ウマ娘にしか呼べないウマ娘 作:指ホチキス
死因は病死であったが、それは老齢によるものだった。
湿った土を踏み、蹴飛ばした。
キツいカーブと勾配をものともせず、その女は走っていく。
ゴールテープも、実況も無い。
僅かな観客のみが存在する峠にて。
そこに女はいた。
肌寒さを感じる程度の気温の中、山中にて人々の歓声がまばらに響く。
整えられた芝なんて高尚な物のない、踏み固められた土を基礎とするうねうねと曲がる山道を、女が二人駆け下りていた。
山の管理者が特別整備した、ウマ娘走行用峠道。
芝のレースでは有り得ない勾配が、ウマ娘としての限界近くまで加速させる。
その運動量に発熱する体は汗を瞬く間に蒸発させ、沸騰が如く白い湯気を昇らせた。
それは、“峠レース”と呼ばれる競争。
学生やドリームレースでは見られない……否、最早レースとも呼べないような荒削りの競い合い。
URAの主催するレースでは無く、非公式の野良レースの中ですら一等に危険。
ウマ娘として本格化を迎えても、峠道に不慣れな学生が急に参加すればあっという間に怪我をして走れなくなってもおかしくないほど危険な場。
ここで勝ったところで、日本中に響き渡るような名誉も、遊んで暮らせるほどの賞金も無い。
しかし最速を求めて山道を駆ける彼女達は、URAの介入しない峠レースにこそ価値を見出していた。
蹴り飛ばされた土が飛んでこないように若干高い位置に立ち、観客は声を上げる。
それこそ、レースでは無い、ただの競走を見るために。
山中の上り坂を、女二人が駆けていた。
前を走るは栗毛の女。
競技場で見るウマ娘と比べてその体躯は全体的に太く、しかし引き絞られて余分な脂肪など無い。
首、肩幅、太股、脹脛。
筋骨逞しいと云うに相応しい、少女性を感じさせぬ隆々とした足が地を蹴っていた。
追うは芦毛。
こちらは細く引き絞られた競走バらしい体躯であり、中距離特有のバランスよく引き絞られたトモを持っていた。
そのフォームは鹿毛と比べて洗練されており、競走バとしての経験を伺わせる。
しかし表情に余裕がないのは芦毛側であり、栗毛は背後を振り返りもしなかった。
後半戦の下り坂へと入ると同時、二人は更に加速した。
ただ、逃げるか追いつくかという事だけを頭に坂を行く。
一歩、二歩と、加速していく。
残り200m、走るのではなく、落ちるような速度で二人はラストスパートをかけた。
一歩踏み出すのが遅れれば、勢いに負けて坂を転げ落ちるような前傾姿勢のままひたすらに。
後方との差、1バ身。
栗毛の女は、ただ前を駆けていく。
───遠くでスタートの音が聞こえ、ウマ耳が揺れる。
峠レースの勝者となった栗毛を汗で濡らす女は、向かってくる足音の方へ視線だけを向けた。
足音の正体が先程競い合っていた芦毛だと確認すれば、僅かに表情を緩めて視線に続き、体ごとそちらを向く。
休憩所に座る栗毛に近付いた芦毛は、爽やかな笑顔で買ってきた餡饅を投げ渡した。
「負けた!やっぱ速いね」
「あぁ、あんたも初めてにしちゃいい走りだったよ」
目を細め、栗毛は大きく息を吐く。
山の上の方で歓声が盛り上がったのを聞きながら、餡饅を口に含んだ。
「今はガキンチョどもが走ってるってさ」
「若くからこんな峠で走ってると、トレセン学園に入学なんかできないな」
「あっはっはっ!確かにこんな道ばかり走ってたら、芝じゃ物足りなくなるかもしれないね」
芦毛は愉快そうに笑うと、獣が喉を鳴らすような、そんな嘶きのような音で栗毛の名を呼ぶ。
「噂に聞く■■■と走ってやろうかと峠に挑戦したが、勝手が違くて全然ダメだな。まだまだ本気出してないだろ?」
「初なら流しで走るって言っただろうに。最高速ですっ転ばれたら大変な事になるからな。意地になって速度を上げられたら引っ叩いてるところだ」
栗毛にとって珍しくはあるが、無いわけではない挑戦者という存在。
峠レースで勝ち続けた結果、その話を聞きつけた戦闘狂のようなウマ娘が時折来るのである。
現役としてURAのレースを走る学生なら蹴っ飛ばして帰すものだが、自分の責任を自分で取る大人の挑戦は受けて立つのが栗毛のスタンスであった。
「そういや■■■は……前にURAが関わるどこかのレースに出場したとかあるのか?」
「いや無い。そもそもトレセン学園に行った事……はあるか。けど、性に合わなくて競技者として走ったことは無い」
「それであんなに速いのか!?」
芦毛は仮にも重賞で勝った事のある己を軽くあしらった存在が、そういった“競技者”ではないことに驚愕する。
「本当はレースにも競走にも興味なんかないんだ。ただ、追われて逃げている時だけ自分でもわからないぐらい興奮するから走ってるだけ」
無造作に肩のあたりで切られた栗毛を手櫛で雑に整えながら、女は目を細めた。
対して芦毛の女は、呆れたように溜め息を吐く。
「それは興味あるって事だろうに」
「うーん……そう言われてみれば、そうなのかもしれない。ただ、トレセン学園に入っても、レースに出場したいなんて思ったことは無かったよ。あそこには私の好きな自由が無いからな」
「ダービーとか、そういうのに憧れみたいなのはないのかい?」
「そういったレースに勝つのはすごいとは思う。間違いなく頂点だという証だろうから。だが、なんと言うかな。私の在り方では無い。そんな気がするんだ」
食事制限、トレーニング項目、座学。
速く走るために、勝つために考えられるトレセン学園で与えられるそれら。
そのどれもが女の性に合わず、入ったところで破綻するのは目に見えていた。
ともすれば草原に投げ出してもそのまま生きていそうな、社会性を感じさせぬ野生を瞳の奥に宿した女は、またゆっくりとストレッチを再開した。
「要するに自由に走りたいって事か?」
「まあ、そんなとこ」
正確に言えば、自分勝手に生きたい、だが。
わざわざそれを言う必要はなかったし、言う気もなかった。
社会から離れた山小屋に住まわせてもらってるだけ、十分すぎると言えるものだ。
───昼時に山道を登る、二人の男がいた。
峠レースで賑わうその山にわざわざ登るのは、単なる登山家ではないことは確かである。
若い男と、程々に老いた男。
峠レースにおいて観客席と称される、ウマ娘の蹴飛ばした石礫の当たらぬ位置を見つつ、額に汗を浮かべた二人は目的地へと足を進めていた。
「ふぅ、結構賑わっているんですね」
「チビッコでいいのがいたらスカウトしてみるもんだぜ。大人なら返しウマに臨時として雇うのもアリだ」
その会話から、その二人がただ峠レースを楽しむ観客では無い事がわかる。
普段であれば、きっと襟元などに煌めくトレーナーバッチが見えることだろう。
しかし今日は比較的軽装の登山服であるため、ひと目にトレセンに勤める者だとはわからない。
「こんなとこ初めてですけど、いつものレースとはまた違う熱気がありますね」
「そう思うなら連れてきた甲斐がある。ここにいるのはネジの吹っ飛んだ奴らに、その吹っ飛んだネジに“当たっちまった”奴らだからな」
ウマ娘達の走る競技場のように大歓声は聞こえないし、人々に整備された爽やかで滾るような熱気は無い。
ここにあるのは、山の湿った空気に自然の匂い。そして、妙に籠もった“熱気”だった。
それが、峠レース独特の空気である。
「見えたぞ。あそこが休憩所だ」
「結構歩きましたね」
「あそこが第2スタート地点だからな。本格化を迎えてない子達はあそこから登って降るんだ。んじゃ、ちょっと支払ってくるから待っててくれ」
休憩所前に並ぶベンチへ若い男を座らせ、ついでにとばかりに荷物渡すと、売店としての役割も持つ休憩所へ男は財布だけを持って行く。
奥で座っていた老婆に、いつも通りに手を降って呼びかけて。
「おねえさん、焼き団子二本。あとこれは大人二人分の観戦代」
「はいよ。団子二本に……なんだアンタか。観戦代は倍だよ。そこに入れな」
「おいおい、勘弁してくれ。職業差別か?」
「面白いのを引き抜いていく奴にゃこんなもんだろ」
「そうかい」
男はケラケラ笑うと、賞金と書かれた箱に観戦代の3倍の額を入れて団子を受け取る。
「見どころは?」
「今日はガキンチョ共がプロテクターを付けてここから走るのが殆どだよ」
「ま、俺らにすれば当たりっちゃ当たりか」
「あと3レース目にナナシが出る」
「はは、じゃあ大当たりだ。ありがとよ」
若い男の元へ戻った男は、団子を渡して腕時計を見る。
売店の外に置いてあるホワイトボードに書かれた1レース目の開始まで、あと少しといったところか。
「今日は子供が多めらしいし、こっからスタートのウマが多いってよ」
「おっそうですか、ラッキーですね」
それから暫く、休憩所前で小学生ほどのウマ娘達がプロテクターを付けて準備運動をするのを、ちゃんと筋肉がほぐれているかをぼーっと眺めていれば、若い男が怪訝そうな声を上げる。
「ん?あの栗毛、いい体付きだけど、すごい足してるな……」
「お、いいウマ娘がいたか?」
「ハンパないですね。芝やダートを普通に走ってればああはならない。あの異様に発達したふくらはぎ。ガタイも相まって凄まじい脚だ。スピカんとこのトレーナーがいたら絶対触ってますよあれ」
「どれどれ?あー……あぁ、ナナシか。あのウマ娘はトレセンにゃ来ねえぞ。返しウマも向いてねえ」
「ナナシ?名無しの権兵衛みたいな名前ですね」
「由来はそうさ。あのウマ娘の名前は俺らじゃ呼べねえ。そういうもんなんだよ」
「えぇ……どういう意味ですか?」
「ま、聞けばわかる。そこのお姉さん!ちょっとメモを取りたいんだけどここにナナシの名前を書いて貰えるかい?」
「おっトレセンの奴らじゃないの!■■■のだろ、ペン貸してみな」
こちらに寄ってきたウマ娘の喉から出た声は日本語ではなく、かと言って異言語ですらないと聞いただけでわかるほど、とても人間の言葉とは思えない発音。
それは嘶きに近い、動物的な、名前であるかすら不可解な音だった。
メモ帳に書かれた女の名は、文字というより象形文字に近い。
「お前、これ読めるか?」
「……からかってます?」
「おっ、そっちのにーちゃんは■■■みたいなウマ娘を見るのは初めてかい?」
快活そうな女がバシバシと肩を叩く。
ウマ娘特有の力強さに思わず呻くが、女はそれを気にした様子はない。
「野良レースにゃ■■■みたいなのが時々いるのさ、野生に生きてましたって面した奴がね」
「野生……?」
「食うか食われるか。競うなんて土台じゃなくて、生死を賭けたように走る奴がいるんだよ。そしてそういう奴の名は、私達ウマ娘にしか呼べない」
「ウマ娘にしか呼べない名前、ですか」
「あんたらヒトはそういう奴を
楽しんできな、と豪快に笑いながら再度男たちの肩をバシバシ叩き、女は戻っていった。
象形文字のような名前を暫く見て、男は諦めたように首を振る。
「訳がわからない。親が名付けるときにどうやって名付けるんですか」
「メジロ家みたいなものらしいぞ。親も、その親も、更にその親もナナシだったらしいからな」
ナナシと呼ばれるそのウマ娘の方へ視線を向ければ、当人は静かに深呼吸を繰り返していた。
結ぶことすらされず、ただの鋏で雑に切られて不揃いに肩まで伸びたボサボサの髪が風に揺れる。
飾り気など欠片もない、己を魅せる気が全く感じられない機能性を突き詰めたような、プロテクターとテーピングサポートの機能を持つ黒いインナー姿の勝負服。
流石にインナーのみではなく、胸と股間部を隠す程度に黒いスポーツウェアを着用はしているものの、首元から手首、足首まで隠すインナーの主張が強すぎた。
トレセン学園の運動着よりも飾り気が無く、URA開催のレースでは絶対に見られないであろうその黒一色の姿は、しかし自然に溶け込んで見えて。
社会性を感じられない、生きるためにそこにいるかのような独特な雰囲気は、数々のG1ウマ娘をトレセンで見てきた男の中でも特段異様に映る。
ふと振り返ったナナシと目が合い、男は咄嗟に目を逸らした。
しかし隣にいる壮年の男に見覚えがあったのか、ナナシは男達の元へと歩み寄る。
「……トレセンのトレーナーか」
近寄ってきたナナシに、若い男が一歩引いた。
思ったよりも背は小さい。
男より低く、160cm程度だろう。
体格や肩幅が、可愛らしく女性らしさを帯びているトレセンの生徒と比べて逞しくはあるが、ボディラインが女性らしさを損なうほどでもない程度。
近くで見れば化粧っ気は無いが、頬は絞られており、キツめの印象が先行するものの、男の目ではナナシは美人の部類に入っていた。
しかしその目に、男は恐れを抱く。
普通に比べ、やや大きめの黒々とした瞳孔。
色々なウマ娘を見てきたが、まるで黒曜石のような漆黒の瞳は男にとって何を考えているのか一切が読み取れない異様なものに思えたのだ。
「久し振りだな。いつも通りの視察ってやつだよ」
「……学園生を連れてきていないのならそれでいい」
「心配とは優しいね」
「妙な奴が憧れて怪我でもしてみろ。例え同意書を書いたとしても峠の評判が悪くなる」
「俺らもそれは常々言ってるよ。峠で走るのは危ないからダメだってな」
「そうしてくれ」
チラリと若い男を見て小屋へと向かう■■■。
その背を目で追いながら、若い男は呼吸を忘れていたかのように大きく息を吐いた。
「なんか、怖いウマだな」
「気性難と呼ばれるほど性格が尖っているわけでは無いんだがな。ただ、彼女の雰囲気は独特だからよ。野生動物を目の前にしたかのような、本能的な恐怖を感じるってもんだ」
男の言葉に、若い男は確かにと頷いた。
トレセン学園で多くのウマ娘と話す機会があるが、彼女達はトレセンに所属し、授業を受けながら各々がアスリートとして振る舞っている。
それは彼女達の、人とは比べ物にならないほど強靭で強力な肉体を、上手く社会に溶け込ませるに足りていた。
しかし■■■の存在は、あまりにも社会性を感じさせなかった。
突如気まぐれの後ろ蹴りで頭を吹き飛ばされてもおかしくないと感じてしまうような、そんな存在。
何を考えているかわからない。
野生動物という言い例えは、確かに的を射ていた。
「ナナシみたいなウマ娘は絶対に普通のレース場じゃ見られない。だから今日は大当たりだ」
「それは、楽しみですね」
「さ、立ち見席しかないが俺らも行くぞ」
そう言って山道を登り始めた男の背を追い、若い男も歩き始める。
しかしその視線は、ウォーミングアップもせず、ただ目を閉じて深呼吸をする■■■の背に注がれていた。
峠レース、第1スタート地点。
平らに均された土と、端に石畳が敷かれている場。
そこは前半に700m程の峠道を駆け登り、後半は1500m程の道を駆け降る大人用“中距離峠道”の始点。
山特有の湿った風が、そこに立つ二人のウマ娘の髪を揺らした。
峠レースのスタート位置にパドックのような礼儀正しいものはない。
ただ無造作に立ち、合図と同時に駆け出すのみである。
「今日こそは勝たせてもらう」
「そうかい」
挑戦者の言葉と、淡白な返答。
何度も峠レースで走ることで慣らしを終えた芦毛が希望した、栗毛への再挑戦。
ウマ娘において上澄みも上澄み、中央トレセンの芝で走っていた芦毛のアスリートとしてのセンスが、一月近くで峠レースへの感覚を己のものにしていた。
「すぅーふぅー」
芦毛は数度跳ね、緩やかな呼吸を一つ。
対して栗毛は構えもせず、ぼーっと突っ立っているだけ。
「いくぞ」
「───ああ」
後ろを向いた挑戦者が五百円玉を上に投げ、前を向く。
互いの耳は絞られ、小さな音も聞き逃さないように集中。
───鳥の声、葉が擦れる音、風の吹く音。
そして、石畳に金属が落ちる音。
レースが始まった。
無造作に立っていたとは思えないほど、突き飛ばされるように栗毛はスタートを切り、対して芦毛は半バ身ほど後ろを走る。
それはスタートの失敗ではなく、脚質によるものだ。
芦毛はURAレースでは差しを好んでいたが故に、序盤は比較的緩やかにレースを走る。
栗毛をマークするように、体を離されないように前へ前へと送り出し。
蹴飛ばされる土と砂利のような細かな石を受けないように横へと体をズラしつつ、栗毛の後ろを走る。
視線を上に、これから登っていく峠道を見て、歯に力を込めて気合を入れた。
峠の坂、それはレース場の700mに比べて遥かに体力を消耗することを芦毛は知っている。
上り坂はどのレース場にも存在する。
東京や中山のレース場ではかなり急勾配の坂があり、芦毛はそれらを上り、下った経験がある。
だが、山道を整備して作られた峠道は登り700m全てが登り坂であり、それほどの坂道を続けて走り続ける事は芦毛にとっても峠道レースが初であった。
各レース場をある程度走ったことのある芦毛が、最初の峠レースでは流して走ったにも関わらず、疲労で後半を走り切る事が精一杯だったことから、峠レースという特殊なコースを走る体力、気力が窺い知る事ができる。
だが、再挑戦にあたり、峠レースの距離の中で芦毛はわざわざ中距離を選んだ。
それは己がマイルと中距離を得意とするからであり、長距離ほどの体力勝負ではあまりにも辛く、逆にスプリンターのような速度勝負では分が悪いことを自覚していたからでもあった。
この山におけるマイル峠道はひたすら下っていって1600mほど。
ならばまだ、上り坂が多く、どちらかといえばスタミナ勝負となる中距離で挑むのだと、芦毛は栗毛にそう言い放っている。
「ッフ、スゥ───ッフゥ……!!」
息を吸う。
肺を膨らませ、血中に酸素を送る。
たった200m進んだだけで、ふくらはぎが熱を持っていた。
通常芝レースの速度に比べれば見る分には多少走るのが遅いという感想を抱くだけであるが、しかし走る側にしてみればあまりにも辛い坂。
それでも芦毛は、足を前に、前へ前へと送り出す。
芝での癖を引き継いだ、跳ねるように走る芦毛の軽やかさは、しかし峠坂においては無駄に体力を消費するものであった。
だが、仮にも重賞を手にした事のある芦毛のスタミナは、それを考えて余りある。
そして鍛え上げられたインナーマッスルと肺活量は、その運動量に見合うだけの呼吸を可能としていた。
第一の急カーブまであと少し。
───曲がり始めまで残り3歩、2歩、1歩。
「ふん、がぁ……!」
曲がる方向へと足を向け、足首を無理に捻らないようにステップを踏むように体を切り返す。
いくら上りで速度が落ちていようと、その速度は人とは比べ物にならないほど速く、慣性も相応のものである。
体が外へ、コース外へと持っていかれる感覚を力で捩じ伏せ、落ちた速度を数歩で加速させて栗毛の後を追う。
上り坂の直線に、ふくらはぎが悲鳴を上げようとも、体が無茶だと訴えようとも。
ここが限界ではないことを脳が知っている。
「余裕ゥ!!」
400m地点を越え、芦毛にとって使ったスタミナはおおよそ想定通り。
己を鼓舞するように出した声に、栗毛は一瞥すらしない。
レースにおいて声は、言葉は駆け引きに使われる事もあるものだが、以前走った時に栗毛にはそれが通用しない事は分かっていた。
「すぅ、ふっ、ふっ、すぅ……」
走る。ただひたすらに。
ここで勝てども、大っぴらな名誉も何も無い。
だが、勝ちたい。
■■■に勝ちたいという、芦毛の闘争本能がその足を動かしていた。
第二の急カーブが来る。
栗毛が内を攻め、芦毛は僅かに外へと膨らんで。
ステップを踏むように、慣れた足取りで二人は走っていく。
そうして曲がりながら、上から観客の声がするのを芦毛はぼんやりと聞き取っていた。
レース場とは比較することも烏滸がましいほど小さく、しかし誰かに見られているという事実がレースで走ってきた日を想起させる。
「ハッ……!」
口端を吊り上げ、余裕だという顔を作った。
逃げを追う経験など飽きるほどある。
ペースは予定通り。
掛かりもせず、追い比べも無い、二人だけのレースに精神は研ぎ澄まされていくばかり。
第三の急カーブを曲がれば、下り坂の始まりが見える。
曲がった。見える。見えた。見えていた。
峠の下り坂が、始まった。
その下り坂をウマ娘の速度で走る感覚は落下に近い。
山の斜面を利用した急坂に、足の回転が早まっていく。
一歩進めば、背を強く押されるように加速した。
転べば地獄、進むしかない峠道こそ、峠レースの醍醐味である。
下り坂を走るとき、基本的には転倒を恐れて体を真っ直ぐに保とうと重心がやや後ろへと傾くもの。
しかし峠レースにおいてそれは、速度を落とす無駄である。
下り坂においても、その走行姿勢は基本通りに前傾。
体が前へ倒れ切るより先に足を出せばいい。
下り坂の第一カーブが迫る。
急カーブと呼べるほど急ではないが、しかしその緩やかなカーブですら下り坂の速度では遠心力で外へ押し出され。
意図的に、体を僅かにカーブの内側へと傾けた。
峠道、細かい石が交じる踏み固められた土は、その凸凹によって伝える力に偏りが生じる。
そこで靴底に仕込まれた蹄型が真価を発揮する。
峠を走る上で靴底に仕込むものは蹄鉄とは銘打ってあれど、その材質は鉄では無く特殊なゴム質であり、グリップ性の高いものを使用していた。
靴の前側が滑りにくいため、体を傾けて踏む土と石に足を滑らせる事もなくそのカーブを曲がり切る。
「ハッ、ハッ……!」
そのカーブを曲がれば直線。
一歩すらミスは許されない速度の中で、芦毛は前の栗毛へ追いつかんと足の回転を上げた。
まだ足りない。
追うことは出来ている。
だが追い“抜く”ためには、向こうが速度を緩めるかこちらが速度を上げるしかない。
足の指の力はただ駆けるために。
一対一、囲む囲ませるなどという技術が介入しない、純粋な地力の違いが結果を分ける。
芦毛は栗毛との差を僅かに縮めながら、その顔を好戦的に染めた。
気付けば残り5歩で、第二カーブが来る。
このコースにおいてもかなりの急坂であり、最も鋭角な急カーブ。それは、曲がり始めからたった3歩で120度近い方向転換を求められるほど。
そんな山道特有の、競技場ではあり得ない急カーブへ女達は速度を緩めずに突入した。
遠心力に負ければ体が外側へと吹き飛ばされるが、恐怖に負けて減速すれば更に危険。
しかし燃え上がる闘争心に、芦毛の脳から恐怖など掻き消されていた。
内へ傾ける体は最早45度を超えている。
急カーブにおいて足首と足指の使い方は勝敗に直結するものだ。
カーブを曲がるのに使う歩数はたった3歩、されど3歩。
それはもはや、地を踏むのではなく、地を掴むように。
足指へと力を込め、その急カーブを曲がっていく。
体の浮く感覚。
外へと体が投げ出されそうな浮遊感すら置き去りにするように、前へ体を傾けて。
第二カーブを抜ければ、ゴールまでの直線が待っている。
残りは既に200mを切り、芦毛は脚に力を込めた。
その直線で、芦毛は勝負を仕掛けたのだ。
「並べ……」
2バ身先の栗毛へ、芦毛が緩やかに近づいていく。
「並べ!」
己をそれに競り勝つ存在だと思うために、喉を震わせて。
「並べ───!!」
踏んだ土を蹴飛ばすように距離を詰め。
遂に並んだ。並んだのだ。
ようやく、芦毛はその速度で栗毛のほぼ横に並ぶ。
好戦的な笑みを多量の汗で濡らし、鋭い眼光が振り返りすらしない栗毛の横顔を刺す。
さあ、ここまで来た。涼しい面をしていそうな栗毛の表情を拝んでやろうじゃないか───
そう、芦毛は思いながら栗毛の顔を覗き込む。
「え」
そしてそれは。
その栗毛の顔は。
芦毛の想定とは大きく異なっていて。
汗に濡れた栗毛の顔は、ただ純粋な恐怖に染まっていた。
足音が近い。
息が近い。
聴覚はレース相手の存在を強く察知し、芦毛に追い抜かれそうなことを伝えてくる。
このままでは抜かれる。
抜かれる抜かれる抜かれる抜かれる抜かれる────
“牙が、来る”。
「───ッはぁ……!」
栗毛はその恐怖にぶるりと震えていた。
全身の毛が逆立ったまま、唾液と汗の混ざった液体で路を濡らす。
“喰われる”
それは、この場においてありえないはずの本能的恐怖。
生涯で感じた事のない筈の、逃れようのない痛みを幻覚した。
胸に、腹に、太腿に。
まるで噛みつかれるかのような、そんな痛みへの恐怖に栗毛は歯を食いしばった。
「ぅ、う」
跳ね上がった心拍数が、体に血を巡らせる。
呼吸は苦しく、体から血が噴き出すような感覚。
その感覚に、栗毛は震えた。
それは恐怖でもあり、“快楽”でもあった。
息を吸えば、疲労も、痛みも。
全てがぼんやりと霞む。
まだだ。まだ終わっていない。
まだ───
逃げられる。
───困惑と共に栗毛に並んだ芦毛の女は、そこで始めてそれを体感した。
山中、清浄な空気は一気に乾き、開けた平原を走っているかのような風が全身を叩く。
事実そうである訳がない。
先程までは山特有の涼しくも湿った風があったというのに、それが感じられなくなったのだ。
土では無く、砂っぽい、乾いた風が吹く。
栗毛が再加速し、それに追随するようにペースを上げる。
息は荒く、芦毛は突如として感じるようになったプレッシャーに、体が重くなったように感じていた。
───背後。
背後に、何かがいる。
何か、恐ろしいものが私達を追っている。
止まれば死ぬ。
そう幻覚するほどの威圧感が、背後にあった。
聴覚は二人の足音と歓声以外を拾っておらず、一瞬だけ後ろを振り返るも、何もいない。
当然だ。この整備された峠でウマ娘の速度に追いついて害を成すような野生動物など出るはずも無い。
だが、いる。
何かが後ろにいるのだ。
ウマ娘の足をして逃れられない何かが後ろに居続けている。
闘争心で掻き消すことのできない恐怖が喉を絞め上げる。
これは───
これは、■■■の感じている感覚!?
■■■の、並ぶものより先に出て逃げる走り。
それはバ群という縛りを嫌う逃げや、己を追うウマ娘達からただ逃げる走りとは根本から異なっている。
栗毛の走りは、ウマ娘の更に奥から逃げる走り。
その逃げ方は公助を欠片も感じさせぬ、他より己を絶対優先する反社会的行動原理。故に、野性的なもの。
それの本質は、他者を餌として置き去りにすることで追跡者を撒くための行為。
そして走りにおいて並ばれた───
追跡者を撒くための餌が己になりかけたところで、■■■の本性が現れた。
蹴飛ばすなどという非効率的行為はしない。
一歩でも速く、足の回転率を上げて己以外を追跡者に差し出すための走りをするためにギアが上がる。
一位を目指して前に進むのではない。
生き残るために、先頭を走るのだ。
そしてその意識は、その振る舞いは。
真に迫った恐怖により、並ぶ者に感覚を共有させた。
追う側でありながら、追われている。
ここで一対一において、絶対にありえない状況が発生した。
二人ともが奥から逃げる走りとなり、自然とペースが上がっていき。
下り坂を全力で走るそれは、スプリンターのスパートに勝るほどの加速。
命を賭して逃げるために、脳が走る以外のすべてを忘れさせていく。
だが、この緊迫感に慣れている栗毛と慣れていない芦毛には大きな差があった。
そしてそれが、たった200mほどで顕著になり始める。
足が動きにくい。
徐々に置いていかれる。
差ができていく。
己のペースで走れない。
速度を緩めることができなかったが故に、芦毛のスタミナは予想より遥かに早い地点で尽きかけている。
■■■と距離が離れた分、背後の威圧感が距離を詰めた。
この異様な威圧感に精神は摩耗し、女の呼吸を乱す。
足の歩幅すら崩れた女は更に距離を離し。
あぁ、追いつかれ───
ゴールまで残り100m。
芦毛の女は突如として失速し、急激に速度を落とすとそのままゴール前で立ち止まった。
その顔はなぜここにいるのかがわかっていないような、不思議そうな顔で。
ただ足と腹を押え、青い顔をしながら涙を流していた。
ゴール後、徐々に速度を落として初めて振り返った栗毛の女は、それを見て、獣の威嚇が如く獰猛に笑う。
───私が生き残った。
■■■の見ている景色。
それは、人の手の入らない、どこか遠くの世界。
峠レースにおいて■■■の走りを見てきた者は、口を揃えてこう言った。
「あいつは生死を賭けたように走る」
そして、峠レースにおいて■■■に並ぶほどの強者は、口を揃えてこう言うのだ。
「あいつは生死を賭けて走っている」
並走者が強者であるほど■■■の恐怖は伝播し、捕食者を幻覚させる。
その女の名は、ヒトの言葉では発音できない。
ヒトの間でナナシと俗称される、峠レースの強者。
ウマ娘にしか呼べない名を持つ女。
それは魂に、広大な地を“駆”ける野生を宿らせたウマ娘。
続きがそのうち出ます