ドンブルーアーカイブ 作:鰻の蒲焼
そんじょそこらのパフェではなかった。
はじめに目につくのはやはりなんといっても器の大きさである。パフェというスイーツに積み込めるおおよその具材を強欲なまでに蓄えた、肥え太った成金趣味の富豪を連想させる巨体を支えるそれは、グラスどころかピッチャーすら超えてもはやバケツじみていた。お次は、天辺で入道雲のごとく背を伸ばしている、バカみたいな量とバカみたいな高さの生クリーム。ただの生クリームではないことは、あちこちから生やされた果物の破片やチョコレート、洋菓子で出来た枝を見ればすぐさま理解できるだろう。いまにも張り裂けそうなほどに膨らんで見える、器へ詰め込まれたミルフィーユやジェラートが織りなす構造は、造形美すら感じさせる極めてオーソドックスなものではあったが、一体それがなんだというのか。基本さえ守っていればどれだけ盛っても良いってもんじゃない。
見ているだけで、甘さに思考がふやけてきそうなそのパフェの名は『バベル』と言い、総重量は72kgで、全長は1m52cmにも及ぶ。
D.Uのショッピングモールに居を構えてそろそろ二年が経つパフェ専門店『パティスリーシラトリ』において、この人造の城塞を一滴のこらず完食してみせた天晴な生徒は片手で数えるほどしかおらず、もし完食者が出た場合には、SNSでちょっとした祭りが勃発する。
要するに、とんでもねえパフェである。
それが机に、二つある。
つまりどういうことかというと、とても正気の沙汰ではなかった。
「──」
そんなパフェを目の前にして、錠前サオリはごくり、と喉を鳴らした。
パフェがどういう食べ物なのか、サオリはまるで知らない。だから、この大きさが基本なのだと最初は思っていたのだが──周囲の様子を窺っているうちに、どうにも違うらしいことに気付いた。
普通のパフェとは。
まずバケツに入って運ばれてはこないし、スプーンは蓮華でもない。なによりも、机の大半を占有したりなんかしていない。
現実を認識したことで、それまで遠ざかっていた音が、耳のなかに一気に戻ってきた。店が敷き詰められているショッピングモール特有の絶え間のないざわめき。他愛のない会話をいつまでも続ける少女達の駄弁り声。店内の誰かの正気を疑っているひそひそという囁き。
そして。
「──なるほど。コイツは美味そうだ」
パフェで見えない対面席から響く、挑戦的な男の声。
たちまちサオリの脳味噌に、腕を組んだ桃井タロウの像が線を結んだ。パフェ越しに覗いてみると、タロウは想像していた通りのポーズをとっていて、少しのおびえも無くパフェを見つめていた。そして手をあわせて目をつぶりながら「いただきます」と言ってみせると、まるで野山の草の群れを掻き分けるかのような調子で、蓮華を動かし始める。
「……いただきます」
呆然としていたサオリも、その光景に触発されたのか。タロウに遅れて手を合わせ、ちょこんと机に置かれてある蓮華を手に取った。おそるおそるとクリームの山に伸ばされる蓮華の動きは、崩落の兆候を端々ににおわせている洞窟を疑りながらも掘り進める作業員を連想させる。
どうしてこうなったかというと、すべては一時間前に遡る。
〇
最後の配達が終わろうとしている。
そのときサオリは車のそばに立って、飛行機雲が尾を引いている青空を見上げながら、タロウに買ってもらった缶コーヒーをちびちびと飲んでいた。苦味と甘味と酸味が中途半端に入り混じった、なんともいえない味を堪能していると、やがて家のなかから、サオリより少し背の小さい、髪を二つ結びにした少女と、エプロンを付けたタロウが一緒に出てくるのが見えた。
「──いやー、ありがとね! ちょうど誰かにお鍋見てて欲しくってさ、ナイスタイミングだったよ!」
「構わない。アンタの家で、今日の配達は終わるからな……だが、あの具材はなんだ? まるでなっていない。あの切り方では、出汁がしっかり食材に染み込まない。そもそもまず」
「まーまーまーまー今日はもうそういうのはいいから! ほら! 行きな! あと暇ならまたウチ来てお弁当つくるの手伝って! じゃねっ!」
タロウからエプロンを回収すると、少女は音速で家のなかに消えていく。
それを見送って、ようやくタロウは車まで戻ってきた。サオリは見計らっていたように、片方の手のなかで汗をかいていた缶コーヒーを投げ渡す。綺麗な放物線を描きながら飛んできたそれを他愛もなく受け取ったタロウは、プルトップを引き開けると、そのままぐい、と一気飲みして、
「中途半端だ」
サオリは半ば予想した通りの感想を聞き取りながら、飲み終えた缶を受け取り、自販機のそばにあったゴミ箱の片側に放り込む。それを終えると、既にタロウは運転席に乗り込んでいた。サオリもまた慣れた風に、助手席へと腰をおろす。
ドアを閉めたと同時に、タロウが言葉を投げかけてきた。
「ご苦労だったな」
「大したことはしていない。それに私は、どちらかと言えば……仕事の邪魔ばかりしていた」
「その通りだ。だが、邪魔ばかりというわけではない。アンタがいて助かったこともある。おれは、時限爆弾の解除のやり方を知らないからな」
「……そうか」
そこで、会話は途切れた。
エンジンはまだつけられていない。なにも喋らなくなった二人の間には、静寂が横になって寝そべっていた。
サオリにとって息を殺すことは、呼吸することよりも簡単である。そうしなければ、生きてこれなかったからだ。敵に見つからないために、食料を掠め取るために、理不尽な暴力をやり過ごすために──サオリはこれまで何百回何千回と息を殺し続けてきた。だから、沈黙などなんてことはないはずだった。
しかし、桃井タロウが相手だと。
なぜだろう──妙に、気まずい。
「……その」
気の利いた話などできる気がしない。だが、これ以上だまっていると気がおかしくなりかねない。半ばヤケクソで喋りかけようと、サオリが決意を固めた瞬間だった。
彼女の視界に茶色くて四角く長細いなにかが、すっと音もなく差し出された。
封筒だった。
ただの封筒ではなかった。
表面に『給料』の二文字が刻印された封筒だった。
サオリは封筒とタロウとで何度も視線を往復させる。口から零れたのは、純粋な疑問の声だった。
「──これは?」
「今日のアンタの給料だ」
「給、料」
その言葉がどういう意味か、わからなかったわけではない。
慌てて突き返そうとしたサオリを止めたのは、すかさず続いたタロウの発言だった。
「──労働には、対価があって然るべきだ。だからこれを受け取ることは、アンタにとって果たさなければならない当然の義務になる」
「……義務か」
それなら、仕方がないのかもしれない。
だからサオリは、茶色い封筒を受け取ることにした。わずかな厚みを持たされたその封筒は、重さに換算すればおそらく十数グラムにも満たないだろう。しかし、いまのサオリにとっては、銃よりも重く感じることができた。
きっとそれは、桃井タロウの信用に対して感じる重さのはずだった。
取り落としてしまわないようにぎゅっと握り締めてから、サオリは丁寧に折り畳んだ封筒を、コートのポケットに仕舞い込んだ。
そこで、はたと気づく。
「……桃井タロウ」
「なんだ」
「給料とは──なにに使えばいい?」
「アンタの好きなように使えばいいだろう」
至難の業だ、とサオリは思った。思いはしたが、顔には出さなかった。出さなかったはずだというのに、まるで見透かしでもしたかのように、タロウは回しかけた鍵を止めてサオリをじっと見つめた。
敵意も悪意もこもっていないのに、何故か無性に身体がむず痒い。サオリは身をよじりながら、黙って自分を一心に見てくるタロウに問いかけた。
「な、なんだ」
「──きっと、これもなにかの縁だ」
口ごもるサオリとは対照的に、タロウの口調はどこまで淀みなく、
「いい機会かもしれない。アンタの好きを、探しに行くとしよう」
「……何処に」
タロウは決まっている、と一拍置いてから、
「ショッピングモールだ。行くぞ」
そういうことになった。
〇
そういう経緯があって、サオリはいま、桃井タロウとパフェを食べていた。
世の常識に金属バットを持って真っ向から反抗するかのような豪快な見た目に反して、味の方はひどく普通だった。果物は新鮮で、噛む度に爽やかな風味がする。生クリームもよく泡立てられていて、口どけはなめらかだ。突き刺さった洋菓子は箸休めとしてちょうど良く、確かにパフェ専門店のメニューなことだけはある。これで量さえそこそこに押さえていれば、間違いなく看板メニューの一つになれたはずである。
もっともタロウは量など気にせず、ざくざくとパフェを掘り進めている。
動き続ける蓮華はまるで、止まることさえ知らない暴走機関車のようだった。とはいえ速度は大したものではない。ここで注目すべきなのは、ペースを異常なほど一定に保ち続けていることである。早まることも、遅くなることもなく、当初のペースを延々と保っているのは、はたから見れば工場の機械のようだったかもしれない。あの鰐淵アカリでさえも褒めちぎった、およそ600個のきびだんごすら容易に飲み込んだ無尽蔵の胃袋が、その存在感を充分に発揮している瞬間だった。
そして、ものの数分で生クリームの山脈を突破したタロウは、満足げな表情でこう言った。
「──美味い!」
対するサオリは量など気にせず、蓮華を口に運ぶたびに目を輝かせている。
はじめに感じていた威圧感は、半分に切られたいちごを口に入れた瞬間にたちまち吹っ飛んでいた。そこから先はまさしく、未知なる体験の連続だった。生クリーム。クッキー。メロン。コーンフレーク。ジェラート。チョコレートソース。掘り進めていくたびに明らかにされていく材料の群れは、普通であれば「まだ終わりが来ないのか」という絶望の象徴だったが、サオリにはむしろ「まだ先があるのか」という希望のシンボルだった。
そして、ものの数分で中層のジェラートまで到達したサオリは、目を輝かせながらこう言った。
「──美味い」
とんでもねえ奴らがいると、客どもは思った。
タロウとサオリはそんな驚愕になど歯牙にもかけない。片や余裕をもって、片や夢中になって食い続け──
パフェが運ばれてきて、十三分が経過した。
二人のバケツのなかには、なにも残っちゃいない。
バベルは、神の怒りに触れたのである。
「──」
蓮華を置き、サオリは備え付けのナプキンで、口の端についてあったチョコレートソースを拭った。そのまま、店員が置いて行った紅茶を飲もうとしたところで、サオリよりも早く食べ終えていたタロウが言葉を投げかけてきた。
「それで、どうだ」
「……美味かった。だが、ひとつ疑問がある。何故、私をこの場所に連れてきた?」
この店に連れてこられた時からずっと頭で渦を巻いていた疑問をぶつける。サオリを連れてきた張本人であるタロウは、紅茶をひと口ふくむと、
「以前──知り合いから聞いたことがある。パフェとはロマンの結晶だと」
「ロマン?」
「異なる出自に生まれた者たち、あるいは、同じ出自であれど道を違えた者たちが、たった一つの調和を実現するために手を取り合う──故にこその浪漫。故にこその完璧……らしい。おれには、よく分からないが」
「……よく分からないくせに、私をここに連れてきたのか?」
「ああ」
あまりにも自信満々に言うものだから、サオリは思わず苦笑してしまう。同時に、奇妙な温かさを胸に抱いた。その熱は多分、桃井タロウの不器用な心遣いを、感じ取ったことから来る熱であった。
自分がなにを好きなのかさえ、把握も理解していない相手の『好き』を見つけることは、砂漠のなかから一粒の砂金を探り当てることよりも難しい。そのことを、桃井タロウはきっとよくわかっているはずだ。
それでもなお、男は錠前サオリの為に動いた。
理解している。桃井タロウのそれは、サオリだけに差し伸べられるものではない。どこまでも広く、それこそキヴォトス中へと振り撒かれていることは理解している。
そうだ、分かっている。分かっているが、しかし。
サオリはそのことが、どうしようもなく───
「……パフェは美味かった。だが、これが私の好きなことかと言われると、疑問が残る」
「そうか」
「だから」
その続きを言うことに、心の底からの勇気が必要だった。
なけなしのそれをかき集め、振り絞り、サオリはゆっくりと口を開く。
「──だから、もう少しだけ。付き合ってくれないか」
「──良いだろう。おれとの縁が超良縁だったことを思い知らせてやる!」
タロウの晴れやかな笑顔を見ながら、サオリは思う。
もう充分、思い知らされていると。
〇
それからの時間は、目まぐるしく過ぎていった。
多種多様な店が所狭しと詰め込まれているショッピングモールは、サオリにとっては宝箱も同然だった。勿論、適切な楽しみ方を知っているわけではない。それどころか、困惑しっ放しで終わってしまい、出てきた店もいくつかある。
だが、と思う。
もはや認めてしまおう。錠前サオリは、ただ歩いているだけで楽しかった。
夢というものは、目を覚ましていても見れるのだと初めて知った。
だが、これまで無関心を貫いていた幸福が今になって振り向いてきたことに、思うところが無いわけではない。幸福をおぼろげに実感するにつれて、これまで積み重ねてきた無形の憎悪が、聞くに堪えない罵詈雑言を吐き出しているのを感じる。
けれど。
いつもなら胸を掻き毟ってしまうぐらいに苛んでくるそれを、あっけらかんと無視できてしまうほど、サオリはいまこの時に夢中になっていた。
でなければ──ネイルサロンに立ち寄ることなど、躊躇っていたはずだろうから。
「いらっしゃいませ! ご来店ありがとうございますっ! 本日はご予約で──って、あれ、タロウさん?」
「──十六夜ノノミ?」
出迎えてくれた店員は、どうやらタロウの知り合いらしい。
なめらかなベージュの長髪を一本に束ねて後ろに流し、白い制服の上に黒いエプロンを着た少女──十六夜ノノミと呼ばれた店員は柔らかい笑みを浮かべると、タロウの腕をとってぶんぶんと上下に振った。
「まあ、まあまあ! お久しぶりですねっ! 制服姿みたいですけど、今日は仕事、お休みなんですか?」
「今日は仕事だ。だが、予定よりも早く終わったからな。こうしてショッピングモールをぶらついている最中だ。そういうアンタは……バイト中か」
タロウがそう言うと、ノノミはぱちぱちと拍手をして、
「大当たり~っ! まあ、あくまでも臨時で、正式なアルバイトでは無いんですけれど。それで、どうしてここにいらっしゃったんです?」
「それは──」
タロウが答えようとしたところで、ノノミはばっと広げた手を掲げた。
「あ! いえ、言わずともわかりますよお。このお店に寄ったというコトはつまり! ネイルをしに来たんですよねっ。まっかせてください! 男のヒトの爪を仕上げるのは、先生でしっかり練習済みですのでっ」
「せっかくの提案だが、また次の機会だ──おい、アンタ、いつまで固まっている?」
「……」
ノノミの勢いと店内の雰囲気に圧倒されて固まっていたサオリに気付き、タロウは声をかけた。しかし、サオリは動けない。バケツに入ったパフェにも、薄暗い箱のなかで見かけたゾンビの群れにもついぞ感じなかった、いわゆる気後れというやつを、サオリはいま感じていた。
ここは無理だ、と思う。
今度こそ、絶対に自分には似合わない場所に来てしまった、とも思う。
思ったというのに、タロウは今度は見抜いてくれず、まったく容赦をしなかった。それはノノミも同じで、にやりと意味ありげに笑ったままサオリの手を引くと、こじんまりしたテーブルに案内した。
ノノミは、固まるサオリの対面に座ると、にこやかに話しだす。
「まずはカウンセリングから始めますね☆ サロンやネイルの経験はありますか?」
「……無い」
「爪に関しての悩みごとは?」
「無い」
「過ごし方のご希望は?」
「無い」
以降も質問は続いたが、サオリは壊れてしまったロボットのように、同じ言葉を何度も無愛想に繰り返すだけだった。しかしノノミは、さして気にした様子も見せず、ボールペンを下唇にあててふむふむ、と頷いてから、
「それじゃあ早速、色から決めていきましょうかっ! いろんな種類がありますけど、どれにします? お肌の色に合わせたいなら、この辺りの、寒色系のとか自然で──」
「追い出さない、のか?」
いそいそと様々な色のネイルパレットを準備し始めたノノミに、サオリは思わず問いかけてしまった。今のやり取りで、自分がこのような場所には到底似つかわしくない類の人間であることは、理解できたはずである。
ノノミはぱちぱち、と瞬きを繰り返すと、慌てた様子で両手を振った。
「そんなことしませんよ~。だって、せっかくのお客様なんですから」
「だが──……私は、そういったモノとは、まるで噛み合わない人間なことは知っただろう。せっかくの材料を、無駄にするだけになる。辞めた方が、懸命だ」
俯き加減で放たれたサオリの言葉に、ノノミは少しだけ目を細めると、自分の手を机の上に置いてみせた。
「私の手、どう見えますか?」
「……?」
質問の意図がわからないまま、サオリはノノミの手を見据える。
透き通るように白い手だった。電灯の明かりをまぶされているためか、仄かに光って見える。爪は丁寧に切り揃えられており、一片の乱れも無い。ぴん、と張り詰めたように伸びた指は細く長く、凹凸の少なさもあいまって、まるで陶器のようだった。
血の匂いが、まるでしない手だった。
そんな手を自分に見せて、一体なにをしたいのか。最後まで理解できないまま、サオリは正直な感想を告げた。
「……まっさらな、手だ」
「ふふ、ありがとうございます。これをほんのちょっぴりだけでも、もっと綺麗にできたとしたら、それはとっても素敵だと思いませんか?」
「それは──」
そうだろう、と思う。けれど、その理論があてはまるのは、そうされるに足る資格を持つ者だけだ。口ごもるサオリに、ノノミは笑いかけた。陽だまりのなかにいるような、温かく優しい笑みだった。
「爪でも、髪でも、睫毛でも。身体の一部じゃなくて、日常生活の動作でも構いません。
いつもの自分のなにかを、一片だけでも変えてみることは──きっと、今日の自分を明日の自分を好きになる為にあると思うんです」
「──明日の自分を、好きに?」
はい、とノノミは頷き、
「だって、その部分だけは、いままで嫌いだった今日の自分と違うんですから。
今すぐに、自分の全部を好きにならなくたって良いんです。やっぱり合わないかもしれません。もしかしたら、もっと嫌いになっちゃうかもしれません。それすらも、変えてみなくちゃ分かりません。
無理強いはしません。でも、少しでも、今より明日を好きになりたいと思っているなら──自分を、変えてみませんか? まずは、爪から」
「──」
考えたことも無かった。
今の自分は、ずっと続くものとばかり思っていた。
途切れない憎しみ。
癒されない傷み。
注がれ続ける理不尽。
消すことのできない罪。
それらが積み重なった末に生まれ落ちた自分──錠前サオリの在り方は、それこそトリニティがこのキヴォトスから一欠片も残らず消え去るまで変わらないと、そう思っていた。
だが。
もしかすれば、そうではないのかもしれない。錠前サオリは今のまま、変わってもいいのかもしれない。
もし、それが許されたのならば──きっと。
そう。きっと、自分の家族も許されるはずなのだから。
「…………」
何度も躊躇い、何度も呼吸をして。
サオリはゆっくりと、広げた五指を机の上に出した。
〇
太陽と青空の下に出てみると、爪に塗られた青色はまた違った面を見せてきた。
「──」
モール内の店舗をひと通り見終えて、サオリ達は陽射しを反射している自分の爪に見惚れながら、噴水を取り囲んでいる円形の台座に腰を下ろしていた。ショッピングモールの入り口近くに設置された広場は、多くの人々で溢れ返っている。麗らかな太陽の光に影響されたような、穏やかな喧噪がそこにあった。
「──気に入ったか」
隣に座っていたタロウが、不意にそう問いかけてきた。サオリはもごもご、と動かしづらそうに口を歪めたが、やがてゆっくりと小さく、それでも確かに頷いてみせた。タロウはそれを確認すると、
「好きになれるものは、見つかったか?」
「──」
沈黙。
今度の首は、横にも縦にも振られなかった。それでも、少女の横顔からは、これまで残っていた翳りがきれいさっぱりとはいかないまでも消えている。タロウはふ、と何処かおかしそうに笑って、
「それでもいい。今のアンタにしては、なかなか悪くない答えだ」
「…………そうか」
サオリは帽子を深くかぶって、タロウから顔を背けた。得体の知れない感情が、腹の奥底でじたばたとのたうち回り出したからだった。喉の奥から堪え難い熱さがこみあげてくる。頭の芯にマグマが注ぎ込まれる。肌のあちこちに熱した鉄をかけられている。
誰でもいいから、この状況をどうにかして欲しいと思って、視線を逃がした。
視界の先に、怪物がいた。
「─────ぅ」
その怪物は、シルクハットと一体化したような頭部をしていた。
その怪物は、誰かから逃げている最中のようだった。
その怪物は、錠前サオリの記憶を強く刺激してきた。
「──は、あ」
覚醒した脳味噌が情報の洪水を引き起こす。桃井タロウに拾われるよりずっと前のこと。ある学園へ襲撃を仕掛けた雨の夜。アリウススクワッドによる敵本隊の制圧。物資の略奪。その際に生じた異変。リーダー格の異形化。校舎の半壊。未知数の戦力に対して選んだのは戦略的撤退。しかしどこにでも通じる魔法の扉を持っているかのように、どこまでもしつこく追いかけてくる異形。一人ずつ姿を消していくアリウス分校の生徒。囮役を買った自分。傷つけられ、追い詰められた末に見た、虹の光と共に消された異形───
フラッシュバック。
そうして、サオリは立ち上がった。
その形相が尋常ではないことに気付いたのか。訝し気にタロウが問いかけてくる。
「どうした?」
「──すまない。少し、用事ができた。必ず戻る」
返事を聞かず、サオリはその場から走り出した。広場を離れて、辺りに建物が立ち並んだ街頭に転び出る。怪物の姿は既に無い。人混みのなかに消えていた。
───どこに消えた。
息を荒げて周囲をひっきりなしに見回すサオリを、群衆は怪訝な目つきで見ている。しかし、サオリは構うことなく、かすかに悲鳴が響いた方角に向かって突き進んでいく。
およそ二百数十にまで登る配達を経たことで、サオリはD.Uの交通事情を、あらかた把握することができた。それはそのまま、どの通りをどういう風に抜ければ、安全に逃走できるのかを理解しているとも言える。
路地裏に繋がっている左角へと突入。
倒れたゴミ箱を跳び越え、ガラスを蹴飛ばし、絡んでくる不良からヘルメットとジャケットを奪い取りながら、サオリは共に走らせている思考に敵のおよその逃走経路を予測させる。
初めに街頭へ転び出た時、あんな姿の異形がいたというのに、誰一人として反応を示していなかった。むしろ、突然飛び出してきたサオリの方へ強い反応を示していた。
そこから察するに、あの異形には、他者の認識を改竄するなんらかの能力が備わっている──かもしれない。
かかり過ぎた遠心力を強引にねじ伏せ、右に曲がる。
武装は最低限のままだったが、幸いと言えばいいのか、路地裏には掃いて捨てるほどのチンピラがいて、急いだ様子のサオリに目をつけてここぞとばかりに喧嘩を売ってきたからだ。そのたびに叩きのめし、どのような状況に陥っても対応できると判断したところで、サオリはさらに速度を上げた。
大きく呼吸。
路地裏の濁った空気が肺を満たす。汗が飛び散り、心臓が早鐘を打っている。足に続々と列をなす乳酸。肺は今にも千切れそうだった。
それでもサオリは、足を止めない。
力強い意志が、サオリの身体を動かしていた。似たような姿をした異形に危うく全滅されかけた経験から来る危機感。もしかすれば、アレはサオリを追い詰めた異形の仲間で、異形の死亡/サオリの生存を知って何らかのアクションを仕掛けようとしているのではないかという焦燥感。
そして、なによりも。
この、どこまでも平凡で退屈で──代え難い日常の景色を踏み荒らそうとしていることへの、怒り。
決して許されない。故に、打ち砕かなくてはならない。完膚なきまでに。
見えた一筋の光の柱に向かって、サオリは走った。そして、一気に開けた視界のなかには、相も変わらず逃げ惑う様子の異形が映り込んだ。速度を落として人混みに紛れ込み、射程圏内に入ったところで、サオリは立ち止まった。
それからすう、と息を吸い込み、こみ上げる憤怒に沿って叫ぶ。
「────こっちを見ろオッ!!」
その叫びは、大気さえ揺るがした。
あっという間に視線が突き刺さるなかで、サオリは異形がこちらを確かに視認したことを確認すると、虚空に向かってスタングレネードを放り投げた。同時に、ヘルメットのシールドを閉める。
爆発。
辺り一面を、鋭い光が一瞬で支配した。瞼の裏に焼き付くは白。耳を貫くのは金切り声。おそらくカツアゲ用の為に作られたお手製のスタングレネードは、その効力を異形に対して十全に発揮した。
褐色のシールドの向こう側で、光と音に怯み、動きを止めた異形が見えた。サオリは地を割らんばかりの勢いで踏み込むと、レッグホルスターに仕舞い込んでいたナイフを逆手で抜き取った。
冷やかな殺意の線が、残像を結ぶ。
致死の刃が、異形──快盗鬼の首を刈り取らんと迫る。
その時だった。
「──!」
壮絶な、悪寒。
急制動をかけ、飛び退いたと同時に、アスファルトに影が映り込む。その影は徐々に大きさを増していき──
「わっ───────────────はっはっはっはっはァ!!」
喧しい高笑いを伴って、地面に降り立って轟音を撒き散らした。
無から生じた暴風により、サオリは引き下がらざるを得なかった。たちまち立ち込めたアスファルト色の煙は、降ろされたシールドによって届かない。視界が制限された分、サオリにとっては有利な条件のはずである。
それでもサオリは、その場から動くことができない。
彼女の培われた戦闘思考が、下手に手を出せば食われると告げていた。
「……何者だ」
「名前を尋ねたか? 良いだろう。これでおれとアンタには──縁ができたっ!」
立ちすくむサオリの視線の先で、降り注いだ影は明確な像を形作る。
頭頂部からちょんまげを生やし、大きな黒いサングラスを身に付けて、全身を真っ赤に染め上げ、天下無双の戦士───
「おれの名は───ドンモモタロウ! さあ! 笑えッ! 祭りだ祭りだあっ!!」
────ドンモモタロウへと。