ドンブルーアーカイブ   作:鰻の蒲焼

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そのろく

 

 

 

 

 

 かくして、桃井タロウは甦った。

 

 

 一般的に、心停止後の蘇生を果たした人体には、脳の損傷、心臓機能の障害、さらには虚血再灌流障害などといった、大きな後遺症が見られるのが常である。しかしタロウの体調は、心停止する前とまったく変わらず、保健の教科書に乗せても恥ずかしくないぐらいの健康体だった。当然と言えば当然で、桃井タロウが自らの心臓を止めた理由は冠動脈疾患でなければ、心疾患以外の循環性ショックでもなく、かといって換気不全でも代謝障害でもない、嘘をついたことによるものなのだから。

 バカみたいな理由である。

 しかし決してバカにはできない。なぜなら桃井タロウの心臓は本当に、嘘をつくことでその動きをぴったりと止めてしまうからだ。そして多少の銃撃や爆撃ぐらいでは気絶すらしない、神秘に包まれた耐久力を誇るキヴォトス人達にとって、心停止という明確に死へと繋がっている現象はきわめて馴染みが薄く、たとえ理由がバカげていようとも、応急的な処置ではなく本格的な処置を施すべきだと考えるのは、至極当然の流れだろう。

 よって通常ならば、設備が十全に整っている救護騎士団の本棟に運び込むのが常道であるとされる。

 だがここで、桃井タロウは正義実現委員会の依頼により、とある任務──ブラックマーケットの調査──就いていた最中という事情が立ち塞がる。

 遠くとも決して振り払えない過去や、派閥間に積み重なった政治的な柵、そして今なお絡まり捻じれ続ける人間関係などが複雑怪奇に交わり合ったことにより、泥沼のような政治闘争が水面下で行われている状況で、桃井タロウというトリニティ外の人物が、トリニティから請け負った依頼の最中で死亡したという現在の状況は、ある種の弱み──政争に使える道具と取れなくもない。ましてやトリニティには、最大の怨敵たるゲヘナがいる。仮に桃井タロウの一時的な死亡が、トリニティ内部の政治闘争の弱みになり得なかったとしても──それでも嬉々として、トリニティを蹴落とす足掛かりにしてくるであろうことは予想できた。

 よって桃井タロウは、救護騎士団の本棟ではなく、聖テレサ総合病院の四階──幽霊に見間違えられたヒトツ鬼による騒動がいつかあったフロアの、一番奥にある個室へ運ばれることになった。

 

「……」

 

 かすかに薬品臭がただよう室内を、タロウはゆっくりと見回す。

 窓から差し込む光はすでに、夕暮れの色に薄く染まりかけていた。ベッドを取り囲むように吊り下げられたカーテンは半分以上開いており、開け放たれた窓から入る風に吹かれて、自らの身体と影を揺らしている。風壁にかけられた時計を見れば、海賊鬼の出現におうじてドンブラスターによる召喚を受けた時から、小一時間ばかり経っていた。

 すべて、鮮明に覚えている。

 ヒトツ鬼の能力によってドンモモタロウへのチェンジが不可能になってしまったことも。嘘をつこうとして死ぬことで窮地を脱したことも。下江コハルを先に逃がしたことも。

 周りには誰の姿もない。だから、誰が自分をこの保健室まで運んできたのかがわからなかった。わからないまま、タロウはベッドから下りて、保健室の外に出ようとする。何はともあれ、休んでいられるような状況ではないことは確かだったからだ。

 しかし、扉を開こうと手を伸ばしたところで止まる。ハンドルに手をかけようとした瞬間、扉がひとりでに開いたためだった。

 開かれた先に立っていたのは、白とピンクを基調とした制服を身に纏った少女だった。ひょっとすれば、直前まで鼻唄でも歌っていたのかもしれない。小ぶりな唇はハミングの形にひらかれ、横結びにされた桃色の髪はわずかに左右に揺れていた。

 少女の目はどことなく楽しげな風に細められていたが、扉のすぐそばに立つ男の姿を確認した瞬間、呆気にとられたことによってきょとんと丸まり、それから焦りによって大きく見開かれた。

 

「た──タロウさんっ!? ダメじゃないですか寝てなくちゃっ!」

「鷲見セリナ──アンタがおれを、ここに運んでくれたのか?」

「いまはそんなコト気にしてる場合じゃありませんっ! ほら、早くっ、ベッドに戻って横になって安静にっ、して、いて、くださいっ……!!」

「それはできない相談だ」

 

 桃井タロウは端的にそう告げると、全体重をかけてぐいぐいと胸を押してくるセリナの両手にまったく構わず、外に出ようと試みてきた。

 セリナは特段、自分の腕力に自信があるわけではない。しかし、先生のお陰で、自分達のそれがたとえ鍛え抜かれてはいない一般的なものであっても、キヴォトス外の住人からすれば規格外なのだと知ることができた。

 なのに。

 

 ──止まら、ない……っ!

 

 先生と同じキヴォトスの外から来たはずなのに、桃井タロウには自らの膂力が通じない。こちらは半ば吹き飛ばさんとする体勢を取っているのに、びくとも揺らがず、悠々と歩を進めてくる。年齢や精神だけでなく、単純な力まで上にある成人男性の姿はちょっとだけ新鮮だったが、感じている場合ではないのが正直な話だった。

 こうなれば、と思う。

 ここは病院だ。そして病院では、静かにしていなければならない。それが鉄則だ。救護騎士団の一員として、ひとりの医療従事者として、セリナは呼吸をするようにそのルールを守ってきた。

 しかし、今、この瞬間だけは───!

 

「──ハッ……ハナエちゃん! ハナエちゃーーーーーーーんっ!!」

「お呼びですか先輩っ!!」

 

 果たして応答は、一秒で返ってきた。

 そして、どこかにまだ遠慮が残っているセリナの叫びを上書きするかのような大音量とともに飛び込んできたのは、救護騎士団を構成するメンバーのひとり──朝顔ハナエその人だった。

 世にも珍しいと言っても過言ではない、病院内における先輩の大声を聞いてすっ飛んできた彼女は、磨かれた宝石のようにきらきらと眩しい青色の目を瞬かせて、目前の光景を分析していく。

 開いた窓とカーテン、空っぽになっているベッド、絶対安静のはずがベッドからぬけ出して外に出ようとしている桃井タロウ、それを両腕を前に突き出して押し留めながら渾身の表情で助けを求めている鷲見セリナ。

 なるほど、つまり。

 

「──救護の時間ですねっ!」

「わかってるなら早く来てーッ!!」

「あいあいさーっ!!」

 

 言うや否や、ハナエは公園に遊びに来た幼児のごとき無邪気な笑みを浮かべながら部屋に入り、そのままセリナの反対側──タロウの背中側に回り、勢いよく抱きついた。そして、男性にしては細い腰に両手を回すと、そのまま倒れ込むような姿勢で後ろに引き摺ろうとする。

 だが。

 

「──これ、でもっ!?」

「止まりませーんっ!!」

 

 桃井タロウは揺らがず、止まらず、進み続ける。

 セリナはもはや両腕だけでは足りないとばかりに全身を使ってタロウを食い止めようとしていたし、ハナエはまるでジャーマンスープレックスをかけるプロレスラーのように背筋を限界まで逸らしていた。しかし、タロウはまったく動じることなく、平然とした顔でセリナとハナエを引き摺ってゆく。ここまで来ると流石におかしい。もしかしなくてもキヴォトス出身なのではないかとさえ疑ってしまう。

 ここにミネ団長がいてくれれば、とセリナは切に思う。

 救護騎士団の団長にして、ヨハネ分派の首長であり、トリニティのなかで──いや、きっとキヴォトスのなかでも数少ないであろう、桃井タロウ/ドンモモタロウと肉体的にも精神的にも真っ正面から張り合える存在。

 しかし蒼森ミネは現在出張中だ。つまり助けは一切期待できない。

 

「セリナ先輩っ! こうなれば、例の麻酔薬の出番ですよ! たった一ミリで大型象でも数秒で昏倒しちゃえるヤツ!」

「タロウさんが患者さんってこと忘れてないかなハナエちゃんっ!?」

「おれは象ではない」

「タロウさんはちょっとだけお口にチャックしててくださいややこしくなるのでっ!!」

「打ちますからね!」

「打たないでっ!」

「おれは」

「いいからタロウさんはベッドに戻ってーーーーーーーーっ!!」

 

 もうメチャクチャである。

 主にセリナひとりにかかる負担が爆発的に上昇し続ける空間に、さらなる闖入者が現れた。何事かと慌てて飛んできたらしい。顔を赤く火照らせ、ひっきりなしに汗を流し、はあはあと息を荒げている少女──下江コハルは、

 

「───も、桃井にっ、何かあったんですか、あ゛っ!?」

 

 室内の様子を伺った瞬間、潰されたカエルのような呻き声をあげて固まった。目前で繰り広げられている光景が、コハルが想像していたような修羅場ではなく、二人の少女が一人の男を前後から挟み込むという、はたから見ればハレンチきわまりないものだったからだ。

 よくよく見てみれば、セリナとハナエの形相は、檻から抜け出そうとする猛獣を決死の覚悟で食い止めようとしている飼育員のそれであることがわかるのだが、コハルの脳内フィルターは常にピンク色なものだから、果てしなくとめどない男の暴威に容赦なくさらされ、成す術なく辱められるしかない女性のそれにしか見えなかった。

 男で女を挟んでも嬲れるが、女で男を挟んでも嫐れるのだ。

 

「え…………………………………」

 

 ひゅうっ、と息が深く吸い込まれ。

 やがて。

 

「エッチなのは、ダメっ!!!!!!!

 死刑ぇ─────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────っ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」

 

 決断的に、死刑宣告はくだされた。

 ちなみにその後、騒ぎを聞きつけたカモシカ頭の看護師に仁王立ちでねめつけられた四人が、揃って頭をさげたのは想像に難くないため、省かせていただく。

 

 

 〇

 

 

 それから。

 セリナとハナエ、そしてコハルの三人から、進言という名のお小言を雨あられのごとく浴びせかけられたタロウは、さすがに軽い検査ぐらいは受けることにした。結果は当然のように良好。心臓が一時停止したことなど、初めから無かったかのような有様に、セリナはこれまで自分が積み重ねてきた医学知識が根底から覆されてしまうような気がして眩暈を覚え、ハナエは「治ってよかったですねー!」とのんきに笑っていた。

 様々な感情が渦巻く検査を終えたセリナとハナエは、桃井タロウが死んだことを知る唯一の人物である羽川ハスミに連絡をしに行った。残されたタロウとコハルは一時待機することとなり、病室から出て、聖テレサ総合病院の中庭に設置されているベンチで座って待つことにした。

 かあかあかあ、とどこかでカラスが鳴いている。

 夕暮れ時ということもあるのだろう。人影はまばらで、中庭は広さを持て余しているかのようだった。コハルは気まずげにきょろきょろと視線を左右に散らしてから、ゆっくりと、離れた──離したともいう──位置に座っている桃井タロウの横顔を盗み見た。

 

「……」

 

 タロウは相も変わらず真っすぐな視線を、向かい側のベンチに投げかけている。そこに、一瞬だけでも心臓を止めていたことへの恐怖だとか、そうなる原因となったコハルへの怒りだとか、そういったネガティブな感情はちっとも見当たらない。ただひたすらすべてを当たり前のことだと受け止める、雲ひとつない青空を連想させる広さだけがあった。

 胸に走った痛みを無視して、コハルは口を開いた。

 

「……ハスミ先輩が言おうとしてたこと、わかった」

「わかった、とは?」

「ブラックマーケットに行く前に、言われたの。あんたにヘンなところがあるって……嘘がつけないとか、なんとか」

「その通りだ」

 

 コハルの言葉を、タロウは首肯して受け止める。

 

「おれは嘘がつけない。だから、本当のことしか言えないし、言わない」

「……ひとつ、聞いていい?」

「なんだ」

 

 何度も唇を開いては閉め、その末にコハルは躊躇いがちに尋ねた。

 

「……嘘をついたら死ぬの?」

「そうだ」

「………………もう、やだぁ……」

 

 コハルは深いため息を吐きながら、膝に顔を埋めた。

 嘘をつくと死ぬ。まったくもってバカげている。バカげているが、コハルは実際にタロウの亡骸と、その後にふらっと生き返ってきた本人を存分に目撃している。だから信じざるを得なかった。

 そして、憧れの先輩がものすごく渋い顔をしていた理由にようやく得心がいった。確かに、信じられないだろう。というか、普通に信じたくない。なぜなら意味がわからなさすぎるからだ。それともキヴォトスの外ではそれが普通なのだろうか。だとすればコハルは一生キヴォトスから出るつもりはない。

 

「──死ぬのは、これが初めて?」

「いや。何度か死んだ覚えがある」

「……頭が痛くなりそう」

「ここは病院だ。体調不良を自覚しているのなら、早めに診て貰った方がいい」

「………………」

 

 これで表情に人を揶揄するような薄い笑みでも浮かべてくれていたら、まだ悪い冗談だと受け入れることができたのだが、生憎と桃井タロウは真顔で真面目にそう言っていた。ゆえにコハルは、否が応でも「本当のことなんだ」と向き合わざるを得なかった。

 コハルはつづけて、気になっていたことを聞いてみる。

 

「このこと知ってる人って……他にいるの?」

「いる」

「……そう」

 

 誰、とは聞かなかった。聞いたところで、このわけのわからない体質に感じた悩みや苦しみを簡単に共有できるとは思えなかったからだ。コハルは大きな徒労感を覚え、肩を落とすのみにとどめた。

 日はついにその体積の半分を、地平線に沈みこませたようだ。とうとう誰もいなくなった中庭を、薄暗い夕闇が包み込んでいく。その景色を見て、コハルはようやくこの長い一日が終わろうとしていることを実感できた。同時に、自分たちの任務が中途半端な段階で終わってしまったことも。

 だって、目的である正義実現委員会の銃は──木っ端微塵に吹き飛んでしまったのだから。

 

「……」

 

 安堵とも悲観ともつかない気持ちを味わっていると、不意にタロウがこちらを向いた。

 

「そういえば、アンタにまだ礼を言ってなかったな」

「……礼って?」

「鷲見セリナから聞いた。ここに運んでくれたのはアンタだと──世話になった」

 

 そう言って、タロウは頭をきっちり四十五度に傾けた。コハルは慌てたように両手を振りながら、

 

「や、やめてよっ! 別に、頭を下げられたくてやったわけじゃないんだから。それに、」

 

 それに──

 タロウが死んだのは、ヒトツ鬼から自分を逃す為だということぐらいは、流石にわかる。頭を下げるべきは、むしろこちらの方なのだ。

 

「それよりも、その……わ、私の方こそ……」

 

 コハルがハスミやイチカといった、正義実現委員会の先輩にしか見せない素直さを発揮しようとしたその時だった。

 

「そんなことよりも、まずはおれの力をどう取り戻すかを考えなくてはな」

「……は?」

 

 思わず、声が零れ落ちた。混乱に陥るコハルの様子を、言葉の意味を把握できない故のそれだと捉えたのか、タロウは教師のように懇切丁寧に教え始めた。

 

「おそらく、ヤツからあのキーを取り返さない限り、おれの力は戻ってこないだろう。そしておれの力が戻らなければ、ヤツを倒せない。だから──」

「────そういうことじゃないっ!!」

 

 コハルは激昂とともに立ち上がり、タロウを見下ろした。どこかぼけっとしてるような男の目が、今はたまらなく憎らしい。

 

「あんな──……あんな目に遭って、あんた、まだ懲りてないのっ!? し、死んじゃったのよ!?」

「一度死んだことなら気にするな。事故のようなものだ」

「事、故───?」

「ああ」

 

 愕然とする。

 桃井タロウは、嘘をついたら自分は死ぬと言った。だから今の言葉はすべて紛れもない本心で、下江コハルを庇ったことで死んだのは単なる事故だと──誰のせいでもない不幸なのだと、嘘も偽りもなく、本気で思っているのだ。

 この、男は。

 徐々に深まる闇のなかで、タロウの眼差しの輝きは翳ることなく、コハルを真っ直ぐに見据えてくる。

 思わず、後退る。

 劣等感。恐怖。疎外感。嫉妬。敗北感。憤怒。これまでに積み重ねてきた、桃井タロウに対する粘ついた感情の柱が、とうとう崩れ落ちようとしているのを感じた。すっかり乾いて張り付いた喉から吐き出されたのは、自分のものとは思えないぐらい枯れ切った声だった。

 

「あんた、どっかおかしいんじゃないの……?」

「……下江コハル?」

「ち、近寄らないでッ!」

 

 案じるように伸ばされた手を見て、弾かれるように飛び退いた直後にはすでに、コハルは溢れ続ける感情を抑えきれなくなっていた。

 喉を震わせ、視界を真っ赤に染めながら、コハルは燃え盛る炎にも似た衝動を吐き出すように、タロウに言葉を叩きつけた。

 

「わ、私が、どんな気持ちで──……あんたをここまで引き摺ってきたか、本当にわかんないのっ!? 

 ずっと怖かった! あんたが……! も、桃井が目を覚まさなかったらっ、どうしようって……! わた、私のせいで……っ! あんたがっ!!」

「……さっきから、不思議なんだが」

 

 コハルの絞り出したかのようなつっかえつっかえの問いかけに、タロウはこう答えた。

 

「アンタは何をそんなに怒っている?」

「────」

 

 多分。

 そこが、コハルの臨界点だった。

 

「そんなことしか、思えないなら……」

 

 震えていた声が、行く先を見つけた矢先のように定まる。

 彷徨っていた心が、敵を迎え撃つ銃口のごとく固まる。

 

「あんたなんか、ずっと──────」

 

 だとしても、そこから先を言ってはいけないと、頭の片隅に追いやられていた理性が叫ぶ。

 けれどコハルの心は、もう誰の声も届かないほど、激情に染め上がってしまっていた。

 

「───ずっと、死んどけばよかった──……っ!!」

「──」

 

 そして人という生き物が、無理やり抑え込んでいた気持ちをひとつ残らずブチ撒けた後に残るのは──いつだって、微かな甘い清々しさと、多くの苦い後悔である。

 その御多分にもれることなく、コハルの激しく波打っていた感情は、ガソリンの切れた車のように、急激にブレーキがかかった。正気を取り戻した思考が視界を染めていた赤を一気に取り払い、タロウの表情を飾り気なく映し出す。

 相も変わらず無表情だ。けれど、どこか、ほんの少しだけ、傷ついてしまっているようにも見えて──

 

「あ……」

「……」

「違、私──……違う、こんなことを、あんたに……」

 

 何を、言いたかったのか。

 何を、伝えたかったのか。

 

「──ぅ、あ、あああっ!」

 

 自分でもわからなくなって、そのままコハルは逃げるように、起きたら返そうと懐にしまっていた──桃井タロウから借り受けたままのサングラスをかけた。

 瞬間、映し出される謎の世界。そのなかから一番近い場所にあった扉を開き、どこに繋がっているかもわからないのを承知の上で、駆けこんでいった。

 怖かった。

 桃井タロウが。

 嫌だった。

 自分が。

 

 

 〇

 

 

 ──コハルから、話は聞いてあります。とにかく、今は休息を。情報の整理はこちらでしておきます。私も貴方も、もう慣れてしまってはいますが……一度は心臓を止めているのですから。

 

 コハルが中庭から逃げ去った数分後にやってきた羽川ハスミは、気遣わし気な表情を浮かべたまま、タロウに対してそう言った。依頼をしてきた本人が言うのであれば、是非もない。了承したタロウは聖テレサ総合病院を出ると、自らの仕事場にして住処でもあるシバイヌ宅配便の社屋に向かうことにした。

 夕日は落ち、辺りはすっかり夜を迎えていた。見上げれば、等間隔に並んだ街灯が、己の本領を喜々として発揮しているのがわかる。そのお陰で、余程のことが無い限り、夜道に迷ってしまうことはなさそうだったが、タロウの足取りはひどく重たげであった。

 

「……」

 

 網膜に、少女の──下江コハルの顔が焼き付いて、離れずにいる。

 嘆くかのような、怯えているかのような、怒っているかのような──

 桃井タロウがこれまでに歩んできた、21年という短い人生のなかで、一度も向けられたことのない顔。

 初めのうちは、不手際で自分が死んでしまったことを気に病んでいるからだと思った。だから、気にする必要はないと言った。自分はこうして甦っているのだから。

 だが、どうやら違うらしい。

 そうでなければ、去り際の表情の説明がつかない。では、違うとわかったから、正しい答えがわかったのかと言えば──否だ。

 幾つもの光に照らされた目前の光景に反して、タロウの思考回路は、出口の見えない深い闇に包まれていた。

 

「……」

 

 そしてタロウは立ち止まると、おもむろに空へ視線をやった。

 そこに広がっているのは、雲や塵ひとつない、どこまでも澄んだ夜の空だった。その中天に浮かぶのは、散りばめられた星々を観客にして一層輝いている、鮮やかな満月。

 

 ──月はウソつきです。実は、自分では光っていない。

 

 思わず、言葉が零れ落ちた。

 

「──アンタなら、どう答える?」

 

 答える者などいるはずがない。ましてや、今頭に思い浮かべた男など尚更だ。それをわかっていてなお、タロウはその疑問を口にせずにはいられなかった。

 だから、

 

「そうですね──……まずは、どのような設問かを教えて頂かなければ、答えようにも答えられません」

 

 背後から響いた声に、即座に反応することができなかった。

 聞いた相手の耳を悪戯に弄ぶような、なめらかに甘い声。振り向いた先には、街灯の光を受け止めて淡く光る白桃色の長髪とヘイローを、夜風の流れに預けてささやかに揺らしている、少女が立っていた。

 

「アンタは──」

「こんばんは。今夜は──月が眩しいですね。タロウさん?」

「──浦和ハナコ」

 

 タロウの名前を呼ばれた少女──浦和ハナコは莞爾と頬を緩ませると、顔の位置まで掲げた右手をひらひらと振ってみせた。

 

 

 〇

 

 

 立ったままもなんですし、と言ったハナコに連れられて、タロウは近くにある公園に設置されているブランコの座板に座っていた。その隣にはハナコが座っていて、タロウとは違って、楽しそうに鼻唄を奏でながら、ブランコを小さく漕いでいる。

 ジャングルジム、滑り台、鉄棒、シーソー──数多ある遊具には、当然だが誰の姿もない。夜の静けさに侵されてしまったように、ひたすらに閑散としていた。

 そんな寂しさが漂う景色を見て、ハナコはハッと閃いたように目を見開いてから、タロウに言った。

 

「タロウさん」

「なんだ」

「もしかして、こんなことを考えてはいませんか? 男と女がひとりずつ、誰もいない夜の公園でふたりきり、何も起きないはずがなく──……と」

「現に起きているだろう」

「まあ! 一体ナニが起きているというのです?」

「おれとアンタが話している。それ以外になにがある?」

「勿論、互いの■■と■■を■■■■させて、時には獣のように激しく、時には砂糖菓子のように甘く──求め合うんです♡ 誰の姿もないとはいえ、ここは野外ですから。誰かが通りがかる可能性も、決してゼロではありません。

 そう! ゼロではないんです!

 そのスリルこそが、私たちが外で■■していることへの危機感と背徳感を、一気に倍増させてくれるんですよ。それに、もしかすれば■■できる可能性だって──」

 

 仮に世界を検閲している存在がいるのならば、一発で不適当ならびに発禁と判断されそうな文言をこれでもかと連ねた文章を最後まで聞き届けて、タロウはいつもと変わらない様子で言った。

 

「なるほど」

「……ちょっとぐらいは、乗ってしまっても良いんですよ?」

 

 ひと言で済まされたことが不満らしく、ハナコは小さく頬を膨らませている。横目でそれを確認すると、タロウは淡々とした調子で告げた。

 

「今のアンタは、随分と幸せそうに見える。だから、口を挟む気にはならなかった」

「…………もぅ」

 

 ハナコが、桃井タロウの率直過ぎる物言いを受け止めるのは、これが初めてではない。初めてではないくせに、むず痒い気持ちをどうにも抑え切れないのは──きっとタロウの言葉が、浦和ハナコという人間の心に、ちゃんと響いてくるからなのだと思う。

 表も裏もなく、偽りや建前もなく、甘言や謀略もない。

 心から湧き出した声を、そのままの形でぶつけてくる─────

 ハナコは、それを簡単にできてしまえる桃井タロウのことが好ましく、羨ましく、忌々しく、妬ましく、憎らしく──少しだけ、誇らしい。

 だから、かもしれない。

 ほんのちょっぴりだけでも、意地悪してみようと考えたのは。

 

「──なら、お訊きにならなくてもいいんですね?」

「何をだ」

「私がどうしてあなたに話しかけたのかを。あなたの言に、則るのであれば」

 

 意趣返しの為に投げかけられた問いかけに、タロウは前を向きながら答えた。

 

「──人が人に話しかけることに、大した理由は要らないだろう」

「……ふふ。それは、そうですね。その通りです。でしたら言ってしまっても、いえ、聞いてしまっても構いませんね?」

 

 そしてハナコは、一瞬だけ躊躇ってから尋ねた。

 

「なにか、悩み事でもありますか?」

「ある」

「……お聴きしても?」

「良いだろう」

 

 タロウの竹を割ったような返事を聞くと、ハナコは嬉しそうに微笑んだ。まるで、桃井タロウが苦しみ悩んでいることが喜ばしいと、本人はそうでなくとも周囲にはそう思っていると誤解されかねないほどの、それは満面の笑みだった。

 もっとも、いまこの場では相応しくない表情であると自分でも思ったらしく、笑顔は一瞬で引っ込んだ。そしてブランコの揺れを足で止めてから、タロウの口から零れ落ちる悩み事に集中し始めた。

 

「……アンタは知っているだろうが、おれは嘘をつくことができない。そうすると、死んでしまうからな。そのことで傷つけてしまった……らしい、相手がいる」

「らしい、と言うのは?」

「そいつは、おれが死んだことを気に病んでいるようだった。だが、おれは今もこうして生きている。だから気にする必要はないと言ったんだが……どうやら、そうではなかったようでな」

 

 そしてタロウは、中庭でコハルと交わしたやり取りについて話しはじめた。発言のひとつひとつを、詳細に説明されたわけではないが、ハナコはタロウとその顔も見えない誰かの間にあった会話のおおよそを把握することができた。

 

「……アンタは、どう思う?」

 

 やがて話し終えたタロウが、どこか心許なげな様子で聞いてくる。

 ハナコは情報を咀嚼し終えると、にこやかに答えた。

 

「タロウさんは、おバカさんなんですね」

「……バカ?」

「はい。とっても♡」

「……バカ」

 

 ハナコの感想を、タロウは神妙な顔をして噛み締めている。相談事をして、まさかバカだと評されるとは思っていなかったらしい。ハナコはこみ上げる笑いをどうにか殺しながら、その少女が思っていたことを考察し始めた。

 

「きっとその方が怒っている理由は──タロウさんが自分を庇って死んでしまったことではなくて、タロウさんが自分の生き死にを軽く捉えていることなんだと思います」

「何故だ? 嘘をつくと死ぬが、それは一瞬だけのことだろう」

「勿論、タロウさんにとってはそうでしょう。ですが、人はそう単純ではいられないんです。ましてや、ここはキヴォトス……私が知らないだけかもしれませんが、人の生死なんて滅多に触れられる場所ではありませんし」

 

 ハナコはぴん、と突き立てた人差し指を、まるで指揮棒のように振りながら、会話を続ける。

 

「タロウさんの、嘘がつけないというその性質は、きっと──尊ばれるべきものです。

 けれど、本当のことだけでは、人は生きてはいけません。本当は、あまりにも綺麗すぎるんです」

 

 魚が、純水のなかでは泳げないように。

 鳥が、真空のなかでは飛べないように。

 人は──真実のなかだけでは、きっと窒息してしまうのだ。

 だって、隠したいような自分を、偽りたいような自分を、全部曝け出さなければならないのだから。

 

「だから、きっと──その人がタロウさんに伝えたかった、本当の気持ちは……」

 

 そこまで言いかけて、ハナコは唇を閉じた。

 これ以上は、自分が出張るべきではないと判断したからだった。だからハナコは人差し指の動きを止めると、そのまま口元まで持っていき、くすくすと笑った。

 

「──そこから先は、タロウさんが解き明かしてください。乙女のナカに踏み込むのは、殿方だけの特権でしょうから♡」

「……アンタの言っていることは、正直よくわからない」

 

 だが、とタロウは前置きして、

 

「おれが今からやるべきことは、ハッキリ見えた。だから、礼を言う。世話になったな、浦和ハナコ」

「──こちらこそ、お役に立てたようで何よりです」

 

 ハナコは胸に手を当てると、花が綻ぶように笑ってみせた。

 それはきっと、浮かぶ月よりも綺麗な形に。

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後。

 

 

「ところで、その方にはもう■■を見せてもらったのですか? それともまだ■■だけですか? まさか───既に■■の■■まで───!?」

「…………」

 

 やはり。

 コイツの言っていることはよくわからないと、タロウにしては珍しく、疲れきった顔をした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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