ドンブルーアーカイブ   作:鰻の蒲焼

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そのじゅう

 

 

 

 

 

 

 

 

 要するに。

 自分は、完膚なきまでにフラれたのだ。

 

 

 

 

 

 だからこそ、浦和ハナコはその時の自分が抱いていた感情の揺れ動きを、まるで数分前にあったかのように鮮明に思い出すことができた。

 どうして、という純粋な疑問。

 なんで、という身勝手な怒り。

 もしかして、という見当違いな悲観。

 それでも、というみっともない拘泥。

 やっぱり、という心底からの納得。

 けれど、それらは時間が経った今だからこそ冷静に分析が適うのであって、当時の自分はそれはもう目も当てられないほど動揺した。

 もちろん表には決して出さなかったが、彼の観察眼からすれば、丸裸も同然だったことだろう。

 身体の裸をさらすことと、心の裸をさらすことはまるで違う。

 だからハナコは、この思い出を頭に浮かべるたびに、悶えるような羞恥感に駆られた。少なくともあの頃の自分は、そこまで彼に──桃井タロウに気を許していたわけではないから。

 

「……理由を、お聞きしても?」

 

 そんなハナコが問いかけると、思い出のなかのいつかのタロウは、いつものように腕を組みながら言った。

 

 ──アンタのためにならないからだ。

 

 ──おれは、荷物と幸福を運ぶ。だが、不幸を運ぶつもりなど毛頭ない。

 

 ハナコは思わず心のなかで嘲笑った。

 この男は、なにを馬鹿げたことを言っているのか?

 今の自分にとっての不幸とは、この世界にトリニティ総合学園が存在していることで、よりにもよって浦和ハナコは、その学園に所属している生徒であることだ。

 理解はしている。いくつもの学派が寄り集まり、積み重なってできあがったのがこのトリニティという学園だ。ゆえに、どれほど上手く運営を進めたところで、どうしても避けられない政治的な衝突や権力闘争が勃発してしまうのも無理はないだろう。そう、理解だけはしてやる。してやるとも。

 だが。

 だが、そんな争いに欠片も興味のない人間を、ただ平凡に日々を過ごすことを願う人間を、嬉々として巻き込むことだけは──絶対に理解などしてやるものか。

 うんざりだった。

 利用して、利用されて。

 蹴落として、蹴落とされて。

 足を引っ張って、足を引っ張られて。

 騙して、騙されて。

 裏切って、裏切られて。

 嘘をついて、嘘をつかれて。

 その果てに掴むものに、一体どれほどの価値があるというか? いいや、あるわけがない。あってたまるものかとさえ思う。粘ついた汚泥のなかに混ざっている石ころの方がまだ高値で売れるに違いない。

 煮えたぎる心から湧き出した本音を、どうにかオブラートの膜で何重にも包み込んでから、そのような意味の言葉を言った。

 すると、タロウはこう返してきた。

 

 ──アンタの言うこともわかる。この世で価値があるのは、真実だけだからな。

 

 ──だが。

 

 ──世の中には、美しい嘘もある……らしい。

 

 いつもの竹を割ったような口調はどこへやら、どことなく歯切れが悪そうに、タロウは告げた。

 

「……美しい、嘘」

 

 先程まで感じていた怒りをすっかり放り捨てて、ハナコは噛み締めるように、何度もその言葉を口にした。

 特段かわった言葉ではないのに、妙に意識を囚われたのは、きっと発言したのが桃井タロウだったからだろう。

 ハナコは別に、嘘が好きというわけではない。だが、その利便性は嫌というほど理解していた。

 嘘も方便。

 嘘をつくことは、罪悪のひとつだ。しかし物事を円滑に進めるためならば、より大きな善行を成すためならば──その存在は少なからず認められている。

 そうした意味のことわざがあるように、嘘とは世の中を生きて渡っていくためには欠かせない手段のひとつとして……いわば暗黙の了解として、人間社会に連綿と受け継がれてきているのだろう。

 一度も嘘をつかずに生きることができる人間なんて、どこにもいないはずだ。

 ハナコはずっとそう思っていた。だから、桃井タロウと出会って、彼の一度も嘘をついたことがないという生き方を知って、どこか救われたような気分になったのだ。

 人は嘘をつかなくたって生きていけるのだと。

 誰かを蹴落とし、欺かなくてもいいのだと。

 何も着飾らず、自然の、ありのままの姿として生きていてもいいのだと──

 

「──」

 

 それを自分に教えてくれた男が、嘘を褒め称えるような言葉を吐いた。ハナコが勝手に裏切られたような気分になってしまっていると、そのセリフを口にした時にタロウが浮かべていた、妙に含みのある表情を思い出した。

 そして、末尾についていた「らしい」という文言。

 もしかして、とハナコは思う。

 

「……それは、誰かからの受け売りですか?」 

 

 どうやら当たりらしい。指摘を受けたタロウはしっかりと頷いてみせた。

 

 ──ある男が、おれに教えてくれてな。自分で光らず、太陽の光の反射によって光っている月はウソつきだと。

 

 ──しかし、月の方が太陽よりも信用できるという。

 

「……何故?」

 

 そう尋ねると、タロウはハナコの双眸に自らのそれを重ね合わせてきた。

 男の眼差しは、吸い込まれてしまいそうなほど清らかで真っ直ぐだった。ハナコがたまらず息を呑んでいるなかで、タロウは淡々と言った。

 

 ──見つめることが出来るからだ。

 

「……見つめる、ことが」

 

 ──おれは今でも、真実こそが何よりも優先されるべきだと思っている。だが、そいつの言葉を……おれはいい言葉だとも思った。

 

「……だから、私はまだトリニティで苦しむべきだと、そう仰りたいのですか? 貴方の言う、美しい嘘とやらに──哀れに見惚れたままでいろと?」

 

 今になって思う。

 あれは完全な八つ当たりだった。普段の自分では考えられないほど感情を剥き出しにして、桃井タロウの言葉を全力で否定しにかかっていた。

 そんな自分とは正反対に、タロウは落ち着き払った様子で答えてくる。

 

 ──おれには、アンタがまだ迷っているように見える。

 

「……」

 

 ──逃げることを、否定はしない。それがアンタにとって、本当に歩みたいと思っている道ならば。

 

 ──しかし、未練を抱えたまま逃げだすことは、時に迷いながら生きていくことよりも辛くなるだろう。

 

 ──だから、おれはアンタを受け入れない。

 

 ──アンタがまだ、心の底からトリニティを嫌っているようには見えないからな。

 

「……」

 

 そう。

 政治に嫌気が差しているのは本当で、他者を利用することしか考えていない人間を嫌悪しているのも本当だ。

 けれど、好ましく思う相手がいるのも本当なのだ。

 このどうしようもない息苦しい監獄のなかで、それでも真っ直ぐに、平凡に、善良に生きようとしている誰かがいることを、ハナコはきちんと知っている。

 けれど、どうしても逃げ出すことが、頭から離れないでいるのは……結局のところ、自分が耐えられないだけなのだと思う。

 臆病であるが故に。

 顔見知りでも、あるいはまったく知らない他人でも構わない。

 彼女たちが手を柔らかく取り合わず、傷がつくほど跳ね除けあい、血が出るほど抓みあったりしているところを、見たくないだけだ。

 だって、それはとても悲しいことだから。

 傷つけあい、いがみ合い、憎み合うことが当たり前になっている世界など、間違っていると思うから。

 だというのに、それでもその世界で生きていけと、彼は言っているのだ。

 まだやり残したことがあるだろうと。

 まだ諦めきれない何かがあるだろうと。

 根拠の欠片もないくせに、何も知らないくせに。

 (浦和ハナコ)の気持ちを──わかっているくせに。

 

(───なんて)

 

 なんて酷い男なのかと思う。

 けれども同時に心が綻んでしまうのは、きっと──桃井タロウの口から出る言葉が、彼の心の声そのものであることを知っているからかもしれない。

 そう在れと期待するのではなく。

 そう居ろと願っているのではなく。

 桃井タロウは、ただ信じているのだ。

 浦和ハナコの、幸福を。

 

「───嫌な人ですね、本当に」

 

 そう吐き捨ててから、ハナコはそっと俯いた。表情が前髪に隠れて見えなくなる。

 やがて顔が上がった頃には、彼女の顔にはどこか吹っ切れたような爽やかな微笑みが浮かんでいた。

 

「……では、私、フラれてしまったんですね。

 これでもかというぐらい振り絞って、これ以上は無理というぐらい出して、出して、出し尽くして、もうすっからかんだというのに……ちっとも受け取ってくれないんですね、私の気持ちを。くすん」

 

 嫌味も込めて、さりげなく軽い泣き真似をひとつしてみる。するとタロウは心外そうに眉をひそめて、

 

 ──受け取らないとは言っていない。

 

「……え?」

 

 ──言ったはずだぞ。逃げることを否定はしないと。だから、アンタが本当にどうしようもなくなった時は、おれの所に来るといい。

 

 ──アンタとおれには、縁がある。

 

 ──さすがに雇うかどうかは社長の判断になるが……アンタと共に配達するのも、なかなか悪くなさそうだ。

 

「────」

 

 本当に。

 彼はどこまで、人の心を揺さぶれば気が済むのだろうか。

 権謀術数を張り巡らせるのではなく、配達というあり触れた仕事が自分に似合うと彼が思っていることが、どうしようもなくおかしくて、ハナコは自分の頬に手を添えた。

 そうしていなければ、今にも溶け落ちてしまいそうなほど緩み切っているのが自然とわかった。

 

「私が、配達屋さんですか? ふふ。随分とまあ──……変わったことを言いますね。本当に」

 

 ──なぜ笑う? おれは真面目に話しているんだが。

 

「だから、ですよ。

 ふふ、ふふふっ、うふふふ……」

 

 久しぶりに、腹の底からこみ上げてくる笑いを思う存分感じながら、ハナコは肩を震わせ続けた。自分がまだこんな風に笑えることがおかしくて、笑いは一向に止まなかった。

 高らかに、軽やかに、声を宙に舞わせながら。

 まるで鎖から解き放たれたように、少女はいつまでも笑い続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 それから、しばらくの間。

 ハナコは変わらず、トリニティで日々を過ごしたが、息苦しさを感じない瞬間は一度としてなく、ゆっくりと退学の意志を固めていった。

 桃井タロウが投げかけてくれた言葉は、きっと、彼が受け売りだと言っていた『美しい嘘』だったのだと。

 もし彼の元に身を寄せて、配達人として働くことになったとしたら、いったいどんな風に振舞おうかと、憧憬にも似た希望を抱きながら。

 自分はついぞ、このトリニティのなかに居場所を見つけられないまま終わるのだと、絶望にも似た諦観を抱きながら。

 

 

 そう、思っていた。

 

 

 〇

 

 

 クロノスジャーナリズムスクールの緊急配信──炎上するブラックマーケットと空を飛び交う二つの異形の報道を見て、タロウに連絡をしようと思ったら、まったく見知らぬ少女の声が返ってきた。

 だからハナコが名前を尋ねると、少女はこう告げた。

 

『───ファウストですっ!』

 

 一発で偽名だとわかった。

 あまりにも見え透いたものだから、逆にこれはかなり高度な罠なのではないかと、ハナコは疑った。

 しかし、それはつまりドンモモタロウがなにかしら差支えがある状況に追い込まれていることを同時に意味していた。

 あり得ない、とハナコは思う。

 ドンモモタロウの理不尽なまでの強さは、かつてヒトツ鬼の事件に巻き込まれた際によく思い知らされている。

 ならば。

 この通信機の向こう側にいる、袋を被っているように声がくぐもった少女が、ドンモモタロウ以上の脅威とでも?

 

「……」

『あ、あのー……ファウスト、ですけど……』

 

 密かに警戒心を高めているハナコに気づいているのかいないのか、ファウストと名乗った少女は、おそるおそる話しかけてきた。

 ハナコの思案は一瞬だった。

 何者であれ、確かめるべきことはひとつしかない。すっかり乾いた唇を舐めて、ハナコはファウストに問いかけた。

 

「ファウストさん、でしたか。単刀直入にお聞きします。あなたは──タロウさんとはどのような関係で?」

『友達です!』

「──」

 

 答えは即座に返ってきた。予想だにしていなかった返事に硬直するハナコの耳へ、叩きつけるようにファウストは叫んできた。

 

『向こうがどう思っているのかはわかりませんが──少なくとも、私はそう思っていますっ!』

『はあぁ!? そんなの聞いてないんだけどっ!』

『えっ、あれ、言ってませんでしたっけ?』

『あ、あんた、あいつと友達やってるのっ!? 知り合いじゃなくて!? なんで!? バカ!?』

『なんであなたが反応してるの?』

『だって、あいつに付き合えるのなんて、私ぐらいだと思ってたから……じゃなくてうえうえうえうえうえ──────っ!!』

 

 ファウストとは別の声が、悲鳴じみた叫びを漏らしたと同時に、通信機越しでも伝わるような、鼓膜そのものを揺るがす爆発音が不意に轟いた。

 次いで、濛々と立ち込める煙と耳障りなノイズを食い破るように、エンジンの猛り声と、タイヤの激しい足音が高く耳朶を打つ。

 

『──っああもうっ! ほんっと信じられないっ!! なんでここはこんなに物騒なのよっ!!』

『考えが甘い。いついかなる場合でも、攻撃される可能性は想定しておかなくちゃ』

『それが信じられないって言ってるのっ! どこの世界に、手榴弾が雨みたいに降ってくる可能性が存在してるってのよっ!!』

『私達が相手にしているのはヒトツ鬼だ。これまでの常識が通用する相手じゃない』

『一度距離を離した方がいいかもしれませんね……あっ、すみません。えっと、ハナコさん? ちょっといま取り込み中で、タロウさんに伝言があるなら、私から伝えて──』

 

 この瞬間、ハナコは三つの可能性を考えていた。

 一つ目は、彼女達がヒトツ鬼の味方であり、ドンモモタロウの敵である可能性。

 先程の言葉は、こちらを油断させるための嘘。タロウの関係者を装い、こちらから情報を引き出すことで、戦況をヒトツ鬼側へ傾けようと画策している──

 しかし、この線は薄いだろう。すぐ手元の端末の画面で、リアルタイムに配信されているヒトツ鬼とドンモモタロウの戦闘を見れば、そのことはわかった。

 一見拮抗しているように見えるが、優勢を保ち続けているのは──ドンモモタロウだ。ヒトツ鬼側が逆転する気配は、今のところ垣間見えすらしない。だというのに援護が飛び交っていないことから、ヒトツ鬼はやはり単独犯なのだと思う。

 二つ目は、彼女たちがヒトツ鬼ともドンモモタロウともまったく関係のない第三者である可能性。

 ブラックマーケットの住人が、たまたま放置されていたドンモモタロウのバイクを拾い、たまたま運転することができていたなかで、たまたま自分はその最中にかけてしまった。

 先程の言葉は、まったくのでたらめ。怪しまれないように思いついたでまかせを次から次へと放り出しているだけで、桃井タロウ/ドンモモタロウの存在を知ってはいても、その実態までは知らない──

 これも、あり得ない可能性が高い。そもそも窃盗犯ならば、怪しまれないように虚言を並べ立てるよりも、トラブルかなにかのせいにして通信を切断してしまう方がよっぽど楽だろう。それに『友達』という言葉は、咄嗟のチョイスにしては少々不自然で、不適切な気がする。

 確かに桃井タロウは、向かう先々で人々と縁を結んでいることで有名だが、だからといって、出会った人々すべてが友達というわけではないのだ。

 むしろ……好ましく思わない相手の方が多いかもしれない。

 そして、三つ目の可能性。

 彼女たちはヒトツ鬼の敵で──

 

(……彼の、味方である可能性)

 

 それが一番、望ましいのは間違いない。

 しかし、ハナコは躊躇っていた。顔も素性もわからない誰かを、彼の味方であると──彼ではなく、自分が信じてもいいのかと。

 彼のように、誰かを愚かしいほど信じることができれば良かった。けれど、自分はそうすることができなかったのから、今もここにいるのだ。

 だから。

 後押ししてくれる証拠が欲しい、と思う。

 桃井タロウと縁があるという、確固たる証拠を。

 彼女達が『桃井タロウ』という力にではなく、『桃井タロウ』という一個人に対して興味を抱いている証拠を。

 そうすれば自分はいくらでも信じられる。恐れることなく、彼の力になることができる。

 そう、証拠だ。

 証拠さえ、あれば──

 

「……ひとつ、質問してもよろしいですか?」

『? はい、大丈夫ですけど……』

 

 ファウストからの返事を聞き届けたハナコは、決意の籠った力強い口調をもって、突き付けるようにこう問いかけた。

 

「タロウさんの───今日のパンツの色を知っていますか?」

『………………はい?』

「タロウさんの、今日のパンツの色を、ご存知ですか?」

『………………………………はい?』

 

 あまりにも突然すぎる質問に、ファウストが混乱に陥っているのがよくわかった。それこそがハナコの狙いだった。

 人は、咄嗟の変態的質問に対して、嘘をつくことはできない。

 狼狽えるか、戸惑うか、怒るか──これは滅多にないが、馬鹿正直に答えるか。そのどれかに絞られる。

 次で即座に嘘をつき出していれば、ハナコはファウストをタロウとは無関係と認定するつもりだったが、ファウストは『そ、そういうのはもうちょっと、こう、お互いを知ってから……』とボソボソ呟いている。

 つまり、動揺こそしているが、嘘をつく気配はないということである。

 

「……」

 

 完全に敵ではないと断定できたわけではない。だが、今の段階で得られる情報だと、この辺りが引き際かもしれない。

 だから、最低限の情報だけ伝えて、残りの重要度が高い情報は、現地に出向いて直接彼に伝えるのが妥当だろう──

 そう考えた直後。

 

『──ピンク色!』

「──!」

『ピンク色でしょ! あいつのパンツっ!』

 

 ハナコの耳に、信じられない言葉が滑り込んできた。

 信じられないと思ったのは、それがデタラメではなく、本当に合っていたからだった。夜の徘徊で偶然であった際に、タロウの下着は確認してある。何故かと言われれば趣味以外のなにものでもなかった。

 しかし、あてずっぽうの可能性はまだ摘めない。ハナコはさらに質問を重ね始めた。

 

「……柄は?」

『桃柄っ』合っている。

「形は?」

『確か……トランクス!』合っている。

「サイズは?」

『ちょっと大きめ!』合っている。

「■■の大きさは? あっ、目測で構いません」

『思ってた以上に──……って、バカ!! なに言わせようとしてんのよこの変態ッ!!」

 

 途中で我に返ったらしく、声の主は甲高い罵声をここぞとばかりに浴びせかけてきた。その一方でハナコは、打てば響くような会話に対して、これ以上無いほどの楽しさを感じていた。

 同時に、思う。

 他者の人格に興味の無い人間が、これほど詳細に下着を把握できるだろうか? あり得ない。それは願望ではなく、自身の経験に基づく確かな信頼だった。

 だからハナコは、ファウストたちを信じると決めた。

 必ず、桃井タロウを助けてくれると。

 

「……お願いがあります」

 

 ハナコは呼吸を落ち着かせてから、推測できたヒトツ鬼の正体とその行動原理を語り聞かせ、反応から予想が正しかったことを確信し──

 

「タロウさんを、どうか───」

 

 自身の頭にあるすべてを、ファウストたちへと託した。

 

 

 〇

 

 

「そぉおおおおらぁああああッ!!」

 

 真紅の武者──ドンロボタロウが猛々しく吠えながら虚空を疾駆する。

 赤く輝く巨体をもって、音の壁と夜の闇を切り裂きながら突き進んでいる。その速さをもって振るわれる剣には、このキヴォトスにおける如何なる銃器をも超える、尋常ならざる威力が籠められているのは疑いようもない。

 その斬撃を、海賊鬼は同じく尋常ならざる技をもって迎撃する。

 

「──ッ!」

 

 思考すると同時に、海賊鬼の周囲に多種多様な銃が浮かび上がった。

 アサルトライフル。

 ショットガン。

 マシンガン。

 グレネードランチャー。

 スナイパーライフル。

 対物ライフル。

 それ以外にも多数。数えるのがいっそ馬鹿らしくなるほどの、担い手のいない銃の軍勢は、揃いも揃ってその銃口を迫るドンロボタロウへと向けていた。

 そして。

 

「撃てぇ────────!!」

 

 海賊鬼の号令とともに、破壊しか齎さない銃弾の嵐がブラックマーケットの空中に生み出された。

 一つ一つはか細い火線だが、無数に寄り集まったことにより、一本の巨大な光線と化していた。ならばその破壊力も言うに及ばず。

 もはやキヴォトス人ですら耐え切れない威力を持たされた破滅の光は、迷うことなく一直線にドンロボタロウへと突き進んでいく。

 だが。

 

「通じるかァ──ッ!!」

 

 対するドンロボタロウは不敵に笑うと、振りかぶっていた剣──ザングラソードをそのまま勢いよく振り下ろした。

 たちまち刀身からドンロボタロウの背丈をはるかに超える光の波が発射される。飛ばされた斬撃は躊躇うことなく銃弾の嵐へと突っ込んでいき、そのまま衝突。

 ブラックマーケット中に響き渡るような爆発音が炸裂し、大きな黒煙が雲となって漂い始める。

 間を置かず、海賊鬼は第二斉射を撃ち放った。今度は一点に集めるのではなく、分散させて面を制圧するように。

 暴嵐ではなく豪雨となった銃弾たちは、膨れ上がろうとしていた黒煙の体積を一瞬でゼロとしてから、その向こう側にいるドンロボタロウの身体を直撃する──

 ことはなく。

 

「ぼうっとしたなッ!」

「!?」

 

 急激に軌道を変えて回避したのだと海賊鬼が察した直後、斜めから急降下してきたドンロボタロウの両足が海賊鬼の身体を蹴り飛ばした。

 堪えることなどできはしなかった。衝撃と痛みを伴いながら吹き飛んだ海賊鬼は、やがて近場にあったビルの屋上に叩きつけられた。

 

「ぐ、う──づっ!」

 

 アスファルトを砕きながら、どうにか勢いを殺そうと試みるが、身体は一向に言うことを聞き入れない。

 蹴り飛ばされた勢いのまま、海賊鬼はフェンスを突き破り、ふたたび空中へと投げ出された。

 ぐるぐる、と宙で幾度となく回転している最中に、耳鳴りめいた音がどこからともなく響いてきた。しかもその音は、どんどんこちらに近付いてくる。その正体は、視線を向けずともわかった。

 ドンロボタロウ。

 一切の情け容赦なく、彼は自分にとどめを刺そうとしている。

 

 ──やっぱり、強い。

 

 絶対絶命の窮地が迫ってきていても、海賊鬼の心に焦りはなく、むしろ歓喜の気持ちさえ抱いていた。

 暴力を振るう相手には、より強い暴力をもって対抗するという自分の考えは、間違っていなかったのだ。

 彼が否定したのは、たぶん、自分がまだまだ未熟だったからだろう。もっと力を付けていれば、彼も認めてくれたに違いない。

 そう。力さえあれば──

 深まる少女の欲望に応えるように、海賊鬼の身体が変質を回避する。

 

 ──静山マシロのような、卓越した狙撃技術が欲しい。

 

 願いに応じて、狙撃を行う際に必要な筋力と視力が付与される。

 

 ──仲正イチカのような、群を抜いた状況判断力が欲しい。

 

 願いに応じて、戦況を全方位から把握できるように眼球が増設される。

 

 ──羽川ハスミのような、敵を一撃で仕留められる技が欲しい。

 

 願いに応じて、神秘を最大効率かつ最大出力で叩き出せるように、右腕がいびつで長大なスナイパーライフルへと改造される。

 

 ──剣先ツルギのような、常軌を逸した回復力が欲しい。

 

 願いに応じて、負傷した箇所を再生するのではなく切り捨てるような体表面へと改造されていく。

 

 ──ドンロボタロウのような、自由自在の飛行能力が欲しい。

 

 願いに応じて、背中に内臓にかかる負担を無視して一瞬で最高速度を叩き出せるブースターが取り付けられる。

 

「あ──はは、あははっ!」

 

 恍惚とした笑いが、海賊鬼の口にあたる部分から零れ落ちる。

 その異形はもはや、海賊鬼としての原型すら無くしていた。溢れ出んばかりの力の奔流を受け止めて、ドンロボタロウは目前のヒトツ鬼が暴走状態へ突入したことを察知した。

 一刻の猶予もない。

 そう判断したドンロボタロウは、ザングラソードのディスクを強く回転させてから、正眼に構える。

 一撃で決める。

 内息は充溢。気息は清澄。仮にどのような攻撃が来たところで、真っ向から迎え撃つ自信があった。

 

「さぁ──そろそろ仕舞いだッ!」

 

 気は熟した。

 ドンロボタロウの背中のバーニアが強い噴射を開始する。速度に抗うことなく飛翔を開始した鎧武者を、海賊鬼はなぜか嬉しそうに見つめていた。

 

「……あなたなら、そう来ると思っていました」

 

 そして、銃口がゆっくりと動き、標的を静かに定めた。

 ドンロボタロウではなく、足下に広がるブラックマーケットの街並みへと。

 

「────そうかッ!」

 

 ヒトツ鬼はこの世のなによりも純粋な存在だと評したのは、どこの誰だったか。

 自分は、少女の欲望を見誤っていたのだ。力を求め続けたが故にヒトツ鬼に変貌したとばかり思っていた。しかし、違った。それだけではなかった。

 少女は、正義実現委員会の一員。

 だから、おそらく──

 

(『悪』の存在を、許さない────!)

 

 気付いたところで間に合わない。

 弾丸を込め、狙いを定め、引鉄を引く工程を省き、さらには召喚する手間さえ無くしたことにより、今の海賊鬼の攻撃は、このキヴォトスにおいて最速のものとなった。

 そしてその銃弾の威力は、体内に収集したすべての銃器の銃撃が結集させられたことにより、一発がミサイル級の破壊力を持っていた。

 

(二秒、足りないかッ!)

 

 刹那、ドンロボタロウは躊躇わず、七色に光るザングラソードを海賊鬼の放った銃弾目がけて投擲した。

 風のなかを矢のように突き進んだザングラソードの切先は、外れることなく銃弾の中央部を貫く。

 光が弾け、風が荒ぶり、音が砕け、産み落とされた振動が世界を揺るがした。

 バーニアによって揺らぐ姿勢をどうにか制御しきり、ドンロボタロウは手放したザングラソードを回収せんと速度を上げる。

 だが、その瞬間には既に、海賊鬼は加速度的に破壊と再生を繰り返している右腕を構えて、第二射の準備を始めていた。

 

「──!」

「間に合いますか? この一撃に──」

「試してみろオッ!!」

「あはははははっ!!」

 

 期待と狂気の滲んだ哄笑をあげて、海賊鬼は必殺必中の一撃を繰り出した。

 ザングラソードの回収が間に合わないというのであれば、この身ひとつで受け止めるだけだ。ドンロボタロウが己のギアを高めようとした瞬間だった。

 

「──ペロロ様! お願いしますっ!」

 

 そんな掛け声と同時に、ひとつの人形がどこからともなく飛び出してきた。

 その人形は、カバのようであってカバではなく、豚のようであって豚ではなく、単なる鳥のようであって単なる鳥ではなかった。

 その人形はペロロ様だった。

 ペロロ様以外の何者でもなかった。

 だから絶対に大丈夫だと、巨大なペロロ様のぬいぐるみを呼んだファウスト──阿慈谷ヒフミは確信する。

 そして、ヒフミが思った通りに、海賊鬼が放った銃弾はブラックマーケットではなく、ペロロ様の胴体へと向かう。

 弾丸を叩き込まれたペロロ様の白い身体はぐしゃあ、と大きく音を立てて歪み、ひしゃげ、捻れ、曲がり──その果てにあらゆる衝撃を吸収しきった。

 

「流石です、ペロロ様っ!」

 

 ヒフミはガッツポーズを決めた。これで、ハナコという少女が伝えてきた作戦の第一段階はクリアした。次の一手を担うのは、最後尾に座ったペンギンだ。

 しかし、動く気配がまったく見られない。もしや何かトラブルがあったのかと不安になって、ヒフミは振り向いた。

 そこには。

 

「────可愛い……!」

 

 ガスマスク越しでもわかるぐらいに顔を輝かせている少女の姿があった。

 

「ぺ、ペンギンさん……?」

「か、可愛すぎるっ! 何だあれは、あの、丸くてふわふわした生き物は……!? あの目、表情が読めない……何を考えているのか全く分からない……っ!!」

 

 前に座っているコハルの肩を掴んで立ち上がるほどに、ガスマスクの少女はペロロ様に夢中になっているらしい。

 遅れてそのことを認識したヒフミの眼差しが、瞬間的に燃えるような待望と希望に包まれた。そして腕だけを残して、完全に身体をペンギン側へと振り向けた。

 なので下江コハルはすごくビビった。運転手が前を一切見ないという暴挙に走り出したこともあったが、いきなり目前に狂人同然の光を宿した瞳を突きつけられたからなのが一番の理由だった。

 きゅうりを足元に置かれた猫さながらに目を見開くコハルをヒフミはまったく気にせず、ガスマスクに向けて唾を飛ばさんばかりの勢いで、ペロロ様の魅力を早口に語り始めた。

 

「──っ! わ、わかりますか? わかってくれますかっ!? そうなんですペロロ様は羽も毛もトサカも嘴もとっても可愛いんです最高なんですっ!!」

「わかる、わかるぞ……! あの立派な羽、柔らかそうな体毛、愛らしいトサカ、凛々しい嘴……そのすべてを台無しにしかねないように見えていて、全体の絶妙なバランスを成り立たせている立役者な眼差し……すべてが愛くるしい! 可愛すぎるっ!!」

「そうですそうですそうなんですよっ!!!!」

「どうでもいいから前見て運転しなさいよばかあっ!!」

 

 前後を挟んで会話をするのは別に構わないが、今は運転中だということを忘れないで欲しい。というか忘れる方がどうかしている。

 そんなコハルの願いが届いたらしい。我に返ったヒフミは慌てて前に向き直し、運転を続行する。

 三人を乗せたエンヤライドンがいる場所は、ビルの隙間を通り抜けていくように建設された高架道路だった。しかし車の姿は無く、半ば無人に近い状態である。だからヒフミは遠慮なく加速することができた。

 凹凸の激しいアスファルトをタイヤが噛む度に伝わる振動を掌で受け止めながら、ヒフミは空を見上げた。

 ドンロボタロウを真似るように空中に浮かんでみせている海賊鬼。

 自分には見えない。しかし、彼女になら見えるはずだ。名残惜しさを感じながら、ヒフミはふたたびペンギンの名を呼んだ。

 

「ペンギンさん! 重ね重ねになりますが……お願いしますっ!」

「……うん、ごめん。取り乱した。じゃあ、作戦を実行してくる」

 

 二、三度頬を軽く叩いてから、ペンギン──白洲アズサは、ガスマスクの目の部分を擦り、自らの視界に脳人レイヤーを映し出した。そして、自身と海賊鬼の周囲にある扉の数を確認する。

 

「───よし」

 

 小さく頷いてから、アズサはおもむろにエンヤライドンから、道路へと身を投げだした。

 少女の小柄な身体は、高速で過ぎ去り続けるアスファルトへ無残に叩きつけられるかと思われたが、予想に反して見えない扉の奥へ引きずり込まれるようにして消えた。

 脳人レイヤーへの接続──それは、作戦の第二段階が半ば達成されたことを意味していた。

 だからヒフミは、最後の段階を担う少女に視線を向ける。

 そして、合図を貰うまでもなく、下江コハルは立ち上がり、鼓膜を突き破らんばかりの大声を張り上げる準備をしていた。

 すうっ、と息が吸い込まれる。

 やがて。

 

「も────────────────も────────────────いぃ────────────────っ!!」

「──」

 

 ドンロボタロウが反応を示したことを察知したコハルは、続けざまに吠えた。

 

「か────────────────な────────────────と────────────────こぉ────────────────っ!!」

 

 その言葉の意味を真っ先に察したのは、ドンロボタロウではなく海賊鬼だった。より正しく言うなら、ヒトツ鬼の宿主である正義実現委員会の少女だろうか。

 正義実現委員会は、トリニティの治安と平穏を守るべく、日々の鍛錬を怠らない。

 さらにはティーパーティー──トリニティの実権を握る生徒会直属の組織という一面も備えているためか、ある種軍隊に近い実態となっていた。

 それゆえに。

 集団戦を制すにあたって重要事項となる戦術に関して、それ相応の知識が求められるのは必然であり──彼女が、下江コハルの「かなとこ」が『鉄床戦術』を意味しているとすぐに判断できたのは、当然と言えば当然のことだった。

 鉄床戦術。

 軍をふたつの部隊にわけ、一方の部隊が囮となって敵を引きつけている間に、もう一方の部隊が敵の背後や側面に回り込んで挟撃を仕掛ける戦い方。

 半分固定状態の部隊に引きつけられた敵が、機動力のある部隊に打ちつけられる様子を、鍛冶屋の使う槌と金床のそれに似ていると評されたことからそう呼ばれている。

 つまり──

 

「あなた達が金床で、ドンロボタロウさんと、ガスマスクの人が槌──ですか?」

 

 ザングラソードを回収した後は、コハルの叫びを聞き入れたようにどこかへ飛んでいったドンロボタロウの姿を見て、海賊鬼は確信した。

 同時に、仲正イチカを見習って増やした眼球を四方八方へと向けさせて、ありとあらゆる角度からの攻撃に備える。ここが勝負所であることを、彼女は直感していた。

 

「──」

 

 一秒が経過する。

 動きはまだない。

 二秒が経過する。

 動きはまだない。

 三秒が経過する。

 動きはまだない。

 四秒。

 来た。

 

「Vanitas vanitatum───」

 

 声の方向は右斜め上に浮かぶ、脳人レイヤーの扉。そこから飛び降りてきたのは、狙いを定めるためにガスマスクを半分だけずらして、自らの素顔を外気に晒した少女。

 

「───et omnia vanitas」

 

 三日月めいたヘイローの背後に、同じ形でさらに二回りほど大きなヘイローを携えた彼女と、構えられた銃口からは、濃厚なまでの神秘の気配が放たれていた。

 引鉄が引かれる。

 貫くように放たれた弾丸はただの一発。しかし、そこに込められているのは火薬だけではない。それを理解していたから、海賊鬼は油断することなく回避を優先した。

 至近距離にも関わらず、銃弾を目視してからの回避をやってのけた海賊鬼を見て、アズサはほう、と感心したような吐息を零した。

 

「──目が良過ぎるというのも、考え物だな」

 

 神秘の銃弾は地面に向かわず、脳人レイヤーのマンホールを穿つ。

 瞬間、マンホールによって弾かれた弾は、辿った軌道を遡った。すなわち──海賊鬼の胴体へ目掛けて。

 もっとも、相手が脳人レイヤーの構造物を把握/利用できるのは想定済みだ。海賊鬼はドンロボタロウを模したバーニアを噴射させて、逆行してきた銃弾をふたたび回避。さらなる跳弾を避けるべく、戦場を移そうと近場にあった扉を開き──

 

「ひとつのことが見え過ぎるせいで、逆に囚われてしまうらしい」

 

 アズサが仕掛けたプラスチック爆弾が、滞りなく爆発した。

 爆風という衝撃波によって形成された爆風圧が、海賊鬼の身体を激しく打ち付け、瀑布のような勢いで嬲る。致命傷には至らない。だが、完全に油断していたこともあってか、海賊鬼のヘイローは何度か点滅を繰り返した。

 そこを、ドンロボタロウがつく。

 

(────ことは、わかってました! あなたなら、そう来るとっ!!)

 

 海賊鬼は吐き気と痛みを堪えて、視界の確保に意識を集中させる。

 めまぐるしく回転する視界はたちまち鮮明になり、彼方から七色に光る剣を携えて、こちらに向けて飛んで来るドンロボタロウの影と、そこから放たれる壮絶な圧力を捉えることができた。

 鉄床戦術。

 ただし、囮の部隊はひとつではなく、ふたつだった。バイクに乗って高架道路を走る紙袋を被った少女と、脳人レイヤーを渡り歩くことができる少女。

 そのふたつに気を取られたところを、本命の部隊であるドンロボタロウが仕留める──そういう流れ。

 しかし、自分は読み切った。裏の裏まで読み切って、勝利を収める道に乗ることができたのだ。

 

 

 ◇

 

 

 

『──彼女がヒトツ鬼となった原因は、より強い力を求めた為に見えるでしょう』

 

『ですが、きっとそれだけではありません』

 

『彼女が曲がりなりにも正義実現委員会のメンバーである以上、愛と平和を重んじる……いわば治安の維持に重きを置いていたはずです。大なり小なりではありますが』

 

『なので』

 

『彼女がヒトツ鬼に取り憑かれることとなった一番の原因は、おそらく、ありとあらゆる悪の根絶──』

 

『このキヴォトスにおいて、治外法権が大手を振ってまかり通り、連邦生徒会の手すら及ばないほどの深淵……』

 

『ブラックマーケットに対する悪感情、およびその廃絶に根差しているのではないかと、私は考えます』

 

『要するに、ブラックマーケットに纏わるものを、彼女は決して無視できないのです。行動範囲を、ブラックマーケット外に広げていないことが、そのなによりの証拠でしょう』

 

『だから──』

 

 

 

 ◇

 

 

 

「────最近、ブラックマーケットで評判の、『たいやき処 あばたろう』っ!」

 

 コハルは覚悟を決めて、海賊鬼の耳に確実に入るような叫び声で、自身とブラックマーケットの間にある縁を暴露した。

 

「───そこの従業員なの、私っ!!」

「えっ!? そうだったんですか!?」

「あんたはちょっと黙っててっ!!」

 

 傍らで驚愕を露わにするヒフミを置いて、コハルは真っ直ぐに海賊鬼を睨み付けた。

 いつか感じた抗いようのない恐ろしさは、微塵もない。

 純粋な決意を宿して黄金のようにきらめく瞳が、そこにはあった。

 

「あんたの大っ嫌いなブラックマーケットの関係者よっ! どうっ!? 許せないでしょっ!!」

 

 コハルの挑発に、海賊鬼は────見事なまでに応えた。

 微かな理性を放り捨て、多大な狂気を抱きしめながら、近場にあったマンホールを蹴りつけて凄まじい速度で迫る。

 徹甲弾のように威圧的に。

 散弾のように隙間なく。

 焼夷弾のように広がりながら。

 しかしコハルは負けるもんかと、最後の最後まで視線を逸らさなかった。

 信じていた。

 きっと、ドンロボタロウならば、ドンモモタロウならば。

 桃井タロウならば。

 

 

 ──『秘技!』

 

 

 絶対、きっと、間違いなく、そうしていたに違いないから──!

 

「心桃ォ──滅却……!」

 

 その瞬間、コハルの背後から、聞こえるはずのない声が聞こえてきた。

 振り向かずともわかっていた。自分の後ろに立っているのは、正真正銘本物のドンロボタロウ。

 その光景を見て、ならば、とわずかに残った冷静な部分で、海賊鬼は考える。

 自分が目撃したドンロボタロウは、一体なんだったというのか?

 答えを求めるようにぎょろぎょろと忙しなく蠢いた眼球が、やがてその信じがたい正体を、脳に偽ることなく伝達してきた。

 

(──────分、身……!?)

 

 しかし、あの圧は確かに本物だった。

 ならば、まさか──あれは質量を持った残像だったとでもいうのか。

 

(あり得ない……っ!!)

 

 だが、あり得ないことを実現してみせるのがドンモモタロウであると、彼女は知っていた。

 知っていたはずだというのに、目を外してしまった時点で──彼女の敗北は決まったのかもしれない。

 

「─────アバター」

 

 エンヤライドンのリアを蹴りつけて、ドンロボタロウは飛翔した。

 握り締められた柄が、鈍い音を立てる。

 腰に据えられた剣が、眩い光を放つ。

 武者が放つは光の刃。

 業を切り断つ、覚醒の一閃。

 

「光刃────────ッ!!」

 

 

 ──『キアイ!

      イサイ!

        イアイ斬!!』

 

 

 その斬撃は七色に輝きながら、海賊鬼の胴体を一直線に薙いだ。

 海賊鬼の身体から、赤い稲光が放たれ始める。

 それと同じタイミングで、ドンロボタロウは遅れて追いついたエンヤライドンのリアに再度足を下ろして、ザングラソードを旗のごとく掲げた。

 そして、高らかに勝鬨をあげる。

 

「────大、勝、利ィ~~~~~~ッ!!」

「えい、えい、お────────っ!!」

 

 なぜかヒフミが続いた瞬間、背後に取り残された海賊鬼の身体が爆発した。

 これが最後と言わんばかりに盛んに巻き起こる爆風と、ドンロボタロウの高笑いを受け止めながら、コハルは気が抜けたように肩を下ろす。

 

「はあ……」

 

 長い旅をようやく終わらせることができた時のような達成感。

 永遠に続くと思っていた祭りが終わるのを察知した時のような寂寥感。

 そのふたつを感じながら、コハルはブラックマーケットの夜に身を任せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 




次回で五章終わりです。
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