ドンブルーアーカイブ 作:鰻の蒲焼
その場所は、およそ常識という言葉からかけ離れた要素で構成されていた。
悠々と虚空を泳ぐ無数の巨大な立方体。
現世に存在し得ない材質で構成された四本の柱。
空間そのものに張りついたと思しきバラ窓式の鮮やかなステンドグラス。
支柱や梁……更には土台といった、いわば構造と呼べるものが欠けているにも関わらず、空中で姿勢を保っている一つの舞台────
それはまさしく、物理法則という備えられて然るべき普遍の原理から、遠くかけ離れた景色であった。
一見無秩序でしかないその光景に、しかし完璧な調和を感じることができるのは、立方体の動きや舞台の配置に、一切の乱れが見られないためだろう。
いや、建造物だけではない。絶えず循環する空気によって生じる揺らぎですら、注視してみると一定のリズムを刻んでいることがわかる。
それはまるで、世界のすべてが、精緻の限りをつくして組まれたシステムに沿って、ミクロのずれも無く延々と渦を巻き続けているようでもあった。
そこから見て取れるのは、この世界を作り出した誰かが抱えているであろう、完全という概念に対する寒気を覚えるほどの執着だ。
そのように完成された空間のなかに、ぽっかりと穴を穿つかの如くたたずむ影が、ひとつ。
誰に憚ることもなく、舞台中央に立つ、白と黒と赤の三色のみで全身を染め上げた女だった。
「───」
女はたった一瞥しただけで、誰もが尋常ならざる者だと瞬時に察知できるような女である。
もっともその印象は、夜をそのまま引き摺ってきたかのように黒い、背丈を容易に超す長髪から来るものではなく。
もしくは、穢れなど欠片も存ぜぬという風な顔を曝している、瀟洒な意匠が施された純白のマーメイドドレスから来るものでもなく。
または、ステンドグラスから差し込む繚乱たる光を貪欲に飲み込んだ、血を塗されたように紅い素肌から来るものでもなく。
ならば、扇子の下にて妖しく照る唇の隙間から垣間見える、獰猛な意志を孕んだ乱杭歯から来るものでもなく。
そして──顔面の上半分を幾何学的に覆いつくす、羽軸の表面に眼球を付着させた羽根の蕾から来るものでもなかった。
総身から絶えず放たれる、空気そのものさえ犯してしまうような、粘ついた悪意。
或いは、世界のすべては自分の御許へ捧げられる為にあるのだと言外に伝えてくる傲岸不遜さ。
見目などという単純な記号ではない。他者の人生を貪り、喰らい尽くすことを少しも躊躇わないと居合わす者に確信させるような、邪悪な気配──それこそが、女が人の理から外れた者であることを如実に示す、なによりの証拠であった。
「……」
女は不意に、自らの口元を覆い隠していた扇子を閉じると、余裕を見せつけるかのような動きをもって、ゆったりと首を持ち上げた。
羽軸にこびりついた眼球の群れが、女の意思に従って一点に視線を集中させる。
褐色の結膜の上に浮かび上がった、鮮血の瞳孔。その鋭い切っ先が突きつけられているのは、一枚の大きなスクリーンだ。
プロジェクターではなく、大小四つのキューブによって像を結んでいる平面に鮮明な形を映し出されているのは──一匹の怪物と一人の少女。
両者はどうやら、戦闘を繰り広げている真っ最中らしい。時折ノイズが奔る画面には、鼠色の硝煙が立ち込めており、綺羅星のような火花があちこちで激しく瞬き散っている。
だが女は、そんな修羅場など意にも介さず、ひたすら一つの対象を──怪物を見つめ続けていた。
その怪物は、女とはまた違った形で、誰もが一目で世から逸脱した異形であると察せられるような見た目をしていた。
切り立った断崖を連想させる物々しい身体に、まるで呪縛の如く巻き付いている金色の鎖。アシンメトリーという言葉をそのまま表現したかの如き形相。そして、身体の内側から喰い破ってきたかのように胸部に浮き出た、巨大な金庫。
果たしてそれが、相反する二つの力を強引に結び合わせる役目を担っていることを、女は知っているのだろうか。
間違いなく、知っている。
でなければ────己の企みが何ひとつとして違わなかったことへの喜悦を頬に滲ませている理由が、何処にも見当たらないからだ。
「……人工的なヒトツ鬼化、能力及び武装のみの抽出、そして……ヒトツ鬼の合成体──さしずめ、フタツ鬼とでも呼称すべきでしょうか?」
そう囁いた女の手には、いつしか四枚のギアが握られていた。
まるで意思を持っているかのごとく、力強い光を放つそれらを指先で艶めかしく弄びつつ、女は更に言葉を紡ぐ。
「脳人どもは、ヒトツ鬼はイデオンのバランスを乱す存在でしかないと、疎んでばかりいましたが──裏を返せば、それだけ莫大なエネルギーを秘めているということ。
であれば、利用価値は十二分に備わってある筈。だというのに、思いつく手段が隔離のみとは、愚かしいにも程があります。
毒薬変じて薬となる……そんな単純な事実にさえ気付けなかったとは……まさしく、停滞する為に生まれ落ちたような種族でしたね」
そこで言葉を締めくくり、女はぐるり、と視線を巡らせる。
取り囲んでくる景色はいつしか、音も立てずに変わっていた。電子的な深緑色の空が茫漠と広がり、ネオンよりも遥かに眩く毒々しい輝きを宿した摩天楼が立ち並ぶものへと。
今、女がいる場所は、建築物の殆どをひとしきり見渡せる高層ビルの屋上であった。
無数の眼下の前に広がる、絢爛を極めた街並みに、だがしかし、命の気配は一切無い。
廃墟と化している訳ではない。それどころか、老朽化の兆候さえ見られなかった。にも関わらず、そこには人や時間から忘れ去られた建物が醸し出す独特の空虚感が、瘴気のように満ち溢れていた。
満天の明かりを灯しておきながら、不可視の闇に沈む都市を傲岸に見下ろし、女は深く嗤う。
「──貴方達は、人間と脳人の共存を望んだドン家の御業によって滅びたのではありません。
変化を嫌い、革新を厭い、変容を拒み、転化を排除する──その怠惰さこそが、貴方達と、それに纏わるすべてを滅ぼしたのですよ」
女の語調は羽毛のように何処までも軽やかである。
しかし、そこに籠っているのは掛け値なしの嘲弄だった。
かつて完全を謳った、脳人の残像を。
かつて完璧を掲げた、イデオンの残骸を。
複眼に映り込む、世界のすべてを嘲笑するかのような女の声は、誰に聞き取られる訳でもなく、故に誰に遮られることもなく、空間に染み込んでいく。
◯
次の瞬間、錠前サオリはアスファルトに身体を叩きつけられていた。
「───ぐ、づっ!」
激しい衝突音。同時に生じたのは、全身を貫かんとする焼けるように熱い苦痛。
次への行動を阻害するそれを、意志によって力づくで押し潰す。痛覚の強引な制御は、サオリにとっては呼吸を行うよりも容易かった。
危うく表層に浮かびかけた苦悶を打ち消し、迅速をもって起き上がったサオリは、どうにか手放さずにいられたアサルトライフルを構えた。
熱く荒ぶる息を殺し、青い双眸に冷えた殺意を宿して、すぐさま攻撃に応えられる姿勢に入る。
追撃は────────────────────────来ない。
「──」
それでも、サオリは緊張を解かなかった。むしろ不気味でさえあった。今ほど更なる攻勢をかけるに適したタイミングは無いと、自分でさえ判断できたからだ。
肩で息をしながら、サオリは現在の戦場を把握すべく、奇妙な薄暗さを纏った辺りを睥睨した。
どうやら舞台は、取り壊し予定の団地から、建設途中のビルへと移ったらしい。サオリが放り込まれた場所は、幾つもの支柱が立ち並ぶ大広間だった。
四方から視界を圧迫してくるのは、赤銅色に染め上げられた梁と柱が織り成す鉄格子。薄暗さの正体は、工事現場において複数の役割を担っているであろうブルーシート。高所ゆえに遮るものが少ない為か、シートを揺らす風は強く、隙間からは時折、陽の光が差し込んできていた。
「ふ──ぅ、は、あ」
呼吸が整いつつあることで、身体は徐々に平常の感覚を取り戻していっている。
しかし、それとは裏腹に、サオリの精神は粘つくような緊張に苛まれていた。
(アレは、何だ?)
追想したのは、一匹の異形。
取るに足らない相手だったはずだ。少なくとも、完全武装ではないサオリにさえ、成す術も無く追い詰められてしまうほどに。
だというのに、サオリは今や、そんな相手に対して最大限の警戒と敵意を抱いていた。それは、怪物が唐突に己の姿形を変化させた瞬間から、生じたものである。
その姿をひと言で表すとしたら、『歪つ』であった。
例えば、ジャンルの異なる二冊の雑誌を半分に引き裂いてから、その片割れ同士をホッチキスで繋ぎ直したかのように。
例えば、種類の異なる複数の銃を分解してから、改めてそれぞれの部品を持ち寄って強引に組み直したかのように。
例えば、ゲヘナ生とトリニティ生──互いに互いを憎み歪み合う以外の術を知らぬ両者のヘイローを粉々に砕き、それを撹拌した末に一つのヘイローを改めて造り出してみせるかのように。
決して交わらないモノ同士を掛け合わせて、あたかも初めからそうであったかのように振る舞わせる。
そんな冒涜的な代物に対して感じる違和感と嫌悪を、サオリは異形の総身から感じ取っていた。
だからこそ、強く思う。
──奴を。
──ほんの一秒でも、長く。
──この世に生かしておく訳にはいかない。
果たして。
その結論を下したのは、桃井タロウによって、平穏の暖かさを思い知ったサオリだったのか。
それとも、アリウスによって、冷徹な戦闘者として鍛え上げられたサオリだったのか。
自身でさえ判別できぬままでいる彼女の耳朶に飛び込んできたのは、何者かが降り立つ足音だった。
「───!」
サオリは思考を中断すると、頭上を仰ぎ見ながら銃を構えた。照門と照星の先、ビニールシートではなく防音用の透明なシートを羽織り、無骨な素肌を陽光に曝け出している一柱の鉄骨。
その上に、敵は──警察鬼と快盗鬼の合成体たる快警鬼はいた。
「──……」
何を喋るわけでもなく、ただ胸から突き出した金庫を誇るように撫ですさりながら、サオリを見下ろすかのように顎を落としている。
全貌は、逆光のせいで鮮明には見えない。だがサオリは、淡く黒ずんだ影のなかから、自らに対して明らかな害意の鏃が放たれていることを粟立った肌を見て直感した。
銃把を握り締める拳が、ぎちり、と鈍い音を立てる。これまでにかつて抱いたことのない規模の戦慄が、背筋を容赦なく震わせる。かちかち、と口から聞こえる微かな音色が、興奮と恐怖のどちらから来るものなのか判別できなくなる。
極限にまで緊張が高まるなかで、異形はゆっくりと左手を持ち上げた。
そして錆びれたナイフのような人差し指を突き立てると、その先端をゆっくりと、サオリへと向ける。
口から発されたのは、この世のものとは思えぬ雑音。
「──蝗ス髫幄ュヲ蟇溘?讓ゥ髯舌↓縺翫>縺ヲ、莠亥相縺吶k」
まるで、言葉は理解できず。
されど、意志は理解できた。
「縺雁燕縺ォ縺雁ョ昴r陦御スソ縺吶k」
可視化さえ叶うのではないかと疑うほどの、圧倒的な密度の敵意───!
──『シザー!』
──『9・6・3!』
──『マスカレイズ!』
──『快盗ブースト!』
「ッ!」
その瞬間、錠前サオリが攻撃よりも回避を優先したのは、確固たる思考に従ったわけではなく、培った戦闘経験に基づく反射的な行動であった。
主にさえ一切の疑問を挟ませないほど素早いそれが、結果的に功を奏した。
崩れ落ちるように地面に屈み込んだ刹那。先程までサオリの首があった場所を、一陣の鉄風が薙ぐ。
逃げ遅れた幾本かの毛髪が、無音の断末魔をあげながら地面へと落ちる。それより早く、肉体と精神の意思を一致させたサオリは、次の行動へと移っていた。
敵が放った──恐らくではあるが──攻撃の正体を見定め、あるいは反撃するために、照準を合わせる準備をしながら振り向く。
そして、双眸と銃口とでその正体を捉え、驚愕を露わにした。
(ブーメラン───?)
知識として、仕入れてはいる武器である。何故そこで止まっているのかというと、銃に勝る点が、何一つとして見当たらないためだ。
速度、威力、扱い易さ──どれを取っても及ぶところが無い。扱いに精通した者であれば、或いは銃では成し得ない技の一つや二つを繰り出すことができるのかもしれないが……その腕に至るまでの積み重ねなければならない修練と時間の規模を鑑みれば、やはり銃には大きく劣る。
弾倉に弾を込め、しっかりと狙いを定め、後は引鉄を引くだけで──老若男女誰であろうと、たちまちに殺戮者になれる銃には。
それゆえに、その光景は到底受け入れ難いものだった。
激しい回転を続ける、一対の巨大なブーメラン──それが、コンクリートで造られた一本の支柱の躯体を、豆腐のように易々と削りゆく様は。
「───」
精神が驚愕に浸る傍らで、サオリの肉体は機械的に迎撃へと移行した。
コンクリートの吐瀉物を浴びながら飛来するブーメランを撃ち落とすべく、手に携えたアサルトライフルによる発砲。セミオートからフルオートに切り替えられたことで、銃先からは放たれるは、5.56mm高速弾が編み出す継目なき火線の奔流。
敵のブーメランは、確かに類を見ない威力を誇ってはいるが、コンクリートを削いだ際の衝撃によって、若干だがその速度と威力を落としていた。
対してこちらは、威力も飛距離も申し分ない。撃ち落とせぬ道理があるとすれば、それこそ常識を打ち砕かれる以外の他にない。
しかし果たして常識は、無残にも打ち破られることとなった。
サオリの行動を嘲笑ってみせるかのように、ブーメランは二振りに別れることで銃撃を回避し、直線から挟み込む軌道へと変化したためである。
「──!?」
硬直したサオリに向かって、二振りのブーメランは宙をふらつく羽虫を叩き潰さんとする両掌めいて迫る。
既にその距離、回避の望み無し。
かといって、迎撃の芽があるのかと言えば──さもありなん。仮に一つを撃墜できたとしても、一つはサオリを断頭台へ誘う役目を十全に果たすであろう。
よって、サオリが狙うべきは、ブーメランではなかった。
半ば叩きつけるような勢いで背中を地面に投げ出しながら、片腕に持ち替えたアサルトライフルを、剥き出しの鉄骨が張り巡らされた遥か頭上へと据える。
「──────Vanitas」
少女の瞳の奥底で、青き火花が瞬き散る。
同時に、頭上を狙ったアサルトライフルの銃口が、神秘的な光を宿し──
「vanitatum───ッ!」
絶大な破壊力を持った一発の弾丸を、轟音と共に繰り出した。
常ならぬ弾丸を吐き出した反動は絶大を極めた。見えざる手に引きずり込まれたかのように、サオリの身体は急激に沈んでゆく。成す術も無い力の奔流に、サオリはむしろ積極的に身を任せた。
その結果、少女の首を刈り取る筈であったブーメラン達は、虚空を引き裂くだけで、その役目を恙なく終える。
しかし、追撃は次こそ適切なタイミングと共にやって来た。
それは鉄骨から飛び降りてきた、手に持つ長大な盾を振りかざす異形。
呼吸する暇など、ある訳がなかった。
臓腑に残されたわずかな酸素を搾り尽くして、渾身の力を込めてその場から飛び退く。瞬間、飛来した異形の盾は、サオリではなくコンクリートを深々と抉った。
耳障りな衝突音が辺りに撒き散らされ、乳白色の煙が産声を上げる。こちらの視覚と聴覚を一時的に遮ることが目的だと判断し、サオリは転がりながら距離を取る。
しかし、すぐに勘違いであると気付いたのは、攻撃が続く気配がなかったからだ。
要するに狙いは──得物であるブーメランの回収。
しかしそれは、異形だけではなく、サオリも同時に待ち望んでいた瞬間でもあった。
サオリは回転によって得たベクトルを活かして起き上がると、がら空きにしていた右手を振るって、一丁の自動拳銃を腰の後ろから抜き出した。
拾い物であるが故に神秘を込めた一撃に耐え切れず、銃身の折れ曲がったアサルトライフルは投げ棄てる。そして、たなびく煙よりも密やかに照準を定めた。
その矛先が向けられているのは──今まさにブーメランを掴み取ろうとしている異形の掌と、腕。
少女の眼差しが再び、蒼い紫電を帯びる。
あえて最後まで唱えずにいた呪縛の続きを、血の味がする舌先で紡ぐ。
「──et omnia……vanitas」
引鉄。
放たれた弾丸は、計四発だった。そのうちの一発は異形の右手からブーメランを彼方へ弾き飛ばし、一発は手首を貫き、一発は前腕部と上腕部の間に突き刺さり、一発は右半身──即ち警察鬼の部分──に直撃した。
重点的に衝撃を加えられたことにより、快警鬼は不自然な軌道を描きながら吹き飛んでいく。流石に体勢を崩すまでには至らなかったが、少なくとも完全に戦闘へと復帰するには、幾ばくかの猶予を必要とするだろう。
「ッ──!」
サオリはそれを視認するや否や、迅雷めいた速度で駆け出した。追い討ちをかけない理由など無かったからだ。
間合いは瞬く間に縮まる。ブーメランはあくまでも弾き飛ばしただけだ。完全に破壊できた訳ではない。あれだけの威力を、再び野放図に振舞わせる道理など……自殺志願も甚だしい。そして敵は、どのような手段を用いてか一切の距離を無視して行動できる。
それゆえにサオリは、至近距離の戦闘にて追い詰める選択肢を取った。
膂力も能力も、生徒とは比較にならないほど危険度が高い相手ではあったが、ドンモモタロウと名乗る怪人との戦闘経験が、彼女にそれを選ばさせた。
距離、指呼の間。
快警鬼の口から零れ落ちる苦悶の吐息を鮮明に聞き取り、サオリがさらに深く踏み込んだ刹那──
──『バイカー!』
──『パトライズ!』
──『警察ブースト!』
陰惨な気配が膨れ上がり、体勢を崩していたように見えた快警鬼が背後にまわしていた左手を曝け出した。
その手に握られていたのは盾ではなく──バイク型のガシェットを装着した、奇妙な形の白い銃。
銃口から今にも解き放たれようとしているのは、タイヤを模した莫大なエネルギーの塊。
「──繝舌う繧ォ繝シ謦???遐イ」
さながら先程の意趣返しのごとく、快警鬼はサオリの胴体を狙って、引鉄を振り絞らんとする。だが、サオリは思う存分知らしめられている。敵手が尋常ならざる存在であると。
「──」
エネルギーが発射される直前。無意識のうちに動いたサオリの片手が、敵銃の銃口を射線から逸らした。
光弾は標的を捉えることなく、虚空へと消える。当たると確信していたのだろう。完全に隙を突かれて固まる異形の顔面へと、サオリは躊躇なく弾丸を叩き込んだ。
「縺絶楳笏?縺後▲!」
今度こそ間違いなく、快警鬼は攻撃を受け取った。顔面を押さえた手の隙間から、ノイズの混ざった呻き声を立てて退がる怪物を、サオリは決して見逃がさない。
呼気も短く踏み出しながら、相手の足に自分の足を交差させる。そして膝で膝を外側に押し出し、敵の姿勢を一瞬だけ崩す。やがて産まれた間隙に、滑り込むような射撃。
互いの吐息さえ交わせるような距離から撃ち放たれた弾丸は、異形の鳩尾に着弾すると、鮮やかに火花を散らす。
サオリはまだ止まらない。
手に持った自動拳銃を、まるでナイフのように軽やかに扱いながら、その速度はさらに加速してゆく。
そうして燃え盛る火のごとく激しさを増していく動きとは裏腹に、少女の瞳のなかに温度は欠片も感じられない。彼女は今、完全なる戦闘機械と化していた。頭にあるのは、戦闘に対する高揚や興奮などではない。どのように動けば、確実に敵を排除できるのかという、無機質な考えだけだ。
そして、サオリの思考は、一つの解答を導き出した。
(この場所だ)
手は止めずに、視線だけを走らせる。そして自分が元の位置──ブーメランや盾を避けた際に立っていた──へ戻ってきたことを確認すると、サオリはわざと攻撃のタイミングをずらすことで、隙を作った。
時間にして、たった二秒にも満たない隙である。しかし、攻撃も防御も回避も許されずにいた快警鬼にとっては、まさしく千載一遇の好機以外の何物でもなかった。
必殺の一撃を放つべく、自らの得物の銃口をサオリに向ける。エネルギーは瞬く間に収束し、たちまち形を成した。それが解き放たれようとした直前、
「シッ──!」
狙い澄ましたように、サオリは目の前にある銃口を蹴り上げた。
下から思わぬ衝撃を加えられたせいで、タイヤ型の光弾は再びあらぬ方向を目指して過ぎ去っていく。
奇しくもその軌道は、サオリがブーメランを避けるためにアサルトライフルを向けた軌道と完璧に一致していた。
そんなことは確認するまでもなく分かっていたのか、サオリは一瞥たりともせず、振り上げた足をそのまま敵の鳩尾に突き入れる。そして、滑ったように吹き飛ぶ敵ではなく、地面に向かって数発の弾丸を放った。
外したわけでも、血迷ったわけでもなかった。何故なら弾丸は、サオリの目論見通りに命中し、確かに役割を果たしてくれたのだから。
────落ちていた敵のブーメランを、弾き上げるという役割を。
「───」
絶技を成した余韻など、微塵も感じることはない。
サオリは極めて機械的に、得物の取っ手らしき空洞を掴み、地を割らんばかりの踏み込みをもって振るう。
宙に描かれる剣筋は、進突しながら敵手の右脇腹を切り込むことで、正面が無防備となる弱点を無くした抜き胴。
──『ビクトリーストライカー!』
避けようとした快警鬼の頭蓋に、唐突に鋭く重い衝撃が奔った。
その衝撃の正体が、神秘を込めたサオリの銃弾と快警鬼のバイカー撃退砲を一身に受け止めたことでついに限界を迎えた鉄骨の一部であると、快警鬼が理解した直後に。
──『1・1・1!』
斬撃が。
胴を抜───────────
──『ミラクル・マスカレイズ!』
くことは、なく。
「な───」
その代わりと言わんばかりに、快警鬼の返しの銃撃────
最も、そうなる可能性は予め考慮していた。すかさず反撃しようと銃を構え──
る前に、全ての射線を潰された。
「────ッ!!」
回避の一手しかないと、横へ飛ぼうとした瞬間、それを読んでいたかのように、快警鬼の足がサオリの膝頭を蹴り付ける。
ならばと痛みを堪えて、蹴られた勢いを活かして逃れようとした刹那、腕を掴まれて引き戻される。
活路という活路を殺されていくなかで、サオリは明らかに相手が変わったことを感じていた。
目の前の敵はいつからか、自分ではない何かを見ている。何かは分からない。だがそれは間違いなく、錠前サオリを致命的な場面へ追い詰めるために存在している──あやふやではあるが、強い確信があった。
その確信を、証明してみせるように。
バイカー撃退砲は、無防備に曝け出されたサオリの腹部に、ついに命中した。
〇
「サッちゃん?」
「──」
目を開けば、錠前サオリは教室にいて、窓際の席に座っていた。
開けっ放しにされた窓の外には、茜色の空があった。差し込む光は柔らかく、どこか涼やかだ。そう感じた理由が、もうじき秋という季節がキヴォトスにやってくるからなのだと分かったのは、窓下の並木道を彩る葉の群れが、空を掠め取ったかのような色に染められていたからである。
恐らく、帰宅する最中なのだろう。リラックスした雰囲気を漂わせながら会話を交わしている二人組を眺めていると、対面から声を投げかけられた。
「……大丈夫?」
「……ああ」
「あんまりそうには見えないけど……」
声の主は、サオリがよく知っている少女だった。
菫色の髪をおさげに編み込み、宝石を嵌めたように透き通った目をした少女──秤アツコ。
いや、よく知っている程度では収まらない。それよりもずっと、もっと深い関係にある筈だった。
だというのに、情けなくも反応が遅れてしまったのは、少女の服装が見慣れないものに変わっていたからだろう。
「……姫」
「なに?」
「……どうして、トリニティの制服を?」
「どうして、って──……私がトリニティ生だから、かな?」
問い掛けに戸惑う様子を見せつつ、アツコはそう答えた。表情には困惑こそあれど、偽りの色はひと塗りも見られない。
何もかもが理解できず混乱に陥りかけたサオリの脳髄へトドメを刺すように、アツコは続けてこう言った。
「あと付け加えるなら、サッちゃんとミサキとヒヨリと約束したから。忘れちゃった? この制服可愛いから、お揃いにしようねって」
「───────は」
そこでようやく、サオリは自分の服装がいつもと違っていることを理解した。即ち、目の前の少女が身に付けているものと──トリニティの制服を。
自分は夢でも見ているのだろうか、と思う。
そんな風に物思いに耽るサオリの様子を案じたのか。アツコは眉根を寄せながら、白い手をサオリの額へそっと当てた。
「……取りあえず熱は無いみたいだけど、まだ分からないよね。保健室行く?」
「いや……問題無い」
「そう? ……でも、気分が悪くなったら絶対に言ってね? サッちゃんってば、私達には過保護なくせに、自分のことになるとからっきしなんだから」
半眼になって不満を示しながら、アツコは小さく頬を膨らませる。その仕草の全てが、何故か無性に懐かしくてたまらない。
サオリが仄かな暖かさを胸の奥で燻らせていると、不意にアツコが破顔一笑した。
「やっと笑った。さっきからずうっと難しい顔してたから、安心しちゃった」
「……難しい顔?」
「うん。こんな感じで」
「…………私は、そんな顔しない」
「するよ。サッちゃんが気付いてないだけ」
自分がどうしてここにいるのか。これまで一体何をしていたのか。何一つとして思いだせない。
けれど、少女と他愛のない言葉を交わすたびに感じる、心臓に刺さっていた棘が一本ずつ丁寧に取り除かれていくような心地が、サオリに疑問を忘れさせた。いつまでも浸っていたくなるようなそれは、きっと麻薬に似ていた。
話し始めて、一体どれほど経っただろうか。それなりの時間を過ごしたと思っていたが、太陽の位置はまるで時を止められたかのように変わっていない。
サオリが吹き込む風を肌で感じていると、すぐそばで奇妙な音が聞こえた。葉同士が擦れ合ったような軽い音。なんとはなしに机に視線を落としてみる。そこには、二枚の紙が置かれてあった。
紙の表面には『進路希望調査』という文字とともに、分割された表が印刷されている。サオリの視線の先を見て、アツコははたと気付いたように両手を合わせた。
「──忘れてた。そういえばこれの提出、今日までだったよね」
「そうなのか」
「そうなのかって……他人事みたいに言ってるけど、サッちゃんも同じクラスなんだから、提出しないと怒られちゃうよ」
呆れた風にため息を吐いてから、アツコはボールペンを紙面に走らせ始める。会話が途切れ、手持ち無沙汰になったサオリもまた、自然と紙に向かい合うことになった。
進路希望調査。
意味が分からぬわけではなかった。要するに、学校を卒業した後にどのような職業につきたいのかを書き、教師に教えるための書類なのだろう。けれど動きを止めているのは、錠前サオリにとっての将来とは、少しも縁の無い単語としか認識できなかったからだった。
それでも、頭のなかに、たった一つだけ思い浮かんだ言葉があった。
「……」
サオリはゆっくりとペンを取り、恐る恐るといった調子で書き始めた。
一瞬でも気を抜けばペン先が震えてしまいそうだった。手術に向き合う外科医さながらの集中力を保ちながら、サオリは書き進めていく。やがて最後まで書き終えた時に、向かい側に座っているアツコが、興味深そうな視線を送っていることを知った。
視線の先にあるのは──
「配達員かあ……ちょっと意外かも」
「……」
気恥ずかしさを覚えながら、サオリはペンを置いた。それは、これ以上触れて欲しくないという、いわゆる降伏の意思表示でもあったのだが、アツコは知ってか知らずかお構いなしで尋ねてきた。
「どうして、配達員なの?」
「……」
覗き込んでくる少女の目のなかに邪気は無い。好奇心が星々のように、きらきらと光っている。
その輝きは眩しく、純粋で──普段なら黙殺を貫いてしまうはずの唇があっけなく開いてしまうのも、秘めたる本心の錠を解いてしまうのも、なるほど無理からぬ話であったのかもしれない。
「──知っているか、アツコ。配達員が運ぶのは、荷物だけじゃないんだ」
「それじゃあ、何を運んでるの?」
「幸福だ」
これほど舌に馴染まぬ言葉は無かった。たちまち口内に堪え難い痒さが溢れ出す。しかし、サオリは話し続けた。どういうわけか、アツコもそれを望んでいるように思えた。
「……私は、ずっと、幸せになんてなれないと思っていた。
憎悪のなかで生まれたのだから、憎悪とともに死んでいくのだと……それが当たり前だと考えていた」
「……うん」
「でも、そうじゃなかった。そうじゃなかったんだよ。
世界は、私が思っていたよりずっと広くて、暖かった。私のようなものにも、手を差し伸べてくれる人はいたんだ───」
ずっと、認めるのが怖かった。
触れずにいるから形を結んで見えるのであって、触れればたちまち崩れてしまう砂上の楼閣なのではないかと、心の底から恐ろしかった。
けれど、もう、認めてしまおうと思う。秤アツコは、戒野ミサキは、槌永ヒヨリは、白洲アズサは──そして、錠前サオリは。
幸せに、なれるのだ。
なってしまっても───許されるのだ。
「……そのことを教えてくれた配達員がいる。
だから私は、ヤツのようになりたい。ヤツのように……アツコ達に幸せを運んでやりたい」
「……それが、サッちゃんが配達員になりたい理由?」
返事はせず、無言で頷く。それを見たアツコは安心したように笑うと、自らもまたペンを置いた。
「それじゃあ、いっぱい頑張らなきゃね」
「──ああ」
それが最後の会話だった。
サオリはおもむろに立ち上がると、窓のそばへ歩み寄った。ガラスに反射する自分の服は、いつの間にか見慣れたものへと変わっている。それは、サオリがすべてを思い出した証でもあった。
ホルスターから銃を抜き放ち、ガラスの向こうにある夕焼けに、銃口をぴたりと据える。背中に見守るアツコの眼差しを感じながら、サオリは静かに思った。
迎えに行く。
いつか、必ず。
〇
そして。
錠前サオリは今度こそ、本当に目を覚ました。内臓で渦を巻く苦痛と、ぼやけた視界に広がる惨状が、それをより強く実感させてくれた。
「ぐ……っが……ぅ」
吐き気と痛み、そして今にも喉の奥から零れ落ちそうな血を押し殺しつつ、サオリは立ち上がって、周囲を見渡した。
まるで空から瓦礫の雨が降り注いだかのような有様であった。恐らく、ビルが倒壊したせいだろう。所々から折れた鉄骨が飛び出しているのが見えた。
記憶が鮮明になる。原因は間違いなく、あの異形が繰り出した攻撃だろう。錠前サオリの現在の武装に、ビルをも倒壊せしめる破壊力を兼ね備えたものは無かった。
「……」
手足は動く。骨にも異常は見当たらない。内臓に違和感はあるが……戦闘続行に支障は無いと判断する。身体にこびりついた粉塵を払い除けると、サオリは引きずるような足取りで歩きだした。
常に切り刻まれているかのような鋭い痛みが、膜となって全身を包んでいた。だが、すぐに気にならなくなった。視界を埋める光景に対して湧き上がる憤怒と憎悪が、アドレナリンという形と化すことで、それを一時的に忘れさせた。
どこまでも広がる、寂寞とした廃墟。
街が壊滅状態にあるのは、誰が見ても明らかだった。人の気配が感じられないのは、既に避難を完了しているからなのか。それとも──
不吉な予想が頭を過り、サオリは嚙み砕かんばかりの勢いで奥歯を擦り合わせる。どのような結果であれ、今は成すべきことを成さなければならない。
あちこちから噴きあがる黒煙に導かれるように、サオリは歩き続ける。どれほど経っただろう。小高い丘のようになっている瓦礫の山を超えた先。
それはいた。
「─────」
ほとんど豆粒の同等のサイズでしかなかったが、サオリにはそれが快警鬼であると瞬時に判別できた。世界そのものから存在がズレている違和感の結晶。決して生かしておいてはならぬ敵。
錠前サオリ達の幸福を阻む、障害。
───殺してやる。
透明な殺意が、少女の神経を奮い立たせる。
サオリの眼差しが、研ぎ澄まされた刃物のように細められ、薄暗い蒼い光を灯し始めた。
しかし、武装はカービン一丁のみ。これ以上の接近は気取られる可能性が高いため、遠距離狙撃にて仕留める。だが、こちらと敵の間にある距離とカービンの最大有効射程距離は、ぎりぎりで重なるかどうか──
(……関係ない)
脳内に泡のごとく湧き出る失敗の可能性を、ことごとく割っていく。何があっても殺す。ただそれだけをひたすらに思う。
覗き込んだスコープの先、何かを探しているかのように顔を巡らせている快警鬼の首に、照準を定める。
かちかちかち、と頭の奥で歯車が嚙み合っていく音がする。それは、錠前サオリが生まれて初めて手に入れた、心の底からの殺意を淀みなく回すための機構であった。
気力という気力を搾り尽くし、錠前サオリは今再び、神秘の銃弾を解放する。
「───誰も、そこからは」
逃れられない。
決意の宣言と同時に、サオリが構えたカービンの銃口が五度、稲妻を迸らせた。
マズルフラッシュとは異なる、人知を超えた光を纏い、五発の銃弾は標的を貫く弾道を正確無比に疾走する。
餓狼を連想させるその存在に、快警鬼は最後まで気付かなかった。
気付いたのは、周囲に張り巡らせてある、重力場───それが小刻みに震える未来を予測して、ようやく狙撃者の存在を知った。
──『サイレンストライカー!』
──『超・警察チェンジ!』
サオリの放った弾丸の全てを、サイレンストライカーの生み出した重力のバリアが絡め取る。
その光景を見ることなく、限界を迎えたサオリはその場に倒れ込む。狙撃者の正体と位置が明らかとなり、快警鬼が唸り声を上げながら飛び立たんとした、
刹那。
「─────わァ───は────っはっはっはっはっはァッ!!」
────高速で飛び込んできた一台の赤い車が、快警鬼を天高く跳ね飛ばした。
「!!??!!?!!!??????」
宙に浮きながら混乱を極める快警鬼をよそに、体のあちこちに傷を刻んだその車は、地面に深い轍を凄まじい勢いで刻みながら、瓦礫にぶち当たる寸前でようやく止まった。
焦げ臭い煙が漂うなか、前後左右あわせて四つの扉が開き、ぞろぞろと珍妙な集団が姿を現す。
ドンモモタロウと、便利屋68であった。
どうやら酔ってしまったらしい。車にもたれかかって地面にえずいていた陸八魔アルは、損なわれかけている自らの威厳を取り戻すべく、慌ててファー付きのコートを翻してみせた。
「待たせたわね──依頼人っ! さあ! 依頼を続けましょうか!」
「今轢いたのが依頼人だよアルちゃん」
「なんですってぇ──────────────────────────────────────!!!!!?????」