ドンブルーアーカイブ   作:鰻の蒲焼

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ハーカバーカがうるさくなってきたので初投稿です。

そしてドドドドドドド遅刻ですがあけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします


そのし

 

 

 

 

 

 要するに、彼女はどこまでも弱かった。

 だから、ただひたすらに強くなりたかった。

 剣先ツルギのように。

 羽川ハスミのように。

 仲正イチカのように。

 静山マシロのように。

 あるいは──ドンモモタロウのように。

 ありとあらゆる暴虐を捩じ伏せられる圧倒的な強さを、何時如何なる状況下でも損なわれない冷徹さを、絶え間なく揺らぐ環境に対応し続けられる柔軟さを、どんなことがあっても信念を貫き通す固い意志を、誰が相手であろうと勝利を収められる理不尽さを。

 それを手に入れたかった。手に入れて、正義実現委員会の一員として、恥じない生き方をしていたかった。

 世に蔓延る悪を一掃して、正しく生きているものが健やかにいられるような、そんな世界を実現してみたかった。

 始まりは、多分──そんな願いからだった。

 

 

 〇

 

 

 下江コハルの朝は清掃から始まる。

 

 

 ただの掃除ではない。床や窓ガラス、それに鉄板などといった厨房設備──相手に見えやすい場所だけではなく、換気扇や窓のサッシといった細やかな部分まで徹底的に目を配るような掃除である。

 そんな神経がすり減るような心地の掃除を終えれば、次に道具の点検、それが終われば、いよいよ生地の準備に移る。作り置きでは新鮮さを味わってもらえないというよくわからないこだわりから、毎日一から用意していた。

 あらかじめ用意されていた薄力粉、重曹、ベーキングパウダーを合わせたものに、溶いた卵、水、牛乳、砂糖、塩を混ぜ合わせたものを投入していきながら、ダマが出ないよう慎重に混ぜていく。その際に、ハチミツをわずかに投入しておくと、甘味にまろやかさが加わる……らしい。

 そこから先の仕事──鉄板に油をしき、生地をながしこんで焼き上げていく作業は、コハルの手から離れたものとなる。

 だからコハルは、ほうきとちりとり箱を携えながら車の外に出て、周囲の掃除をしつつ、のぼりの準備を始めた。

 

「……はあ」

 

 いつもは喧噪が満ち満ちているブラックマーケットも、いまは眠りについたように静まり返っている。さっさっ、とほうきの穂先が地面を掃く音しか響いていないのが良い証拠だ。

 コハルは正義実現委員会の一員で、愛と平和を重んじる一人だ。だから、悪意と欲望が溢れに溢れているこの場所がこうやって大人しくしているのは、歓迎すべきことのハズだった。しかし、胸に去来しているのは、どうしてか心もとなさを伴った不安だった。

 どうやら気付かないうちに、だいぶ毒されてしまっているらしい。今日の天気は快晴だ。朝特有の冷やかな風が吹く街のなかを、透けるような青空が見下ろしている。浮かんだ太陽の眩しさに目を細めながら、コハルは気を紛らわせるために息を深く吸い込んだ。

 そんな最中に、はたはた、と風に揺れているのぼりを、冷気に涙を滲ませた少女の瞳が不意に捉えた。

 嫌味なほどに達筆な筆文字が書いてあるその布は、中で作業を進めている男──桃井タロウが用意したものである。

 いや、のぼりだけではない。現在のコハルを取り囲んでくるすべてが、あの桃井タロウの手によって揃えられたものだった。決して、間違っても、コハルが自ら望んだものではない。

 だって、そうでもなければ。

 

「…………」

 

 正義実現委員会きってのエリートである自分が、こんな仕事をするハズがないからだ。

 コハルの眼差しが、爪切りを目前にした猫さながらに剣呑な光を宿す。

 その視線が見据えているものは二つあった。

 一つは、甘く芳しい匂いを車内から漂わせている、白色がまぶしいキッチンカー。

 そしてもう一つは、のぼりに書かれた筆文字。

 それは、こう読むことができた。

 

 ────『たいやき処 あばたろう』

 

 トリニティ総合学園1年生、下江コハル。

 所属する部活は、正義実現委員会。

 現在の職業は──たい焼き屋。

 ……どこの誰でもいいから、全部冗談だと言って欲しかった。

 

 

 ◯

 

 

 話は一週間前に遡る。

 

「以前、桐山から聞いたことがある」

 

 おそらくコハルには一生理解できない手段を使って、トリニティの大階段からブラックマーケットの雑踏の中へものの数秒で辿り着いたタロウは、人が溢れ返る往来を勝手知ったるといわんばかりに突き進んでいた。

 歩幅を合わせるという言葉をまるで知らなさそうな男の背を、コハルが必死になって追いかけている最中に、そんな言葉がふと聞こえてきたのである。

 桐山。

 きりやま。

 キリヤマ。

 

「……誰それ?」

「仕事先の同僚だ。桐山ミナト。トリニティの生徒だから、アンタも知ってるかと思ったんだが」

「トリニティがどれだけ広いと思ってるのよっ……というか、仕事してたんだ? あんた」

 

 桐山とやらが一体なにものなのかということよりも、そちらのほうがコハルにとっては気になることだった。現時点だと、桃井タロウがまともな社会生活を送れるようには到底見えなかったからだ。

 その印象は戦車を単独で鎮圧してしまう実力から来るものであり、底の抜けた傲岸不遜さから来るものでもあり、目が合ったり脅迫されたりして縁ができたと笑えてしまう、奇怪きわまる精神構造から来るものでもあった。

 少女から奇人変人だと認識されていることを知ってか知らずか、タロウはあっけらかんとした口調で質問に答えた。

 

「当然だ。働かざるもの食うべからず。

 それに、おれは人々に幸せを運び、人々から幸せを学びたい。その思いは、この世界に来ても変わらないからな」

「ふーん……」

 

 異世界人であるというさりげなく暴露されたとんでもない発言を、コハルはどうでもよさそうに流してから、最初の疑問に戻った。

 

「で、その桐山って人が何を言ってたの?」

「あぁ──桐山の言によれば、人の口が最も軽くなるときは、食事をした後だそうだ。

 食事とは、心と身体の両方を満たす行い。そして心と身体が満たされたとき、自然と警戒心も薄くなる……」

「……そうなの?」

「らしい」

 

 まったくもって初耳だった。それにいまいち共感できないのは、食事時の自分が警戒心であふれているからだろうか。

 明るく騒がし気な人の輪から、はるかに遠く離れた位置に、ひとりでぽつんと立っている自分の姿を自然と不意にイメージしてしまい、コハルは静かに気分を落ち込ませた。

 きっと。

 きっと、と思う。桃井タロウは、そんな気持ちとは無縁のまま過ごしてきたに違いない。

 スカート越しにベンチの無機質な感触を感じたときのみじめさとも。

 制服を透かして肌を突き刺す空気の冷たさとも。

 パサついたサンドイッチを口に含んだときの虚しさとも。

 すぐ目の前を友達と並んで楽しそうに通り抜けていく、顔を知っている同級生を見たときのいたたまれなさとも。

 

「……」

 

 確かに桃井タロウは変人かもしれない。奇人かもしれない。けれど、力を持っている。間違いなく、誰からも認められるような、凄い力を。

 それは、きわめて短い間ではあるけれど、やむを得ずではあるけれど、正直死ぬほどイヤだけれど──ずっと桃井タロウと共にいたコハルだからこそ、理解することができた。

 だから、なんだかんだ言われつつも、受け入れてもらえるのだろう。

 だって、桃井タロウはすごいのだから。

 そう考えた瞬間、思わず笑ってしまうぐらいの怒りが、腹の底からこみあげてきた。

 ズルい、と思う。

 卑怯だ、とも思う。

 けれどコハルは結局、桃井タロウがズルくとも卑怯でもないことをちゃんとわかっていた。だからつい飛び出しかけた心の声をごくりと飲み込んで、煮え立つ思いに蓋をした。そして何事もなかったかのように、平然を装って話しかけた。

 

「……それが何なの? 今の状況に、どう関係してるっていうのよ」

「覚えているか。『噂を追いかけろ』という阿慈谷ヒフミの言葉を」

 

 覚えてるけど。

 とコハルが言いかけたところで、タロウは急に立ち止まった。あまりにも唐突だったものだから、コハルはブレーキをかけきれず、鼻先を男の背中に思いっきり埋めた。思考が点滅を繰り返す。男の人の背中ってこんなに広いんだ。痛い。固い。前見えない。あったかい。なんか嗅いだことない匂いがする。変な匂い。ハスミ先輩やイチカ先輩とは全然違う。

 だけど。

 だから。

 もうちょっとだけ。

 嗅

 

「────いつまでそのままでいるつもりだ」

 

 無意識のうちに、もう一度男の匂いを感じようとしたところで、明瞭とした声が耳のなかに稲妻のごとく滑り込んできた。コハルはハッと我に返ると、自分の立ち振る舞いを思い出し、突き飛ばすように男の背中を押した。しかしタロウは微塵も立ち姿を揺るがせず、むしろコハルのほうが弾き飛ばされたかのような形になった。

 たたらを踏んだ後、コハルは羞恥と激怒で顔を真っ赤にしながら叫んだ。

 

「ば、ば、ば、ばっかじゃないのっ! 急に立ち止まるなんてっ!」

「距離は充分とっていた。当たったのは、アンタがぼうっとしていたからだろう」

「知るかっ!! せめてひと言いってから止まりなさいよっ! ほんっと気が利かないんだから! ばか! おばか! ばか桃井っ!!」

 

 そこまでまくし立ててから、コハルは目を見開いた。

 

「まさ、か──私に匂いを嗅がせるためにわざと? へ、変態っ! エッチっ! 破廉恥っ! トンデモ匂いフェチっ!! あんたなんか、死刑よ死刑っ!!」

「……むずむずと、なにやらくすぐったいとは思っていたが、そんなことをしていたのか? おれの匂いのなにが気に入った? 香水の類はつけていないつもりだが」

「そ、そんなコト全然言ってないでしょっ! 勝手に人の発言を捏造しないでよっ!!」

「──捏造しているのはアンタの方だろう、下江コハル」

 

 そこでタロウは身体ごと振り向くと、張り詰めた弦のように伸ばした人差し指を、少女の眉間にぴっと突き付けた。

 

「初対面のときから、アンタはおれをエッチ呼ばわりしていたな。

 だが、おれはエッチなことなど一度も考えたことがない。

 本当にエッチなのは、アンタなんじゃないのか?」

「な────」

 

 澱みがどこにも見当たらない、どこまでも透き通った、真っすぐな眼差しだった。

 だからコハルは『そうかもしれない』と思った。思ってしまった時点で、彼女の敗北は決定したも同然だった。

 丹念に磨き抜かれた想像力の歯車が、止めることのできない暴走を開始する。コハル自身にさえ理解できないような難解な数式が、脳味噌を慌ただしく駆け巡り始める。収束する無限級数。アキレスと亀。ヘンペルの鳥。鰐のパラドックス。山羊のいる部屋。シュレディンガーの猫。ビュリダンの驢馬。下江コハルのセクシュアリティ。

 

「もしかして……」

「……」

 

 やがて、世界の真理を探り当てた探究者のような顔つきをしたまま、コハルは恐ろし気に呟いた。

 

「エッチなのは、私────!?」

「まあ、そんなことはどうでもいい」

 

 哀れ、掴んだ真理は一秒で路肩に投げ捨てられた。

 見事な肩透かしを食らったことで怒りを滾らせているコハルから視線を外し、タロウは頭上を見上げた。コハルもついついつられて顔を上げる。

 そこにあったのは──

 

「………………スーパー、マーケット?」

「さっきの話の続きだ。

 噂の意味とは、人々が寄り集まって話し合うということ。すなわち、噂を追いかけるためには、多くの人を集めなければならないということだ」

 

 タロウの頬に笑みが刻み込まれる。それは、これから巻き起こす出来事のすべてを受け入れようとしているのがわかる、力強く度量の大きな笑みだった。

 

「食事とは、人の心の壁を取り払う行い。

 噂とは、人々が集まって生じるもの。

 だから、おれ達はこれから──」

 

 そして、世界そのものに叩きつけるかのような大音声をもって、桃井タロウは高らかに宣言した。

 

「────たい焼き屋を開くッ!」

 

 

 ◯

 

 

 なぜたい焼き屋なのかというと、育ての親がよく連れていってくれた出店のひとつが、たい焼き屋だかららしい。

 バカじゃないかと思う。

 絶対うまくいくわけない。

 絶対やめておいたほうがいい。

 というかなんでよりによってたい焼き屋なのよばっかじゃないのなにかんがえてんのこのばかばかばか。

 というコハルが叩きつけた抗議とは裏腹に、今日で営業三日目を迎える『たいやき処 あばたろう』は、それなりの賑わいを見せていた。

 それは、タロウの眼前に広がる光景を見れば、まさしく一目瞭然だろう。

 

「兄ちゃん、つぶあんひとつで!」

「あ、アタシはカスタードで」

「ウチは……じゃあ、こしあんかな」

「お待たせしました!」

「速ぇ!!」

 

 注文を告げてからわずか数秒で差し出されたたい焼きを受け取り、三人のスケバン姿をした少女達は忙しげに立ち去っていく。

 間髪入れず、顔面の液晶に斜めキズの入った、明らかにカタギではないとわかるロボットがぬっと顔を出してきた。D.U.で見かけるものよりも、遥かに鋭い目つきをじっとりと向けられて、しかしタロウは微塵も気にせずにっこりと笑ってみせた。

 

「いらっしゃいませ! ご注文はお決まりでしょうか?」

「……こしあん」

「お待たせしました!」

 

 ロボットは無言でたい焼きを受け取り、トレーにちょうどの料金を置いて、チンピラ娘が去っていった方と同じ方向に歩いていった。

 その先には、数日前に仲正イチカと出会った喫茶店に備えられていたものと似たパラソルやテーブル、椅子といった家具が幾つか設置されていた。

 そこにたい焼きを持って居座っているのは、スケバンやチンピラやヘルメット娘、さらに犬猫鳥にロボットなどと、キヴォトスでは特段珍しくはない光景である。

 いや。

 珍しくないという評価は間違いだと、テーブル群から離れた位置にあるベンチに座って、たい焼きの頭部をもにゅもにゅと齧りながらコハルは思った。

 なぜならこの場所は、銃弾や爆発物が飛び交う日常茶飯事であるキヴォトスのなかでも一、二を争うぐらい危険な場所──ブラックマーケットなのだから。

 専門家──らしい?──阿慈谷ヒフミという少女の言によるならば、生徒が持つそれとは比較にならない深さの悪意を持った存在が、当たり前のように闊歩しているような場所で……こんな、のほほんとした情景が繰り広げられているのは、コハルでなくとも珍しいと感じる筈だった。

 神経を違和感でくすぐられていると、先ほどたい焼きを買った三人組が何事かを話しているのが聞こえてきて、コハルは慌てて携帯を取り出し、メモアプリを開いた。

 

「──そういえばよぉ、知ってるか? 先週起きた例の事件」

「ああ。たしか、覆面水着団、だっけ? でもアレ模倣犯らしいぜ。最初のと比べると手際がボロボロだったらしいし」

「ちげーよ! ほら、武器の取引ばっか狙う変なバケモンの事件だよ!」

「バケモンっているわけないじゃん。ただのオカルトでしょ? なのにキクミってばそういうの信じちゃうタイプなんだー。あはは、バカ?」

「誰がバカだっ! じゃなくて、マジなんだって! とにかく聞いてくれよ! 四番地の第二区にジャンクショップがあるだろ? そこの裏道でさあ──」

 

 その最中、また何処からか話し声が聞こえてきた。どうやら携帯で話しているらしい。独り言にしてはやけに大きな声だった。

 

「───ええ。まったく、大損も大損ですよ。せっかくのお膳立てが台無しです。高い金を出して雇った護衛もまるで役立たずでした。商品もめぼしいものは強奪されてしまいましたし……しばらくの間は、取引自体を控えるべきかと。は? 狙われた時の地域ですか? 少々お待ちを……先週の、そうですね。六番地のええと、第五区の──」

 

 雑草のようにあちこちに伸び上がっている雑談のなかから、求めているキーワードだけをメモに書き留めつつ、コハルは口のなかに残っていた頭部をごくりと飲み込んだ。

 結論から言えば、桃井タロウの狙いは見事にハマった。

 武器の取引ばかりを襲う怪物のせいで、ブラックマーケット内の雰囲気が普段よりも殺伐としているためか、誰もが仕事とは無関係の場所でひと息つくというシチュエーションを望んでいたのかもしれない。

 そんな経緯もあって『たいやき処 あばたろう』は、ある種の緩衝地帯めいた居場所になっていた。そのこともあり、噂話はそれこそ溢れんばかりに集まった。

 集めた噂のなかから怪物──ヒトツ鬼に関連する情報だけを抜き出すのは、あまりにも簡単な作業だった。もっとも、武器の取引ばかりを狙う怪物なんて存在が、そう何体もいてたまるかとコハルは思うのだが。

 そうして舞い込んできた情報を整理し、それを元にヒトツ鬼の行動を分析。ある程度絞り込めたら、最新の襲撃を受けた現場がある地区へ移動。そこでたい焼きを売りつつ、ふたたび情報収集──地道ではあるが、着々とタロウとコハルの任務は進んでいた。

 もちろん、なにからなにまで順風満帆だった訳ではない。

 土地の利益を求めてありとあらゆる手段で店を潰しにかかってくる地上げ屋。

 ただただ鬱憤を晴らしたいが為に、破壊活動を目論むヘルメット集団。

 そして、勝手にブラックマーケット内で縄張りを決めていた、自称闇のたい焼き屋連合───

 数え上げればキリがないほど多種多様な妨害もあったのだが、桃井タロウが焼きあげたたい焼きを食べた瞬間、誰も彼もが毒気が抜かれたようになり、『たいやき処 あばたろう』の存在を認めていった。

 そんな風にしているうちに、いつの間にか桃井タロウと下江コハルは、ブラックマーケットを構成する一部として組み込まれていた。

 

(……違う)

 

 正しく言えば、『桃井タロウ』は。

 下江コハルは──受け入れられていないだろう。むしろ認識さえされていないかもしれない。何せたいやき屋を開いたのは桃井タロウで、焼いているのも桃井タロウで、売っているのも桃井タロウだ。

 コハルがやっていることといえば精々、清掃と材料の仕込み、閉店後の後片付けぐらい。それは間違っても、コハルが理想としている正義実現委員会のエリートが行うような仕事ではない。

 仕事ではないと思ったから、店番をすることを拒み、正義実現委員会の制服ではなく普通の制服を着ることで市民を装って、周囲の情報を集めるという極めて重要な任務につく方を選んだのだ。

 決して──接客することが怖かったわけではない。

 

「……」

 

 腹いせのように、コハルは頭の欠けたたい焼きにかぶりついた。卵と牛乳の甘く優しい香りが鼻をつきぬけ、生地のもっちりした感触が歯と舌を包み込む。なかのあんこはつぶあんだ。小ぶりでありつつも、確かな味を内に秘めた粒が、コハルの舌の上をころころと転がる。それを潰すと、小豆独特のコクがある風味がぱっと広がった。

 悔しいぐらいに美味しいたい焼きだった。

 満足感と敗北感を同時に覚えながら、コハルは最後まで食べきると、ぐしゃぐしゃに丸めた包装紙を紙袋のなかに放り込んだ。そしてメモを覗き込む。重要そうな情報は、ひと通り集まった。この地区での営業も今日が最後になるかもしれない──と謎の感慨深さを覚えながら、辺りを見回したコハルの目に、ふと奇妙な影が映り込んだ。

 トリニティの生徒かもしれないと一瞬疑ったのは、その影が腰に見事な二枚の白翼をつけていたからだ。けれどすぐに思い直す。無骨なガスマスク、あちこちに傷や土汚れがついたコート、所々が質素なタンクトップ──とてもじゃないが、トリニティという学園の雰囲気に合っているようには思えない。大方、なにかやらかして退学か停学処分を喰らった不良なのだろうと思う。

 

「……」

 

 影はなにをするわけでもなく、ぼうっと突っ立っていた。ガスマスクで見えないが、視線の先に据えているのはおそらく、今なお絶賛営業中の『たいやき処 あばたろう』だろう。

 近づこうとしない理由は人混みのせいか、それとも財布の中身のせいか。いずれにせよ、コハルの知ったことではないのは確かだ。

 そう、知ったことではないのだ。

 知った、ことでは────

 

 

 〇

 

 

 気が付けば、コハルは新しく買った──従業員割で──二匹のたい焼きを持って、ガスマスクのすぐそばに来ていた。

 自分がなにをしようとしているのか、自分でもわからなかった。けれど止めようと思わなかったのは、桃井タロウに比べてなにもしていないことへの焦燥感によるものであったが──もしかしたら、ひとりで佇んでいるガスマスクの姿が、ちょっぴりだけ、自分と重なったように見えたからかもしれないと思う。

 あと四、五歩という距離で立ち止まり、コハルはごくり、と喉を鳴らした。ガスマスクはまだ、こちらの接近に気が付いていない。今ならまだ引き返せると暴れ出した弱気の虫を踏み潰し、コハルは声をかけた。

 

「──ね、ねえ」

「……」

「ねえ、ちょっと」

「……」

「ねえってばっ!」

 

 三度目の正直と言えばいいのか。そこでようやくガスマスクはコハルの存在に気付いたらしい。ハッ、と我に返ったように肩を震わせると、きょろきょろと警戒心を露わにしながら辺りを見回し始める。

 それから、ゆっくりとコハルに視線を合わせてきた。

 

「…………まさか、私に話しかけてるの?」

「そ、そうよ」

「……どうして?」

「どうして、って……」

 

 どうしてだろう、とコハルは考えようとする。考えようとして、すぐ無意味だと気付いた。自分でさえわかっていないのに、誰かに聞かれて、答えが見つかるわけがない。だからコハルはそっぽを向いて、ふんと鼻息を漏らした

 

「──どうだって、いいでしょ。強いて言うなら、あんたが見てらんない顔してたから」

「それはあり得ない。私はマスクを装着しているし、万が一の事態に備えて無意味な動揺を敵に曝け出すことが無いよう、表情も鍛えている。

 つまり、そちらが今言ったことは全くの偽りで、私に話しかけてきた目的は別にある──そうでしょ」

 

 そう言いつつ、ガスマスクの少女はすぐさま襲撃に対応できるよう、コハルからは見えない半身側に仕込んであるホルスターに──拳銃へと手を伸ばした。そして安全装置を外す。

 一瞬の音も無く、一寸のブレも無い、それは実に見事な隠密の動作である。

 だからコハルは、目の前のガスマスクが自分を警戒対象として認識していることに一切気付かないまま、たい焼きが二つ入った茶色の紙袋を、ガスマスクの眼前に突き出した。

 

「──!」

 

 敵意を感じなかった。

 故に、反応が数コンマ遅れる。

 後悔するより先に、ガスマスクの鍛え抜かれた戦闘思考の歯車は、稲妻の速度をもって回転を始めた。射線をずらし、武器を排除し、四肢を撃ち抜く。目的を尋ねるために仕留めはしない。だが、聞き出したその後は───

 

(──容赦しない)

 

 ホルスターから解き放たれた銃口が、その暴威を呵責なく発揮しようとした刹那。

 甘く、柔らかく、優しい香りが。

 不意に、マスク越しに鼻を掠めて───

 

 

 

 ぐうううううう、るぅるぅう、きゅう、ぐう、ぎゅ、きゅぅぅぅうううううううう。

 

 

 

「……」

「……」

 

 断っておくと、今の音は決して、サバンナ一帯を支配する猛獣が捻り出した唸り声などではない。

 そう思っていても、今の凄くみっともない、空腹丸出しの音が自分のお腹から聞こえてきたのだと到底信じたくなくて、しばしの沈黙の後にガスマスクは口を開いた。

 

「────私、じゃない」

「……」

「今のは、私じゃ、ない」

「いや……あんたでしょ」

「私じゃない」

「どう考えても」

「私じゃない」

「あん」

「私じゃな」

 

 

 

 きゅ、ぐうううううううううぅぅぅぅぅぅう、るう、ぎゅるるるるる、るるるるるるるるううううううううううう。ぎゅっ、ぐぐ、くううううううううううううううううううううう。

 

 

 

「……」

「……」

 

 今のは、誰がどう聞いたってわかるぐらいに、ガスマスクの方から聞こえてきた。それは、ガスマスク本人にもよくわかったのだろう。自分の腹にそっと手を置いてから、既に抜いていた拳銃をコハルの眉間に突き付けた。

 

「えっ」

 

 突然のこと過ぎて固まったコハルに向けて、ガスマスクは淡々と告げた。

 

「────機密を保持する為に、あなたにはここで消えてもらう」

 

 もしかしなくても。

 話しかけた自分がバカだったのではないかと、コハルは心の底から思った。

 

 

 

 〇

 

 

 

ふぁふぃふぇにふぃってふぉふへほ、(はじめに言っておくけど、)はいひゅふふぁれたふぁふぇひゃはひ(懐柔されたわけじゃない)

「……」

ひゃふへん(作戦)を……んぐ、円滑に、遂行するためには、はむっ、ん……ひぇひぇるふぃーほほひゅーふぁ(エネルギーの補充は)……もぐ、んぐ、欠かせない」

「……うん」

「だから、これは……あー、ん、むっ! ……ほふ、はっ、はふふ……ふぐ、作戦行動の、うん、一環とも言える」

「……おかわり、いる?」

「いる」

 

 即答である。

 今度は毒味の為とかいってひと口かじる必要は無いらしい。ガスマスクはコハルからカスタード味のたい焼きを受け取るや否や、マスクをずらして曝された小さな唇をぱっと開き、かぶりついてみせた。

 露わになっているのは口だけだ。なのに目をきらきらと輝かせているとわかるのは、喜びのオーラが全身から喧しいぐらいに飛び出しているせいでもあったし、久方ぶりの散歩に出かけた犬のようにぱたぱたと忙しなげに動く羽のせいでもあった。

 確かに、桃井タロウの作るたい焼きは美味しい。認めるのは非常に癪だけれど、これまでコハルが口にしてきたどのデザートよりも優れていた。それはわかる。

 けれど、それにしたってガスマスクの喜びようは尋常じゃない気がした。しかし、ここはブラックマーケットだ。キヴォトスの一般的な常識がまるで通用しない場所だ。

 だから、全く甘味にありつけない生徒がいてもおかしくないのかもしれないと思い、コハルは追求することを辞めた。

 

「もぐ、もぐ……」

 

 生地だけでなくその繊維を一本一本噛み締めているような、しっかりとした咀嚼を繰り返しているガスマスクから視線を外し、コハルは空を見上げた。

 

「……はぁ」

 

 零れ落ちたため息は、本当に自分は一体全体なにをやっているのかという疑問と後悔に満ち満ちていた。

 それを聞きつけたのか。ガスマスクはひっきりなしに動かしていた口を止めると、暫し思案した末に、千切ったたい焼きの一部をコハルに差し出す。

 怪訝に眉をひそめるコハルに対して、ガスマスクは言った。

 

「──表情に重い疲労が見える。食べた方がいい。糖分は最も多く利用されているエネルギー源だから」

「……」

「ほら」

 

 買ってきたのは私なんだけど、と突っ込む気力は無かった。

 差し出されたたい焼きの欠片と、ガスマスクとを何度か見比べてから、コハルはゆっくりとそれを受け取った。うんうん、と満足そうに頷いて、ガスマスクはまた自分のたい焼きに向かい合う。

 素性も知れない、得体も知れない。

 だけど、もしかしたら、そんなに悪いヤツじゃないのかもしれない──そんなことを思いながら、コハルはそのちっぽけな欠片を口に含んだ。

 

「おいしい?」

「……ふつう」

「なら良かった」

 

 温かいままでも、冷めてしまっても、あんこだけでも、生地だけでも、憎らしいほど味が変わらないのが、桃井タロウのたい焼きだ。

 けれど、何故だろう。

 今食べたものは、さっき食べた時よりも、ほんの少しだけ──美味しい、気がする。

 居心地の良い奇妙な沈黙をコハルが甘受していると、背後の高い位置から、納得したような低い声が投げかけられてきた。

 

「──なるほど。そういうことだったか」

 

 うげ、と顔を歪ませながら、コハルは振り返る。そこには予想した通り桃井タロウが腕を組んで立っていた。頭巾とエプロンは外している。真ん中でわけられた茶色の髪が、風を受けてそよそよと揺れていた。

 

「……仕事はどうしたのよ」

「材料が無くなった。今日はここまでだ」

「もうっ!?」

 

 腕時計を見てみると、時計の針はまだ正午を過ぎたばかりだった。ちなみに昨日は午後三時で、一昨日は午後五時である。日にちを重ねるごとに、営業時間が短くなっていっているのは気のせいではないだろう。

 

「朝あれだけ作ったのに……」

「当然だ。おれのたい焼きは、百点のたい焼きだからな」

 

 愕然としているコハルへタロウは誇るように告げてから、隣でじっと自分を見上げてくるガスマスクを見つめた。

 間合いを計りあうかのような、じっとりとした緊張を孕んだ視線の交錯は数秒で終わり、二人は同じタイミングで気を緩めた。

 

「どうやら、コイツが世話になったようだな」

「……あなたが、これを焼いたのか?」

「その通りだ」

「そう、か──……」

 

 しみじみと呟いてから、ガスマスクはタロウに頭を下げた。

 

「こんなにも、こんなにも……その、美味しいものを食べたのは、生まれて初めてだ。だから……感謝する」

「礼など不要だ。おれは人々に幸福を運ぶ。アンタがそれを食べることで、幸せになった──それだけで、このたい焼きを作った甲斐があったというものだ」

「幸福を……運ぶ?」

「あぁ。それがおれの、この世界に来ても変わらない、ただひとつの思いだ。

 そして──これでおれとアンタには、縁ができたな!」

「──」

 

 胸を張りながら、タロウはそう宣言した。自分が耳にタコができるほど聞いている発言を、果たしてガスマスクはどう受け止めたのだろうか。

 コハルがマスクに覆われて伺えない表情の色を想像していると、ガスマスクが出し抜けに話し出した。

 

「──あなた達には、小さな……ううん。大きな借りができた。だから、今ここで返す」

「……?」

「これは忠告だ。だから、一度しか言わない。

 この地域の第八区にある、一番大きな廃ビル……今日はそこに近寄らない方がいい」

「あ……」

 

 それだけ言って、ガスマスクは立ち上がった。取りつく島もない雰囲気を纏っていたから、コハルは手を伸ばすことさえできなかった。さっきまですぐ傍にいたのに、いきなり分厚い壁が立ちはだかってしまったかのようだった。

 気にせず話しかけたのは、タロウだけだった。

 

「近寄らない方が良いとは、何故だ?」

「一度しか言わない、と言ったはずだ──危険な目に遭いたくなければ、私の忠告を大人しく受け入れて。ヘイローを持っていないあなたは……特に」

 

 タロウを最後に見据えてから、それっきりガスマスクは振り返ることもなく、確固たる足取りで雑踏のなかに消えていった。

 ガスマスクの少女とは、別に知り合いでも友人でもない。だから筋違いとはわかっているけれど、タロウが現れた瞬間に此処から離れていってしまったことが腹立たしくて、コハルは恨みがまし気に男を睨み付けた。

 

「……桃井のせいで、気が悪くなっちゃったんじゃないの」

「……」

「──桃井?」

 

 タロウはコハルの皮肉に応えず、ガスマスクの少女が去っていった方向をひたすら眺めていた。コハルが何度か名前を呼んでも、タロウはなにかに魅入られてしまったかのように、ずっと残影を追いかけ続けていた。

 

「──っの! ああもう! ちょっとっ! 桃井っ!! てばっ!!」

 

 とうとうじれったくなったコハルは、タロウの腕を思い切り引っ張った。ちっとも体勢を揺らがせないのがムカつくが、どうやら我に返るキッカケにはなったらしい。疎まし気な視線がじろりと向けられた。

 

「なんだ! さっきから。喧しいぞ」

「あんたがずーーーっとバカみたいに突っ立ってるからでしょっ! というか、なんなの? 急にぼうっとしちゃって。あのガスマスク、もしかして知り合いだった?」

 

 コハルが冗談交じりにそう問うと、タロウはぴたっと動きを止めた。

 

「……いや。だが、顔見知りに似ていた」

「似ていたって、なにが」

 

 タロウは喉に小骨が刺さってしまったかのような、ささやかな痛みを堪えているかのような表情で、ぽつりと呟いた。

 

「────気配が、だ」

 

 コハルがその言葉を、茶化す気にも、笑い飛ばす気にもなれなかったのは──男の横顔が一瞬だけ、寂しそうに見えたからだ。

 

「……あっそ」

 

 いつも無駄に自信たっぷりで、悩むことなど知らなさそうで、ありとあらゆる全てを笑い飛ばしそうな男がそんな顔をできることに、コハルは驚きを隠せなかった。

 だから、踏み込めなかった。

 今はまだ、知らずにいることを選んだ。

 けれど、いつかは知れたらいいなと思った。

 そのぐらいには──下江コハルは桃井タロウの存在を、受け入れてやってもいいかなと、認めていたのだと思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「────脈が、無い」

 

 横になって。

 目をつぶり。

 脈を無くして──

 

 心臓を止めた桃井タロウを目の前に立ち尽くしながら、コハルはそんなことを思い出していた。

 

 

 

 

 

 

 

 

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