ドンブルーアーカイブ 作:鰻の蒲焼
端末は、意外なほどあっけなく見つかった。
ただ、そこには予想した通り、チンピラやヘルメットをつけた不良という付属物があった。
警告をした。
相手は従わなかった。
だから。
サオリは、するべきことをした。
「ぐ、うぅ……」
「お゛ええっ……」
煙のような呻き声が地面からゆらゆらと立ち上る、薄い闇があちこちにこびりついた路地裏で、錠前サオリはただ一人、拳を握り締めながら立っていた。
姿勢は不動にして自然。だが、見る目がある者からすれば、その長く引き締まった体躯には肉食獣めいたしなやかさが未だに備わっており、少女の意識には一粒の油断も存在しないことを理解するのは容易かっただろう。
「──」
サオリは頬についた返り血を親指で拭うと、地面に落ちている端末を拾い上げた。
側面のボタンを何度か押して、電源を入れてみようと試みるが、おおきく罅割れた画面は真っ暗に染まったままで、ただただ冷ややかな目つきで見下すサオリを、無機質に映すばかりである。
まあ、分かっていたことだ。サオリは大した落胆も抱かず、ズボンのポケットに端末を突っ込む。最早ここに用は無いとばかりに路地裏に背中を向けて、そのまま立ち去ろうとした刹那──がちゃり、と鉄がすれ合う音が背後に響き、彼女はほんの数センチだけ、自分の身体を左に傾けた。
銃声。
先程まで右腕があった空間を、一発の銃弾が音の壁を超えて、すり抜けていった。サオリは立ち止まると、顔だけを振り向かせる。
そこには、
「てめェ──よくも、やってくれやがったな……!」
前蹴りを喰らった腹を片手で抑えながら、もう片方で拳銃を構えたチンピラの姿があった。
チンピラはぜえはあと荒い呼吸を繰り返しながら、サオリを怒りの籠った視線で突き刺してくる。
サオリはゆっくりと全身で振り返ると、チンピラに向き直った。そしてぞっとする程の無感情で言葉を紡いでいく。
「警告はした。お前達は従わなかった──そうなるのは、当然の帰結だ」
「あ゛ぁ!? クソっ、痛ぇ……! ワケわかんねえこと言ってんじゃねーよッ!!」
サオリの冷えた眼差しとは対照的に、チンピラの目は憎悪で燃えている。
それでもひとしきり叫ぶことで、頭が冷えて、現在の状況を把握したのだろう。チンピラはふと、悪意がこもっていることがありありと分かる嫌らしい笑みを浮かべだした。
チンピラは、このD.Uの裏路地では、そこそこ名の通ったチンピラだった。勿論、ヴァルキューレにマークされているわけでもないし、指名手配を喰らっているわけではない。
それはつまり、大して脅威に思われていないという何よりの証左なのだが、彼女はそれをなんともおめでたいことに、ヴァルキューレでさえも自分の動向を把握できてない証なのだと本気で思っていた。
それは一旦置いておく。
ともあれ、長い経験というのはなかなかバカにできるものではなく、彼女は歩き方や姿勢を見ただけで、相手が銃を所持しているのかどうかを、なんとなくではあるが判別できるようになっていた。
だからこそ、笑った。
「──よく見りゃてめえ……銃はどうした? あ?」
「────」
そのことに。
その場にいる誰よりも驚いたのは、他の誰でもないサオリ自身だった。
最初に思い出したのは、初めの方の配達で客に銃を突きつけた際に桃井タロウから叱責を受けたこと。その次に思い出したのは、配達時はなるべく最低限の武装に留めておこうと思い、主武装であった銃を車内に置くようにしたこと。そして、最後に思い出したのは──
生まれて初めて銃を握り締めた日に、心のなかで誓ったこと。
この、絶望と苦痛が堂々と闊歩している、どうしようもない世界を生きていくには、『これ』を決して手放してはならないと。
そう誓った、はずだったのに──
「ハハ! ンだそのなっさけねえツラはっ!」
一方でチンピラは、そんなサオリの表情を、自分の都合のいいように捉えたらしい。引き攣ったような哄笑を奏でると、怯えを誘いだすかのように、銃口を揺らし始めた。場の主導権を握っているのは自分であると確信していることがよく分かる、実に調子の乗った仕草であった。
チンピラは溢れ出る勢いに任せて、ようやくいつもの自分らしい台詞を吐く。
「ま、あたしも鬼じゃねえ。さっきのはいわゆる不幸な事故ってことで見逃してやってもいいんだぜ? 有り金と、そのボロッちい携帯、それと……気持ちの籠った土下座を置いていってくれりゃ、文句なしだ。」
「……」
「あぁ、いや。アンタ、配達員か。だったら──荷物全部の方が良いか?」
その言葉を聞いて。
サオリはようやく、チンピラそのものを視界に入れた。
告げるべき言葉は、ただ一つだけ。
「──銃さえあれば勝てると、本気で思っているのか?」
「は?」
決着は、一瞬でついた。
その一瞬を細分化すると、次のようになる。サオリはまず、ずっと地面の上で不貞腐れるように転がっている、外と内の両方に汚れがこびりついたガラス瓶を蹴り上げた。狙った先はチンピラの顔面。チンピラは自身の顔面めがけて飛んできた高速の凶器に恐れをなして、構えていた銃をそのままぶっ放した。
ガラスが内側から弾けた。
サオリの爪先によって限界を迎えかけたせいもあり、ガラスは一瞬の一発で修復不可能なレベルで粉々に砕け散った。耳障りな破砕音と共に、狭い裏路地を形成する両壁を駆けのぼった先にある青すぎてむしろ黒く見える空の光を受けて、宙に点々と散らばった透明な塵がきらきらと微細な光を放つ。
その欠片と、マズルフラッシュが重なったことにより出来上がった、瞬きの間しか存在し得ない煙幕こそを利用する。
サオリは崩れ落ちるように膝を折り、這うような低姿勢で地を滑った。澱みのない重心操作、狂いのない体重移動。彼女自身の影でさえも動きが遅れて見えたのは決して気のせいではあるまい。
とん、という靴が地を踏みしめる軽い音を、チンピラの耳が仕入れた瞬間にはすでに、サオリはお互いの呼吸音さえ聞こえるような至近距離にまで潜り込んでいた。
「な──ッ」
驚愕でさえ、遅い。
充分な加速に乗せられた、少女の肘の鋭さと威力は、並のそれには収まらない。チンピラの身体の中心部に、爆発したような衝撃が奔り抜ける。
その凄絶なまでの痛みを、チンピラが実感するよりも先に。
意識を、錠前サオリが下方より撃ち放った、捩じれるような左の掌が刈り取った。
「──」
サオリが確かな手応えを感じながら、顎を弾き飛ばした手をゆったりとした動きで引っ込めた瞬間、ヘイローを頭の上から消したチンピラが音を立てて崩れ落ちた。
それを少女は、少しの熱も宿ってない目で見下ろすと、何事もなかったかのように背を向けて歩き出した。
一定のリズムを刻む足音が、淡々と響く。
今度は、誰にも引き留められなかった。
やがて路地裏から抜け出したサオリは、桃井タロウとシバイヌ宅配便のバンが待っている場所を目指して歩を進めていく。
自身が配達に同行した理由のひとつに、無くしてしまった端末の捜索があることは、初めの方に説明してあった。今は、配達が終わった後のいわば自由時間のようなものである。
本来ならばそれほど時間は取らないらしいのだが、タロウ本人から押し付けられた『とても見つかるとは思えないが、物は試しだ。アンタの気が済むまで探してみろ』というぶっきらぼうな厚意を有り難く受け取ることにして、サオリは目をつけていたそれぞれの箇所を、配達を行うと同時に回っていた。
今回で四つ目になる。
残りはあと三つほど。
しかし、これ以上回る気は無かった。
「──」
ポケット越しに端末を触りながら、サオリは行き交う人々の隙間を縫うようにして、静かに歩き続ける。
周囲ではとりとめのない話し声や、ひっきりなしに通過していく車の駆動音、そして足音や銃声などが渾然と入り混じっている。まるで、街そのものが一体となって、一つの曲を奏でているようだとさえ思う。
その曲は。
決して、錠前サオリの耳では鮮明に聴くことができないはずだった。
例え聴き取れたとしても、何十枚という分厚く重たい防弾ガラスによって隔てられた先から、ようやく微かに響いてくる程度の音量でしかないはずだった。
それがいま──サオリの肌のすぐそばにある。
夢を見ているような、ひどく朧げな心地だった。
だからサオリは、時折この状況が怖くなってしまう。もしかしたら、これまでの出来事はすべて、長い長い夢でしかなく、本当の自分はいまもあの、雨が降りしきる道に傷だらけで倒れたままなのかもしれない。
目を覚ませば、この世は濁り切った灰色で、相も変わらず虚しいままで。
桃井タロウなどという人間など、本当はどこにも存在しないと───
「……どうかしているな」
心の底から、そう思う。
自分自身に対する嘲笑をこぼしていると、柴犬の横顔を象ったロゴをボディに刻印してあるバンが視界に入った。そのまま運転席へと近づき、目的を達成したことを伝えようと窓を覗き込む。
桃井タロウは、いなかった。
「?」
よく見れば、ハンドルに一枚の紙が貼り付けられていた。受け取らされてある予備の鍵を使って扉を開き、ひらひらと揺れていたそれを取る。
内容は短く、こう書かれていた。
──急用が入った。すぐに戻る。それまではアンタに任せた。
「──は?」
なにかの間違いだと思った。けれど、何度となく読み返しても、暗号や符牒など何処にも見当たらなかった。サオリは紙から目を上げて、後部座席に積み込まれた荷物を見る。
地雷原を裸足で走れと命令された方が、まだマシかもしれないと思った。
〇
ドンモモタロウの出現に最も遅れて気付いたのは鬼方カヨコだったが、同時に最も素早く対応したのもまた彼女だった。
前後左右に他の車両がいないことを瞬時に把握し、次いで頭のなかに地図を思い浮かべる。
そして、自分達が走っている道路が風紀委員会の管轄からちょうど抜け出した辺りであることを判断すると、助手席で固まっている伊草ハルカに向かって、
「ハルカ!」
「は、はいっ!」
「やってッ!」
返事は、耳をつんざくような爆発音だった。
その音源は、彼女の愛銃であるショットガン──ブローアウェイの銃口である。
扇状に放たれた散弾は、カヨコの号令と同時に頭を下げていたムツキと、運転席のヘッドレストに額をぶつけて悶絶しながら背を曲げていたアルと、ムツキによって強引に座席の下にずり落とされていた快盗鬼を素通りして、ただ一人もたれかかったまま動かないドンモモタロウの全身を、豪雨のように叩く──
「甘いッ!」
前に。
ドンモモタロウが、どこからともなく取り出した片手剣──ザングラソードを閃かせたことによって、全ての弾が後方へと受け流された。
その、無残にも受け流されてしまった弾のうちの一発が、後部に積まれた一つの荷物に突っ込む。
それは。
小型の爆弾が詰め込まれたバッグであった。
バックミラーで一連の流れを視認したカヨコの目が大きく見開かれ、
「や、ば──!」
キヴォトス人は、たかが爆弾程度では死なない。精々気絶するぐらいだ。しかし産み落とされた衝撃波は、車に対してはまったく容赦がなかった。
轟音。
リヤワイパーをぶち折り、リヤガラスを割り砕き、バックドアの胴体をくの字になるまでブン殴ってから地面に突き落とした。
「あわわ──!?」
爆音と共に大きな揺れが起き、陸八魔アルは威厳もへったくれもない様子で身を縮こまらせる。
車の前面に受け流されていた風が、ここぞとばかりに雪崩れ込み、車内を舐め尽くすように荒ぶり出す。
この段階にいたって、まだ安全運転をかかげるバカなどいない。カヨコはしっかりとハンドルを握り締めると、加速していきながら、悪戯好きな巨人の手に掴まれたように揺れ動く車体を制御していく。
次に動いたのは、浅黄ムツキ。
「アルちゃんドア蹴ってっ!」
「ドア!? 蹴る!? こう!?」
ムツキから指示が飛び、アルは思考停止で扉を蹴り開けた。たちまち露わになったのは、高速で流れ行く道路の姿。
「ナイ──スッ!」
そこに向かって、ムツキはドンモモタロウを思い切り蹴り落とした。
タイミングを合わせて、カヨコが車体を傾けたことも幸いしたのだろう。得意気に扇子を広げかけていたドンモモタロウはキヴォトス人特有の膂力をモロに喰らい、咄嗟に座席に背中を押し付けたアルの前面を通り過ぎて、あっという間に灰色の海のなかに消えていった。
それからようやく正気を取り戻したアルが、沈黙を切り裂くように叫ぶ。
「なっ、なっ、何が起きたっていうのよ───っ!?」
「社長。悪いけど、いまは構ってられない──ムツキ。聞きたくないけど、どう?」
「くふふっ! 勿論、来てるよっ!!」
アルの渾身の絶叫を軽く受け流して、カヨコはムツキに問いかけた。短く答えたムツキはニヤニヤと笑いながら、ぽっかりと開いた穴の先を見ている。
アルもつられて振り向く。
ぱちぱち、と何度も瞬きを繰り返す、少女の視界の先にいたのは───
「────わーっはっはっはぁ! わっ─────────────────っはっはっはっはァ! やってくれたなッ!!」
先程蹴り落とされたことが嘘だったかのように健在の、真っ赤に塗られた大型バイク──エンヤライドンに乗って、アル達の車を凄まじいスピードで追跡してくるドンモモタロウだった。
アルは白目を剥いた。カヨコは舌打ちした。ハルカは慌てた。
ムツキは──獰猛に笑った。
「……じゃ、行ってくるから! 援護よろしくねっ!」
「は!? ちょ、待ちなさいっ! ムツキってばっ!!」
アルの制止を聞かず、ムツキは自身の側のドアを開けると、まるで軽業師のように器用に車の屋根へと登った。
その手に携えているのは、赤褐色のマシンガン──トリックオアトリックと、ムツキ自慢の『オモチャ』が大量に突っ込まれた長いバッグ。
ふと、ムツキは目を閉じた。背中から吹き付ける風は強く、髪を荒々しく舐ってくる。
呼吸する度に吐き出される息は熱く、まるで内心の高揚感が乗り移ったかのよう。
心臓はどくどくと喧しい程に高鳴り、肌の下を流れる血液は陽射しにも負けないぐらいに燃えていた。
要するに、
「──くふ」
何もかもが文句なし。最高のコンディションである。
ムツキはすうっと息を深く吸い込むと、じわじわと距離を詰めてくるドンモモタロウに向かって、高らかに宣誓した。
「おっ、にいっ、さ──────んっ!」
「なんだっ!」
「あっそびましょ───────────────────────────っ!!」
ドンモモタロウの返答は、ムツキの予想とまったく同じだった。
「面白ぇ───遊んでやるッ!!」
「……あはっ♡」
ムツキは本当に、心の底から嬉しそうに笑うと──バッグのなかで呑気に居眠りしていた手榴弾を取り出し、
「それじゃあ、最初はぁ───かくれんぼねっ!」
一気に、空中にばら撒いた。
既にピンは抜かれていた。数秒後には爆発し、中にたっぷりと蓄えた爆薬を、高温と高熱のガスに変えて撒き散らす危険物の群れを見て、ドンモモタロウは退かず、むしろアクセルを全開にしてエンヤライドンを加速させていく。
彼我の距離は瞬く間に縮まり、やがて零へと至って。
爆発。
衝撃が破裂したように広がり、閃光が辺りを白く染め上げ、濁った色の煙が立ち込めた。
ムツキは纏わりつく熱波などまるで気にせず、ぐんぐんと遠ざかる煙のなかを、細めた眼で穴が空くほど注視する。
すると一箇所だけ、風という外部からの影響ではなく、内側からの反発で蠢いているように見える部分があった。
「みーつけたっ!!」
ムツキはすかさず、そこに向かって腰だめに構えていたトリックオアトリックの引鉄を引いた。小粒ながらも絶大な火力を秘めた火弾が、凄まじい速度と物量で殺到する。
便利屋の攻撃は、それだけに留まらない。
「さっきは少しだけ、不意を突かれてしまったけれど──私達の邪魔をするというなら、容赦はしないわ! ドンモモタロウッ!!」
爆発の余波で焦げ付いた座席を即席のガンレストに仕立てたアルは、スコープの先で疾走するドンモモタロウ目掛けて、必中の一撃を撃ち放った。
煙から飛び出したドンモモタロウは、それらを視認してなお怯まない。
「さァ、行くぜッ!」
背負ったザングラソードを抜き放ち、下から掬い上げるように振るった切っ先を、まず最初に迫ったアルの銃弾を弾く為に使った。
絶妙な方向から力を加えられたアルの銃弾は、角度を変えたことで本来の軌道を外れ、ムツキが放った銃弾のうちの一つにぶつかった。
その銃弾が弾かれたことで、また別の銃弾を弾き、それがまた別の銃弾を弾き───
連鎖の果てに、ドンモモタロウは一発の銃弾も受け取ることなく、弾幕を抜けきった。
「な、あ──」
アルの目が、信じられないものを見たように、限界まで見開かれる。
ムツキの顔が、ひどく愉快なものを見たように、輝きを増す。
「ウソ──剣を使って、跳弾っ!?」
「やるうっ!」
「次の遊びは、おれが選んでやろう──鬼ごっこだッ!」
相反する表情を晒す二人の前で、ドンモモタロウはザングラソードを背負い直し、さらに加速する。
スピードでは、疑いようも無い程あちらに分がある。それをサイドミラーで確認したカヨコは、まずその条件を打ち崩す為に、自らの得物──デモンズロアを窓から突き出すと、サイレンサーを装着した銃身を、空に向けて撃った。
「はぁ……」
次の瞬間、助手席に並びかけていたドンモモタロウが、その動きを止めた。どこからともなく現れ出た、全身に鎖を巻き付けられてしまったような抗いようのない絶対的な重さが、ドンモモタロウを抑えつけた為だった。
硬直は、ほんの一瞬。
生まれたのは、不覚とも呼べないような、細く薄い間隙。
しかし。
「──死んで下さい死んで下さい死んで、下、さいッ!!」
そんなもの、伊草ハルカにとっては、引鉄を引かない理由にはならない。
初撃とは比較にすらならない広範囲の銃撃が、九連続で放たれる。破壊の波濤は、ドンモモタロウをエンヤライドンごと叩き壊すことに、なんの遠慮会釈も持っていない。恐らく、他の車が挟まってきても、彼女はそれを放つことに欠片の躊躇いも持たなかったはずだった。
ムツキのような蹴りならまだしも、散弾銃でしかも九連発である。ドンモモタロウは今度こそ成す術なく、二度と這い上がっては来れないアスファルトの海に飲み込まれるかと思われた。
だが、
「ィ──よいしょおっ!!」
腕の力だけで運転席から飛び上がったドンモモタロウが、大の字になって空中に数秒間留まったことにより、あっけなく覆された。
銃弾の津波が過ぎ去ると同時に、ドンモモタロウはエンヤライドンの操縦席に着地する。ハンドルを握る右手の反対。すなわち左手に握られているのは、背負われていたザングラソード──
その刀身はいつしか、眩い極光を灯していた。
「悪いが仕事が残っている──遊びに付き合うのは、また今度だッ!」
ドンモモタロウが、必殺の一撃を繰り出そうと得物を振りかぶりかけた、その時。
後部座席の窓が下がり、そこから快盗鬼が顔を出した。
「──待って、下さいっ!」
「──!」
その口調には、確固たる理性が宿っていた。
故にドンモモタロウは車体に向きかけていた斬撃を強引に捻じ曲げて、車の遥か前方へと放った。生み出された斬撃は、地面に綺麗な三日月型の斬痕を深々と刻んで消える。噴き上がった煙に、カヨコはたまらずブレーキを踏む。同時にドンモモタロウも、エンヤライドンを白線の手前で止めた。
赤信号だった。
「──」
「あれー? なんで止まっちゃったのっ?」
「い、いまっ! いま殺すべきですよね!? アル様!」
「ステイ! ステイよハルカっ!」
警戒を解かないカヨコ、首を傾げるムツキ、ショットガンをリロードさせるハルカ、身を乗り出してそれを食い止めるアル。
全員を無視して、ドンモモタロウは快盗鬼を見た。
「──ヒトツ鬼にしては、随分と話せるな」
「努力の賜物です。それよりも、この人達は無実です。だから、巻き込まないでください」
「無実? おかしなことを言う──まあ、いい」
ドンモモタロウはザングラソードを背負い直すと、戦闘態勢を解いた。
その脳裏を駆け巡っているのは、ドンブラザーズの一員であるにも関わらずヒトツ鬼を庇った──ひとりの生意気なお供の姿。
──こいつは元に戻る。放っておけばいい。
あの時の自分の選択が間違いだったとは、決して思わない。
しかし、今回のドンモモタロウは腕を組んで、エンヤライドンの座席にどっかりともたれかかることを選んだ。
「なにか事情があるようだな──話してみろ」
〇
十一件目の配達を終えて、車に戻ってきたサオリが運転席に座ろうとすると、そこには既に桃井タロウがいた。
(──帰ってきていたのか)
まさか膝の上に座るわけにもいかない。サオリは迂回して、助手席に座った。ほんの数分前までそうだったというのに、何故か無性に久方振りに感じられた。
シートベルトをつけてから帽子を脱ぎ、ふう、と一息吐く。それから、ようやくタロウに話しかけた。
「……何をしていた?」
「少し、野暮用だ。だがもう解決した」
簡潔に答えたタロウはそのまま車のエンジンを入れると、ちらっと後ろを確認した。荷物は、ヒトツ鬼の出現に応じて現場に転送された時のそれと比べると、少量ではあるが確かに減っていた。
さらに、よく見てみれば、山にあったかすかなズレが綺麗さっぱり消えていた。恐らく、合間の時間を使って、荷物に破損が発生しないように積み直したのだろう。
初めて見たかもしれないな、とタロウは思う。自分以外でこれほどまでに、配達物を丁寧に扱っている配達員は。
自然と口から零れ落ちたのは、少女に対する混じりっ気のない褒め言葉だった。
「よくやった」
「──」
本当は。
色々と言ってやりたいことがあったのだ。いくらメモを残しているとはいえ急に姿を消すなとか、あれだけ大切に扱っていた荷物の処遇を自分なんかに預けるとは一体どういう了見なんだとか。心のなかで渦巻く文句は、それこそ指の数では数え切れないほどあった。
けれど、とサオリは思う。
荷物を預けてくれたのは、信頼の証拠なのだと理解して。
配達を任せていったのは、信用の証明なのだと把握して。
そして、配達を経るたびに向けられた、感謝の言葉と笑顔が──
「──礼は、いい」
サオリの口から出かけていた文句を、喉の奥底に封じ込めた。
それを見たタロウは、ふと表情を緩めて、
「なにがあったか知らないが──良い顔をするようになったな、アンタ」
「……何点だ?」
「二十五点だ」
喜ぶべきか分からなかった。