ドンブルーアーカイブ 作:鰻の蒲焼
誰かが初めにこう考えた。
──あいつさえいなくなれば、自分の商売の利益がもっと増えるのに。
誰かは次にこう考えた。
──でも、おおっぴらに邪魔はできない。こっちの信用が失われてしまう。
誰かは続けてこう考えた。
──なら、ヤツを利用してしまおう。武器の取引ばかり狙う、あの怪物を。
誰かはやがてこう考えた。
──邪魔な取引の情報を手に入れて、流してしまおう。そして妨害して貰うんだ。
誰かは最後に、こう考えた。
──あれだけの力なんだ。誰かが便利に使ってやらなきゃ可哀想だ。
彼女は確かに強くなったかもしれない。けれど、結局のところ、彼女はまだまだ子供で、そして、彼女が相手にしていたのは骨の髄まで大人である連中だった。
ただ、それだけの話だ。
〇
どこをどう走ってきたのか、自分でもわからなくなるほどに彷徨って。
最終的に下江コハルが辿り着いたのは、勝手知ったる正義実現委員会の押収品管理室──そこに繋がる扉の前だった。
消灯時間はとっくに過ぎている。だから校舎は闇のなかにとっぷりと沈みこみ、周囲には誰の姿もなかった。静まり返った廊下は、見慣れているはずだというのに、まったく知らない場所のように思える。
忍び寄る心細さから距離を取りつつ、コハルはおそるおそるといった手つきで、ノブに触れる。
鉄製のノブは、夜気を吸い込んだかのように冷えていた。それを思いきり握りながら、祈りを込めるように目をつぶり、扉を開こうとして──
「……うう」
できなかった。
鍵が閉まっているからだとか、今は夜だからだとか、そういう単純な問題ではない。いまの自分に、果たしてこの場所に入る資格があるのかどうか、まるでわからなかったからだった。
なにせ衝動的に、後先考えず、勢いに任せてとはいえ──下江コハルは他人に『死んでおけばよかった』などと叫んでしまったのだから。
普段から言っているようなものとは違う。あの時の自分は本気で、桃井タロウなど死んでおけばいいと思っていた。仮にも窮地を脱するきっかけを作ってくれた相手を、何度も何度も助けてくれた相手を──心の底から、いなくなってしまえばよかったのにと。
そんなことを考えてしまう輩はきっと、正義実現委員会にはふさわしくない。
だって、正義実現委員会は──愛と平和を重んじるのだから。
「ふ……ぐうう……っ」
いまのみっともない嗚咽が自分のモノだと理解した瞬間、コハルの膝はあっという間に崩れ落ちた。
そのまま背中を扉に預けて、膝に額をあててうずくまる。
もうダメだった。
何もかもが嫌になっていた。
初めて抱いた本気の悪感情は、少女の育ち切っていない精神にとって、あまりにも刺激が強すぎた。あとに残った欠片を吐き出すことも、ましてや飲み下すこともできず、ただただ胸の内に留めておくことしかできないぐらいに。
ぽろぽろ、と熱い粒が目の端から零れ落ち、廊下に小さなシミをいくつも作っていく。涙を拭って鼻をすすり上げるたびに、自分のなかにあった小さな自尊心のピラミッドが、ゆっくりと崩れていく音が、コハルには確かに聞こえていた。
この行き詰まりにも見える状況を打破する手段は、初めからひとつしかない。桃井タロウに会いに行き、ひどいことを言ってごめんなさいと、頭を下げればいい。それだけで、コハルを包み込む罪悪感と自己嫌悪の霧は、完全ではないにしろいくらかは晴れてくれるだろう。
わかっている。
わかっているけれど、コハルはどうしても、その為の一歩を踏み出すことができなかった。
桃井タロウからなにを言われるのか、想像がつかなかった。けれどコハルがもし言われた立場なら、そう簡単には許さないだろうと思う。少なくとも、一度謝られたぐらいじゃ満足できないかもしれない。なぜならば、頭を下げるというポーズだけ取っていればいいやと、心はちっとも反省していないかもしれないからだ。だから、誠心誠意が見えるまで何度も何度も謝ってもらうだろう。
それを、される側からする側に立場がひっくり返ったとして──果たして自分は、その通りにできるだろうか。
わからない。
そして、わからないと思ってしまう時点で、すでに答えは出ているようなものだった。
「う、う゛ぅ~っ……えぅ……ひっ、ぐう……」
世界から誰も彼もがいなくなってしまったようだった。自分だけが誰にもなんにも知らされずに、ひとりぼっちで取り残されてしまったようだった。
だったら。
自分はいったい、どこへ行けばいいのだろう。
どこに戻れば、居場所が見つかるのだろう。
どこへ帰れば、いいのだろう。
漏れ出る嗚咽はもはや止められない。止めるつもりもない。ただ中途半端に残った理性が、夜の校舎であまり大きな声を出すと警備員に気付かれるかもしれないと囁いてきたから、腕を噛んで猿轡のようにした。
気休め程度にしかならないはずのその選択肢は、結果的に正しかった。
なぜならば。
「なにを泣いている」
気配も無く、音も立てず。
桃井タロウがいつのまにか、コハルのすぐ目の前に立っていたからである。
「ひ──────────────────────」
噛み殺しきれなかった悲鳴が、泡となって口端から溢れる。涙があわてて眼球の裏に引っ込んでいく。心臓がバカみたいに飛び跳ねているせいで、身体の内側が建設途中のビルぐらいにうるさかった。
目を見開いて固まったままのコハルを心配したのか。眉をひそめたタロウは、腰を折って少女の顔を覗き込んだ。
「大丈夫か? ひどい顔をしているが」
「──だ、だいじょう、ぶ」
「ならいい」
コハルの返事を聞いて、タロウは姿勢を直した。そしてポケットに手を突っ込むと、ひたすらコハルを見下ろし始める。
一体なにがしたいのか。
ひたすらはてなを浮かべているコハルの視線を数秒ほど受け止めて、タロウはどこか躊躇いがちに告げた。
「アンタと……すこし話したいことがあってな」
「……え?」
「だから、ついてこい」
そう言って差し伸べられた手が、その瞬間のコハルにはまるで、誰の目も届かず、誰の声も聞こえないほど深い場所まで連れて行こうとする魔物のそれにしか見えなかった。
だから、背後が扉であることをすっかり忘れて思いっきり後退ろうとして、がたがた、と大きな音を立ててしまった。
その音が、契機となった。
「や、やだ」
「なに?」
「やだっ! 絶対やだっ!」
「……まず、落ち着け」
「やだっ!!」
まるで幼子のように駄々を捏ねながら、コハルはタロウから距離を取ろうとする。恥も外聞も投げ捨てて、地べたにスカートがついていることも気にしないまま、ざりざりと横滑りに逃げようとする。
よりによって一番見られたくない相手に泣き顔を見られたという屈辱感と、まだ心の準備さえできていないことへの恐怖心がぐちゃぐちゃに入り混ざり、コハルの判断力は正常さをまるきり失ってしまっていた。
それこそ、いま自分が夜の校舎にいて、静かにしなければ警備員にバレてしまう可能性が大で、バレてしまえばこんな夜中になにをやっているのかと詰問されること間違いなしだと気づかないぐらいには。
そして。
「──そこに誰かいるのかっ!?」
気付いたときには、手遅れだった。
二人の視線が声がした方向に集中する。咎めるような掛け声は、廊下の曲がり角から聞こえてきた。先行する懐中電灯の眩い光が、犯人を追い詰める猟犬めいて揺れ動いている。断続的に響く足音は、足早に駆けている何よりの証拠だ。逡巡する猶予さえないだろう。
ゆえに、タロウは決断した。
すっかり正気を取り戻して、涙目で慌てているコハルのそばに膝をつく。
「警備の人がきっ、来ちゃうっ! 桃井、わた、わたし、バレたら退部、ちが、退学、どうしよう……っ!」
「──サングラスは持っているか、下江コハル」
「も、持ってるけど……」
「貸せ」
「う、うん」
コハルは流されるまま、タロウにサングラスを渡した。タロウはそれを受け取った瞬間にかけると、浮かび上がった周囲の空間──校舎に重なるように現れた脳人レイヤーの構造物を瞬時に把握する。
そして足音と電灯にすっかり怯え切ったコハルに向けて、こう言った。
「おれに抱きつけ、下江コハル」
「……………………は!?」
「おれに抱きつけと言ったんだ」
若干のラグを置いてタロウの言葉を理解した瞬間、コハルは顔を真っ赤に染めながら勢いよく立ち上がった。
「ばっ! ───あ、いっ、いいいいいい、いいぃ意味わかんないっ! というか急になにあんたなにいきなりなにヘンなこと言ってんのよっ!!」
「早くしろッ!」
「うっ」
ううううううううううううううううう。
敵を前にした猫のように唸りながら、コハルは段々と近づいてくる足音と、目の前の男が放った爆弾発言を心の天秤にかける。
夜間に忍び込んだことがバレて、なにかしらの処罰を受けるかもしれないことへの危機感。
まったくの赤の他人ではないとはいえ、知り合いのしかも異性の身体に抱きつかなければならないことへの羞恥心。
吊り合い続けるそのふたつを、何度も何度も見比べた末に────
「──わかった! わかったわよっ! けど絶対、絶対ヘンなこと考えないでよねっ!!」
そう怒鳴りながら、コハルはタロウの身体に思いっきり抱きついた。
生まれて初めて感じる、男の身体の骨ばった感触にも、岸壁のようにでこぼことした筋肉にも、自分のそれよりも高い体温にも何の感慨も浮かばなかった。もはやヤケクソだった。誰に目撃されようが知ったことではない。何もかもどうにでもなれと言わんばかりに、コハルはぎゅっと力強く目を瞑る。
人はそれを現実逃避と呼ぶのかもしれないが、状況はそれを適切な判断だと認識した。
腰に回った両腕がこれでもかと引き絞られたのを確認すると同時に、タロウはすぐそばにあった窓を開け放ち、サッシを踏み台にして高く跳躍する。
向かう先は、地面などではなく。
虚空にしゃぼん玉のように浮かんでいる、ホログラムで構成されたマンホール──
「舌を噛むなよッ!!」
タロウの足が、そのマンホールを踏みしめた瞬間。
「ひゃ────」
コハルの身体は一瞬で、抗うことのできないほどの莫大な無重力に包み込まれた。
急激に荒れ狂いだした嵐のような空気に驚いて目を見開き、すぐさまそうしたことを後悔する。逆立つ総身。視界は溶け、意識は置き去りにされた。肌を突き刺すのは、加速度的に強さを増す強烈な冷気。その速度に反比例するかのように遠ざかっていく校舎。悲鳴をあげなかった自分を心の底から褒めてやりたい。
だが、恐怖は終わらない。
上昇している最中、タロウが右足でなにかを蹴りつけた。猛烈に嫌な予感がして男の腰にさらに強くしがみついた刹那、強烈なGが生じ、コハルとタロウはダンプカーに跳ね飛ばされたかのような有様をもって、風を切り裂きながら右方向に突き進んでいく。幾度となく明滅を繰り返しながら、天地を逆転していく世界。一度見開いた目を閉じることはもうできない。
今度は、我慢できなかった。
「もう、やだあ─────────────────────────────────────────────────────────────────ばかあ────────────────────────────っ!!」
「わあ────────はっはっはっはっはっはっはっはぁ────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────────っ!!」
そうして。
いびつな形をした影は、甲高い悲鳴と雄々しい高笑いをおともに引き連れ、トリニティの夜空を駆け跳んでいった。
その影が夜のなかに溶けていき、追跡することは不可能と判断したところでようやく、警備員を務めているロボは窓の外を見てこう思った。
──明日、休みを貰おう。
正解である。
〇
やがて、二人が降り立ったのは、正義実現委員会本部から遠く離れた場所にある校舎の屋上だった。
地上よりも月の光が近くにあるためか、照明が無くても鮮明に辺りを視認することができた。とは言っても、あるのは内部に戻るための扉が取り付けられてある塔屋とフェンスぐらいなもので、これといって注視しておかなければならないようなものなど何処にもなかった。
だからコハルは、どうして桃井タロウが自分をこの場所に連れて来たのかを理解できなかった。
「……」
膝の震えがようやく止まったことを確認してから、コハルはゆっくりと立ち上がった。そのまま抗議を示すために、隣のタロウをぎろりと睨みつける。上目遣いのそれに、先程のトンデモアトラクションに対する恐怖の涙が滲んでいることには気づいていないらしい。
タロウは気にせず、無言で背後にある塔屋を眺めた。横には梯子がついている。おそらく、頂点に設置してある受信機のメンテナンスの際に使うのだろう。つまり、塔屋には座ることができるスペースがあるということだ。
「──ねえ、ちょっとっ! せめて理由ぐらい訊かせなさいよっ!」
「行くぞ」
「は、行くって、どこに……ちょっと! ああもうっ!」
コハルの怒りもどこ吹く風で、タロウは梯子を登っていく。ここまで来てしまった以上、引き返すことはできない。コハルは渋々といった感じで、タロウの後を追った。
登り切ると、タロウはすでに腰を下ろしていた。そしてなにを喋るわけでもなく、ひたすら前を見つめている。
コハルは思った。
怪しい。
すっごく、怪しい。
決して桃井タロウから目を離すべからずと自分に言い聞かせながら、何かあればすぐさま飛び降りられるギリギリの位置に座る。
そこから、数十秒が過ぎた。
タロウはまだ動かず、話さず、前を見続けたままだった。けれどコハルは油断しない。なにもしないと見せかけて警戒心を解きほぐすという手段は、コハルの頭に知識として収納されていた。
そこから、さらに数十秒が過ぎた。
タロウはまだ動かず、話さず、前を見続けたままだった。コハルの張り詰めていた意識に、じわじわと弛みが生じ始める。でも、まだだ。コハルは自分の腿をつねることで気を引き締めた。
そこから、またもや数十秒が過ぎた。
タロウはまだ動かず、話さず、前を見続けたままだった。
──なんなのよ、ほんとに。
コハルはもう、タロウの考えを理解しようとすることを諦めていた。いや、理解できるはずもない。だって、桃井タロウは自分なんかとは違って凄いのだから。コハルは半ば不貞腐れつつ、諦めるようにタロウから視線を外して、
「───────うわ」
息を呑んだ。
そこにあったのは、一面を夜に染められてなお明かりを灯し続けている、トリニティの街並みだった。
夜を跳ね除けるためではなく、飾り立てるために。水底に沈んでいるかのように輪郭の朧げな光の粒が、あちこちで揺らいでいる。
お嬢様達の学園ということもあり、光はミレニアムほど煌びやかではなく、ゲヘナほど姦しくもない。だから、見るものからすれば、たった数秒で見飽きてしまう程度かもしれないが──コハルにとってはこれ以上ないぐらい、非現実的で幻想的な光景だった。
コハルが夜景に見入っていることに気づいたのか、タロウは前を向いたまま、ようやく話し始めた。
「──キヴォトスに来てからできた友人に教えられてな。授業をサボりたい時や、気が滅入っている時、むしゃくしゃしている時には、高い場所から景色を眺めるのが気晴らしになると」
「……あんた、気晴らししたいの?」
「いや。だが、アンタには必要だろう」
「そんなこと──……」
ない、とコハルはいつものように意地を張りかけて、途中でバカバカしくなって辞めた。ここまで来ると、否定する方が逆に恥ずかしいだろう。
「……あるかも、ね」
素直に認めてから、コハルは膝の上で頬杖をついて、トリニティの街並みが織りなす夜景を静かに眺め出した。
それからはずっと、タロウもコハルも黙っていた。だから二人の間には、沈黙が眠たげに横たわっている。コハルにとっての他人と作る沈黙は気まずいもので、尻がこそばゆくなるものでしかなかったが、いまは不思議と気にならなかった。
どれだけ、時間が経っただろうか。
笑ってしまうぐらい丸い月が、澱みを吸い込んでくれたのかもしれない。
コハルは素直になって、気持ちを吐き出すことができた。
「……桃井」
「なんだ」
「ひどいこと言って、ごめんなさい。
あんたなんか死んどけばよかった、だなんて……思って、言って、ごめんなさい。
本当は、助けてくれてありがとうって言いたかった。けっ、けど、わたし、バカだから……ダメだった。
カッとなって、ヘンなこと言って……あんたのこと、いっぱい傷つけちゃった。
だから……あ、謝ったって、許してもらえないかもしれないけ、ど。
それでも──ごめんなさい」
何度も何度もつっかえながら、今にも震えそうになる声を必死に抑えて、すべてを言い終えたコハルは深々と頭を下げた。とうとう言えた。ようやく言えた。たかだか数文ぐらいしか発していないのに、長い長い砂漠を超えて、どこまでも続いているような旅路を乗り越えたような達成感があった。
タロウはまだなにも喋らない。
先程までは苦にならなかった無言が、今はとても恐ろしい。けれどコハルは、なにを言われようと全部受け止めようと決めていた。恨み言でも、罵詈雑言でも、呪詛でも構わなかった。そうされるだけのひどいことを、自分は言ってしまったのだから。
タロウがゆっくりと唇を開いていくのが見えた。
それでも、やっぱりどこからともなく弱気の虫は湧いて出てきて、コハルの心の表面をうぞうぞと這いずり回る。今までは容易に踏みつぶせていたのに、ここぞという場面でどうしても躊躇ってしまうのは、自分がどこまでも意気地なしだからなのだと思う。
そして、耳に飛び込んできたのは、コハルが想像していたのとは全然違った言葉だった。
「──幼い頃、おれがいなくならないからと言って、団地の住人が全員出て行ったことがある」
「……え?」
「おにぎり屋のアルバイトからは、自分ができるからと偉そうにしている嫌な奴だと言われたことがある。おともの一人からは、もっと人間を理解した方がいいと言われたことがある」
「あの、桃井?」
唐突な暴露に目を回しているコハルへ、タロウは言った。
「──アンタが、おれのことを一時でも悪く思ってしまったのは、別に大したことじゃない。おれはどうやら、他人に嫌われやすいみたいだからな。
だから、いつまでも気に病む必要はない。普通の……当たり前のことだと思っておけばいい」
「……桃井は、それで良いの?」
「それで良い、とは?」
「自分が嫌われるのは当然のことだって……納得したままで、ほんとに良いの?」
「──」
コハルの問いかけを受けて、タロウの表情が翳った。
そこではじめて、コハルは桃井タロウが一瞬だけでも、明確に『弱さ』を曝け出す瞬間を、目撃できたような気がした。
冷たい夜の風が吹く。冴え冴えとした光を放つ月が、流れてきた雲に遮られ、刹那だけ闇が濃くなる。
そして、雲が過ぎ去った後にはもう、タロウはいつもの様子に戻っていた。
「おれは、幸せというものがわからない。ゆえに、人を幸せにして、幸せを学ぶ。
だから、おれの存在が、他者の幸せを邪魔しているというのであれば──」
タロウは微かに目を伏せて、思い出していく。
かつてあった、離別の記憶たちを。
──お前は、私の絶望だ。消え失せろ。
──海と空は、互いに向き合いながら、決して交わることはないッ!
──だから、ここで終わりだ。お前と私の縁は、今この瞬間をもって……断ち切られる。
「──それが運命なら、従うまでだ」
「運命、って──……」
そんな言葉で、本当に片付けられるのだろうか?
けれどコハルは、桃井タロウは本気で『そういうもの』だと片付けてしまえると、即座に理解できてしまった。
この短くも濃い付き合いのなかで十分に思い知った。きっとこの男は──桃井タロウは、いつだって正しさとともに生きてきたのだろう。
だが、それはきっと、嘘をつくと死んでしまうからというわが身可愛さから来るものではない。
そうすることが──何があっても正しく在るということが、タロウにとっては息を吸って吐くのと同じぐらいに、当然のことなのだ。
多分その在り方は、永久に変わらない。だから、それによって誰かに嫌われ、あるいは遠ざけられたとしても、受け入れられるのだろう。
その過程で、どれだけ自分の心が傷付いても構いはしない。
だって、それは──正しいことなのだから。
「──そんなの」
あまりにも。
あまりにも──
「……下江コハル?」
突然押し黙ったコハルを訝しみ、タロウは街並みから少女へと視線を移した。そして、大きく目を見開く。男にしては珍しい、心底からの驚きによって。
「──まさか、アンタ……泣いているのか?」
「……泣いてないわよ、ばかっ」
それは明らかな嘘だった。泣いていないというのであれば、赤く染まった目じりをごしごしと執拗に拭っている手首はなんなのか。ずるずるとみっともない啜り声をあげ続けている鼻はなんなのか。
指摘する点ならいくらでも思いつけた。けれど、タロウはしなかった。ただ、驚きに固まっていた自分の顔を、そのまま見守るような柔らかな表情へとゆっくりと変えていった。
その変化に気付き、コハルはバツが悪そうに唇を尖らせる。
「……どうせ、バカにしてるんでしょ。すぐ泣いて、みっともないって」
「ああ。確かに、みっともない。涙はそう簡単に見せるものではないからな」
「……悪かったわね」
心無い言葉に、コハルはさらに膨れっ面になる。その様子を、タロウはどこかおかしそうに見ながら、
「だが──……それがアンタの良いところなんだろうな」
「……」
「誰かのことを想って、怒り、泣くことができる。それは──」
「誰にでもできることでしょっ。バカにしないでよ、こんな時まで!
泣いた私がバカみたい……じゃなくてっ! あんたのためになんか泣いてないんだからねっ!」
コハルは肩を怒らせてから、垂れた鼻水を勢いよくすすり上げて、体育座りで縮こまり、頭の羽根で両耳を塞いでガン無視の構えを決め込んだ。
ぎゅっと握り締められたように丸まった羽根を見つめてから、タロウはふたたびトリニティの夜景を眺めだす。
そう。
それは確かに、誰にでもできることかもしれない。
けれど絶対に、桃井タロウにはできないことだ。
(そういう、ことか)
浦和ハナコが自分のことを「バカ」と評してきた理由を、タロウはようやく理解することができた。
要するに、あの時のコハルは、単純に心配していただけなのだ。
生き返ったから問題ないとか、そういう理屈を一切抜きにして。
ひたすら、純粋に──
「ふ──確かに、おれはバカだったな」
「……なにそれ。イヤミ? ふん。よそでやってよね」
タロウの口から飛び出した言葉に過剰反応したコハルが、ぐちぐちと文句を捻り出す。だというのにタロウは、相も変わらず微妙に楽し気だ。だからコハルはますます機嫌を悪くしていって──
そんな風にすれ違い続ける間抜けな二人組を、月はいつまでも見下ろし続けていた。
〇
それから、わずか数分後のことである。
タロウのポケットに入っていたらしい携帯が、急に鳴り響き始めた。驚いたコハルはびくりと身体を震わせて、その拍子に塔屋から落ちかける。着信音に驚いて落ちて怪我をしたなんて笑い話にもならない。意地と根性を発揮しつつ、どうにかバランスを取り戻して姿勢を正し終えた後には、タロウは電話にでている頃だった。
声を潜めて、こっそりと聞いてみる。
『──し、もしもし? タロウ?』
「先生か」
『よ、良かった───繋がらないかと思ったよ』
電話の向こう側から聞こえてきたのは、安堵が滲んだ男の声だった。もしかしたらタロウよりも年上かもしれない。タロウの方が声音は若干低いが、男の声色の方がより重みと落ち着きがあった。
男──先生と呼ばれた声は、電話越しでもなんとなく姿が見えるぐらいの、胸を撫でおろしていることがわかるようなため息を零して、それからため息を吐いている時間すらもったいないと言わんばかりのせっかちさをもって喋りだした。
『そうだ! タロウに聞いておかなきゃいけないことがあって──時間大丈夫?』
「問題ない。それよりもなんだ? 聞いておきたいこととは」
『タロウは──今、ブラックマーケットにいるかい?』
「いない」
タロウが即答すると、先生は深刻そうな気配を露わにした。
『……そっか。答えてくれて、ありがとう。ということはもしかして、変身能力になにか問題が発生したりしてるのかな』
「……驚いたな。なぜ分かった?」
『実はちょっと……いや、かなり大きな事件が起きてて。
──ごめん。私もこれからいろいろと準備を進めなくちゃならないから、取りあえずクロノススクールの緊急配信を確認してくれると助かる。
あ、でも、くれぐれも無茶しちゃダメだよ! それじゃあ切るね』
「ああ。だが、アンタもあまり無茶をするなよ」
『た、タロウにだけは言われたくないかなぁ……でも、うん。ありがとう』
そう言い残して、先生は電話を切った。通話の途切れた携帯をポケットに戻したタロウへ、会話を盗み聞きしていたコハルがすぐさま語り掛けた。
「も、桃井っ!」
「どうした」
「いいからこれ見てっ!」
反応するよりも早く、コハルは横向きにした携帯の画面を、タロウの眼前に勢いよく突き付けた。眩しさに顔をしかめながら、タロウは目を細めて、クロノススクールの緊急配信が表示されている画面を眺める。
そこに。
映っていたのは──
「……これは」
なにもかもが火の海に飲み込まれた、ブラックマーケットだった。