃぶ台の上に置かれた器の中身を、じっと見下ろしていた。
そのなかにあるのは、乱切りした大根と人参とちくわ、半月切りしたれんこん、四つ割りしたごぼう、茎を切り落としたしいたけを酒、みりん、醤油、だし汁──そして砂糖で味付けした、お手本のような煮物である。
サオリは地味な色映えのそれを煮物とは知らないまま、借りてきた猫よりも大人しくしながら、じっと見つめる。穴どころか、ブラックホールができかねない程、熱い視線だった。
そこに含まれているのは、幼い頃から抱くことが当たり前となっているささくれた警戒心と──つい最近になって生まれた、まっさらな好奇心。
(──これは、なんだ?)
食事は単なる栄養補給する為の行為でしかなく、空腹を一時でも満たすことができれば、味などロクに気にしたこともなかったサオリにとって──それは生まれて初めて見る、キヴォトスの『料理』だったのかもしれない。
煮物は、桃井タロウがこれまで作ってくれた、病人用の食事とはまた違う雰囲気を、食欲をそそる匂いと共にただよわせている。
香ばしい醤油の匂いを鼻先で嗅ぎとめたサオリが、ごく、と無意識のうちに喉を鳴らした瞬間、サオリの隣に置いてあるもう一つの座布団に、タロウがゆっくりと腰を下ろしてきた。
相次いで対面に座ったのは、紫色のちゃんちゃんこを羽織った老柴犬──タロウがいつか、ミレニアムで夫とはぐれていたところを助けた、老夫婦の片割れだった。
老柴犬はお盆に乗せた箸と小皿を、タロウとサオリの前に置くと、困ったように眉を寄せながら頬に手を当てた。
「それにしても、ごめんねぇ。お仕事中に。作り過ぎた私が悪いんだけれど」
「問題ない。せっかくの厚意だ。受け取らなければ、それこそ礼に悖るというもの──ありがたく受け取らせて貰おう」
「まあ、ふふ。お上手なこと──そちらのお嬢さんも、ありがとうねえ」
「……──ああ」
老柴犬に呼び掛けられて、サオリはふと我に返ったような調子で、そう答えた。まさか、食べ物に意識が集中していて、ぼうっとしていたなど、言える筈もない。
「さ、どうぞ、召し上がれ」
「いただきます」
「……いただきます」
タロウとサオリは手を合わせると、それぞれに用意された箸と小皿を使って、好きな具材を取っていく。タロウが選んだのはちくわ、サオリが選んだのは人参だった。
「……」
小皿を下に構えながら、摘まんだ人参を口に入れようとして──サオリはぴたり、と、時を止められたかのように固まった。
それを横目で見たタロウも、また動きを止める。
「どうした? ──いや、あぁ。アンタは、そうだったな」
納得したように頷くと、サオリよりも早く、ちくわを口に運んだ。
目をつぶりながら、味わい尽くすように咀嚼を繰り返し、喉を緩やかに上へ下へと動かす。
そして、ゆっくりと瞼を開くと、吹き抜ける夏風のように爽やかな笑顔を浮かべてみせた。
「──美味い! 中々やるな、お婆さん」
「……」
それを確認して、サオリはようやく、人参を食べた。
段々と形が曖昧になっていく人参と比例するように、よく煮込まれた煮汁が、口のなかに溢れる。調味料たちの微妙な調和が、人参そのものの甘味をより際立たせていた。
殴り付けてきたように舌に響いたその感覚は、きっと正しく衝撃だった。
「……っ」
人参を飲み込んだ次の瞬間には、サオリの箸は、勝手に器へ向かって伸びていた。そして、次の具材を掴み、今度は最初よりもずっと速く、口に運んだ。
後は、それの繰り返しである。
ごぼう、ちくわ、大根、れんこん、しいたけ──錠前サオリが具材のすべてを制覇して、二周目へと突入するのに、数十秒もかからなかった。それは間違いなく、食料の継続的な確保すらままならない地獄を、必死に生き抜いてきた末に産まれたサオリの手腕が、遺憾なく発揮された瞬間だった。
タロウはそんなサオリを一瞥だけするが、大して気にした風も見せず、自分のペースを保ちながら箸を進める。箸をまったく止めない二人を見て、老柴犬はとても嬉しそうに笑う。
箸が動く音と、風が吹く音。
すぐそばにある、ひだまりの暖かさをかすかに感じながら、サオリはそれを聞いていた。
〇
「ようやく、理解した」
煮物を食べ終え、荷物を受け取った老柴犬に見送られつつ、二人は近くの駐車場に停めたバンまでの道を辿っていた。
左側にある塀の上から飛び出た梢が、葉々を揺らしながら、地面に淡い影を投げかけている道だった。
そんな道を歩いている中で、不意にそんな呟きが背後から聞こえてきたので、タロウはゆっくりと振り返った。
視線の先には、納得したような光を宿している少女の、うつむき加減の瞳。
タロウは考えたことを、素直に尋ねることにした。
「──理解した、とは、どういうことだ?」
「お前が、こんな行動をしている理由だ──出発する前に、マニュアルを一読させてもらったが……お前の行いは、載ってはいなかった」
「当然だ。これは、おれが好きでやっていることだからな。
社長から許可は貰っているが……それがどうかしたのか?」
「実に、見事な手腕だ」
サオリはそこで言葉を切ると、道路を挟んだ向かい側の道路を談笑しながら歩いている、生徒達の姿を眺めた。
「──宅配業を選んだのは、定型とはいえ、他者とのやり取りが必ず存在するからだろう? そこから、些細なやり取りを交わしていくなかで個人的な事情や問題を聞き取り、解決か──あるいは相談に乗るだけでも良い。
そうして心理的優位性に立つことを繰り返していけば……いつの間にか、受け入れられているという訳だ。そして、いざという時に支援も受けられやすい」
自らの推論を話しながら、サオリが脳裏に思い浮かべているのは、これまでに行ってきた配達だ。
例外こそあったが、受け取るほとんどの客が、桃井タロウという存在をキヴォトスにおける日常の一つとして受け入れていた。
サオリにとって、それは驚愕に値する光景だった。自分が桃井タロウに対して抱いている異物感が、まるで嘘のように感じられたからだ。
だからこそ、言葉と行動の積み重ねによって、それを押し潰しているのだと合理的に判断した。
否定はしない。その行動にどのような思惑を込めるのかは、本人の自由である。他者が介在する余地など、微塵も無い。
けれど、サオリは少しだけ、ほんの少しだけ──残念に思う気持ちを抑えきれなかった。
それはきっと、桃井タロウならば、そうした損得勘定とは無縁の場所にいてくれるという──ひどく身勝手な期待を、心のどこかで抱いていたからなのだと思う。
(なにを、私は馬鹿なことを──)
勝手に期待し、勝手に失望する自分が、ひどく惨めな存在にサオリは思えた。
その一方でタロウは、反論することなく、黙って少女の言葉を聞いていた。
何台かの車が道路を通り過ぎ、排気音が溶けていく。
やがて、どこかで赤信号に生まれたのだろう。車の行き交いがぴたっと止まったところで、タロウはぽつぽつ、と話し始めた。
「──不思議だな」
「?」
男の声が郷愁を感じているものだと気づき、サオリは首を傾げた。タロウは気にせず、言葉を繋げていく。
「アンタと話していると、なんでか、ヤツを思い出す」
「……ヤツ?」
「ああ」
怪訝に眉を顰めるサオリをよそに、タロウはまるで──ここではない場所を見ているかのような、朧げな目つきを作った。
「なにがあったか知らないが、アンタは人間を……いや、世界を信じていない。
どこかで、諦めを持っている。希望や奇跡など何処にも存在しないと、思おうとしている」
「────」
「ヤツも、似たようなものだった。欲望を持たない、心の清らかな人間はこの世にいると信じていた。
だが、おれが裏切った。おれはヤツにとっての……」
沈黙の隙間を縫うように、一台の車が通り抜ける。
帽子を外し、吹き付ける風に髪を委ねながら、タロウはそっと目を伏せた。
──私は、人間の命は何よりも尊いと思っています。
──だが、条件がある。私は、人間の過剰な欲望を憎みます。
──でも、世の中にはきっと美しい嘘もある。
──あなたはそれで良いんですよ。あなたは、私の希望です。
──あなたのような人が増えれば、私の心は休まります。
──お前は、私の……
「──絶望だった」
「……」
街中に溢れかえっている喧噪が、どこか遠くに聞こえる。
タロウはそこで顔を上げると、サオリと見つめ合った。
かすかに翳りながらも、確かに輝いている、強い眼差しだった。
「アンタの質問に答えよう。おれがああやって縁を結んでいるのは、幸せというものがわからないからだ。この世界でも。
だから、人を幸せにして、幸せを学ぶ。
おれの行動が、アンタにとってどう映っているのかを、知るつもりもない。それは、アンタが選ぶことだからな。おれはただ、やるべきことをやるだけだ」
不意に、桃井タロウに対して抱いている何もかもを見透かされたような気分になって、サオリは目を逸らす。
やがて零した声は、首を絞められている時のように、掠れていた。
「……お前、は────」
サオリがとうとう、自身の何かを決定的に変えてしまいかねない言葉を、吐きかけたその時──
「待て」
投げ掛けを遮って、タロウが腕時計を見た。
数秒の沈黙。ふたたび首を持ち上げたタロウの表情は、すっかり仕事用のそれに戻っていた。
「話は終わりだ。そろそろ次の配達がある。急げ」
「──なっ、待て! 桃井タロウッ! 待てっ!!」
帽子をかぶり直し、タロウは再び歩き出した。一方的に遠ざかる背中を追いかけようと一歩を踏み出しかけて、サオリは足を止める。
けれど、男の背中は遠ざかるばかりで、少しの間も待ってくれそうにない。
「──くッ」
だから、サオリは──走り出した。
地面に散らばる木陰を踏み越え、陽だまりのなかへと入っていく。
男の背は、未だ遠く。
それでも道は、真っ直ぐに続いていた。