ドンブルーアーカイブ 作:鰻の蒲焼
そのいち
ブラックマーケットの路地裏は、学園のそれとは比較にならないほど危険だ。
その最たる理由は、もはや都市とさえ呼称できる面積と規模を誇るこの市場が、ありとあらゆる犯罪の温床となっているためである。
拉致、強盗、誘拐、違法取引──エトセトラエトセトラ。
キヴォトスで勃発するおおよその犯罪から生み落とされる利益を、黙して語らず受け入れ、あるいは円滑に循環するよう促す。
アングラであるために莫大な利益を求めて、姦計を張り巡らせる『企業』。
学校から除籍されたことで、行き場所を無くした不良達。
連邦生徒会から正式な認可を受けていない違法サークル。
そうした怪しげな素性を持ったものにとって、そうした悪循環が黙認されているブラックマーケットとは、まさしく天国のような場所だろう。
それゆえに自然と居住者の比重も、表舞台にはいられない無法者、いわゆるアウトローの側が年々大きくなりつつあるのも……なるほど無理はない話である。
だからこそ、学園の自治区でさえ物騒きわまりない路地裏というありふれたスポットが、このブラックマーケット内でも滅多に人が寄り付かない場所と化すのは、ごくごく自然の流れであり──
ブラックマーケットにて武器屋を営むブル商人が、得体の知れない相手と取引する際の場所に選んでいる理由の一つでもあった。
誰も寄り付かないということは、誰の目にも触れられないということでもあるのだから。
「……ふん」
商人はぺちゃっと潰れた鼻を鳴らすと、金色に輝く時計からつぶらな瞳を離した。
シックなブラウンのスーツに身を包み、ブルドッグにそっくりな──否、そのものな顔面を不機嫌そうに歪める彼の前には、今回の取引相手が立っていた。
一人は背の高い男で、一人は背の低い少女の二人組である。
「───」
「うぅ……」
商人は、それなりに長い時間をブラックマーケットで過ごしてきた。
だから目の前の二人組が──明らかな新参者であることが、すぐにわかった。
まず、少女。
サングラスをかけていても透けて見える、せわしげに揺れ動く瞳。なんてことはない物音にも敏感に反応して、そわそわと身じろぎする身体。縋るように男の服の裾をつまんだ指──周囲の空気に気圧されているのが丸わかりだった。
そして、男。
少女とは真逆に、男はどこまでも堂々としていた。サングラスを貫通して突き刺さる、放たれた弓矢のように真っすぐな視線。あたりを漂う埃っぽい不穏さを撥ねつけるように張られた胸。この場においての頂点は自分であるとでも言いたげに、傲岸不遜に上げられた顎──まるで取引ではなく捕物に来たかのような有様だった。
総じて気に食わない連中である。本音を言えば、今すぐにでも『仕込み』を発動してやりたい。
(……だが)
そう簡単に無碍にはできない理由があった。
それは、男の右手にぶら下がっている、銀色のスーツケース。
おそらく中身は金に違いない。そう確信できるのは、商人の足元に、ブラックマーケット内で流通する銃器や兵器が詰まったボストンバッグが、静かに鎮座していたためだった。
まずは、その真贋を確かめなくてならない。金を粉々に破壊する変態的な趣味は無かった。
互いに相手の様子を窺うような構図になっているなかで、まず口を開いたのは、取引相手の一人──男の方だった。
「アンタが、例の武器商人か?」
「……そういうお前はどうなんだ? 本当に今回の取引相手なのか?」
「愚問だな。おれはおれだ。おれ以外に、おれはいない」
「……」
理解できない言動に頭が痛くなってきて、商人は少女の方に視線を向けた。まだこっちのほうが話が通じるかもしれないという微かな希望を持って。
自分が注視されていることに気付いた少女は、電流を流されたように身体を大きく震わせる。
だが、すぐさま怯えを押し隠すために、攻撃態勢に入った猫のごとく敵意を剥き出しにしてきた。
「なっ、なによっ。言っとくけど、睨んできたって全然怖くないんだからっ。
こんな……薄暗くて、誰の目も届かなくて、大声を出しても聞かれなさそうな場所を選ぶなんて──あんたの魂胆は全部見え見えなのよっ!
どうせろくでもないこと考えてるんでしょ、この、ヘンタイっ!」
「変態? 何故だ」
「だっ、だって。こういう所って、本を読んでたらよく出てくるし──って! ヘンなこと言わせようとしないでよバカっ!!」
男の些細な口出しに、少女は口角泡を飛ばす勢いで反応すると、かなりの勢いで男の脇腹を叩く。
しかし男はまるで意に介した様子も見せず、じろりと商人を見据えてきた。
「だが、コイツの言うことにも一理ある。
いくらブラックマーケットとはいえ、それが取引の体を成しているのであれば──別に人目に触れても構わないはず。ここに集まる連中は、変に隠れて悪さをしないらしいからな。
だというのに、わざわざ人気のない場所を選んだ理由はなんだ?」
「話したところでなんになる? てめえらは黙って、そのスーツケースの中身を見せればいいんだよ」
「──」
商人は既にまともに相手をするつもりはなかった。男もそれをすぐに察知したのか、大人しく口を閉ざし、要求通りに中身が見えるようにしたスーツケースを地面の上に置いた。
「こっちに滑らせろ。本物か確認する」
「はあ? 品物の確認の方が先でしょっ」
「良いだろう」
「はぁあ!?」
少女は声高に異論を唱えたが、男は素直にスーツケースを滑らせてきた。
札束が丁寧に敷き詰められたそれを足で受け止めて、商人は一枚一枚を確認していく。
やがて、すべてが本物であることを確かめると、スーツケースを閉じて、ゆっくりと立ち上がった。
武器の詰まったボストンバッグを、相手に渡すことなく持ち上げて。
「取引はこれで終わりだ。さっさと失せろ」
「──ま、待ちなさいよ!」
真っ先に反応したのは、やはり少女だった。
先程までの怯えようを地面に放り捨て、純粋な怒りをあらわにしながら、商人に食ってかかる。
「こんなの全然取引じゃないわよ! こっちばっかり損してるじゃない!」
「──最初から、おかしいと思ってたんだよ」
商人はゆっくりと振り返ると、ブラックマーケットという場には欠片もそぐわない気配を漂わせた二人を睨んだ。
「……どこの差し金かは知らないが……お前ら、真っ当な理由で、ここへ取引に来たわけじゃないな?」
「……う」
商人が指摘すると、少女は勢いを失ってたちまち口ごもった。思わず笑ってしまう。それが答えのようなものだった。
瑕疵をみずから暴露してしまい、それでも少女は引き下がらなかった。あるいは、引き下がれなかったのかもしれない。
「──真っ当な理由って、なによそれ」
きゅっ、と小ぶりな唇を引き締めてから、急増で取り繕った強気な態度を引っ提げた。
「ブラックマーケットに真っ当なんて概念があるわけないでしょっ! ここに集っているヤツらなんか、全員後ろめたい連中しかいないに決まってるっ」
「自分はまるで違うとでも言いたげだな」
商人の試すような問いに、少女は誇らしげに胸を張りながら、自信満々に答えた。
「当っ然! なんてったって、私は正義実現委員会きってのエリートなんだから!」
成熟しきっていない少女特有の甲高い声が、空間をわんわんと反響する。
そのなかで、隣で事の成り行きを見守っていた男が、静かに口を開いた。
「アンタ、素性をバラしても良かったのか?」
「は? ──あっ!」
男の唐突な提言に、少女は眉を顰めたが、すぐさま自分の失態に気づき、顔面を真っ青にしながら口を両手で封じた。
だが、時すでに遅し。
ブル商人は、認可されていない都市で、認可されていない商売を営む日々を過ごしている。だから、正義実現委員会という組織が、キヴォトスに現存する学園のなかでも、最大級の規模を誇るトリニティ総合学園──そこにおける治安維持組織であることが、すぐにわかった。
もはや、『仕込み』を発動することに、なんの躊躇いも無い。
右腕を掲げるという、事前に決めておいた合図を繰り出した瞬間、路地裏のあちこちから、安全装置の外れた銃を携えたオートマタ、柴犬、三毛猫──万が一の事態に備えて雇っておいたボディーガード達が、ぞろぞろと姿を現した。
「なっ! ななっ、な──っ」
「ほう」
突然とも言える敵の出現に、少女は隠しきれない驚きと怯えを曝け出しながら、男の胴にしがみつく。
その反対に、男はまったく動じることなく、腕を組みながら薄い笑みを浮かべていた。
しかし、商人にとっては怯えていようが笑っていようがどうでもよかった。
重要なのは、治安を取り締まる組織のメンバーが、どういう訳かこの治安が放棄されたブラックマーケットにいるという事実だけ。
「トリニティのお嬢ちゃんが、どうしてこんな場所にいるのかは知らねえが……くだらねえ正義の味方ごっこなら、他所でやるべきだったな」
商人が侮蔑を吐き捨てると同時に、周囲のボディーガード達が失笑と嘲笑によって出来た見えない壁を、二人の周りに敷き始めた。
「っ……うう……」
そのせいか、少女はすっかり委縮しきっていた。虚勢を張る余裕もないのか、もしくはこれから繰り広げられる一方的な蹂躙を想像してしまったのか、顔を深く俯かせて、みっともないぐらいに身体を震わせている。
だが、男の方は相も変わらず──どこまでも冷静だった。まるで、いまこの瞬間を遥か空から見下ろしているように、超然とした態度を保ち続けていた。
「……」
男は腕を組んだまま、取り囲んでくるボディーガード達ひとりひとりの表情を確かめるように、ゆっくりと順繰りに視線を動かし始めた。
そう。男はただ、目を動かしているだけだ。
だというのに──心臓を直接掴まれているかのような苦しさと圧迫感を感じてしまうのは、何故なのか?
(なんだ、こいつ……)
密かに警戒心を高める商人をよそに、誰に憚る様子もなく視線を一周し終えた男は、無表情で商人のしわくちゃなブルドッグ顔を見据えると、改めて確かめるような口調で問いかけた。
「……要するに、アンタ達はおれ達を脅迫しているのか?」
「──見れば分かるだろ? まぁ、金は本物みたいだからな。大人しくしてりゃ、早めに済ませてやらんこともない」
「なるほど、面白い」
そこで男は、固く組んでいた両腕をほどいてみせた。
それまでは、巌のごとく動かなかった男が、初めて見せる動き──
緊張が走り抜けるなかで、男は自由になった右腕を持ち上げると、その先端で突き立てた人差し指を商人の鼻にぴたりと据えて、叩きつけるような大声とともに宣言した。
「これでおれとアンタ達には──縁ができた!」
「はあ?」
「この世には、無数の縁が溢れている。そしておれとアンタは、確かに言葉を交わした。
ならば、おれ達の縁は結ばれたも同然だ」
「………」
少しは度胸がある奴だと感心していたのだが──どうやら勘違いだったらしい。
単に恐怖で頭がおかしくなった、関わり合いになるのも馬鹿らしくなる手合いだ。
商人が押し黙ったことをどう勘違いしたのか、男は安心させるような口調で語りかけてきた。
「不安なのか? だが案ずるな。おれとの縁は超良縁だ! 決して損はさせない」
「超悪縁に決まってるでしょおっ!!」
都合よく激情のぶつけどころを見つけた少女が、背伸びして男の胸倉を掴み上げ、激しく揺さぶろうとする。しかし男が微動だにしないせいで、結果的におもちゃを強請る子供のような、ひどく情けない有様になっていた。
ひたすらに時間を無駄にした気分である。ブル商人はとうとう声を発するのも億劫になって、無言で右腕を振り下ろした。
攻撃許可が下され、呆気に取られていたボディーガード達も、気を取り直すように銃を構えた。
十数を超える銃口が、確かな害意をともなって、男と少女をねめつける。
不可視にして、不可避。
決して逃れられない危機に陥り、少女──下江コハルの脳裏に、この状況に至るまでの経緯が、メリーゴーランドめいた速さで流れ回り始めた。
────なんで、こんなことにぃいい……。
人はそれを走馬燈と呼ぶのかもしれないが、いまの彼女がそのことを知る術はない。
やがて、豪雨のような銃撃が降り注ごうとするなかで──
男、桃井タロウは、どこまでも不敵に笑っていた。
〇
ゲヘナほど無法地帯なわけでもなく、ミレニアムほど近未来的なわけでもない。
それゆえにトリニティ総合学園は、古式ゆかしいミッション系の建造物が大多数を占めるという点を除けば、かつてタロウが過ごしていた時代に比較的近い雰囲気が漂っていた。
だからといって治安が良いとは限らないのは、目前の光景を見れば一瞬で理解できるだろう。
「バカ野郎っ! ケーキはショートケーキが一番だろうがっ!」
「舐めたことぬかしてんじゃねえぞチンピラァ! チョコレートケーキに勝る代物なんざねえんだよオ!」
吠えるような怒号とともに、それまで懐にしまわれていた銃火器の数々が抜き放たれ、外気にその黒々と照る身体を曝け出した音が、幾重にも重なって聞こえてきた。
タロウは建物群から視線を外し、声が聞こえてきた方へと向ける。
視線の先では、日差しを遮るために設置された白色のパラソルが、あちこちに点在していた。
広げられた傘の下にあるのは、広く大きな円形のテーブルが一つと、アンティーク調の椅子が複数。簡素な造りの割に、座り心地がしっかりしていることを考えると、恐らく専門店から取り寄せたのだろう。そう理解できたのは、タロウも同じ椅子に座っているためである。
そのうちの一つで、口元をマスクで覆ったスケバン達が何かを言い争っていた。
「ショートケーキなんざてめえ、イチゴが無けりゃ完成しねえじゃねえか! そんな不完全なものケーキなんて呼べるかよ!」
「ショートケーキの上に乗るのはイチゴだけじゃねえ! リンゴにオレンジ、メロンにレモン、そしてブルーベリー……多彩な組み合わせが存在するんだよ!
チョコレートに溶かされたお前の甘々な脳味噌じゃ考え付かねえかもしれねえけどなァ!」
「ンだとお!?」
「やるかぁ!?」
どうやらショートケーキとチョコレートケーキのどちらがより優れているのかを言い争っているらしい。タロウは先に運ばれてきた紅茶に口をつけながら、今にも銃弾が飛び交い兼ねないほど剣呑な光景を眺めた。
すると視界の端でひとつの影が、タロウが座ったテーブルの空いた椅子へ、滑らかにすべり込んでくるのが見えた。
「やはー、物騒っすねー。美味しいのはみんな同じなんだから、素直に認め合えばいいのに」
「アンタは──」
「どもっす。こんにちは、タロウさん」
影はひらひらと手を振りながら、やがて仲正イチカという形となって、タロウに話しかけてきた。
髪を留めているヘアピンの位置を調整しつつ、チンピラ達の諍いをわずかに開いた片目で視認している少女の服装は、黒を基調にしたセーラー服。
即ち、トリニティにおける治安維持組織たる正義実現委員会のメンバーであることを示している。
しかし、イチカはチンピラ達の喧嘩の仲裁に赴くことなく、タロウへ和やかに喋り続けた。
「今日は私服なんすね。トリニティには、プライベートっすか?」
「ああ。今日は休みだからな。そういうアンタは」
「午前のパトロールが終わったんで、休憩中っす。まあでも、取った意味はあんまりなさそうっすけど。
……そういえば、どうしてわざわざトリニティに? タロウさんの家って確かD.U.にあるっすよね? 基本的になんでも揃ってません? あそこ」
不思議に思ったイチカの問いに、タロウは一瞥すらせず答えた。
「気分だ」
「……気分っすか」
「ああ、気分だ」
タロウの率直にして簡素をきわめた解答を聞き、イチカはくすくすと肩を震わせて笑った。
もっとも、正義実現委員会の直属の上司──ティーパーティーの面々からすれば、たまった言い草ではないだろうが。
トリニティの上層部では、キヴォトス外からの来訪者である桃井タロウが、同じような立場にある先生とは違い、ある種の潜在的脅威として認識されているのは、その戦闘能力がずば抜けていることもさながら──自らの立場がどれほど危うい位置にあるのかを、まるで考慮していないせいもあるだろう。
或いは。
理解していてなお、定めた生き方を曲げることなく貫いているからか。
もちろん、トリニティに害を成せば、容赦なく銃を撃ち放すつもりではあった。
しかし、今のところ桃井タロウがトリニティで起こした行動といえば、ヒトツ鬼の退治か、縁結びという名の人助けばかり。
被害こそあるが、それは間違いなく、正義実現委員会が重んじる愛と平和に繋がる行いである。
どちらにせよ、仲正イチカにとって桃井タロウは、好ましからざる人物などではなかった。
正義実現委員会の一員としても。
(……もしくは?)
仲正イチカという、一個人としても。
もっとも、そうした内心を吐露する予定は一生ない。イチカはヘアピンから離した手で頬杖を突くと、それまでチンピラ達に据えていた視線を、タロウへと向けた。
「──ま、そーいうことなら何も言わないっす。タロウさんとは、なるべく友好的な関係を保っておきたいっすからね」
「それでいい。
吹っ切れたアンタとまた勝負するのはやぶさかではないが……おれはまだアンタとの縁を結び切れていないからな」
「へ? いや、こうして会話して……って、ああ、そういう。私の趣味が、まだ見つかってないからっすか?」
納得したように拳で掌を叩いたイチカに、タロウはしっかり頷いた。
「当然だ。おれとの縁は超良縁、結んだ相手に幸せを運ぶもの──アンタに幸せが見つかるまで。いや、見つかった後でも、途切れることはないと思え」
「……」
男の声はどこまでも真っ直ぐで、自信に満ち溢れていて、だからこそ本心からそう言っていることがイチカにはわかった。
イチカは思う。この桃井タロウという男は、誰かの助けになることを本当に、心の底から生き甲斐であると感じているのだろう。以前、ヒトツ鬼に関連する事件に巻き込まれた際に、それをよく思い知らされた。
所詮は『器用貧乏』という器に収まってしまう程度の自分とは違う。
文字通り、偽りなき正真正銘の『万能』でありながら──男は他者のためにどこまでも動き続ける。
しかも、それを自分の生き方の柱として据えてまでいるときた。
そのことが、イチカにはどうしようもなく羨ましくて、妬ましくて──憧れてしまう。
何事にものめり込めない中途半端な自分には、一生かけてもできそうにない生き方だから。
だからこそ、桃井タロウのいっそ傲岸不遜とも思える言葉を嬉しいと感じる自分がいる。
こんな自分でも──いつかは幸せを見つけられるのだと、偉そうに言ってくれるのだから。
──おれは幼い頃から何でもできた、だから得意なことがない。
──似ているんだな、アンタも。おれと。
──安心しろ。なにせこの世は楽園だ!
──だから決して、アンタを不幸にはしない。
──このおれが、そうであるように。
いつかの男の言葉を思い出して、イチカはそっと、綻ぶように笑った。
「……──それは、イヤっすね」
「なら、何故笑う?」
「笑っちゃうほど、イヤってことっす!」
いーっ、と口を横に大きく開いてから、イチカは通りがかったウェイターに幾つかの注文を伝えると、タロウから顔を逸らしてチンピラ達の様子をふたたび伺い始めた。
今にも一触即発のように見えたが、どうやら無事に和平協定を結ぶことができたらしい。チンピラ達は固く、熱く、お互いの健闘を称えるスポーツ選手めいた握手を交わし合っていた。
「……ほっ」
直感したとおり傍観に徹していて正解だった──と、イチカが安堵に胸を撫で下ろした瞬間。
空気を深く切り裂く音が、かすかに耳のなかに響いた。
密かに、静かに、そして真っ直ぐに放たれたそれにいち早く気付いたイチカは、青く澄み渡る空の彼方へと視線を放り投げる。
(───今、このタイミングで)
その、長く尾を引くような銃声は。
疑いようもなく────
(狙撃っすか!?)
この段階まで気付かなかった時点で、既にこちらの敗北は決まっているようなものである。
しかし、これほどの腕を誇る狙撃手が在野にいようとは、イチカは思いもしなかった。だが、後悔している暇は一ミリたりとも無い。
未だ姿の見えない銃弾が狙っている標的は───どういう訳か、桃井タロウ。
どのような意図が込められていようとも、防ぐ以外の選択肢など見当たらなかった。
「タロウさ──!」
とにかく射線から引きずり出さねばと、イチカはロクに見もしないまま、手近にあった男の腕を掴まんとする。
だが、見事に空ぶってしまったのは、桃井タロウの腕がイチカが想定した位置から大きく動いていたからだ。一体どこへ消えたのかと、イチカは苛立ちさえ覚えながら、絶賛狙撃され中であるはずの男を見やる。
桃井タロウは一切動じた様子もなく、備え付けのティースプーンを掴んだ右手を、後頭部のある一箇所に留めていた。
「───は?」
このお馬鹿は一体何をしているのか? という、イチカの最もにして純粋な疑問は、すぐに解消されることになった。
どこからともなく放たれた高速の銃弾──キヴォトス人ですら容易に視認できないはずのそれを、持ち上げられたティースプーンの底面が、あらかじめ着弾点を予測していたように完璧に弾き返したことによって。
「───」
理解の範疇を超えた光景をまざまざと見せつけられて、絶句する他ないイチカをよそに、タロウはズボンのポケットから取り出した携帯を操作している。
誰かへメッセージを送っているとわかったのは、画面に専用のアプリが表示されていたからだ。
数秒前に狙撃を受けておいて、一体誰にどんなメッセージを送るのかと気になって、失礼とは思いつつもそっと画面を覗き込む。
そこに載ってある名前に、イチカは驚いてつい声を上げた。
「──マシロ?
いや、まさか、今の狙撃って……」
「ああ。アンタの考えている通り、静山マシロが撃ったものだ。実弾ではなく麻酔弾だが」
「……なんで?」
狙撃犯が後輩であったことと、桃井タロウがそれを承知していたことと。
様々な信じがたい事実が、イチカのニューロンを連続で殴りつけるなかで、タロウは銃弾を受け止めて歪んだスプーンを直しながら淡々と答えた。
「──かつて塚原卜伝が食事をしていた際に、宮本武蔵から不意打ちを受けたが、その場にあった鍋蓋で防いだという逸話がある」
「……はあ」
「その話をなぞらえて、このおれから一本取ってみろという、ヤツにとっての訓練のようなものだ。
いつ、どんな手段を使っても構わない。ただし、失敗すれば罰ゲームがある」
「……どんな?」
「色々だ。今回は腕立て500回」
戻し終えたスプーンをカップに立てかけて、タロウはすっかり冷めた紅茶を飲み始めた。
イチカが余裕綽々なその横顔を呆然としながら見つめていると、注文を受け取ったウェイターが、イチカの前にコーヒーを差し出した。
白い湯気と芳しい豆の香りが立ち昇るそれを、桃井タロウにぶっかけてやろうか──と、凶暴きわまりない思考が一瞬過る。
だが、どうせ避けられると分かり切っていたし、なによりもせっかくの休憩を自らぶち壊したくはなかったので、大人しく味わうことにした。
「……」
「──」
二人の間に沈黙が横たわる。やがて、先にカップから口を離したイチカが、神妙な面持ちを保ちながら告げた。
「───タロウさん。それ、私も参加できるっすかね」
「無論だ」
「じゃあ、明日からで」
「良いだろう」
物騒さを深めていく思考が、あるいは良い刺激となったのかもしれない。イチカは先輩である羽川ハスミから託されていた伝言をふと思い出し、慌てたように身を乗り出した。
「危ない危ない、忘れるところだった──タロウさん。
実はっすね、ハスミ先輩がタロウさんのことをお呼びしてまして」
「なに?」
「何でも、直接会って話したいとのことらしいんすけど……何かやらかしました?」
「いや、覚えはない。が──……」
そこで言葉を切ったタロウは、挑発的な笑みを浮かべた。
「挑んできたとしても、是非もない。受けて立ってやろう」
「あのう、話したいって言葉の意味わかってるっすか?」
「おれの強さは、容易に超えられるものではないッ!」
「…………あー、わかりました。タロウさんにツルギ先輩がちょくちょく突っかかる理由がよぉーーーくわかりました。業腹っすけど」
何故か扇子まで仰ぎ出した男の姿に、イチカは久しぶりに自分の素直な気持ちと正面から向かい合って、桃井タロウを明日必ずボコボコにしてやろうと固く誓った。