ドンブルーアーカイブ 作:鰻の蒲焼
「出発する前に、あなたに伝えておかなければならないことが幾つかあります」
ブラックマーケットを調査するための準備を進めていた二日前のことである。黒い長髪をなびかせて姿を見せた羽川ハスミは、そんなことを下江コハルに言った。
コハルはポーチの中身をチェックしていた手を止めると、慌ただしく憧れの先輩と向かい合った。丁寧に結われた二房の髪が、主人の帰宅を察知した子犬の尻尾めいて揺れ動く。
「は、はいっ。どんなことですかっ」
「本来であれば、そこまで重要ではないのですが……今のあなたにとっては、絶対に覚えなければならないこと、でしょうか」
「?」
コハルは小首を傾げつつ、続きを待つ。ハスミは一瞬だけ視線を虚空にやってから、動かしにくそうに口を開いた。
「タロウさんのことについてです」
「…………桃井の」
失礼だとは思いつつ、それでもコハルは舌先に走った苦みを噛み潰さずにはいられなかった。その表情を見たハスミは小さく嘆息する。もしかしたらとは思っていた。どうやら彼と目の前の少女の相性は、お世辞にも良いとは言えないらしい。
──いきなり引き合わせたのは、失敗だったでしょうか?
考えてみれば、初対面の者からすれば、桃井タロウという男の態度は類を見ないほど傲岸不遜なものに見えることだろう。他ならぬ自分がそうであったのだから。短くも濃い付き合いを経たことによる慣れと、その裏に隠れている確かな善性を知っていることが、目を曇らせてしまったに違いない。
それでも過去は変えられない。ハスミは絡みつく後悔を振り落とし、話を進めることに決めた。
「彼の……そうですね、性質と言えばいいでしょうか」
「性質……?」
どうにも奇妙な言いぐさである。そこは性格というべきではないだろうか──と思いつつも、コハルは大人しく耳を澄ませた。ハスミはやや思案してから、コハルに告げた。
「彼は──嘘がつけません。『つかない』のではなく、『つけない』のです」
「……?」
「つまり、ですね──……例えば、コハル。『私は男です』と言えますか?」
「……私は、男です?」
訝しみつつも、コハルは一瞬で分かるような簡単な嘘をついた。ハスミは頷いて確認すると、深刻そうに眉をひそめた。
「彼は、それが言えません」
「え?」
「自分の性別を偽るという、誰にでも言える嘘ですら、彼はつくことができないのです」
「────それは、えっと」
精神的な病気ゆえか、もしくはなんらかの心的外傷を抱えているためか。どんな質問をどういう風に聞くべきか迷った末に、コハルは一番気になったことを尋ねることに決めた。
「その、もし嘘をついたら……あいつ、どうなっちゃうんですか?」
「…………………」
「は、ハスミ先輩?」
コハルの問いに、ハスミは目を瞑って唇を一文字に引き結んだ。眉は綺麗な八の字に歪められおり、先程コハルが浮かべた表情が児戯に思えるほどの、彼女を崇敬してやまない下級生たちの脳味噌の一部分にほんの少しだけヒビが入ってしまいそうな、それは実に見事な渋面であった。
軽いフリーズを起こしているコハルの脳味噌へ、すかさず滑り込ませるようにして、ハスミは情報を付け足した。
「……とにかく、それさえ覚えておいてくれれば問題ありません。なにが起こるかは、きっと言葉では信じてもらえないでしょうから。
今回の事件は、できるだけ早く、なおかつ秘密裏に処理したいとティーパーティーの皆様方がご所望ですので。
つまり、協力者を作る際や、現地で調査を行う際には──タロウさんの言動を上手くフォローする必要が出てくるということです。他の誰でもない、あなたが」
「……私が、ですか?」
「はい。きっと、あなたが頼りです」
ハスミは力強く頷いた。コハルはいけすかない桃井タロウの顔面を思い出してしまい、ほんの少しだけ気分が沈んだが、ハスミから直々に頼まれたという事実が憂鬱な気分を打ち消してくれた。
そうだ。下江コハルは、いずれ正義実現委員会を背負っていく立場にあるエリートなのだ。
それゆえに──桃井タロウ、何するものぞ。
ちょっと単独で戦車を制圧できるぐらいの民間人のひとりやふたり、乗りこなせないワケがない。いや、乗りこなすというのは別にそういう意味ではなくて。上にも下にも右にも左にも揺れる必要はどこにもなくて───とにかくあんな偉そうなヤツなんて逆にこっちから願いさげなんだからっ!!
もくもくと湧き出た妄想を言い訳混じりに吹き除けて、コハルは袖に隠れてしまうぐらいに小さな自分の両の手をぎゅっと握り締めた。そしてハスミの切れ長の瞳を真っ直ぐに見返し、決然と言い放った。
「────私、やります。必ず、ハスミ先輩の期待に応えてみせますっ」
コハルの丸い眼差しが、きらきらと強い決意の光を放つ。一瞬だけ眩しげに目を細めてから、ハスミは心の底から言った。
「ええ。きっと、あなたなら出来ますよ。コハル」
◯
だから。
トリニティにブラックマーケットの専門家である知り合いがいることを──到底信じ難いが──桃井タロウから教えられて、その生徒に幾つか尋ねたいことがあると知って、コハルはすぐに男の発言に制限をかけることを決めた。
即ち、自分達が秘密の任務を行っていると知られてはならないという制限を。
──良い? これは秘密の任務なんだからね。だから絶対、絶っっっ対にバレちゃダメなんだからね。ハスミ先輩に迷惑なんてかけられないんだからね。わかった?
──ああ、わかった。
──ふん、どうだか。まあいいわ。ほら、早く行ってきなさいよ。
──? アンタはついてこないのか。
──わ、私? 私は……別に。
──何故だ。
──何故、って。ここ、上級生しかいないし──じゃなくて、ほら……えっと……そう! そうよ! 私まで入っていっちゃ、いざって時にこう、いろいろ動けないでしょっ?
──色々?
──だから……ああもおっ! 良いからさっさと行けっ!!
そんなやり取りを教室の扉の前で交わしてから、コハルはタロウを送り出した。今は休み時間中だ。教室のなかには弛緩した空気が漂っている。とはいえ、自分以外は全員異性という環境下へ放り込まれた事実は変わらない。にもかかわらず、男の背中はどこまでも悠然としていた。
そのずば抜けた胆力にコハルは密かに感嘆しつつも、なにか不都合なリアクションをすればすぐさま連れ出すために、扉を半開きにして覗き込む姿勢へと移った。
「……」
見守る先。やがて、机の海を泳ぎ切ったタロウが足を止めたのは、豚のようなカバのような……とにかく珍妙な顔面の動物を模したリュックサックを机の上に置いている生徒の前だった。
ベージュの髪をおさげに纏め、白を基調にしたトリニティの制服を着こんだ少女は、どこからどう見てもブラックマーケットなどという物騒な場所とはまるで縁が無い、平凡な生徒にしか見えない。
──あんなのが、ブラックマーケットの専門家?
嘘がつけないということがそもそも嘘なんじゃないかとコハルが疑い始めたなかで、なにをする訳でもなく窓の外をぼんやり眺めていた少女は、周囲のどよめきでタロウの存在に気付いた。そして、大きく目を見開く。コハルは耳を澄ませて、二人の会話に集中した。
「……!?」
「久しぶりだな、阿慈谷ヒフミ」
「お、お久しぶり、です……?」
どうやら少女──阿慈谷ヒフミと知り合いであることは本当らしい。唐突な来訪への戸惑いこそあったが、存在そのものへの不信感は見えなかった。コハルは思わず踏み出しかけた足に『待て』を命じて、なんとか傍観に徹し続けた。
「──いや、ぁ、え? な、なんで、タロウさんがこんなところに……!?」
「アンタに少し話があってな。それに、事は急を要している。だから連絡は省かせてもらった」
「そ、そうだったんですか? あはは、それなら仕方ないですねー。
……って、なるわけないじゃないですかっ!?」
がたん、と大きな音を立てて、ヒフミは勢いよく立ち上がった。そのままタロウの両腕をがっちりと挟み込むように掴んで、ぐらぐら揺らし始める。
「ここっ、何処だかわかってますかっ!? トリニティですよ!? 学校ですよっ!? 教室ですよっ!? 休み時間中ですよっ!?」
「知っている。だから今来た。アンタも、授業中に来られるよりは、そちらの方が都合いいだろう」
「確かにそうなんですけど、そうじゃなくって……!」
ヒフミはタロウを揺らし続けながら、挙動不審にきょろきょろと忙しげに辺りを見回した。級友が注いでくる、好奇の視線、視線、視線──不可視かつ不干渉であるはずのそれが、全身に隈なく深々と突き刺さってくる感覚を彼女は覚えていた。
とはいえ、級友を責める気にはならなかった。立場が逆であれば、きっと自分もそうしていただろうから。
キヴォトスでは非常に珍しい、もしかすれば希少と言い換えても過言ではない、犬猫やロボット以外の姿をとった成人男性。そんな存在がいきなり教室にやってきて、いきなりクラスメイトに話しかけていて、なにやらふたりは顔見知りらしくて──
いくら貞淑と礼節を重視する校風に慣れ親しんだ生徒といえども。あるいは、だからこそ、そういったゴシップには人一倍興味関心を抱いてしまうのだろう。
それはよく分かる。分かるが、しかし。
実際に自分がその立場に置かれてみると、ひたすら放って置いて欲しいのひと言に尽きた。
「うぅ……」
何十回目の揺れを経ても少しも顔色を変えないタロウに対し、とうとう音を上げたのはヒフミの方だった。タロウの両腕から手を離し、荒くなった呼吸を落ち着かせてから、男の鉄面皮を上目遣いに見つめた。
「──……それで、その、話ってなんなんですか?」
今できる最善は、とにかく早く用事を済ませてしまうことだろう。ヒフミはそう判断して、聞き入れる態勢を整えた。そして一部始終を見ていたコハルもまた、息を潜めた。嘘をつけないと宣う男が、肝心な部分は伏せろという制限を食らって、果たしてどのような主張を繰り出すのかを見定めるために。
二人の少女が期せずして、一人の男の答えを同時に待っていた。
「話とは……」
タロウは前後から凝視を受けて、珍しくどう言葉を紡ぐべきか考え込んだ。
下江コハルからは、阿慈谷ヒフミに対して、ブラックマーケット内で正義実現委員会の銃を使用した事件が起きたので、相談したいことがある──とは、言ってはいけないと念を押されている。
要するに、諸々の事情は伏せた上で、ヒフミの頭のなかにあるブラックマーケットに関する知識が欲しいことだけを、直接的に伝えればいいのだ。
ふと思い出したのは、かつて映画に出演したときの記憶───
(……よし)
タロウは熟考した末に、自らが告げるべき言葉を見つけ出した。表情を不安と心配と怪訝の三色に揺らがせていたヒフミの肩を掴み、自らの視線を相手のものとぴったり据える。
「──阿慈谷ヒフミ」
「は、はい」
「アンタが、欲しい」
「………………はい?」
「おれと来い」
「────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────はい?」
ちなみに、タロウの言葉を補完すると、次のような意味になる。
阿慈谷ヒフミ。アンタのブラックマーケットに関する知識が欲しい。話を聞きたいからおれと来い。
任務を連想させるワードは弾かれている。聞いただけでは、呼び出した理由を察するのは困難を極めるだろう。なおかつ端的かつ的確に意図を伝えている辺り、桃井タロウは確かに下江コハルのオーダーを完遂したと言えよう。
ただひとつ。
「ヒフミちゃんのことが───」
問題があるとすれば。
「欲しい……?」
その言葉が周囲にはどう捉えられるのかを、一切考慮していなかっただろうか。
「────ばか! ばか! ばかばかばかばかばか桃井っ!!」
韋駄天めいた素早さで沈黙した教室に飛び込んだコハルは、そのまま一直線にタロウの元へ向かった。
その勢いのまま振りかぶった手を背中に叩きつけようとしたが、タロウは後ろに目でも付けていたかのように避けてみせた。思いっきり空振ってしまったことで高まった怒りと羞恥を燃料に、姿勢を立て直したコハルはタロウの顔面を睨みつけた。
「あ、あんた──公衆の面前で何てこと言ってるのよっ!!」
「伝えるべきことを伝えた。それだけだ」
「伝える、べき、ことオっ!?」
半ば悲鳴に近い怒声だった。煩わしそうに顔をしかめるタロウに、コハルは指を突きつける。
「あんな発言がっ!?」
「あぁ。何をそんなに怒っている? 意味が分からん」
「────」
真っ赤になって吠えるコハルにタロウは素面で頷き返し、挙句の果てにはそんなことまで言った。コハルは思わず立ち眩む。あまりにも強過ぎる憤怒は、視界さえ赤く染めてしまうのだとはじめて知った。
一体自分は、どこから間違えてしまったのかと思う。
秘密の任務を実行中だとバラさずに誘えと命じたところからか?
もしくはブラックマーケットに蔓延る恐ろしいアウトローに対して一歩も退かない立ち振る舞いに、仄かな信頼を置き始めたところからか?
それとも──桃井タロウと出くわしてしまったところからか?
ぐるぐると思考を回転させても、答えは出なかった。ただ、このままここに留まっていては絶対にまずいという考えが、少女の足を動かした。タロウの腕を掴み、教室の外へと引っ張っていく。これは戦略的撤退であると自分に必死に言い聞かせながら。
「何をする」
「こっから出てくのっ! これ以上いたら悪目立ちしちゃうでしょっ! 主にあんたのせいでっ!!」
「まだ話は終わっていないが」
「終わっとけっ!!!!」
そのような有無を言わさぬ勢いで、コハルはタロウを連れ出していった。嵐のように訪れて、同様に去っていった二人を、巻き込まれた当の本人たるヒフミは茫然としながら見送った。
「……」
やがて、二人の奇妙な闖入者が立ち去ったことにより、少女達の興味関心は自然とヒフミに大挙して押し寄せた。重圧さえ感じる視線の雨のなかで、ヒフミはおもむろに立ち上がり、言った。
「が、外出してきます」
「……どこに?」
クラスメイトの一人が尋ねる。ヒフミは自分でも何を喋っているのか理解できないとでも主張するかのように、目をぐるぐると回しながら答えた。
「外です!」
そりゃそうだろうな──という無言のツッコミは一切合切無視して、ヒフミは教室から飛び出した。次の瞬間、わっと湧き上がる歓声。立ち昇る黄色い悲鳴。噴き上がる根も葉もない邪推の数々───
阿慈谷ヒフミは、普通で、平凡で、これといった特徴のない、どこにでもいそうな学生だ。
だから、しばらく学校には行きたくないなと──心の底から思ってしまうのも、無理はない話だった。
◯
教室から飛び出し、校舎を抜けて、二人は通学の際に使われる大階段の半ばほどにある、踊り場めいた広場に腰を下ろしていた。
午後の授業の開始を告げるチャイムが、厳かに鳴り響いた。コハルは聞き飽きてさえいるその音にあえて集中することで、隣で静かに座っている桃井タロウの存在を、意識から排除しようと試みた。
だが──平日の、しかも昼間だからだろう。大階段に見える人はまばらで、むしろ時折立ち寄る鳩のほうが多い。だから男の些細な仕草が逆に気になってしまい、集中できなかった。コハルは鬱憤を晴らすように、なにも考えてなさそうな顔をして足元に寄ってきた鳩を足を振って追いやった。
「……」
タロウは相も変わらず腕を組んで、なにを考えているか分からない顔をして、階段の下を眺めている。この男もさっきの鳩のように追っ払うことができれば、さぞかし清々しい気分になれることだろう。それは抗いがたい魔力を持った誘いだったが、コハルはどうにか堪えた。羽川ハスミの期待が、彼女に投げ出すことを許さなかった。
「……ねえ、桃井」
「なんだ」
勇気を振り絞って、コハルはタロウに話しかけた。竹を割ったような返事に怯みつつ、コハルは言葉を繋げた。
「……本当はなんて言いたかったの? さっき」
「阿慈谷ヒフミ。アンタのブラックマーケットに関する知識が欲しい。話を聞きたいからおれと来い──そう考えた。そして、省いた。
だが、アンタや周りの様子を見ると……どうやら違っていたらしい」
「あ……」
タロウはほんの少しだけ目を伏せた。それは太陽が束の間だけ分厚い雲に遮られた時のような、僅かではあるが大きな変化だった。コハルは、思わず手を伸ばしかけたが、途中で気づくと慌てて引っ込めた。代わりにふん、と鼻を鳴らして、そっぽを向く。
「──そうよ。もしこれが原因でなにかあったら、あんたのせいなんだから」
そう吐き捨てて、直後に覚えたのは突き抜けるような爽快感ではなく、しがみついてくるような自己嫌悪だった。
分かっている。桃井タロウはきちんと言われたことを守っている。本当に責められるべきなのは、先輩からの言い付けを軽くにしか捉えていなかった──上級生しかいない教室に足を踏み入れることを躊躇った、どうしようもなく子供っぽい自分だ。
そのタイミングで、ブラックマーケットでなにも活躍できずにいたことをさらに思い出し、コハルは気分を奥底深くまで沈ませた。
煩悶に駆られてコハルをよそに、タロウは背後から近づいてくる足音に気付いた。振り返るまでもなく、その足音の持ち主が誰なのか、タロウにはすぐわかった。
「遅かったな」
「……は?」
誰もいない虚空を見据えたまま突然喋り出したタロウを、コハルは訝しげに見やる。すると誰もいなかった筈の後ろに、何者かの気配があることに遅れて気が付いた。
振り向けた視線の先にいたのは、先程タロウが話しかけていた少女──阿慈谷ヒフミだった。
「た、タロウさん……! どこにいるのかをメールで教えてくれるのは、その、助かるんですけど……っ! せめてもうちょっと校舎に近いところにしてください……!」
ヒフミは膝に手をついて、荒い呼吸を繰り返している。額には汗の珠が幾つか浮かんでおり、頬は上気している。どうやらここまで走ってきたらしい。何故ここにいるのがわかったのかを考えかけて、どうせ桃井タロウがなにかをしたのだろうと思い当たり、コハルは小さく溜め息を吐いた。
「……何しにきたの?」
直前までネガティブな思考に陥っていたこともあり、コハルは極めて無愛想な調子で問いを投げかけた。ささくれた敵意を向けられて、ヒフミはたまらずたじろいだ。
「あ、うぅ……あの、私、何かしてしまったんでしょうか……?」
「単純に人見知りなだけだ。気にするな」
「だっ、誰が人見知りよっ! ただ全然知らない相手だったから警戒してるだけっ! 人聞き悪いこと言わないでくれるっ!?」
コハルは肩を怒らせて立ち上がったが、すぐさま腰を下ろした。これ以上桃井タロウの言動に右往左往したくなかった。だから、自分を取り巻く外界すべてを拒絶するように、頭から生えた羽で耳を塞いだ。
タロウとコハルの間に漂っている微妙な空気を察したのだろう。ヒフミは若干気まずそうに尋ねた。
「……もしかして、お取込み中でした?」
「いや、なんでもない。
そんなことより、アンタがここに来たということは、おれの要求に応える気がある──そういう訳だな?」
タロウの問いを受け、一瞬ヒフミは硬直したが、ゆっくりと頷いた。タロウは覚悟を決めた戦士めいて鈍重なそれを確認すると、身体をヒフミの方に振り向けた。その途中でコハルに視線を送ったが、コハルは勝手にしろとでも言いたげに顔を背けたままだった。
「阿慈谷ヒフミ」
「……はいっ」
「ブラックマーケット内の事情について、アンタにいくつか聞きたいことがある」
ヒフミは固まり、それから深いため息を吐いて、肩を大きく落とした。
「……………………まあ、そんなことだろうと思ってましたけど……」
「何故溜め息を吐く」
「タロウさん、ああいう言い回し。本当にやめた方が良いですよ」
「何故怒っている」
「ご自分の胸に手を当てて考えてみたらいかがですかっ」
「こうか」
ヒフミは比喩的な意味のつもりで言ったのだが、タロウは真面目くさった表情で、本当に胸に手を当ててみせた。相手によってはある種の挑発と受け取られかねないその仕草が、本当に自分の言葉を真っ正面から受け取り、その末に出力されたものだと理解できたのは──桃井タロウに振り回されるのは、これが初めてではなかったからだ。
「……もう」
結局のところ、阿慈谷ヒフミは桃井タロウのそういう面が、決して嫌いではなかった。明らかに普通ではない、他が持たない個性を持っているところこそ魅力的に思う──そういう感性を、彼女は持っていたから。
「別に、やらなくても大丈夫ですよ。そんなに怒って……いや、結構怒ってますけど。それはそれとして、ブラックマーケットのこと……でしたっけ?」
「ああ」
「何を探してるかは──聞かない方が良さそうですね。えっと」
ヒフミは唇に指を当てて考えてから質問した。
「……販売ルートや保管記録、後は取引経路、似たような物品を取り扱っている商人には当たりましたか?」
「当たった。だが、影も形も見られない」
「うーん……それじゃあ、以前のようにカイザーグループというか、それなりに大きな企業が関連しているということは?」
「無い、とは断言できない──だが、可能性は限りなく低いだろう。あの時のような、きな臭い気配がしないからな」
タロウの解答に、ヒフミは神妙そうに頷いた。
「タロウさんの勘はよく当たりますからね。となれば、多分、個人の動きを捕まえないといけないんですが……ブラックマーケットでそれは、ちょっと厳しいですよね」
「……どうして?」
それまで二人の会話を黙って聞いていたコハルが、沈黙を打ち破って尋ねた。ヒフミは考えを整理するように口をもごつかせてから、話し始めた。
「ブラックマーケットでは、開き直って悪さをする企業が多いんですよ。ということはつまり、企業の動きばかりが目立ってしまうから、個人の動きはその記録のなかに埋もれてしまうんです。
特にブラックマーケットは物品の入れ替わりが激しいので、個人の売買記録を追うとなると──」
「掘り進めている間に、また新しい企業の記録が圧し掛かってくる、ということか」
「その通りです。直前の取引ならまだしも、数日経った後だと──正直言って望み薄ですね」
タロウの言葉に、ヒフミはしっかりと頷いてみせた。コハルにとってその動きは、まさしく万策尽きてしまったことを肯定しているようにしか見えなかった。コハルは思わず塞ぎ込みかけたが、続いたヒフミの声が明るいものだったから、釣られるように顔を上げた。
「ですから──物品そのものを追うのは一旦やめにしましょう。
あなた達が次に追いかけるべきは、噂です!」
「噂?」
首を傾げたタロウに、ヒフミは初めての授業に張り切る新任教師めいて、人差し指を立ててみせた。
「火のない所に煙は立たぬということわざがあるように、タロウさん達がその探している物品を知ったのも、きっと何か……噂みたいなものを聞いたからなんですよね?
もし企業がきっちりと情報統制をしているのなら、そもそも追いかけようなんて思いつけませんし。
そんな感じに、どれだけ固く禁じられていても、口コミというのはどうしても広まっちゃうものなんです。それを追いかけていくんです」
「噂──……?」
その瞬間、誰よりも早く答えに辿り着いたのは、羽川ハスミの言葉を脳裏に強く焼きつけていたコハルだった。コハルは天啓を得た哲学者のように慌ただしく立ち上がり、タロウのつむじを見下ろした。
「────ヒトツ鬼」
「なに?」
「ヒトツ鬼、ハスミ先輩がそう言ってたでしょ! 桃井っ!」
「……そういうことか」
タロウもまた、遅れてコハルが伝えんとしていることに気付いた。
正義実現委員会の銃を使用した襲撃事件が勃発したと同時のタイミングで、ブラックマーケット内での活動を始め出したヒトツ鬼───その関連性を疑って、桃井タロウはこの任務を請け負ったのである。
そのことを忘れていた──とは言わない。だが、ブラックマーケット特有の混沌とした空気と、今すぐにでも溢れんとしている欲望の気配のせいで、二つの出来事を無意識のうちに切り分けて考えてしまっていたのだろう。それにキヴォトスは、ヒトツ鬼と化す住民の数が王苦市より多い。
もう、迷いはない。新たな方針を見つけ出した二人は、互いに目を合わせた。そして小さく頷き合うと、コハルはスカートについていた砂埃をぱんぱんと払い除け、タロウはポケットから取り出した赤いサングラスをかけた。
「礼を言うぞ、阿慈谷ヒフミ。やはりアンタに頼って正解だった」
「えへへ……お役に立てたなら、何よりです。
……それよりも、もしかしてヒトツ鬼が出たんですか? また」
「恐らくな。だが問題ない。ヒトツ鬼を倒すことが、おれの使命でもあるからな」
「タロウさんのことなので、心配はきっと要らないと思いますけど……お気をつけて」
「無用の心配だな。しかし、有り難く受け取っておこう」
ヒフミの激励を受け取り、タロウは自分にしか認識できない電子的な空間──脳人レイヤーのなかから見つけ出した、不可視の扉を開いた。空間と距離を削り取られたその先には、ブラックマーケットの入り口が鎮座している。
そこに飛び込んでいったタロウを追いかけようとして、コハルはふと足を止めた。そしてヒフミの方に振り向き、無言でぺこりと頭を下げてから、扉のなかに消えた。
そうしてその場からは、ヒフミ以外には誰もいなくなった。平凡な自分が、変人ではあるものの大切な友達の役に立てたことに対する清々しさを噛み締ながら、教室へ戻るために階段を登りかけたヒフミは、そこで重大なことに気が付いた。
トリニティでは珍しい、夜を纏ったかのような黒い制服を着た、桃色の髪の小さな少女。
「………………もしかして、タロウさんの隣にいたのって、正義実現委員会の人……?」
ブラックマーケットに立ち寄ることは、基本的に禁止されている。
そして正義実現委員会は、トリニティ内の治安を守るための組織だ。
「あ、あはは…………」
『停学』という無慈悲な二文字が不意に頭を過り、ヒフミは澄んだ青空を見上げながら、虚ろに笑ってみせた。笑うことしか、できなかった。
◯
ブラックマーケット内にある、もはや廃墟と化したとある雑居ビルの屋上。
そこにある入り口は、ペントハウスのものしかない。だというのに、その少女はペントハウスから遠く離れた位置の、なにもない空間から現れた。
「……」
顔面を無骨なガスマスクで覆い、両手をアサルトライフルで埋めた少女は、くすんだ色合いの銀髪を翻しながら、警戒するように周囲を見回した。やがて自分以外に誰の姿もないことを確認すると、耳に装着したインカムのスイッチを入れた。
「──目標地点に到着した。任務を続行する」
短く告げてから、スイッチを切る。それからふと空を見上げて、ガスマスクを外すような仕草を一瞬見せる。しかし結局はそのままにして、少女はペントハウスの扉を開けた。
そして屋上は、元の静けさを取り戻す。