ドンブルーアーカイブ   作:鰻の蒲焼

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ドンブラが来週で最終回になりますね。




そんなの嫌だ!!ドンブラザーズが放送終了するなんて!!一生ニチアサに居座っててほしい!!おれが死んだ後もしばらく……10年以上は放送し続けててほしい!!


ドン2章 めいどいんタロウ
そのいち


 

 

 

 

 

 

 突然だが、美甘ネルには嫌いなものが三つある。

 一つ目は、セミナーの早瀬ユウカがよくぶつけてくる喧しいお小言。

 二つ目は、遅刻寸前で急いでいるというのに邪魔をしてくるチンピラ共。

 そして、三つ目は──

 

「…………」

「…………」

 

 ミレニアムの商店街の近くにある、大きな歩道橋の上だった。

 平日の真っ昼間だからか、あたりを行き交う住人の姿はとても多い。高架下の道路を通り抜けていく車の台数は数えるのも馬鹿らしくなってくるほどで、陽射しにこめられた眩しさと穏やかさが伝播したかのように、騒がしくも暖かな景色が街中に広がっていた。

 そんな状況のなかで、ネルと三つ目にネルが嫌いなもの──桃井タロウの周囲だけは、極寒の吹雪に見舞われてしまったかのごとく寒々しい。

 橋の上に立ち尽くしてぴくりとも動かない二人は、明らかな通行の邪魔だ。しかし、主にネルの身体から滲み出ている獰猛な気配が、口出しすることを許さなかった。

 結果、ネルとタロウが立つ場所を通行人達は避けて通るようになり、上から見てみればそこだけぽっかりと穴が空いているような、奇妙な空間が出来上がっていた。

 沈黙はわずか数秒。

 先に、タロウが口を開いた。

 言葉を向けたのはネルにではなく、背中におぶっている老眼鏡をかけた老柴犬にであった。

 

「──お婆さん、あれがアンタの探していた相手か」

「えぇそうよ。ここまでずっと背負ってくれて、迷惑かけたねぇ」

「問題ない」

 

 次に、ネルが口を開いた。

 言葉を向けたのはタロウにではなく、唐草模様の風呂敷に包まれた大きな荷物をかわりに持っていた老柴犬にであった。

 

「──ジイさん。あれがアンタの奥さんか」

「おぉ、間違いない。すまなかったね」

「問題ねぇよ。ただまあ、二度とはぐれないように手でも繋いどきな」

 

 そして、四十五分ぶりに感動の再会を果たした老柴夫婦はタロウとネルに何度も頭を下げながら、仲睦まじい様子で歩道橋から降りていった。

 場に残されたのは、遠慮する必要はなくなったと言わんばかりにただでさえ鋭い目を吊り上げるネルと、叩きつけられる殺気にも似た感情の奔流にも微動だにせず微かに顎を上げて見下ろすタロウである。

 要するに、修羅場であった。

 

「……」

「……」

 

 膠着した状況に痺れを切らしたのか、それとも沈黙に耐え切れなくなったのか。どちらかはわからないが、話しかけようと動いたのはネルからだった。

 冷静になって考えてみれば、喧嘩を売る理由などどこにも見当たらない──というのは真っ赤な嘘だ。

 ツラも態度も何もかも、全てが単純に気に入らない。

 ただのそれだけで普段のネルは存分に銃を撃ち放つことができたのだが、今日のミレニアムに満ちている空気と、先ほどの老夫婦が醸し出していた気の抜ける雰囲気がそうすることを躊躇わせた。

 

「──あのよ」

 

 だから、ネルは張り詰めさせていた肩の力を抜くことを選んだ。そしてちらちらと上目遣いでタロウの顔を窺いつつ、蕾のような唇から嫌そうに言葉を吐き出そうとする。そんなに嫌なら話しかけなければいいものを。

 だが、自分からきっかけを作ったくせに途中でやめてしまうのはなんとなく負けた気がする──という、律儀なのか意固地なのかよく分からない考えが、少女の固く閉じた口を開かせた。

 

「……その、なんだ。奇遇、だな。色んな意味でよ」

「あぁ。奇遇だな。色々な意味で」

「……」

「……」

 

 そして、当たり前のように会話は途切れ、当たり前のような顔をして沈黙は訪れた。

 ちったあ会話しようとする努力をしやがれってんだ──半ば八つ当たりじみた思いを抱きつつ、苦い舌打ちを繰り出しながらネルは手持無沙汰に前髪を掻き上げる。

 元からこっちにあまり関心を持っていないらしいタロウの様子はいつもとたいして変わらなく、余計に自分ばかりが意識している風に思えるのがどうも悔しくてたまらない。

 だが男の鉄面皮を崩す秘策などすぐに思いつける筈もなく、ネルはさっさと本題を切り出すことにした。

 

「……で、わかってるよな?」

「何がだ」

「だから、ほら……わかるだろ? アレだよ、アレ」

「なにを言いたいのかサッパリわからない。口があるなら、ちゃんと言葉にして話せ」

 

 もしタロウが人並みに相手の気持ちを察せたのなら、美甘ネルという少女がエージェントのリーダーという自身のメンツを非常に気にするタチなことを理解して、妻とはぐれてしまった老人のお手伝いという微笑ましいエピソードを、大人しく心の奥底にしまっておくことを選んだだろう。

 しかし、タロウはタロウでしかなかった。

 そして、タロウがタロウであるがゆえに、選ばれた答えは一つだった。

 

「まさか──恥ずかしがっているのか?」

「……!」

「やはりわからないな。アンタの行いの何処に恥じる部分がある?」

「~~~~ッ! だからっ! あたしのガラじゃねえだろそーいうのはっ! 言わなくてもわかれよそれぐらいっ!!」

 

 羞恥と怒りがブレンドされた赤に頬を染めながらネルは吠える。

 同時に、羽を休めていた爆発の時がふたたび近づきつつあったが、タロウはまったく気にしない。ひょっとすれば、気づいていさえしなかったかもしれない。

 でなければ、次のような言葉を吐かなかっただろう。

 

「善行を行った程度で崩れるメンツなら、元より無かったも同然だ。アンタはいささか自意識過剰に過ぎる。もっと自分の身の丈を考えろ」

「────」

「悪いが、約束があるんでな。先に失礼させてもらう」

 

 言うだけ言って、タロウはなんの未練も無さそうに背を向けながら、歩道橋を降りていった。

 残ったのは、静かに俯いて動かないネルだけだ。

 獰猛な気配は既に消えた。鋭い目つきもいまは俯いているせいで見えない。だから誰も憚ることはないというのに、何故か通行人達はネルから一層距離をあけて歩道橋を歩いていく。というよりもはや歩道橋からネル以外の存在が消えていた。その理由はひどく単純で、誰だって目に見える爆弾には近寄りたくないからだ。

 だが、火花は必ずやってくる。

 ぞろぞろと徒党を組んだチンピラどもが、通行人がいなくなったタイミングを見計らったかのようにして歩道橋に現れた。そのまま流れるようにネルを包囲する。その手に携えられているのは、キヴォトスでは持ち歩くのが当然の常識になっている銃だ。

 各々が自らの銃を弄びながら中心にいるネルをにらみつける中で、リーダー格らしい一人のチンピラが前に出た。右のほっぺたの半分以上を覆っている絆創膏の下には、今朝方にブン殴られた痛々しい痕が残っている。

 

「よう、美甘ネル。朝はよくもやってくれたよなぁ……?」

「そうだそうだ! あたしらのバイトを邪魔しやがってっ。おかげで貴重な収入源を取り逃がしちまったじゃねーかあ!? せっかく金回りが良さそうな獲物だったのによ!」

「財布も随分分厚かったよなぁ……ありゃ一週間は間違いなく好きに遊べたぜ」

「いや節制すれば一ヶ月はいけますよ」

「なんでおまえチンピラやってんの?」

 

 一斉に浴びせかけられる大量の声とは案外バカにはできないもので、ネルの周囲には物理的な質量を持った声の壁ができあがっていた。ネルはひと言も喋らず俯いたままだ。

 それを怯んでいると受け取ったのか、リーダー格は片手をあげて周囲を静まり返らせると、威圧を込めて言った。

 

「まあ、どーしても謝罪したいってんなら話は別さ。金っていう誠意をもって頭を下げてくれりゃあ、あたしたちも鬼じゃねえ。許してやったって構わないぜ」

「さすが姐さんだぜ!」

「さすが!」

「さすが!」

「さすが!」

「それ以外に言うことねえのか! ……で? どうなんだよ」 

 

 断られる可能性も考えていたが、勝てるわけがないとタカを括っていた。こっちは多勢であっちは無勢。数の力というのは非常に偉大である。いくら美甘ネルが一騎当千の強さを誇っていたとしても蜂の巣にしてやれば問題ない──リーダーが頭の隅でそんなことを考えていた直後のことだった。

 美甘ネルの肩が、震えていた。

 最初は怯えているからだと思ったが、違う。

 よく見れば、笑いを堪えているがための震えだった。

 この状況で笑うということは、恐怖のあまりついに正気を失ってしまったか、もしくは──

 

「────いや、本当に助かった。このタイミングで、てめぇらみたいなのがぞろぞろ来てくれてよ」

「はあ?」

「ちょうど、ムシャクシャしてたんだ──なんでもいいからブッ壊せねぇかと思ってたところでな」

 

 ネルが、とうとう顔を上げた。

 そこに映っていたのは、恐怖に歪んだものではなく、満面の笑み。

 チンピラ達はその瞬間、閉じ込めている側の自分達が、閉じ込められる側へと回ったことを悟った。餓えた猛獣が捕らえられている檻のなかに上等な餌を持って蹴り込まれたのだと、確かな直感が教えてくれた。

 美甘ネルが一歩を踏み出した。不良たちは後ずさろうとする。が、囲んでいたせいで思うように進めない。さりげなく前に押し出されているリーダーは、ひくひくと笑顔を引きつらせながら提案した。

 

「────やっぱりちょっと、タンマで」

「じゃあ、始めっか!」

「だからちょっとタン」

 

 

 

 

 どこかで爆発が起きた。

 コンクリートを伝わるかすかな振動を足の裏に感じて、桃井タロウはふと足を止めた。

 音が聞こえた方へ何気なく視線をやる。目を凝らせば、青空と白い雲の下にあるミレニアムの街並みのなかに、もくもくと大きな黒煙がつま先立ちして背を伸ばしているのが見えた。

 そういえば、と思いだす。あそこは、さっきまで自分がいた歩道橋がある場所だったはず──

 まあ、どうでもいい。

 それっきりで興味を失い、タロウは歩き出した。

 キヴォトスは、今日も変わらず平和である。

 

 

 〇

 

 

「──それで、念のために三十分早めの集合時間を教えたにも関わらず、どうしてこう大幅に……一時間も遅刻したのか。理由を教えてもらえるかしら? 時間が惜しいから三行で」

「チンピラ。絡まれた。ブッ飛ばした」

 

 嘘みたいな理由である。

 が、それが嘘でもなんでもないことを早瀬ユウカは知っていた。美甘ネルという少女は立場ゆえか人相ゆえか、とかく周囲の恨みを買いやすい。さらにはそれを強引に打ち破れる実力を兼ね備えているのが、余計に事態の悪化に拍車をかけていた。

 はあ、とユウカはため息を吐く。まあ、ネルの遅刻癖はなにも今更始まったことではない。それにどうやらわざとそうした訳ではないようだから、これ以上責めるつもりはなかった。

 

「……とにかく、これで全員揃ったわね」

 

 気を取り直すように咳払いをひとつこぼしたユウカは、そう言いながら周囲を──C&Cの部室をひと通り見回した。

 一ミリのズレも許されることなく均等に並べられた椅子の群れ。清潔感漂う白を基調にした、たっぷりと余裕の取られた空間。映画館に据え付けられてあるような、積層表示が可能になっている大きなスクリーン。

 そして壇上に立つユウカを椅子に座って眺めている、メイド服を着こんだミレニアム最強のエージェント達。

 

「──それにしても、わざわざ全員が揃ってからようやく任務の説明をするだなんて、ちょっと珍しい」と、褐色金目が特徴的な角楯カリンは不思議そうに言った。

「なんにせよ、退屈せずには済みそうですね」と、ズレた眼鏡を指で押し上げながら室笠アカネは好奇心を胸のなかで膨らませた。

「ねーねーぶちょー! かまってかまってー」と、片目を前髪で隠した一之瀬アスナは会議に呼ばれた理由を頭から放り出して隣の席にいるネルに絡み出した。

「やめろ! 抱き着くなすり寄るなひっつくな!」と、不機嫌そうに眉を顰めた美甘ネルはタコのように絡もうとしてくるアスナを肘で押し除けた。

 

 そこには一切のまとまりが欠けていた。が、ユウカは慣れ切った様子でぱんぱんと手を叩いてメイド達の注目を集める。

 

「はいはい! 騒ぐのはそこまでにして、私の話を聞いて。カリンが言っていたように、今回の任務はC&Cのメンバー全員の協力が必要なの。だからこうして集まってもらったわけなんだけど」

「ということはやっぱり、それなりに重要度が高い任務……ということでしょうか?」

「まあ、そうね──考えようによっては、そう捉えられるかもしれないわ」

「随分ハッキリしねぇ物言いだなぁ? セミナーの早瀬ユウカさんよ」

 

 どうやらついに観念したらしい。抱きついて頬擦りしてくるアスナを振りほどかずそのままにしておきながら、ネルは挑むような口調で問いかけた。

 

「メイド部全員を駆り出すんだ。物騒な任務になるのは当然だろ──だがまぁ、納得できねえ点が幾つかあるのは変わらねぇが」

「へー。何処がどんな風にー?」

「おまえはいい加減離れることを覚えろっ! 

 ……まず、あたしらを集めたこと。要するにゲーム開発部の時みてぇに、あたしが後から依頼を受けたことを聞くのはNGってわけだ。で、次にわざわざ盗聴対策用のプロテクトを部屋中に張ってること──」

「……! いつから気づいていたの?」

 

 ユウカの反応に、ネルはしてやったと言わんばかりに得意げに笑う。

 

「いや、単なる勘だ。だが、どうやら当たりらしいな。アスナ程じゃねぇが、あたしのそれもなかなか捨てたもんじゃないらしい」

「部長すごいっ! 最高っ! かわいいっ!」

「最後のは関係ねえだろっ!! ……他にもあるっちゃあるが、特に気になってんのはそいつらだ。これでおかしくないって思わねえ方がおかしいだろ」

 

 腕を組みながらふんぞり返るネルの姿は、まるでぼうっとしていたせいでよく聞いていなかった問題を、運よく正解できた時の小学生のようにも見える。

 だが、流石はコールサイン/ダブルオー──約束された勝利の象徴といったところか。眼の奥に秘められた光は刃のように研ぎ澄まされていて、鋭い。

 

「そうね──これ以上隠し事をしていても無駄でしょうし、早速今回の任務を説明しましょうか」

 

 気持ち姿勢を正したユウカは照明の明かりを暗めに調整すると、スクリーンに接続してあるパソコンを操作し始めた。ぶん、という低い電子音とともに、一枚の画像が青白く発光する画面に映し出される。椅子に座って正面を向いた女性を描いた絵画だった。

 ミレニアムという学園にはあまり似つかわしくないものを見て疑問符を浮かべるネル達を尻目に、次々と画面は切り替わっていく。

 大型装甲車に積み込まれている、厳重な印象を見る者にあたえる幾つもの箱。

 夜闇のなかでなお輝きを放つ、けばけばしいネオンに彩られた高層ビル。

 高級そうな装飾が施されてある部屋に集められた、大勢の動物やロボット。

 キヴォトスから出土される正体不明の物品──オーパーツを背にしているオークショニアらしきスーツを着込んだロボット。

 そこで写真は終わりだった。スクリーンが消え、徐々に室内が明かりを取り戻していくなかで、ネルは拍子抜けしたように呟いた。

 

「……なんだこりゃ」

「オークションだけど」

「それは見りゃ分かる。これの何処が問題なのかって聞いてんだよ」

「それが問題なのよ」

 

 ユウカは眉間に寄った皴を揉みほぐしつつ、話を続ける。

 

「あのオークションは別に非合法でもなんでもないわ。ただ、そこに出品される商品──さっきの絵が問題なの」

「別に、普通の絵のように見えたけど……なにか違うの?」

 

 カリンが記憶した絵を脳内で検分しながらこぼした疑問に、ユウカは答えなかった。

 

「そこから先は……協力者も招いてから話すわ」

「協力者、ですか?」

「ええ、そうよ──良いですよ、入ってきてくださいっ!」

 

 ユウカが声を張り上げたと同時に、部室の扉がゆっくりと開いていく。

 そこから現れた人物に、一番反応を示したのは──ネルだった。

 

「てめぇ、は──……!」

「……ほう、アンタ達だったか。おれが協力する連中というのは」

 

 いつもの配達員用の作業服ではない、白いシャツと赤いジャケットの私服に身を包んだ青年──桃井タロウはC&Cの面々を見つけると、いつものように不敵かつ上から目線を含んだ笑みを浮かべた。

 

 

 〇

 

 

「いい天気だなぁ」

 

 ゲヘナ自治区に立ち並んだビルの群れを眺めながら、先生は暢気に歩いていた。

 片手にぶら下げているのは銃ではなく、表面にエンジェル24の印が刻印されているレジ袋である。中身は五つのお弁当。中身も見た目もとにかく安っぽいレジ袋と、すっかり着慣れた印象のある連邦生徒会用の制服はミスマッチにも程があったが、先生はまったく気にしていない様子で歩を進めていく。

 時折住人やチンピラから親し気に声をかけられているところを見ると、それなりに顔が知られる程度には通っているのかもしれない。そんな平和な光景にもしかし、先生の背後──正しくは上空に浮かんでいる双眼鏡に似た形をしたドローンは、欠片も油断することなく警戒を続けていた。

 無機物だというのに、妙な真似をする輩は即座に始末する──という物騒な気迫に満ちているのが遠目にもわかって、先生は思わず苦笑いする。けどまあ、と思う。拉致されたことを考えると、警戒するのもおかしくないだろう。

 そんな状況を保ったまま数分ほど歩き、やがて先生は一棟のビルの前に立ち止まった。そしてドローンに目をやり、『ありがとう、もう大丈夫。帰りもよろしくね──シロコ』と声を出さずに口パクで呟く。

 

「──」

 

 返事をするように、ドローンはくるくる、と器用に身体を回すと、あっという間に視界から消えた。恐らく警戒範囲を広げたのだろう。オッドアイで銀髪で狼耳がチャーミングな少女──砂狼シロコが機体を操作する姿を思い描き、先生は暖かな笑みをこぼした。

 そのままビルのなかに入り、エレベーターに乗り込んで、目的の階層ボタンを押す。微かな揺れと、唸り声にも似た稼働音を数秒間堪能する。その後に響いた甲高いチャイムを尻目に、先生はエレベーターから降りた。

 それからふたたび歩を進めること十数秒。たどり着いた扉を、こんこんと軽く叩く。

 数秒の沈黙。そして返ってきたのは、弱々しい少女の声だった。

 

『は、はいぃ……便利屋68、伊草ですぅ……』

「や、ハルカ。私だよ」

『せ、先生ですか? あ、えと、ちょ、ちょっと待っていてくださいね……!』

 

 扉の向こうでばたばたと忙しない音が鳴り続け、やがて恐る恐るといった調子で扉の隙間から顔を覗かせたのは、深い菫色を髪だけでなく目にまで塗り込んだ少女──伊草ハルカだった。

 

「こんにちは、ハルカ。良い天気だね。調子はどう?」

「すっ、すこぶる快調ですっ。それで、あの……今日はどのようなご用件でこちらに……?」

「差し入れだよ。ほら」

「差し入れ……」

 

 先生が持ち上げたレジ袋を、ハルカは天からの贈り物のような眼で見る。

 

「あ、あ、わた、わたし、何でもします。この恩に報いるためなら、何でもっ!」

「……なら、そうだね。ちょうど私もお腹がペコペコなんだ。一緒に食べてくれると嬉しいな」

「──はい、はいっ! 例え砲弾や爆撃が降り注いできても、先生のお食事にお供させていただきますぅっ」 

「いやそこまでいったら流石に逃げるよ……」

 

 そんな風に他愛もないやり取りをかわしながら、先生はハルカについていき便利屋68の事務所に足を踏み入れた。

 入ってすぐ目についたのは、革張りのソファに座って、テーブルの上に広げられた地図を見下ろしている二人の少女──鬼方カヨコと浅黄ムツキだった。

 二人は先生の存在に気付くと、地図から顔を上げる。そしてムツキはニヤリと小悪魔のような笑みを浮かべて、カヨコはちょっと驚いたように目を見開いた。

 

「あれー? どーしたのこんなお昼に先生ってば。あ。もしかしてぇ……ムツキちゃんにどうしても会いたくなって来ちゃったカンジぃ? くふふ!」

「そんなワケないでしょ。……でも先生、本当にどうしたの? 仕事は?」

「ちょっと休憩を貰ったのさ。それに、私は便利屋の経営顧問なんだろ? なら、差し入れに来るのも立派な仕事のうちの一つだよ」

「……あっそ」

 

 物好きな、と思っているのがありありと分かる目つきをするカヨコに微笑んでから、先生はきょろきょろと辺りを見回した。

 

「そういえば、アルは? 姿が見えないようだけど」

「アルちゃんはおつかいだよ~。今度の依頼で使う道具の補充~」

「そっか。とりあえず仕事はあるようで良かったよ──机の上の地図も、それ関係のモノ?」

 

 先生の何気ない問いかけに、ムツキは何故か自分で自分の身体を抱きながら、

 

「──先生ってば、勝手に私達のヒミツを覗きこんじゃって。えっち♡」

「ムツキ、バカ言うのもいい加減にして。

 ……そうだよ。今度……っていうか、明後日の依頼に必要なもの」

「へえ──ちなみにどんな依頼か、聞いてもいい?」

「別に、好きにしなよ。経営顧問なんだから──……あった。ほら、これ読んで」

「ありがとう、カヨコ」

 

 カヨコから差し出された数枚の紙を受け取る。どうやら送られてきたデータをプリントアウトしたものらしい。依頼主が書いたと思しき文面の下には、一枚の写真が載っていた。

 

「これは……」

 

 それは、椅子に座って正面を向いた女性を描いた、一枚の絵画だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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