ドンブルーアーカイブ   作:鰻の蒲焼

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ドン6章 さいきょうナイン
そのいち


 

 

 

 

 

 

 

 正直言って、野正レイは限界だった。

 

 

 具体的に言うと、体力と気力が底の底まで枯れ果てていて、その場から一歩踏み出すどころか、指一本動かすことすら億劫なほどだった。

 喉は乾いてぴったり張りつき、目は皮膚の弾力性を失って落ち窪み、四肢は血液が溶けた鉄になってしまったように重い。

 その他にも、吐き気、痙攣する筋肉、すっかり汗の出なくなった皮膚。

 そんな状態に陥っていても、まだこうして立っていられるのが、レイは不思議でならなかった。

 それは、雲の上から惨状を見守っていた神様とやらが不憫に思って起こしてくれた、一生に一度しかないレベルの奇跡なのか。

 だとすればクソくらえだとレイは思う。今ごろ奇跡を起こされたってどうにもならない。それに奇跡を名乗るのならば、自分だけではなく先輩達にも降り注げと罵ってやりたい。

 ならば──大会のために加入したトレーニング部で積まされた、地獄のような鍛錬のおかげか。

 だが、もう、どちらだろうとどうでも良かった。レイはもはや、数十秒先の自分が立っているビジョンを、朧げですら思い描くことができなかった。

 野球とは、団体競技なのだ。

 たった一人で戦い抜くのではなく、九人で一つとなって戦い続けなければならないゲームなのだ。

 なのに、今のグラウンドに立っているのは、敵チームが九人と自分一人。

 はっきり言う。

 やってられなかった。

 もちろん、ズバ抜けた力を持った個人が、チームを勝利に導く大きな要因となることも、大いにあり得るだろう。

 野球というゲームは、とことんまで突き詰めれば、最終的に打者と投手の勝負に行き着くからだ。

 試合に勝つために必要な点を取ることができるのは、打者以外になく。

 そんな打者を明確に殺すことができるのは、投手以外にない。

 例えば、打率三割を超える強打者。

 例えば、防御率一点台をマークし続ける投手。

 優れた記録を持つ者達が、たびたび表彰されるのは、野球がそういった一面──剣士達が紡ぎ出す、一対一の真剣勝負にも似た側面を持っているからだろう。

 しかし、世界に不変はあり得ない。

 風が吹けば桶屋が儲かるように。

 蝶の羽ばたきが嵐を巻き起こすように。

 何かひとつの小さなきっかけがあれば、それだけで世界は己の様相を容易く、大きく変化させてしまうのだ。

 そしてその影響は、試合中であっても容赦なく襲いくる。

 気温の変化、気圧の変化、それにともなう体調の変化。

 一つ一つは些細かもしれない。しかし、塵も積もれば山となり、涓涓塞がざれば終に江河となる。

 重なり形を成した目に見えないそれは、やがて粘つく魔の手となって、選手達の喉元に忍び寄る。

 それらを前にして、確実に、絶対に、必然的に──誰が見てもそう断言できるような、打者を討ち取る球を放つことができる投手はいない。

 投手がありとあらゆる強い意志と意図を込めて放ってくる投球を、バックスクリーンに叩き込める打者はいない。

 必ずどこかしらで、綻びが生じてしまう。それが人間だった。それが正常だった。

 だからこそ、捕手がいる。内野手がいる。外野手がいる。

 生じた綻びを繕うための存在がいる。

 要するに野球は、確立された団体競技でもあり、研ぎ澄まされた個人競技でもあった。

 本来ならば両立するはずのない両者が、当然のように並び立つ。それは間違いなく、野球の魅力を担う要素のひとつとも言えよう。

 レイも勿論、その魅力に惹かれた野球人のひとりだった。一番はやっぱりホームランを打つことではあるけれど、時には汗を、時には涙を流しながら、力を合わせて勝利に向かってひた走るチームプレイも、いつか実現できたらいいなと思っていた。

 いくら自分の所属するチームが、道具の改良とデータを重視するガッチガチのギッチギチな理論派で、万年ランキング外で、試合中の奇行が評判で、野球とは無縁に見える集団だったとしても──

 それでもレイは、彼女達と叶えたいと思うのだ。

 例え、向ける矢印の形が違っていても。

 野球が好きだという気持ちは、同じだったから。

 

(ああ────)

 

 レイはそこでようやく理解できた。

 どうして自分が、まだ立っていられるのか。

 悔しいのだ。

 ムカつくのだ。

 腹が立って仕方がないのだ。

 自分の大事な仲間達が、こうしてズタボロにされていることが───!

 

「ふっ……──は、あ、ふゥうッ!」

 

 息を大きく吸い込む。それからレイは、上半身を一度深く沈ませてから、勢いよく後ろに振り上げた。

 てこの原理さながらに跳ね上がった身体を、なんとか九十度の位置で食い止める。そしてズレたヘルメットを調整しつつ、何度も深呼吸を繰り返した。

 熱気のなかに浮かぶ酸素を取り込んだ身体が、節々の歯車をゆっくりと回し始める。歯車が連動するにつれて、最初に諦めかけていた脳味噌が現在の身体機能を渋々伝達してくれる。

 拡張された皮膚血管、低下する血圧、減少の一途を辿る脳血流、速さと弱さを増しつつある呼吸──

 要するに、コンディションは最悪だった。

 けれど、今のレイにとって、それは引き返す理由にはならない。

 

「──」

 

 今の自分にとって、銃よりも大事な武器であるバットを、決して手放さないよう、嫌な温度の汗が滲む掌で、グリップをひと際つよく握り締めた。

 それから、両足の爪先と身体の正面が、バッターボックスのラインと平行になるように動かす。いわゆるスクエアスタンス。大きな特徴が無いかわりに対応力に優れている、オーソドックスな構えだ。

 そしてバットを構えようとしたところで、レイは何かを閃いたように目を見開くと、不敵な笑みを浮かべながらバットの先端をピッチャーに向けた。

 いや。

 よく見れば、ピッチャーではない。

 レイが一直線に指し示しているのは、その遥か向こう側──外野席だった。

 

「──」

 

 挑発ではない。

 これは、予告だ。

 今からそこに、誰の手も届かない場所に、お前の球を放り込んでやるという決意の。

 

「……は、ははは」

 

 思わず空笑いが漏れる。無論、それが痩せ我慢や見栄っ張りの類いであることは、他の誰でもないレイ自身が一番よくわかっていた。

 一度も球を捉えられずにいて、このどん底のコンディションに置かれていて、それでもここぞの一発として自分はホームランを出すことができると、レイはレイ自身を信じてはいない。

 けれど、同時に思うのだ。

 今、この瞬間。

 ホームランを打てば、自分はきっと──胸を張って、誰に憚ることもなく、ミレニアムの四番打者として振る舞えると。

 かつて見た、ホームランを打った後にダイヤモンドを回るバッターの、きらきらと光る背中に追いつくことができると。

 根拠もなく、そう思うのだ。

 

「──」

 

 構えた時点で待ったはきかない。既に匙は投げられた。

 これから繰り広げられるのは、見るも無残な完全試合──その終止符を打つための、とびっきりの公開処刑。

 だからどうした。

 野正レイは、ミレニアム野球部の四番バッターだ。

 ピッチャーが投げた球を、バットで打つのが役割だ。

 それ以外のことなど、知ったことか───!

 

「──」

「──」

 

 殺意にも似た薄寒いちりちりとした空気が充満するなかで、打者と投手の両方の準備が整ったと判断したロボット姿の審判は、腰を中ほどで固定してから、人差し指を天に向けた。

 そして、高らかに宣誓。

 

「───プレイボールッ!」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結果だけ述べよう。

 ミレニアム野球部は負けた。

 試合中に倒れた野正レイが立ち上がることは、二度となかった。

 

 

 ◯

 

 

 本日のシバイヌ宅配便のお昼は差し入れだった。

 

「いつも配達しに行ってる会社の人から貰っちまってなあ。最近は日差しも強くなってきたから、これ食って体力つけてください──ってよ」

 

 そう言って、シバイヌ宅配便の社長である柴社長は、歪な形に膨らんだビニール袋を、事務所のど真ん中にある大きな机の上に置いた。

 それを見て真っ先に目を輝かせたのは、ゲヘナ生の石川マユミだった。

 

「おお……」

 

 彼女はショートウルフに切り揃えた髪を揺らしつつ、プレゼントを貰った子供のように身を乗り出す。もし尻尾がついていたら、さぞかし激しく揺れていたことだろう。

 マユミはがさごそ、と音を立てながら、袋に入っていた五つの弁当箱を引っ張りだす。

 中身はそれぞれ違っていたが、容器は統一しており、黒い長方形型だった。中にいくつかの仕切りがされてある。

 そして上には透明の蓋がはめられており、さらに真ん中には、どの弁当屋で買ったのかを示す掛け紙が、のしめいて巻かれていた。

 その表面に印刷されてある文字を見て、マユミはにわかに喜びをあらわにする。

 なぜならば、この弁当達がD.U.における有名店──全生徒を対象にしたアンケートを元に構成される弁当屋ランキングで、毎年当然のように上位へ食い込んでいる弁当処──『ミズノ』で購入したものだとわかったからだった。

 

「うわーっ! すげえ! これ、ミズノの弁当じゃないスか社長! しかも滅多に買えない人気の高いやつ! 絶対美味いですよ!」

「そうなのか?」

「そうっすよ!」

 

 あまりピンと来ていない柴社長に対して、マユミはどこまでも無邪気にはしゃいでいる。

 その様子を呆れた視線で眺めるのは、大きな丸眼鏡をかけたミレニアム生の竹中サユだった。

 少女は電灯を反射して光るレンズの奥で、自らの理知的な眼差しを細めている。それはまさしく、愚者を見る賢者のような眼差しだった。

 

「──値段の高さと美味しさに、明確な相関関係があるわけないでしょ。それに、弁当で重視しなくちゃいけないのは、如何に一食でバランスよく、かつ必要な量の栄養素を摂取できるかってこと。私が見たところ、このお弁当達のメニューは、ちょっと食塩相当量が基準よりも高い気がする」

「あーはいはい。そうですねそうですねーいやー勉強になりますゥー」

「こいつ……」

 

 小馬鹿にしてくるマユミに対して青筋を走らせるサユは、近くにスパナかレンチが転がっていれば、すぐさま手に取ってそのまま頭蓋に振り下ろしそうなほど剣呑だった。

 そんな修羅場まっしぐらな二人を放って、表情に喜びを滲ませながら弁当を見比べているのは、トリニティ生である桐山ミナトである。

 

「私はどれにしようかなあ〜。

 午後の配達に備えてとんかつも良いけど、サッパリな鯖のみぞれ煮も捨てがたいよねえ。

 でもでも、ここはあえて王道の幕の内? それともちょっとスペシャルな豚なす? 意表をついてそぼろ弁当?

 うううううう、全部気になるーっ」

「食事に向かって指をさすのはやめろ、桐山。失礼だ」

「あ、ごめんごめん。えへへ、楽しみだから、つい……」

 

 迷い箸ならぬ迷い指をしているミナトを嗜めたのは、ゲヘナでもミレニアムでもトリニティでもなく、シバイヌ宅配便に籍を置いている桃井タロウだった。

 男の言葉は咎めるような調子でこそあったが、しかし表情は三人と同じように、弁当に対して興味関心をつよく惹かれている様子だった。

 当然と言えば当然で、桃井タロウは割と日々の食事を楽しみにするタイプである。でなければ、パートのおばちゃんが作ってきてくれた弁当にもろ手を挙げて喜んだり、新発売のジャンボカツサンドをわざわざ買ってきたりしない。

 それはさておく。

 四者四様の反応を示しているシバイヌ宅配便の従業員たちを目にして、柴社長は微笑まし気に口角をあげながら尻尾を振った。

 

「ま、弁当は走って逃げたりしねえ。おれはお茶淹れてくるし、一番最後でいいからよ。冷めねえうちにゆっくり選んでくれや」

「あざーーーーーすっ!!」

「ありがとうございます」

「ありがとう社長ぉ〜!」

「礼を言う」

 

 元気よく、礼儀正しく、のんびりと、偉そうに。

 それぞれがそれぞれなりの礼を給湯室に引っ込む社長の背中に送ると、四人はふたたび弁当に向き合った。

 そこは既に戦場と化していた。

 情けは無用の長物となり、容赦はうどの大木となるような、過酷を極める尋常ではない戦場だ。一瞬の油断が命取り。殺られる前に殺る覚悟ができていない者から退場していく。

 互いに互いの出方を探るなか、先手を取ったのは──竹中サユ。

 

「──ちなみに、全員、選ぶ弁当はもう決まってる?」

 

 フレミングの法則を宿した左手で眼鏡を押し上げつつ、敵対者のどんな些細な情報も見逃さないように目を鋭くしながら問いかける。

 

「たりめーだろ」

 

 応じたのは石川マユミ。

 その手はとっくに、臨戦態勢に突入していた。銃把を握り締めるようにグー。抗争相手の手から武器を払い落とすようにパー。カメラを向けられポーズを取るようにチョキ。いずれも、一ミリの遅れもなく叩き出せる自信はあった。

 

「どちらにせよ、勝つのはおれだ」

 

 不敵に笑うは、桃井タロウ。

 ちなみに自信満々に腕まくりなんかしているが、この男、シバイヌ宅配便に在籍してから一度もジャンケンに勝てた試しがなかった。出す手が何かを事前に聞かれて、わざわざ馬鹿正直に答えているのだからそりゃ当たり前なのだが、その事実に気づくことは一生無さそうな辺りが無情である。

 

「とんかつ、鯖、幕の内、豚なす、とんかつ、鯖、幕の内、豚なす……」

 

 もはやじゃんけんを頭から放り出しているのは、桐山ミナト。

 呪文のように弁当の名をひたすら唱え続ける姿は、まるである種の狂信者のようである。そしていつの時代も、信じられるものを持つことができている聖教者は手強い。科学だろうと悪魔だろうと跳ね除けるほどに。

 各将とも、滞ることなく準備を整え終えた。

 かくして血を血で洗うジャンケンが繰り広げられようとしたところで──

 

 ぴん、ぽーん。

 

 という、来客を告げるチャイムが鳴り響いた。

 同時に閉め切られたはずのシャッターが、重たげな音を立てつつ、ひとりでに上がっていく。

 もちろん、誰も操作はしていない。この場に唯一いない柴社長は、コンロと冷蔵庫と各種食器ぐらいしかない狭い給湯室に篭ったままだ。

 つまり、シャッターは外部の何者かによって操作されているか。もしくは意思を持ちだした末に散々こき使ってきたシバイヌ宅配便の面々に反抗の意を示したかのどちらかということになる。

 答えは、すぐに明らかになった。

 ゆっくりと上昇し、最後まで上がり切ったシャッターの先。

 会社のすぐそばにある、小さな二車線道路へ降り注ぐ陽光をバックライトにして、手に端末を持ったその影は気だるげに立っていた。

 

「──……お邪魔します、でいいのかな。こういう時って」

 

 ぼそりと何事かを呟き、影は小さく会釈すると、何のてらいもなく事務所内に踏み込んできた。

 距離が近付いてくるにつれて、こびりついていた黒が電灯に切り裂かれ、その端麗な容姿が明らかになっていく。

 風に吹かれて舞い散った桜の群れに浸したかのように、艶やかな薄桃色に染め上げられた髪。

 豊かな谷間に挟まれたネクタイや、投げやりに首にかかったヘッドフォンなどの赤を際立たせる、健康的に焼けた珠肌。

 日差しの残滓がまだ残っているためか。わずかに細められたことで、陰翳を宿したアメジストの瞳。

 およそ4キロのショットガンを片手に携えておきながら、微塵も重心を揺らがせていない、モデル顔負けの立ち姿。

 そして、服装が誰の目にも見えるようになった次の瞬間、誰かがぼそりと言葉をこぼした。

 

「──水着?」

「違うよ」

 

 即座に飛び出した否定の言葉を後押しするかのように、その少女は胸の下までずり下げられた白い制服を指で引っ張り、ただでさえ広い肌面積をさらに拡張した。

 

「こうすることで熱を発散してるの。それに、谷間はムレるから汗をかきやすい。そのたびにいちいち汗を拭き取るのは、効率が悪いでしょ?

 なら、最初からこうやってさらけ出しておけば何の問題もない」

「は、恥ずかしくないのかよ……」

 

 顔を羞恥で赤く染めているマユミを、少女は不思議そうに見つめ返して、

 

「恥ずかしい? 肌をさらすのなんて、みんなやってることでしょ?」

 

 それにしたって限度がある。

 シバイヌ宅配便の女子達は、少女と同じ性別であるが故に、その服装がどれほど非常識なのか容易く理解できた。

 身につけているものはシャツとスカート、それにジャケットと一般的なのだが、素肌を隠すという最低限の役割さえ十全に果たせていると言えない着こなし方のせいで、ある種の前衛的なファッションに見えていた。

 剥き出しにされた肩。

 際どいラインを攻めているふともも。

 遠慮も躊躇もなくまろび出された、胸。

 

「それにしても、今日は日差しが強いね。だからいつもより暑いのかな」

 

 隠すべきところを隠すためのフロントホックブラが、逆にその箇所を周囲に対して強調していた。そのせいで目を逸らしたいのだが、すらっと伸びた姿勢のためか、張り出された胸は否が応でも視界にちらついてくる。

 だが。

 ここに、何があっても決して相手から目を背けない男が一人。

 

「──何の用があってここに来た? 和泉元エイミ」

「あなたに用事があって来たんだよ。桃井タロウ」

 

 桃井タロウの単刀直入をきわめた質問に、少女──和泉元エイミは同じく簡潔に答えてみせた。

 

 

 ◯

 

 

 がこん、と自販機が鈍い声をあげる。

 それを聞き届けたエイミは姿勢を屈めると、取り出し口にかかったフタをひょい、と持ち上げて、中にあった二個のボトルを取り出した。

 掌に伝わる、冷えたポリエステルの感触。

 

「ふぅ……」

 

 凹凸の激しい表面を弄びながら、エイミは軽い足取りで、すぐ近くにある街路樹──その根元に設置されてあるベンチに座ったタロウに近づいた。

 

「タロウ」

「なんだ」

 

 エイミはタロウの両目にボトルが映るように両手を持ち上げて、

 

「どっちが良い? 麦茶か、紅茶」

「麦茶を貰おう」

「ん」

 

 右手にある緑色のラベルのペットボトルを、エイミはタロウに手渡した。そして、タロウの隣に腰を下ろすと、キャップを開いてボトルの中を一気に流し込む。

 

「───ぷは」

 

 水分を吸収した喉が、歓喜の雄叫びをあげる。エイミが無音のそれを感じていると、タロウが財布のなかから何かを取り出そうとしている姿が不意に見えた。

 

「どうかした?」

「おれの分を払う。いくらだ」

「いいよ、別に。昼食中だったんでしょ? それを邪魔しちゃったから、お詫びってことで。足りないかもしれないけど」

「それとこれとは話が別だ。受けた借りは返す。それが礼儀というものだろう」

「真面目だね。タロウらしい」

 

 エイミはペットボトルを再び口につけてから、何かを思い出そうとするように、視線を上に向けた。

 

「──借りとか、礼儀とか、そんな大層なことじゃないよ。水分補給の意図もあるけど、単純にタロウと一緒に飲みたかっただけ。

 友達に言わせれば、そういうのが学生にとっての普通……らしいよ」

「おれは学校を卒業しているし、アンタの友達でもないが」

「でも、縁はある」

「──」

「でしょ?」

 

 首をわずかに傾げて、タロウの顔を覗きこみながら、エイミは悪戯っぽく微笑む。

 あどけなくもどこか色っぽく見える少女の仕草に、タロウはふっ、と小さく笑ってみせた。

 

「確かに。その通りだ」

 

 タロウは財布をしまい、汗をかき始めていたペットボトルの蓋を開く。そして先ほどのエイミをなぞるように、淡々と麦茶を飲み始めた。

 そうして淡い褐色の液体が、半分ほどに減った頃。タロウはおもむろにエイミへ問いかけた。

 

「それで、次の特異現象とやらはどんな物だ」

「……ビックリした。部長から聞いてたの?」

「いや。だが、おおむね想像はつく。というより、それ以外はあり得ないだろう」

 

 珍しく驚きを表に出しているエイミに、タロウはなんてことはないように答えた。

 和泉元エイミと、それからもう一人が所属する学園はミレニアムサイエンススクールであり、部活は、科学的な証明が困難とされる現象を調査、解明を目的とする──特異現象捜査部である。

 だから、と言うべきか。桃井タロウの縁は、それなりに長く深い。少なくとも、アポもなく訪問してきた際に、用事が何かを把握できる程度には。

 ヒトの過剰な欲望に宿り、宿主を怪物へと変化させてしまう特異──ヒトツ鬼。

 その正体がなんなのか。

 いかなる動機を持つのか。

 行動によって果たす目的はなにか。

 いずれも明確なくせに、どこから来るのかだけはまるで解明できない。

 それは、音にならない聖なる十の言葉(デカグラマトン)ほどではないにせよ──特異現象捜査部が創設されるきっかけとしては、あまりにも十分に過ぎた。

 そして、このキヴォトスで先生に次ぐ外からの来訪者であり、唯一ヒトツ鬼を元の姿に戻すことができる男──ドンモモタロウの存在も、また。

 もっとも。

 彼女達がミレニアムの生徒である以上は、例えヒトツ鬼の存在が無くとも、桃井タロウ/ドンモモタロウの間に縁は結ばれていたかもしれないけれど。

 そういうわけで、タロウは楽しみにしていた弁当をめぐる決戦を放棄して、話を聞くべくエイミについていったのである。ヒトツ鬼を退治することが、桃井タロウに課せられた使命なのだから。

 エイミは納得したようにふうん、と鼻を鳴らしている。しかしその表情は、微妙に不満げだった。

 

「……あり得ないって断言されると、なんかモヤモヤするね。他の可能性は考えなかったの?」

「考えなかった」

「ひとつも?」

「ひとつも、だ」

「…………ふーん」

 

 少女は頬を膨らませて、じとついた視線をしばらくタロウに向けていたが、やがて割り切ったらしい。

 

「ま、いいか。話が早いのは助かるし」

 

 軽い調子で言い切ると、はだけたジャケットの奥から一枚のタブレットを取り出した。

 

「それはなんだ?」

「説明の準備」

 

 怪訝に眉をゆがめるタロウを置いて、エイミはすらすらと澱みのない調子で、タブレットを操作していく。

 それから数秒が経ち、エイミは操作を終えたようだった。最後の仕上げと言わんばかりに人差し指で画面をタッチすると、タブレットがタロウにも確認できるような位置まで肩を寄せた。

 タブレットに圧縮保存されていた映像ファイルが、電子音で構成された産声をあげる。

 やがてホログラムとなって、画面上に文字通り浮かび上がったのは、一人の少女だった。

 

『────私です』

 

 その少女は、車椅子に乗っていた。

 車椅子という日常であまり見慣れない道具が、不思議と少女と調和しているように見えるのは、長く使い込むことによって生まれる年季もさることながら、少女自体が醸し出す雰囲気の影響もあるかもしれない。

 迂闊に触れば折れてしまいそうなほど、細く儚げな身体つき。

 色素と血色の薄い白肌は、まるで月の光だけを浴びて育ったかのよう。

 曇り空の下で降りしきる雪片を連想させる、滑らかに灰がかった白髪。

 滲むような灰青の眼差しは憂いを帯びて濡れている。

 総じてみれば、白百合のような姿形をした少女であった。

 しかし整った相貌に浮かんでいるのは、向日葵めいて眩い自己肯定感だ。

 仮に少女とまったく関わりが無かったとしても、少女が自身を世界にたった一輪しかない稀少な花であると心の底から信じていることが、一発で理解できてしまうぐらいの。

 そんな表情を作り出していた少女は、ふとなにかに気付いたように、小ぶりな唇を黒い手袋を履いた手で覆い隠した。

 

『──私としたことが、失礼しました。いつもの前口上を忘れていましたね。

 いえ、私のような完成された天才病弱美少女が、この世に二輪と咲くはずもないのですが……。

 念には念を、大事をとって、親しき仲にも礼儀ありとも言いますし──ここは改めて自己紹介と参りましょう』

 

 少女は唇を隠していた手を胸元へ移動させると、莞爾として微笑んだ。

 

『完成された天才病弱美少女あらため、ミレニアムが誇る最高にして究極の天才清楚系病弱美少女ハッカー───明星ヒマリです。

 お久しぶりですね、桃井タロウさん?』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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