ドンブルーアーカイブ 作:鰻の蒲焼
『砂糖菓子のような繊細さと、雪片のような儚さと、結晶のような美しさを兼ね備えた、ミレニアム屈指の天才清楚系病弱美少女であるこの私──明星ヒマリの姿を見て、茫然自失の体に陥ってしまったことかと思います。
しかし、気に病む必要はありません。ただそこに在るだけで、人を惹きつけてやまない。それが私という一輪の花に課せられた定めであり、変えられない宿命なのですから』
「……」
『行き過ぎた美しさは、時に人を惑わし、時に狂わせ、時に堕落させてしまう。ああ、なんという罪深さなのでしょう。
いったい誰が予想できましたか? 超天才病弱美少女の私が、生まれながらの咎人であり、約束された悲劇のヒロインだったとは。
きっと、私が明星ヒマリである限りは、この十字架に生涯をかけて向き合い続けなければならないのでしょうね。
そう。誰もが認めるミレニアム最高の天才清楚系病弱美少女ハッカーという名の十字架と──』
「……」
白けたように沈黙している桃井タロウと和泉元エイミの前で、肉と骨ではなく0と1で構成された少女──明星ヒマリは、つらつらと言葉を並べ続けていた。
立て板に水を流すように。
竹に油を塗ったように。
一瀉が千里を走るように。
とめどなく、澱みなく、いかに自分という存在が尊く、儚く、美しいものであるかを話し続けていた。
相変わらず偉そうな奴だと、タロウは自分を棚に上げて思う。そして同時に、初対面から一向に変わる様子のない少女の在り方に感心していた。
自分を好きでい続けるということは、簡単なようでいてひどく難しい。
タロウはとことん平凡で、卑屈で、これといった取り柄を持たないが、自分にどこか似通っているおともの姿を思い出していた。
彼は、桃井タロウにはできないことができる。だというのに、なぜかいつまでも自信を持てずにいた。
それはたぶん、なにを成し遂げても、自分を好きになれずにいるからだと思う。
好きではない相手が、何かを成し遂げたからといって、一体どう喜べばいいというのか?
その問題はひどく根深く、簡単に解決できない。どれだけ献身的に支えたところで、最後は結局、本人の心の持ち様にすべて懸けるしかないのだから。
ゆえに。
自分という存在を、全身全霊で肯定しているヒマリという少女は、見ていていっそ気持ちいいし、清々しくなる。それは本当なのだが──重要事項を話すときまで徹底する必要は無いだろう、と思う。
確かに自分を尊ぶことは大切だ。けれど、あまりに行き過ぎれば卑しくなる。
「──前置きが長い。アンタの肩書きはどうでもいいから、さっさと話を進めろ」
だからタロウは、少女と話す時はいつもそうしているように、ギロチンめいて鋭い言葉を放った。
いつもなら、タロウの直接的すぎる文言を食らったヒマリは、不満を漏らしつつ渋々口を閉じるのだが──今回はひと味違った。
『──私の予想では、この辺りでタロウさんが「前置きが長い」だとか「おまえの肩書きに興味はない」だとか、私のようなか弱き美少女に投げかけるべきではない、非常に心無い言葉を仰られているはずです。
ですが、残念でしたね。これは録画です。
なので一切のコールアンドレスポンスはご期待なさらぬようご承知おきください』
「……なに?」
『驚きましたか? いえ、驚いたでしょうそうでしょう! これで私の六十八勝目が確定しましたねっ』
目を見開くタロウに対して勝ち誇るように、ヒマリは精一杯に五指をひろげた掌を口元にやって、高らかに哄笑を繰り出していた。
その間に不審に思ってタブレットを精査していたエイミが、やがて呆れ果てたように深いため息を吐きつけた。
「……本当だ。録画だよ、これ。容量が大きいから、てっきりリモート通信用のホログラムだとばかり思ってた……」
『もうじきエイミが分析し終えた頃でしょうか? ここまででおよそ十数秒──ふふ。流石、私が率いる特異現象捜査部の一員ですね。
帰ってきたら直々に花丸を差しあげましょう。面積、形、ともに至高の芸術品として扱われても不自然ではないほど流麗なものを』
「しかし録画なら、コイツの言動はどういうことだ?」
「うーん……」
空中に何度も何度も花丸を描いては、ふふん、と得意げに胸を張っているヒマリを傍目に、タロウはふと疑問に感じたことを問いかけた。
そこに映し出された少女に自意識がないというのなら、なぜこうも自然な形で会話が進んでいくのだろうか。
疑問を受け取ったエイミは折り曲げた人差し指で、自らの下唇を持ち上げながら少し考える。
そして、明星ヒマリという少女が桃井タロウという男に対して抱いている感情を加味したうえで、限りなく正解に近いであろう解答を口にした。
「たぶん──タロウの思考パターンを推測して、それに合わせた会話を収録したんじゃないかな。ほら、タロウの言動って、割と読みやすいから」
「……気に食わないが、確かにそれなら辻褄が合うな。
だが、なぜそんな回りくどい真似をする? アンタがさっき言っていたように、リモートを使えば簡単に済んだ話だろう」
「あぁ、そっちは簡単。
部長、きっとタロウのことを驚かせたかったんだよ」
『そうです。すべてはあなたに勝利するためですよ、タロウさん』
録画だというのに、ぴったりのタイミングで二人の会話に割り込んできたヒマリは、タロウに似通った不敵な笑みを浮かべて言った。
『この神算鬼謀の策略家にして、森羅万象に精通した天才病弱美少女が、あなたのことだけを昼夜問わず考え続けて編み出した作戦なのです。むしろ、ハマって貰わなければ大変困ります。
……そう考えれば、驚くよりも有り難がる方が常識ではないでしょうか?』
「普段はそうでもないくせに、タロウが絡むと変にムキになるんだよ、部長。まあ、ここまでやるのはちょっと引くけど」
「しかし、その心意気は認めてやろう。天晴れだ、明星ヒマリ。中々やる」
懐から閉じた扇子を取り出して、タロウは先端をヒマリの顔面に突きつけた。すると、その動きに応じるかのように、ヒマリは唇をむっ、と尖らせる。
『──予測できます、できますよ。負けたのはそちら側だというのに、なぜか偉そうにしていますね?
ですが、まあ……素直になれず意地を張ってしまう殿方も、ふふっ、可愛らしいと思いますよ?』
「負けは負けだが、それでもおれが勝ち越している。依然、おれが優勢なことに変わりはない」
『確かに、これで六十八勝目とはいえ、これまでに積み重ねてきた敗北が消えるわけではありません。それは認めましょう。
私は、ジニアのごとき不屈の精神を宿した美少女ではありますが、同時に誰ものお手本となれるような謙虚さを持ち合わせているのですから。
しかし、数よりも重要なのは質です。
あなたほどの男が──この「全知」たる明星ヒマリが「全能」だと認めたあなたが、それを理解できないはずがありません』
「何度も言うが、人に妙なあだ名をつけるな」
『ちなみにあだ名ではありません。純然たる事実です。謙遜も過ぎれば傲慢になりますよ?』
「……本当に録画だよね? これ」
幾ばくかのラグはあれども、まるでいまそこにいるかのようにタロウと会話するヒマリを見て、エイミは密かに訝しんだ。まさか録画というのは「フカシ」で、桃井タロウを打ち負かしたいがために吐き出された嘘ではないかと。
しかしそれを否定したのは、ヒマリと対面している本人であるタロウだった。
「間違いない。この明星ヒマリは録画だ」
「根拠は?」
「勘だ。
……と言ってもアンタは納得しないだろうが」
「そうだね。でも、信じるよ。タロウの勘、ヘンに当たるし」
それに録画でもリアルタイムでもどっちでもいいし、とエイミは素っ気ない言葉で末尾をしめる。タロウも同感だった。どちらにせよ、やることは初めから一つしかないのだから。
ヒマリもヒマリで、いくら予測してるといえども、一人で話し続けることが、虚しくなったのかもしれない。場を仕切り直すように、こほん、と小さな咳払いをした。
『──少々、横道に逸れ過ぎてしまいましたね。それでは本題に移るとしましょう』
冷静な口調でそう述べると、ヒマリは車椅子を操作して、ほんの少しだけ右にずれた。そして指先を、宙に浮かんだ透明の板に触れさせるかのように、たん、と弾ませる。
一瞬の間を置いて、電子音。やがて空いたスペースに、大小様々なスクリーンがいくつか浮かび上がった。
ヒマリはそのうちの一つを引き寄せると、人差し指と親指を使って拡大していく。
『タロウさん。今回あなたに調査を依頼したいのは、こちらの特異現象です』
拡大された画面の中央を、ヒマリは再度タッチする。すると、ざざ、と短いノイズが奔り、同時にひとつの映像が再生を開始した。
◯
画質の荒いその映像は、どうやら野球場を高い位置からドローンかなにかを用いて撮影したものらしい。
ダイヤモンドの形に置かれたベース。
広大なグラウンド。
取り囲むように設置された観客席。
壁のごとく張り巡らされたネット。
その他諸々の、誰が見てもそこが野球場だと理解できるような設備の数々を一望できた。
そこは少女達のざわめきや歓声が似合うような、爽やかで明るい場所のはずだ。
しかし。
どこか恐ろしげな寒々しささえ感じてしまうのはきっと、野球場内に観客の姿が一つもない上に、遠く見えるグラウンドにヘイローを光らせながら仁王立ちしている人影が、尋常ならざる存在──異形のものだったからだろう。
頭に座すは白髑髏。ただしその顔面は、骨ばった五指に取り押さえられているかのような形。
首を巡るは天球儀。ただし浮かんでいるのは、かつて海神の怒りを買った愚かな王妃を模した星座だけ。
肩を隠すは二頭の象。ただし巨大動物特有の雄大さは感じられず、頭上にのしかかる天球儀に今にも押し潰されそうな苦悶が伺える。
胸に浮かぶは第六惑星。ただし異形の内部に埋め込められており、自転も公転もできないように縛られている状況。
その異形、名を宇宙鬼と呼ぶ。
かつて88の星座系を支配した極悪幕府──『ジャークマター』から、宇宙を救うべく立ち上がった究極の救世主達。
宇宙戦隊キュウレンジャーの力を、歪んだ形で手に入れたヒトツ鬼だった。
だが、断言してもいい。そのことを知る者は、映像内には一人もいないだろう。もっとも、仮に誰かが知っていたとしても、状況をひっくり返す手立てには欠片もならなかったはずである。
ヒトツ鬼を倒すことができるのは、桃井タロウ──ドンモモタロウしかいないのだから。
『──』
タロウとエイミが映像を見守るなかで、ピッチャーズマウンドに立っている宇宙鬼が、軸と思しき右足でプレートを踏みつけ、踏み込むための左足を前に置き、それまでお手玉のように片手で上下させていた硬球をしっかりと両手で、かつ身体の前面で握り締めた。
セットポジション。
反動を使うことなく、フォームをコンパクトにした投げ方である。そのため多くの場合使用されるのはランナーが出ている時であり、盗塁が発生した場合にはその成功率を下げやすい効果がある。
しかし、宇宙鬼の周囲にランナーの姿はない。それどころか、球場には宇宙鬼ひとりしかいなかった。投球を打ってくれるバッターも、投球を捕らえてくれるキャッチャーも──野球というゲームを構成するにあたって、最低限必要とされる要素でさえ、そこには欠けてしまっていた。
いったい、これから何をしようというのか。
その疑問に答えるように、宇宙鬼が動いた。
真っ直ぐ振り上げられる左足。
揺らぐことなく支える右足。
虚空を射抜く羽矢の視線。
弾んだように動く全身。
なめらかに移る体重。
集約していく剛力。
噛み合うは骨盤。
加速する白球。
そして。
その一球は、解き放たれた。
「──嘘」
エイミの目が、大きく見開かれた。
ヒトツ鬼がボールを投げたことに驚いたのではない。
ヒトツ鬼の放った球が、マウンドの先にある壁ではなく──ヒトツ鬼を撮影していたドローンに向かってきたからである。
あり得なかった。
あり得ていいはずがなかった。
ストレートの軌道を描いていたはずの球が──唐突に折れ曲がって上空に向かってくることなど。
撮影者が明確な動揺を、カメラのブレという形で見せた時にはすでに、ドローンは撃ち落とされていた。
飛力を失ったドローンは、あちこちに破片を撒き散らしながら、天と地を何度も何度も逆転させていき────ブラックアウト。
そこで映像は終わりだった。一部始終を黙って見ていたヒマリは、黒に染まった画面をスライドさせて引っ込ませる。
『次はこちらを』
そして、今度は別のスクリーンを引っ張ってくると、ふたたび再生ボタンをクリックした。
はじめに映し出されたのは、大写しにされた宇宙鬼の姿だった。そしてじわじわとズームアウトが開始されていき、宇宙鬼の眼前にマイクが用意されてあることが明らかになったところで、カメラはぴたっと動きを止める。
『────宣誓。
このキヴォトスという学園都市は、大いに間違っています。
なぜなら青春とは野球であり、野球とは青春だからです。
だというのに、どこもかしこも銃撃戦ばかり……。
なぜ、バットを持ってホームランを狙わないのでしょうか?
なぜ、グローブを持って三者三振を目指さないのでしょうか?
だからわれわれ選手一同は、スポーツマンシップにのっとり、弾丸ではなく白球を、銃ではなくバットを用いて、正々堂々と戦い抜くことを誓います』
再度、ズームアウトが開始する。
マイクを支えるスタンドと、宇宙鬼のしそ色の身体が露わになったところで、周囲に影が横並びに整列していることに気付く。
その影の輪郭は、宇宙鬼のそれとまったく一緒だった。
影は全部で──九つあった。
「……こいつらは」
九人のヒトツ鬼。
これまでにない規模の集団に、タロウが思わずといったふうに声を漏らす。そこで、映像は終わりだった。黒く染まったスクリーンをデコピンするように弾いて、ヒマリはふう、と息を吐いた。
『──これらの映像は、つい数日前、SNSに投稿されたものです。様々な観点から考えられた結果でしょうね。原本はあえなく数分で削除されてしまいましたが……。
ふふ、この超絶美少女ハッカーの手にかかれば、削除されたデータのサルベージなど造作もありません』
流れるように自己賛美をしてから、ヒマリは改まって居住まいを正して、
『こちらの特異現象──ヒトツ鬼の詳細な目的や、その正体は定かではありませんが……先程の動画での宣言や、野球場以外での出現事例が見られないところから、少なくとも野球が関係していることは間違いないでしょう』
「……」
『そこで私は、この玲瓏なる頭脳で考えました。
このヒトツ鬼を戦闘ではなく、野球で打ち負かせば──あるいは勝たずとも、彼女の欲望が解消できるような形で試合を終わらせることができれば、このヒトツ鬼は自然と消滅するのでは? と』
ヒマリはそこで言葉を切ると、視線をぴたりと宙に据える。
『ヒトツ鬼に対抗できるのは、ドンモモタロウだけ──という現在の状況は、ハッキリ言って好ましいモノではないでしょう。
だからこそ、私達だけでもヒトツ鬼に対抗できる道を、手段を、模索し続けなければなりません。
このキヴォトスに住まう一人の学生として。そしてなによりも、「全知」の学位を持つ眉目秀麗な一人の超絶天才系美少女ハッカーとして──それは当然の行いなのです』
理知的に煌めく眼差しの先には、同じくヒマリを見据えるタロウの双眸があった。
合わさるはずのない二人の視線が絡み合う。
「───つまり」
『ええ、つまり』
タロウとヒマリの声が、初めて重なる。
そこから叩き出される結論もまた、重なり合わさったものだった。
『桃井タロウさん。あなたにはヒトツ鬼達と──』
「野球対決をすればいいわけか──面白いッ!!」
「面白いかなあ……」
ぼやくエイミをよそに、タロウとヒマリは示し合わせたように笑いあっていた。
まったく、とエイミは思う。仲が良いのか悪いのかよくわからない二人だ。
まあ、見ていて退屈はしないから、そのままで放っておいてもいいのかもしれない。ただ、あまり近づきたくはないけれど。
笑い声でさえ張り合っているタロウとヒマリからさりげなく距離を離しつつ、エイミはペットボトルにわずかに残っていた紅茶を飲み干した。
◯
その日、美甘ネルはD.U.の街中を闊歩していた。
時刻は十二時を過ぎたばかり。天気は面白いぐらいの晴れ。さらには休日ということもあってか、人通りが絶えることはなさそうである。
煙のように濛々と膨らむ人と人の隙間をすり抜けていきながら、ネルはモモトークを開いて、先日桃井タロウから送られてきたメッセージに改めて目を通す。
──話したいことがある。予定が空いていれば、この日に地図の場所まで来て欲しい。時間は後で伝える。
実に簡潔で、笑えるほど素っ気ない。
特別でもなんでもない、いつも通りのタロウのメッセージだった。気の弱いものからすれば、知らないうちに不興を買ってしまったのかと戦々恐々してしまうだろう。
そこに妙な小気味良さを感じられるので、ネルは彼と会話をするのが割と好きだった。
「水臭ぇヤツ。あたしがダチの誘いに乗らないわけがねえだろーがよ」
とある絵画をめぐるオークションの最中に起きた、ヒトツ鬼との戦闘──その果てでネルはタロウのことを自らの友人だと認めたし、あちらもそう思っていると信じていた。面と向かって言葉にするのは、まだ少し気恥ずかしいけれど。
「もう、すぐ、つくっと……」
メッセージを送ってから、ネルは携帯をスカジャンのポケットにしまう。顔を上げれば、目的地を示す看板が、もう十数メートルの距離に屹立しているのが見てとれた。
ファミリーレストラン『カササギ』
和食、洋食。両方のジャンルの料理をリーズナブルな値段でバランスよく用意してある、D.U.の住民にとっては第二のキッチンとも呼べるような場所である。
ネルはミレニアムの住人だから知る由もないが、それでも人の波がそのファミレスへ近づくにつれて、層の厚さを増していっていることぐらいは気付いていた。
それほどに普及しているファミレスと、超然とした部分がある桃井タロウの組み合わせがどうにもミスマッチに思えて、ネルは思わず唇を綻ばせる。
ただ組み合わせを考えただけでこうなのだ。実際にテーブルについている姿を見たら、もしかして噴き出したりなんかしてしまうかもしれない。
そんなことを考えているうちに、『カササギ』に辿り着いた。ベルがついた扉を押し開いた瞬間に立ち昇る騒がしい声の群れを感じながら、近寄ってきたロボットの店員に、自らが桃井タロウの連れであることを伝える。
「……はい、確認できました。お席までご案内しますね」
タブレットで予約記録を確認したらしいロボットは、電光板の表情を笑顔に切り替えると、先導するために歩き始めた。
ボックス席を三つほど通り過ぎたところで右に曲がり、二つほど直進する。
その先に──おそらくは大人数用だろう──真ん中に置かれた楕円形のテーブルを凹の形で取り囲んでいる席があり、その中央に桃井タロウはいつものごとく、腕を組んで座っていた。
「──よお、桃井。珍しいじゃねえか。てめぇの方から」
あたしを呼び出すなんてよ───。
と、手をあげて声をかけようとした瞬間である。
ネル側から見た桃井タロウの右隣に、誰かが座っていることに気付いた。
そいつの特徴をあげるとするなら、大きなアホ毛を生やした薄い桃色の長髪と、橙と青という色違いの双眸。
だが、それよりもなによりも、ネルはその小さな身体から滲み出る気配に驚愕を覚えた。
抑えていてもわかる。そう、ネルにはわかってしまう。
真綿で首を締めつけられているかのような。
全身を鎖で縛り付けられているかのような。
額に銃口を押しつけられているかのような。
それは、間違いなく、疑いようもない──
圧倒的な、強者の気配。
(────何モンだ? こいつ……)
自然と、警戒心が出てしまったらしい。タロウに向けて楽し気に話していた少女が、不意になにかに誘われたかのようにネルの方を見やった。
会話はない。ただ、視線だけがぶつかった。
「──」
「……」
並の神経を持つ生徒ならば、その場に居合わせただけで逃げ出しかねない緊張感が漂いだしたところで、並の神経ではない桃井タロウが口を開いた。
「待っていたぞ、美甘ネル。だが、座るなら早く座れ。通路に居座ったままだと、他の客の邪魔になるだろう」
「……おう」
もっともな言葉だった。ネルは特に反抗することはなく、タロウの左隣──つまり先に座っていた少女とは対面となる形に腰を下ろした。
「……」
「……」
探るような目つきでこちらを見てくる少女と静かに睨み合っていると、タロウが話しかけてきた。
「そういえば、アンタ達は互いに初対面だったな。
──美甘ネル。コイツは小鳥遊ホシノ。アビドス対策委員会の委員長だ」
「……アビドス?」
聞き慣れない学校名に首を傾げるネルをよそに、タロウは次に小鳥遊ホシノとやらに話しかける。
「小鳥遊ホシノ。コイツは美甘ネル。ミレニアムでC&Cという組織のエージェントを務めている」
「……ミレニアムのエージェントさんが、一体全体どうしてメイド服なんか着てるのかな~?」
「分からん。だが、先生に言わせればロマンがあるかららしい」
「先生はなにを言ってんだッ」
「ロマンかあ。だったらしょうがないよねえ」
「それでテメーはなにを納得してやがんだッ!!」
決して聞き流せない内容の話題に、ネルは思わずツッコミを飛ばす。
どうやらその姿と、先生との親交があることが決め手になったようである。わずかに纏っていた剣呑な雰囲気を霧散させて、少女──小鳥遊ホシノはネルに手を伸ばしてきた。
「さっき、タロウから聞いたと思うけど……改めて、自分の口から。
アビドス対策委員会委員長、小鳥遊ホシノだよ。よろしくね~」
「……へっ」
間延びしたような口調と、敵意が一切感じられない朗らかな笑みを向けられて、ネルは肩の力を抜かざるを得なかった。
観念したように両手をあげてから、ホシノの手をぎゅっ、と握り返す。
「───美甘ネルだ。よろしくな。それと、さっきは悪かった」
「うへ。おじさんこそ、変に反応しちゃってごめんね~」
「おじ……?」
少女の風貌に似つかわしくない一人称にネルが引っかかっていると、タロウが即座に補足してきた。
「安心しろ。小鳥遊ホシノはアンタと同い年だ。
自分のことをおじさんと呼んでいるのは……そうだな。一種の趣味のようなものだから、アンタが気にする必要はない」
「いや、逆に気になるだろ」
「人がヘンな趣味持ってるみたいな言い方やめてくれないかなぁ〜〜~」
ホシノはにこやかに笑いながら、びしびしびし、とタロウの脇腹を突っつきまわしている。だがタロウはまったく堪える様子はなく、平然とした調子で水を飲んでいた。
それだけで二人の関係性がどういったものなのかを伺うことができて──ネルは自然と、ホシノへ親近感と同情が入り混じった視線を送った。
「大変だろ、コイツの相手」
「慣れればそうでもないかもよ~……慣れることは、一生なさそうだけど」
効果がないと判断したのか、手を引っ込めて指をさするホシノは、小さくそうぼやいた。
実感が籠った言葉にそうかもな、とネルはつられて笑う。
未だに桃井タロウが自分を呼んだ理由も、小鳥遊ホシノが同席している理由も不明である。だが、コイツと出会ったこと自体は悪いもんじゃないかもしれない──と、ネルが自分のなかで綺麗にオチをつけようとした瞬間だった。
「──────どうして、あなたが? 小鳥遊ホシノ」
信じられないものを見たような、愕然とした声が耳に滑り込んできた。
嫌な予感がして振り向くと、そこには綿菓子めいて柔らかそうな白髪を長く伸ばした少女が、紫電に染まった切れ長の目を大きく見開いて、こちらを見ていた。正しく言うなら、小鳥遊ホシノを──だろうか。
軍服めいた紺の制服、捻れたような形の角、肩にかけられたファー付きのコート。
少女が一体何者なのか、流石にネルでさえわかった。
「ゲヘナの風紀委員長サマが……空崎ヒナが──何だってこんな場所にいるんだよ」
「あなたは……確か、ミレニアムの?」
そこでようやく空崎ヒナはネルに気付いた。無視されたようなのが少し気に入らないが、要はそれだけ小鳥遊ホシノの存在が驚愕に値するものだったのだろう。
「そんな場所で惚けるな。さっさと座れ、空崎ヒナ」
「──桃井タロウ……貴方、なにを……」
タロウに呼びかけられた瞬間、凄絶な目つきを作ったヒナが、何事かを言おうとした刹那──その場に今日一番の緊張感が走り抜けた。
「──げぇ、はは、げひひひひひひひひッ!!」
隠すことを知らない、知ろうとすらしていない、濃厚な戦意と敵意の鏃。
誰よりも単純で、何よりも純粋な、原始の感情。
それは、空崎ヒナのすぐ後ろ──まるでヒナの足元から這い出してきたような位置に立ち尽くしている、黒く塗られた人影から放たれていた。
曇天の空の下で見る鴉羽にも似た、漆黒のセーラー服。
長く伸びた前髪の隙間からちらつく、正気を失った鮮血の瞳。
血の気が一切感じられない、垂れ落ちる蝋めいた白い肌。
「も、も、桃っ────もォ──もォ──いィィィイイイ……ッ!!」
「──来たか、剣先ツルギ。これで、全員揃ったな」
引き攣ったかのような唸り声で自身の名を呼ぶ剣先ツルギを見ながら、タロウは自信満々に笑ってみせた。
この時、タロウを除いた全員が「笑ってる場合じゃねーだろバカ」みたいなことを考えたが、まあ、残念ながら当然である。