ドンブルーアーカイブ 作:鰻の蒲焼
カズサ「ま、桃井みたいなヤツをまともに世話できるのは私ぐらいだろうし?」
タロウ「世話をされた覚えはない」
キキョウ「……あんたみたいな変人の手綱を握れるのは、私しかいないよ」
タロウ「握られた覚えはない」
カズサ「…………何?」
キキョウ「…………別に」
タロウ「覚えはない」
先生「はわわ」
『──人工的なヒトツ鬼化と、能力や武装の抽出を目的にした、ゲヘナの激走鬼、高速鬼、炎神鬼』
────嘘だ。
『そして此度の最終検証実験である、ヒトツ鬼同士の合成──及び、莫大な波動による連鎖ヒトツ鬼化と脳人レイヤーの活性化を目的にした、快警鬼……いずれも、結果は上々でした』
────嘘だ。
『そう考えれば、彼はとても良い実験体になってくれましたね。理性を保ったままのヒトツ鬼は、酷く貴重な資源ですから。
本来ならばもう少し、長く使い潰しておきたかったのですが──何事も望みすぎは良くないのでしょうね』
────嘘だ。
『それにしても、この力──素晴らしいとは思いませんか?
娘に会いたいなどという、実に無益で瑣末で、取るに足らない願いが、これだけの破壊を齎したのですよ?』
────嘘だ。
『袖振り合うも他生の縁、躓く石も縁の端くれ……すべての物事は、因縁で繋がれているのであれば、私とこの世界が巡り合ったのもまた、運命ということなのでしょう』
────嘘だ!
『ですから。
嘆くのではなく、喜びなさい。
憎むのではなく、満たされなさい。
憤るのではなく、祝いなさい。
あなた達の、無価値きわまる平穏は、私たちがいずれ至る栄光の、
────嘘だ!!
〇
透き通るような青空の下で、柴関ラーメンの屋台は先生を待っていた。
「ふう……」
先生は溜め息を吐くと、眉の辺りに手のひさしを作りながら、眩く光る空を見上げる。
空の色は限りなく青く、遮る雲は一つも見当たらない。連邦生徒会の制服を通り越して素肌を照る日差しは、カレンダーの数字には似つかわしくない強さを誇っていた。
今日は午後から雨が降ると聞いていたのだが──もしかすれば取り越し苦労だったかもしれない。
滲むような暑さを感じつつ、先生は屋台に近付き、年季の入った暖簾を掻き分けた。
まず最初に見えたのは、薄い膜のような白い湯気。次に、手慣れた仕草で湯切り用のザルを振っている店主──柴大将の姿。
「──おっ」
先生が来店したことに気付くと、大将はそれまで直立させていた耳を、ぺたんと横に広げてみせた。
「よう、先生じゃねぇか。久しぶりだな」
「ご無沙汰です、大将。どうですか、お身体の具合の方は」
案じるような言葉をかけられて、大将は訝しむように眉を顰めるが──すぐ思い当たるものが見つかったのか、きまり悪そうに唸り声を上げた。
「あぁ……もうセリカちゃんから聞いちまったのかい? 恥ずかしいな。
まぁ、もう心配いらねえさ。この通り、柴大将完全復活ってな!」
「はは……」
大将は得意げに腰を叩き、豪快に笑った。
立ち振る舞いを見ても、後遺症は特に無さそうで、先生は密かに安堵を抱く。
先生にとっての柴大将とは、桃井タロウに次いで付き合いの長い、キヴォトスでは貴重な生徒以外の人物だ。
だから、一度も見舞いに行けなかったことには──たとえ大将自身が余計な負担をかけまいとして、周囲に口を封じることを指示したとしても──それなりの後悔を感じていた。
「本当は、そんなことが無いのが一番いいんですけど──次は、きちんと見舞わせてくださいね」
「先生……アンタ、割と根に持つタイプだな?」
「さあ、どうでしょう?」
照れくさそうに頬をかく大将と会話をかわしながら、先生は長椅子の右端辺りに腰を下ろした。
擦り切れた木の趣ある感触を味わいながら、丁寧に折り畳んだコートを足元のカゴに入れ、眼鏡を外しつつ手渡されたおしぼりで軽く顔を拭う。そして、さりげなく視線を巡らせた──待ち人は、どうやらまだのようだ。
探るような気配を察知したのか、柴大将は何げない様子で尋ねてきた。
「待ち合わせかい?」
「まあ、そんなところです」
水滴が浮いたコップを傾け、なかに入った冷水を喉に流し込む。
そのちょうどのタイミングで、先生の背後にある暖簾が激しく揺れ動いた。
同時に耳朶に分け入ってくる、折り重なった少女達の賑やかな声。
「──だーかーらぁ、次の物件は絶対にD.U.が良いって! あんなコトがあったんだから、依頼がじゃんじゃん飛び込んでくるに決まってるもんっ」
「……桃井タロウと遊びたいだけでしょ、ムツキ」
「そんなことありませーん。おにーさんは関係ありませーん。毎日遊びに行けるなんてこれっぽっちも考えてませーん」
「だったらその下手くそな口笛やめな──大将、塩で」
「で、でも、あの被害状況ですし、何処かの廃墟にしばらく居を構えていても、バレづらそうですよね……あっ、あの、私は醤油でお願いします」
「ほら! ハルカちゃんもこう言ってるじゃん! 私もお醤油ー」
「あいよ。社長はどうするんだい?」
「……D.U.はヴァルキューレのお膝元なことを忘れた? それに、やむを得なかったとはいえ駐車場も爆破してる、バレるとかバレないとか以前の問題でしょ。
いつも通り柴関ラーメンで。ほら、社長。なにか言ってやって」
「弾薬代と、後は車代。その他諸々引いて、残りのお金から考えれば……いえ、もう少しだけ節約できるから──」
「……はあ」
あれだけの修羅場を潜り抜けた後だというのに、少女達──便利屋68はなに一つ変わらない様子で、日々を過ごしているようだ。火事の煙のようにたちまち立ち込めだした姦しさを、先生はにこやかに受け入れた。
身体を振り向けて、ひらひらと手を振る。
「や、皆」
「あっ、先生!」
真っ先に先生に気付いた少女──薄灰をまぶしたような長い髪を、花を模した黒いへアクセサリーでサイドテールに仕立てた浅黄ムツキは、満面の笑みを浮かべると、先生の右隣に腰を下ろした。
「ムツキちゃんはこーこっ! はい決まりっ!」
「私の隣で良いの?」
「良いに決まってるじゃーん!
それに先生もぉ、こーんなに愛くるしくて可愛い女の子が隣に座ってくれて、とっても嬉しいでしょ?」
右の人差し指を頬に当て、少女はぱちりとウィンクを一つ。
自らの魅力を完全に把握していなければできない仕草を向けられ、先生は微笑まし気に頷いた。
「勿論。嬉しいよ」
「──くふ、くふふふっ!」
ムツキはそんな返事を聞くと、日向ぼっこをしている猫のように目を細めて、先生の右腕に抱き着いた。
「先生は、ムツキちゃんが好きで好きでしょーがないんだねー。くふふ! 仕方ないから、こうやってくっついててあ・げ・るっ」
「助かるよ。ありがとう」
「でしょおー?」
「……」
すりすりと気持ちよさそうに頬ずりしているところを見ると、本当に猫が乗り移っているのではないかと疑ってしまう。
そんな光景を目にしたことで、心の奥でかすかに燻り始めた、羨望の炎を燃料にして──黒く染まった前髪をいじくりながら、鬼方カヨコはさりげなく先生の左隣をキープした。
「──個人の性格に拠るものだから、とやかく言うつもりはないけど。あんまりそういう言動はしない方が良いよ、先生」
「そういう言動って?」
「……自覚してないの?」
仄かに曇ったレンズの奥で、不思議そうに瞬く目に、偽りの色は見られない。
だから、始末に負えないのだと理解している。
そして、理解しているくせに、悪い気がしない自分は、もっと始末が負えないに違いなかった。
「……まあ、良いんだけどさ」
「え~? カヨコちゃんなにその意味深な間はぁ~」
「うるさい」
先生越しに揶揄ってくるムツキを睨みつけてから、カヨコはそれ以上の会話を拒むようにそっぽを向いた。
その不機嫌そうな横顔に案じるような視線をやりながら、伊草ハルカは席につく。
ハルカにとって、便利屋の面々と先生は、何物にも代えられない唯一無二の存在だ。そんな大切な存在達が、どうにも剣呑な雰囲気を漂わせていると、自分のことではないのに、胸が麻縄で締め付けられるように痛んだ。
その痛みが、自己主張を滅多にしない少女に、勇気ある一歩を踏み出させた。
「かっ、カヨコ課長っ!」
「どうしたの?」
ハルカは、いつもは自信が無さそうに閉じている唇をきゅっと力強く引き締めると、淡い紫色の瞳に決意を宿してカヨコに話しかけた。
「わ、私のチャーシューを、すべて献上しますからっ。どうかムツキ室長と喧嘩するのは、やめれくらひゃ!!」
途中で言葉の輪郭があやふやになったのは、頬を挟まれて、口のなかが大きく変形したからである。
白くて薄くてもちもちしたハルカの頬をたっぷり数秒は揉みほぐしてから、カヨコはすっかりリラックスしたのがありありと分かる、和やかな表情で呟いた。
「……冗談だよ。こんなことでいちいちムツキと喧嘩してたら、こっちの身がもたない」
「それってどーいう意味ー?」
「言葉通りの意味──チャーシューはいいよ。久しぶり……というか、しばらくは食べられないかもしれない、まともな食事なんだから。私に気なんて遣わず楽しんで」
子どもに言い聞かせるかのような、羽毛のごとく柔らかい口調──それに反応したのは、カヨコの右隣に座った先生だった。
「食べられないかもしれない──……ってことは」
「先生の予想はたぶん当たってる。まあ、詳しいことは社長から聞いて。ねえ、社長」
「え?」
カヨコに声を投げかけられて、ようやく我に返った陸八魔アルは、使い古した手帳の頁の上を几帳面に走る数字列から顔を上げた。
しばらく俯いていたせいか、かすかに充血した金色の眼は、いま自分がどこにいるのかということがすっぽり抜け落ちてしまったような風情を醸し出している。
「……大丈夫?」
少し不安に思った先生がそう聞くと、アルは慌てて普段の快活さを引っ張り出してきた。
「だ、大丈夫よっ! 不安になんて思わないでちょうだい! ほらっ、この通り私は元気いっぱい……いっぱい…………」
「……いっぱい落ち込んでるね……」
誰がどう見たって一目でわかるぐらいの消沈ぶりであった。
自分の予想が間違ってはいないかと、先生はもう一度カヨコと目を合わせる。
だが、返ってきたのは無言の肯定──
ここまで証拠が揃っているのだ。便利屋68が請け負った依頼が、果たしてどのような結果に終わったのか、言うに及ばずと言ってもいいだろう。
けれど、自分は便利屋の経営顧問を務めている。
ならば、それがどれだけ惨憺たる結末だろうと、聞かない道理は無かった。
「無理強いはしないよ。でも、私は聞いてみたいな。アル達が、どんな風に頑張ってきたのか」
「……うう」
先生が不意に浮かべた淡い微笑に、アルはどうしようもない気分に陥り、小さく肩を縮ませる。
短いようで長い脳内時間をたっぷりかけて、これまでに経てきた出来事を頭のなかで順序だてると、怒られる直前の子供のような、おっかなびっくりといった口調で話しだした。
「あのね、先生」
「うん」
「──うんぬんかんぬんあって、報酬が無しになったのよ」
「……うん?」
聞き間違いかと思い、先生は疑問符を頭に浮かべながら聞き返す。
すると追随するように、ムツキが後頭部で両手を組みながら言った。
「そーそー。うんぬんかんぬんあったんだよねー。さすがのムツキちゃんも参っちゃった!」
「……ま、否定はしないよ。なにせ、うんぬんかんぬんだったしね」
「そ、それにうんぬんかんぬんでしたよね……ビックリしてしまいました……」
ムツキだけではない。カヨコやハルカまで、アルの口から出た言葉をなんの疑問も感じずに使っていた。
勿論先生は混乱しっぱなしだ。うんぬんかんぬんというひと言から読み取れるものなど、うんぬんかんぬん──主題だけを説明するにあたって略された詳細──以外に思い当たらない。
ひょっとして便利屋の間だけで通じる符号なのだろうかと、大真面目に先生が考え込んでいると、調理を進めていた大将がふと動きを止めた。
「……うーん」
そのまま顎に肉球を当てて、なにやら考えだし始める。
もしかして、大将も内心ではおかしいと思っていて、指摘をしてくれるのではないかという期待を、先生は思わず抱いた。暗闇のなかに一筋の光明を見つけ出したかのような気持ちが沸き上がる。
そして待つこと、数秒。
「うんぬんかんぬん、か──まあ、ままにならないのが浮世の常ってもんだ。こっちが言えるこたぁ、とにかく腹を満たせるだけ満たして、元気出せぐらいしかねえわな」
「大将……」
アルの視線を受けて、大将はくすぐったそうに頬を緩ませる。
「よせよ。こっちも色々助けてもらったんだ。持ちつ持たれつでいこうじゃねえか」
「ええ……そうよね。その通りよね! これぐらいでへこたれちゃ、アウトローの名が廃るってものよね!」
「……」
期待は朧げなモヤとなって、ラーメンの煙と一緒に消えた。
先生は遠い目をしながらすべてを見届けると、大人しく自分のメニューを頼んだ。そして押し黙ることを選び、ひっそりと口を閉ざす。一切経緯はわからなかったが、立ち直れていることがわかっただけで充分だった。
それを横目で見ていたカヨコは、頬杖を突きながらぼそっと呟いた。
「──で、いつツッコむの?」
「あ! ツッコミ待ちだったんだこのやり取り!?」
「え!? ツッコミ待ちだったの今のやり取り!?」
「アンタが驚いててどうすんだ社長……」
何気にノリがいい柴大将であった。
〇
要するにうんぬんかんぬんとは、『依頼人が記憶喪失になって依頼のことをすっかりさっぱり忘れていた』という意味だった。
「記憶喪失……って、どこまで?」
「ヒトツ鬼になってから、ぜーんぶ! だから参っちゃうよねーって言ったの」
醤油スープがよく絡んだ麺をちゅるっと啜り上げてから、ムツキは憤慨を露わにする。
聞くところによると、ここ数カ月の記憶がすべて無くなってしまったわけではなく、薄っすらと覚えてはいたらしい。
だが、四日前──娘に会うために便利屋68の事務所へ依頼しに行った/何者かの手によって改造ヒトツ鬼へと変貌した日──の記憶だけは、どうしても思い出すことができないそうである。
「……それってやっぱり、ヒトツ鬼ってヤツになったせいなのかな」
「そう、だと思う」
すくったスープのなかで揺らぐネギを見下ろすカヨコの問いかけに、先生は箸でメンマを摘まみながら答えた。
「タロウに言わせれば、あのヒトツ鬼は今までに見たことがないタイプのヒトツ鬼だったらしいからね。本来なら、一つの欲望には一体のヒトツ鬼しか引き寄せられないそうなんだけど……」
「二体憑いていた……んです、よね?」
噛み締めるようにチャーシューを味わっていたハルカが、おそるおそる確かめる。
先生は首を横に振ると、メンマをスープに浸してから、麺と一緒に口に放り込んだ。
「──憑いていたというより、憑かされていた、らしいよ」
「それって、誰かに無理やりヒトツ鬼にさせられたってこと?」
もやしの山をちびちびと切り崩していたアルは、大きく目を見開いた。
先生の──桃井タロウの言葉が正しければ、それは即ち、キヴォトス全土で頻発しているヒトツ鬼事件のすべては、何者かが裏で糸を引いたために起こった可能性があることを指し示している。
そうすることになんの意味があるかは、まるで分からない。だが、少なくとも善行として行われたわけではないことは確かだろう。
アルは映画が好きだ。だから、目的も正体も全くわからない何者かが、大都市を未曽有の混乱に陥れるという如何にもなシチュエーションの渦中に、自分達が巻き込まれていたと知った時は、きっと心臓のひとつやふたつは高鳴らせてしまうのだろうと思っていた。
だが──
「───気に入らないわね」
アルの心を震わせたのは、高鳴るようなときめきではなく、煮えたぎるような怒りだった。
それはたぶん──記憶を失った依頼人が、出迎えてくれた娘と抱き合った際に見せていた笑顔の色を知っていたから産まれた怒りだった。
陸八魔アルはゲヘナで最もハードボイルドで、アウトローで、危険な女だ。
決して情には流されず、依頼を達成する為であればどんな手段であろうと厭わず、容赦なく冷徹に実行する。
まだ道半ばかもしれないが、そう在るように努めてきた。
そう──だから、『これ』は決して、情などではない。
自分達の完璧な仕事ぶりを貶められたことに対する、極めて真っ当にアウトローな怒りだ。
箸を持つ手を震わせるアルに、ムツキは何とはなしに問いかけた。
「どれぐらい気に入らないのー?」
「……セロハンテープ使ってる時に、切れ目が本体にくっついちゃって、何処に行ったかわからなくなることってあるでしょ。あれぐらいよっ」
「随分みみっちい怒りだね……」
カヨコの呆れ声も気にせず、アルは鬱憤を晴らすように、持ち上げた大量の麺を一気に啜り上げた。噎せなかったことは奇跡に近い。少女はそのまま勢いに任せて、凄まじい吸引力の元にすべての麺を食べきると、スープしか残されていない器を柴大将に差し出した。
「大将替え玉っ!」
「良いのかい?」
「良いのよっ! これが最期の晩餐なんだからっ!」
「良くねえ気がするけどなぁ……」
とはいえ、客が望んでいるのだから、店側としては出さざるを得まい。柴大将は器を受け取り、替え玉をひとつ投入してから少女にふたたび手渡した。
「あいよ。替え玉お待ち」
「ありがとっ!」
アルは受け取ると、先程の光景をリピートするように麺を啜り、噛み、飲み込んでいく。その勢いは凄まじく、さながら火力発電所のよう。要するに触れるな危険も同然だったが、先生にとって陸八魔アルは何があっても生徒である。
聞いておくべきことを聞くことには、少しの躊躇いも無かった。
「アル」
「……何かしら?」
「アルは、この依頼を受けたことを、後悔してる?」
「──するわけないじゃない」
稲妻が奔り抜けたかのような、一瞬のラグも無い即答だった。
アルは箸を置き、依頼やヒトツ鬼のことを考える。
自分達は、最終的に報酬を受け取らなかった。契約書はきちんととってあったが、果たしてその効力が記憶喪失者にも適用されるのかどうかわからなかったし、何よりも──報酬に固執するのは、物凄くカッコ悪い気がしたからだ。
お金は大事だ。
物凄く大事だ。
けれど、アルにはそれよりもっと大事にするべきものがあった。
(──それに)
アルは思う。
一切の見返りを求めず、成すべきことを成してから、何も告げずに去って行く───きっとドンモモタロウならば、そうするという強い確信がある。
ならば、負けてはいられない。
法律や規律に縛られない、本当の意味で自由な魂──それこそが、陸八魔アルの目指すアウトローなのだから。
「確かに傍からすれば、私達は失敗した風に見えるかもしれないわね。
弾薬も無くしたし、報酬も無くしたし、レンタカーも……無くしたし」
「無くしてばっかだねー」
「やかましいっ。
……でも、承った依頼は、達成することができた。それだけは──」
アルはそこで言葉を切ると、先生に向かって得意気に笑いかけた。
「───無くしてなんか、いないんだから!」
「……そっか」
先生は勘違いしていた自分を恥じた。
惨憺たる結末など、初めから何処にも無かったのだ。
だって少女はこんなにも眩しく──胸を張って笑っているのだから。
「でもアルちゃんさあ。まだお金返す目途立ってないんでしょー?」
「う゛っ゛」
「また、地道に稼いでいくしかないんじゃない。草むしりとか、猫探しとか……猫探しとかでさ」
「わ、私は、皆さんと一緒ならどんな仕事でも爆破してみせますから……」
「どっ、どうにかするわよ! どうにか……」
立ち込めかけたしんみりとした空気を払い除けるように、少女達は姦しさを増していく。先生はすぐ傍で喧噪を感じながら、ポケットに入れてある端末を、密かに操作し始めた。
やがて画面に映し出されたのは──連邦生徒会から請け負った、ヒトツ鬼制圧という依頼を達成したことによる──呆気に取られるほどの0が、後ろにずらっと並んだ数字列。
「……」
便利屋68は、課された依頼を途中で投げ出すことなく、最後までやり遂げてみせた。
そして、自分は彼女達の経営顧問でもある。
「……そういえば皆、覚えてる?」
ならば、自分も──最後まで応えるべきだ。
「私が言った、シャーレとしてだけじゃなくて、便利屋の経営顧問としても動くって言葉──」
〇
グーを出したら全員に負けた。
だから桃井タロウは、休憩時間中を利用して、近場にあるコンビニへと買い出しに出かけていた。
タロウは握り締めた拳を見下ろしながら、自分がじゃんけんで敗北を喫したことを不思議に思っていた。
なにせ、どの手を出すかを聞かれたから答えただけなのに、まるで見透かされたように負けてしまったのだから。
思い返せば、シロクマ宅急便で働いていた時も、じゃんけんは毎回負けていた。そして同僚の苗字は、シバイヌ宅配便の面々と同じ石川、竹中、桐山──
「……まさかと思うが」
自分はあの苗字を持った連中に、じゃんけんで負け続ける運命にあるのではないだろうか。
そんな馬鹿げたことを考えているうちに、いつの間にかコンビニに辿り着いた。
自動ドアをくぐり抜け、カウンターから身を乗り出して店員を脅していた不良数人を気絶させてから、頼まれた菓子やジュースをレジへと持っていき、会計をしている間にヴァルキューレに通報する。
わずか数秒で強盗事件を解決したことなど、欠片も気に掛けることなく、コンビニを出たタロウは帰り道を辿り始めた。
「──」
改造ヒトツ鬼──フタツ鬼が地区のひとつを壊滅状態に追い込んだ日から、四日が経つ。
あれだけの規模の破壊を齎されたというのに、キヴォトスはいつもと変わらぬ喧噪を孕んで、いつもと変わらぬ姿勢で佇んでいた。
学生は級友と談笑し、住民は商売に励み、スケバンは銃を派手に乱射する。
この世界は、色々な意味で逞しいとタロウは思う。ひょっとすれば、自分が元いた世界──王苦市にも負けないぐらいに。
いつもの雑踏にまみれているうちに、タロウの視線は自然と周囲の建造物へと向く。
とは言え、負った傷はやはりそれなりには深かったのだろう。復旧工事中の建造物という目に見える形となって、立ち並んでいた。
かーんかーん、と響き続ける甲高い工事音は、街があげる呻き声のようにも聞こえる。
そんな風に気を取られていたからだろう。
十数歩先で待ち受けている存在に、気が付くのが遅れてしまった。
「……?」
雑踏のなかから視線が突き刺さるのを感じて、タロウは立ち止まり、怪訝さを醸しながら辺りを見回した。行き交う人々は忙しなく、タロウを避けてはまた波を形成していく。
そのなかで、ただひとつ。屹立する長い影があった。
タロウはその影の背格好に、長く伸びた黒髪に、研ぎ澄まされた刃を連想させる眼差しに、何十年も出口のみえない砂漠を彷徨い続けたような表情に──これ以上ないぐらいの見覚えがあった。
「アンタ──……」
「────」
「錠前、サオリ」
少女──錠前サオリは、タロウに名前を呼ばれた瞬間、わずかに目を細めた。まるで、そう呼ばれることを厭うかのように。
タロウは少女の微妙な変化に気付くことなく、歩み寄ろうとする。四日前、フタツ鬼の出現と同時に、少女との繋がりもぷっつりと途絶えてしまったからだ。
だが、タロウの踏み出しかけた足を止めたのは、突然投げ渡された一個の端末だった。
それは、シバイヌ宅配便の配達員に支給される、仕事用の端末。
何故、シバイヌ宅配便の配達員ではないサオリが、それを持っているのか──タロウはその理由を理解していた。
だからこそ、疑問が浮かび上がった。
「持っていたのなら、何故電話に出なかった?」
「……」
タロウの問いにサオリは答えず、ただ静かに俯いてみせた。
それは明確な拒絶の姿勢であったが、どこかに迷いを携えているように、タロウには見えた。だが、詮索する気にはならなかった。
「──いや、やはり答えなくていい。アンタにも、アンタなりの事情があったんだろう」
「……」
「とにかく、息災なようで何よりだ。実はいま、買い出しに出かけている最中でな。ここで再会したのも何かの縁だ。アンタの分も買って──」
「一つ」
タロウの言葉を遮るように、サオリがそれまで固く閉じていた唇を、ゆっくりと開いた。
耳に滑り込んできたのは、何度も何度も叫んだ後のような、掠れきった声。
タロウは今度こそ、サオリの気配が最後に会った時とは違うものに──出会った当初の、目に映るすべてに絶望していた寒々しいものへと変質していることに気が付いた。
「アンタ……」
「聞きたいことが、ある。桃井タロウ」
男が自分の変化に気付いたことを察したのか。サオリはもはや隠す必要はないと言わんばかりに、瘴気めいた虚無を漂わせ始める。
肌を震わせるうすら寒い空気にも、タロウは少しも揺らがなかった。
ただ、ひたすら真っ直ぐに、サオリの氷のなかに閉じ込められているような冷えた眼差しを見据えていた。
「聞こう」
「お前は……もし、個人ではどうしようもない事情を抱えた人間が、それをどうにかしようと行動を起こして……それが周囲に被害を齎したとしたら、どう思う?」
「それは罪だ」
躊躇うことなく、タロウは言い切ってみせた。
「だから、償われなければならない。当然のことだろう」
「──ッ」
サオリの鉄面皮に、かすかな亀裂が走り抜ける。亀裂から漏れだした激しい感情が、少女の相貌をじわじわと凄惨な色へと塗り替えていく。怒りと、嘆きと、諦観と、懇願が入り混じった色だった。
「それが……戦う為には仕方なかったことだとしてもか?」
「ああ」
「そうしなければ……生きる道が開けなかったとしてもか!?」
「ああ」
「そうでなければ───陽の下で呼吸することすら、許されなかったとしてもかッ!?」
「……」
最後の問いかけは、ほとんど悲鳴じみていた。
そこで初めて、タロウは思考の歯車を止めた。
脳裏に過ったのがなぜか、ドン家が作り出した人工生命体──獣人達の姿だったからだ。
脳人の世界であるイデオンは、人間が放つ波動によって成り立っている。故に、殆どの脳人にとって、人間は単なる資源でしかなかった。
だが、イデオンの王家たるドン家は、人間をただの資源とは捉えず、共存する道を望んだ。
その果てに生み出されたのが──獣人。
しかし、ドン家の思惑は大きく外れることになる。
獣人は暴走し、人間の替わりにイデオンを支えるためのエネルギーではなく、人間と世界を侵食していく存在へと成り果てたためである。
最終的にドン家は、失敗作である獣人を異空間である『眠りの森』へと閉じ込め、隔離した。
そして二度と外の世界には出られぬようにした後に、王家の末裔たる桃井タロウと、その後継たる桃谷ジロウを遺して──滅びた。
だが、封印されたはずの獣人達はいま、どういう訳か水面下でひっそりと蠢いている。
それは即ち──人間を襲うという罪を重ね続けていることを、意味していた。
「……」
存在にきっと、罪はない。
だが、その行いには罪がある。
たぶんそれは、獣人だけではなく、他の存在にも言えることだった。
何度もあやまちを犯す人間。
欲望のままに暴れ回るヒトツ鬼。
機会を与えず一方的に人間を消去する脳人。
自ら産み出した獣人を、失敗作であると断じたドン家。
タロウにとって、いずれもその行いは罪と言えるものだった。
だからと言って、やり直すことは許されないのだろうか?
だからと言って、もう一度前を向くことは許されないのだろうか?
(───いいや)
それは、絶対に違う。
なぜなら桃井タロウは、心の底から信じている。弱さや間違いを乗り越える人間の可能性を。躓いても、転んでも、それでも立ち上がっていける人間の強さを。
けれど、それでも犯した罪は、どうしたって償われなければならない。
罪を罪のままにしておくことは、弱さや間違いを乗り越えず、見ないフリをしているだけだ。
だからタロウは真っ直ぐに、取り繕うことなく、錠前サオリに自らの正直な気持ちを告げた。
「──それぞれに、事情はあるんだろう。それを否定はしない。
だが、どんな理由であれ、そのために誰かを傷つけることは、許される行いではない。
だから、それは罪だ。
何があっても、おれの答えは変わらない」
「───────────────────────────────────は、」
その言葉を──桃井タロウの心の声を受け取って、サオリはただ、笑った。
喉を引き攣らせて、臓腑からこみ上げる何かを抑えつけているような低い声で、笑い続けた。
「はっ、はは、ははは───」
この四日間で、サオリは街に齎された破壊の爪痕と、何度も向き合った。
そのなかには、サオリがかつて配達に出向いた家があった。会社があった。店があった──そのすべてが、跡形も残さず粉砕されていた。
そこにサオリが憧れた平穏は無く、触れられたはずの平凡は消え去り、手に入れられるかもしれなかった平和は失せていた。
あの、重力の柵から解き放たれた異質な空間で、最後まで聞き届けた話が正しければ──トリニティとゲヘナの殲滅を願うアリウス分校が、新たなる戦力を欲したことによって。
それはつまり、この街に突如として降り注いだ破壊は、錠前サオリが引き起こしたも同然だった。
何故ならば、錠前サオリもれっきとしたアリウス分校の一員なのだから。
だから、サオリはその行いを『罪』だと心底から認めることはできなかった。
その憎悪を『過ち』であると断言することは、これまでに自分達が積み重ねてきた痛みを、苦しみを、悲しみを──無かったことにすることと、同じだったから。
「はっはは、ははは───!」
(初めから)
嗤いながら、思う。
初めから、そうだったのだ。
秤アツコは、戒野ミサキは、槌永ヒヨリは、白洲アズサは。
そして、錠前サオリは。
(───
そして、サオリはようやく、桃井タロウとの間に横たわる決定的な断絶を認識した。
跳び越える気には、なれなかった。
「───分かった。よく、分かったよ。
お前の主張はすべて正しい。
その通りだ、他者を踏みつけて生きる存在は……私は、陽の当たる場所には相応しくない」
「……」
誰かを傷つけることは正しくないと断ずる桃井タロウ。
誰かを傷つけなければ生きてゆけなかった錠前サオリ。
どんな事情があろうとも、それは罪だと断じる者。
事情を知るからこそ、それを罪だと認められぬ者。
どこまでいっても、今の二人が相容れることはない。
「お前は──正しい。きっと、間違っていない。間違っているのは、私なんだ」
「───なにを言っている?」
タロウの呼びかけを振り切るように、サオリは片腕を大きく掲げた。
その手のなかに握られているのは、黒々と物騒に光る手榴弾。
「だから、ここで終わりだ。
お前と私の縁は、今この瞬間をもって……断ち切られる」
断ち切られなければ、ならない。
その言葉は、誰の耳にも飛び込むことなく、閃光と爆音のなかに消えた。
フラッシュバン。
炸裂した瞬間、100万カンデラを上回る光と、160デシベルを超える音を撒き散らし、視覚と聴覚を一時的に麻痺させる役割を持ったそれは、問題なくその効果を発揮した。
「ッ──!」
咄嗟に腕で庇ったから、視界は無事で済んだ。しかし聴覚はどうにもならない。耳のなかを蠅が飛び回っているかのような耳障りな音をそのままに、タロウは腕を退かして周囲を見回した。
突然起きた閃光と爆発に、市民達は驚いて腰を抜かし、あるいは気絶していた。
だが、負傷者は何処にも見られない──今の爆弾は、おそらく敵から逃走する為に使われるものなのだろう。
敵。
今の錠前サオリにとって、敵と呼べるものとは──
「……」
要するに、自分はまた、他人を傷つけてしまったのだと思う。
考えを曲げる気にはならなかった。例え同じ問答を何度繰り返したとしても、自分が出す答えを変える気は更々無かった。
ただ。
一度は確かに繋がれたはずの縁を、相手側から断ち切られるのは。
このキヴォトスに来てからは、初めてだったから。
王苦市で起きた出来事を含めれば、二度目になるから。
「───痛いな」
微かに感じた胸の痛みは、どうしようもなくあの時と──
友になれたかもしれない男を斬り捨てた時と、よく似ている気がした。
〇
路地裏の奥深くにある、誰からも忘れ去られたゴミ捨て場。
薄暗い闇と打ち捨てられた廃棄物が塊となって蔓延るそこに、サオリは辿り着いた。
荒ぶる息と流れ落ちる汗、そして両足に鉄球付きの鎖となってしがみつく乳酸は、ここまでペース配分も考えず無我夢中で走り抜けてきた証拠だ。
誰もいない。いる筈もない。だからサオリは壁に背中を預けるやいなや、無防備にずるずると崩れ落ちた。
「ぐぅ──ぉ、え」
急激に動きを止められた内臓が拒絶反応を起こし、吐き気と嘔吐きを喉に送り込んでくる。サオリは抗うことなく、溢れ出るままに地面に向けて吐いた。この四日間、ほとんど食わず飲まずで過ごしてきたせいか、シミを作るのは粘度の高い胃液混じりの唾液だった。
「え゛ぐぉ、づ……ぅ」
ひとしきり吐いて、吐いて、吐き尽くして──出るものがなにも無くなってから、サオリは後頭部を壁にぶつけた。そのまま目を瞑り、壁にへばりついた汚物と埃が混ざった層の、湿った感触に浸る。
瞬間、顔面に一粒の水滴が落ちてきた。
不思議に思った刹那、水滴は一粒から大群となって、路地裏をたちまち埋め尽くした。
雨だ。
ざあざあ、と耳障りな音を立てながら、周囲に吐瀉物のごとく撒き散らされる、雨。
懐かしさを不意に覚え、その理由が、桃井タロウに拾われた日も雨が降っていたからだと思い出す。
髪も服も肌も──存在そのものを塗り潰すかのような、雨。
お前の存在など決して認めないと、叩きつけてくるかのような、雨。
「……はっ、は」
以前の自分は不愉快だとしか思わなかった。
今の自分は、そうであれと思っていた。
だって、認められるわけがない。
人殺しでしかない自分は陰でしか生きられず、陽の下を堂々と歩くことができる存在とは、絶対に相容れないのだ。
それを嫌というほど理解していたくせに、自分という愚か者は、馬鹿みたいな夢を見た。
どこまでも──滑稽で、惨めで、救い難い。
「はっ……ふ」
たまらなくなって、滝のように流れ落ちてくる雨に顔を曝す。
目も開けていられないほどの雨粒が、サオリの顔面を一瞬で濡らす。
耳を塞ぐ手を押し潰さんとするほどの雨音が、サオリの耳を一瞬で覆う。
有り難かった。感覚のすべてを、世界から断ってしまいたかったから。
今から吐き捨てる言葉は、自分にさえ聞かせたくなったから。
「……桃井、タロウ」
桃井タロウとの縁は、幸せになるためにあるのだと思っていた。
だが、違ったのだ。
桃井タロウとの縁は、きっと。
きっと──────────
「お前は、私の────」
「───────絶望だ」
〇
赤い、紅い、朱い部屋がひとつ。
そこに佇む女も、また赤く、紅く、朱い女だった。
「───それで良いのですよ、サオリ」
桃井タロウと錠前サオリの破局を見届けて、ベアトリーチェは心の底から嬉しそうに笑った。
「ドン家の者など、信用するに値しません。
奴らは所詮、人の心を解することができない、人非人なのですから」
その掌の上には、桃の形に折られた折り紙が乗っている。
「嘆くことなどありません。貴女は、正しいことをしたのですから」
手ずから折ったその紙を、ベアトリーチェはひと握りして潰してみせた。
そしてまた、一枚の折り紙を取り出し、鼻歌を奏でながら折り始める。
「貴女達が救われることはありません。
貴女達が報われることはありません。
だから、貴女達はそのままで好いのです。変わる必要など、微塵もありません」
ベアトリーチェの指先は、信じられないほどの流麗さをもって、一枚の紙をある形へと仕上げていく。
やがて、完成した『それ』を掌の上に置き、矯めつ眇めつして、完成度を確かめる。しかし、納得がいく出来ではなかったのか。先程の桃の折り紙と同じように握り潰すと、また紙を一枚取り出して、鼻歌とともに折り始めた。
「───いつか、私の望みが果たされるその日まで」
折られては潰され。
また一枚。
潰されては丸められ。
また一枚。
積み重なっていく紙屑の山など、まるで目に映らないかのように。
そうして再び。
「───貴女達は変わらず、私の
また、一枚。
じかーい、じかい!
私、下江コハルに任された任務はブラックマーケットの調査!
一人でも充分なのに、ハスミ先輩ってば桃井タロウなんか連れてきちゃってっ!
アンタもなんでホイホイついてくるのよっ!
……まさか、私を手篭めにするために?
エッチなのはダメ! 死刑っ!!
ドン5章『はなさかえりいと』
というお話、です♡