ウマ娘にしか呼べないウマ娘 作:指ホチキス
特に、自分が餌になりそうな時ほど。
多くの名前には、願いが宿っている。
その名を抱いた者がその意味に
人が願いを込めた名は、人の言葉で現される。
例え種族が違くとも、大半のウマ娘の名前が人の言葉であるように。
「■■■」
峠の茶屋で、栗毛のウマ娘が名を呼ばれる。
人には呼べず、ウマ娘にしか呼べない名前を。
人の願いが存在しない、その名前を。
その名を持つ女の黒々とした瞳は、社会性を感じさせない。
暴力的な感じは無く、頽廃的な感じも無い。
だが、確かにその瞳は社会性を欠いているのだ。
だが、その在り方は。
その瞳に宿る色は。
確かに、名に込められた意味が現れていた。
峠レースが行われる山にも、休みという概念が存在する。
それはコースの整備や、ちょっとした工事などが行われるため、ウマ娘の走行が禁止される期間のことを指すもので。
そんな休みの日に峠レースの走者は何をしているかといえば、仕事をしているか、個別にトレーニングをしていたりする。
峠レースに出ている時点でトレセン学園に所属していないことは確実で、峠にはチームなどといったしっかりした仕組みも無い。
社会に出てから趣味として走っているウマ娘もいるし、学生時代の賞金を緩やかに消費しながら引き続き走っているウマ娘もいる。
そのためトレーニングは各自が自主的に行っており、自分で計画を組む者もいれば、わざわざトレーナーに依頼する者もいるし、元トレーナーの旦那に付き合ってもらう者もいる。
そんな休みの中、とある栗毛の女は、トレーニングもせずに山近くの草原に寝転がっていた。
何をしているかといえば、好きなことの一つ、日光浴である。
少し離れた場所で遊ぶ子供たちの笑い声を聞き、栗毛の女は耳をピクピクと動かす。
どこまでもリラックスしていた栗毛の女は、己の方に近寄ってくる気配を感じ、つい癖で息を止めた。
「…………」
「気持ちよさそうだね」
「あぁ」
それが女の声であることを認識することで大きく息を吐き出し、返答を返す。
話しかけてきた方に目を向けることも無く、大の字から体勢を変えることもない。
草と土の香りに、太陽の暖かさが揃ったこの状態が、栗毛の女にとって何よりの贅沢であり、それを楽しみ続けることが女にとって重要なことだった。
「トレーニングはしないの?」
「……誰だ」
その言葉は、栗毛が走る者だと知っている者ではないと言えないことであり、そこで初めて栗毛は瞼を上げた。
「■■■、私だよ私」
特徴は黒鹿毛のボブカットと、緩いパーカー。
身長は高く、優しげな垂れ目どこかアンバランスさを感じさせる。
頭頂に生えるウマ耳が、その女がウマ娘であることをこれ以上ないほどに主張していて。
「……えっと、本当に誰だっけ……?」
顔を覚えるのが苦手な栗毛は、その顔を忘れていた。
「峠レースの強者がこんな姿でいいのかな」
「強かろうが弱かろうが他人に迷惑をかけなければ好きにしていいだろ別に。肩肘張って真面目になりたいやつは勝手にすればいい」
名前を言われ、以前峠で走った事のある黒鹿毛だと曖昧に思い出せた栗毛は、寝転がったまま会話を続ける。
「用はなんだ。どうせ暫くは峠も休みだぞ」
「知ってるよ。仕事してたら急に挑戦したくなったからさ、それで来た」
「峠の婆さんに言えば良かっただろうに」
「久々に顔見たかったってのもあるよ。元気かなって」
その言葉に、栗毛は片目だけ開く。
にこにこと笑う黒鹿毛を見て、思わず顔を顰めた。
「そんな奴じゃなかった気がするけど」
「私はずっとこうだし、それはマジで違う人の記憶じゃない?」
「そうだったっけ……?」
こちらのことを名前以外何も覚えていない栗毛に、相変わらずだと呆れたような顔で黒鹿毛はため息を吐く。
どこか浮世離れした雰囲気を持っているのは前々から気付いていたものの、ここまで繋がりを希薄にするのも珍しいものである。
名前は覚えている。しかし名前と他の特徴を一致させて覚えていないことから、他者への掘り下げた関心が極端に薄いのだということが伺える。
それは、ただ名前を覚えていない事より、社会性を損なう感性であった。
しかし、社会に出て働く黒鹿毛にとってその距離感は、どこか気持ちが良いものである。
己をなんの色眼鏡も通さずに名前と現行の表面だけしか見ていないその姿は、良くも悪くも社会から遠くにいることを想起させてくれる。
「隣に寝ていい?」
「いいぞ」
「では失礼して」
草原に身を投げ出せば、なんとなく大人という枠組みから逃れて自由になれた気がした。
日光の暖かさに、思わず表情が緩む。
「挑戦だが、休み明けなら峠も空いているだろ」
「ん、そしたら休み明けにマイルで挑戦だ」
「時間は10時頃で取っておいてくれ。どうせ私は茶屋にいる」
峠レースにおける約束事は、個人間で交わされるものだ。
誰かと走る約束をした後に、スケジュールを管理する休憩所の老婆に日時の指定を予約する。
指定日時は一週間以内などという制約などもあるが、それも大体でしか守られていない。
そんな曖昧なものが峠レースのルール。
「10時ね」
「あぁ……それと、一番最初に声を掛けてくれよ」
峠レースにおいて栗毛のスタンスは、走ろうと思った日に最初に話しかけてきた奴と走るという、気まぐれなもの。
例えここで口約束をしたところで、当日に違う者が一番最初に声を掛けたら、栗毛はその者と走る。
だからこそ、走りたいという者には指定日の最初に声を掛けろと教えるのだ。
「よし、じゃあよろしく!」
その言葉を残し、黒鹿毛の女はその場を後にした。
会話を終えたことで社会に戻るような感覚を覚え、疲れた顔をしているが、その瞳には闘志がチラついていた。
山周辺の道で休憩しながら、黒鹿毛は汗を拭う。
挑戦まで残り3日。残された時間は少なく、仕上がりはそこそこといった状態。
自分である程度のトレーニング計画を考えられるため、黒鹿毛の女は一人で峠レースへ向けて調整を行っていた。
しかし黒鹿毛が誰よりも見てきた己の走りは、調整すればするほど学生時代から随分と劣化していることを実感させられて。
それは確かに、衰えたのではなく、劣化したという言葉が正しいのだろう。
───あの頃と比べれば。
走りながら、そう思うことも少なくない。
トレーニングに費すための時間は仕事と両立が難しく、どうしても十全とまでは仕上がらない。
アスリートとして生きていたあの頃と比べてしまうのが烏滸がましいほどに、その筋骨は劣化した。
鍛えればまだまだ走れる歳であり、衰えという表現は相応しくない。だからこその劣化。
「でも、これが今の最高の状態……」
でも、それでも、やはり全盛期と比べてしまう己がいる。
それこそ、火事場のバカ力が如く、体が限界まで引き出せればあの頃へ戻ることもできるだろうが。
「ふふ」
そんなことを考えた黒鹿毛は、思わず笑った。
“そうしたいから”、栗毛に挑戦したのだという事を思い出してしまったから。
それが、楽しみで楽しみで。
「待ってろよ」
学生の頃を思い出すような戦意が胸の奥で燻る。
今か今かと、燃え上がることを望んで。
「やっほ」
「……来たか」
峠の休み明け。
休憩所の茣蓙で寝転がっていた栗毛にとって、数日越しに見る顔。
「約束通り、一番だったでしょ」
「あぁ、間違いなくお前が最初だった」
ウォーミングアップは終わり、既に体は温まっている。
今すぐにでも走り出せそうな黒鹿毛の体は、薄っすらと汗で濡れていた。
「思ったより、だいぶ早かったな」
「そうだね、楽しみで仕方なくて」
茣蓙からゆっくりと立ち上がった栗毛は、黒鹿毛に何をするでもなく横を通り、視線を合わせることも無いまま茶屋の奥へと入っていく。
「すまん、服着てくるな」
「ごめんね、本当に早すぎたね」
「───アンタまたそんな格好でゴロゴロしてたんか!!」
茶屋の奥から老婆の声が聞こえ、めんどくさそうに相槌を打つ栗毛の声が聞こえてきて。
そんな栗毛の衣服といえば、上は黒の布地で長袖のカップ付きインナー、下はそこそこ厚そうな黒のタイツ。
栗毛の可愛げの欠片もない寝巻き姿に、黒鹿毛は本当に申し訳なくなった。
時刻は7時半。
それは、出走予定の2時間半前である。
持ってきたタオルで体を拭きつつ、温かい茶を飲むことで、黒鹿毛の体は程よい冷えを楽しめる程度で落ち着いた。
暫くして栗毛は、先程の姿の上から雑にスポーツウェアを着て、のそのそと奥から戻ってきて。
下半身はまだしも、上半身はカップ付きインナーの上からスポブラ型の胸部サポーターを着用しているため、それを見た黒鹿毛はなんと言えばいいのか困る顔をしていた。
黒鹿毛にとってそれは、可愛さとか美しさとかそういう土台より先に、服という概念を理解しているのか心配になるセンスだったのである。
「待たせたな」
「えっ、あ、うん」
「予約は入れたか?」
「さっきおばあちゃんに10時にマイルって言っといた」
「よし。じゃあ時間まで自由に過ごすといい」
満足そうに頷いた栗毛は、また茣蓙に寝転んだ。
黒鹿毛はその姿を見て更になんとも言えない顔をして、その隣に座り込む。
「……なんだ?」
「いやね、暇だしお話でもしようかなって」
「別に、私からは何も無いぞ」
困るというより、面倒くさそうな表情は、やはりコミュニケーションという文化をそこまで重要視していない面が伺えた。
「久々に峠に来たからあんまり知らないんだけど、強いウマ増えた?」
「いつからを言えばいいかは知らないが、まあまあ増えてるだろ。減った気もするがな」
栗毛と峠レースを走るのは大人ばかり。
そして学生と違い、大人には色々あるものだ。
峠において強者と呼ばれたウマ娘も、いつか走らなくなる日が来るのである。
栗毛の主観では、新規に増えた知らぬ名もあれば、減った名前もあった。
「■■■は最近誰かと走った?」
「走りはしたぞ。相手が食われてた」
「そっか、食べられちゃったか」
そのやり取りだけで、黒鹿毛はその時走った者が栗毛に追い付くほどの走者であり、同時に初めて栗毛のアレを体感したのだろうと察した。
それは初見の場合、想定外からの掛かりによって体力があっという間に削れ、ゴール前で立ち止まってしまう事が多い。
そして栗毛はそれを、食べられると表現するのを黒鹿毛は知っていた。
「根性が足らんな根性が。生き残りたいという強さが見えない」
「あはは、普通のレースでそんなことするウマ娘はいないからね」
通常のレースで他のウマ娘と接触はあり得る。
腕、肘、運が悪ければ脚。
しかし当たったところで、同じウマ娘同士である。
余程攻撃的な接触でもなければ、高揚感と闘争心であまり痛みなど感じない。
しかし殆どのウマ娘は栗毛のそれに、闘争心を抱くことはできなかった。
恐怖だけだ。
だがそれは、幽霊や暗闇などの未知への恐怖ではない。
追いつかれれば生きていないだろうという、痛みや死といった明確な恐怖である。
ウマ娘の、普通のレースでは絶対に味わえないもの。
初見でそれから逃げるという覚悟をその場で抱ける筈も無い。
「……相変わらず、楽しめてない?」
「楽しむ……のは、緩く走ればできるさ。真剣になればなるほど、楽しむ余裕はないけどな」
だが、栗毛はそれでも走るのを辞めていなかった。
それをわざわざ指摘するつもりは無いが、その在り方だけは黒鹿毛にとって土台が違うのだという感想を抱かせる。
「今日は、私が先に行くよ」
闘争心は充分。
いざ走れば消し飛んでしまうものだが、それでも表明をしたかった。
黒鹿毛の言葉に、栗毛は目を細め。
「いいや、今日も私だね」
その言葉に、高慢さは無い。
栗毛は、ただ事実を口にしたという表情だった。
9時55分に、黒鹿毛のスマホが鳴る。
準備運動はした。仕上がりもほぼ完璧。
頬を軽く叩けば、気持ちが引き締まる。
峠レース、第二スタート地点。
それはひたすらに約1500mの下り坂を駆け降る大人用“マイル峠道”の始点。
横で構えるでもなく、いつも通り突っ立ったまま深呼吸をする栗毛に、黒鹿毛は笑いかける。
「よろしく」
「ああ」
100円玉を掴んだ。
石畳の方へ、下投げで放る。
前を向けば、うねうねと曲がる下り坂が見えて。
石畳に金属の落ちる音がする。
レースが始まった。
栗毛の女は、大半の走者と心の在り方が違う。
勝ちたいなどという殊勝なことは欠片も思っていない。
ただ、食われたくないから逃げるだけ。
闘争心など欠片も無い。
それは、生存本能による走り方。
スタートのときに突っ立っているのは、それが最も自然体だから。
そして突き飛ばされるようにスタートを切るのは、野生動物が迫る捕食者を見つけた瞬間と同じ動き方。
それは緩やかな日常から、スイッチを切り替えるように突如として命を賭けた競争が始まる世界の動き。
それが女にとって、最も合ったスタート方法なのである。
対し、黒鹿毛の脚質は逃げ。
アスリートらしい、しっかりとした構えから走り出す姿は洗練されており、当然ながら逃げにおいて重要なスタートはこれ以上ないほどに完璧。
それは、既に栗毛のほぼ横にいて。
土の匂いは、最初からどこか乾いていた。
走っていれば、湿っていない乾いた風が顔を叩く。
来た。既に、いる。
後ろに何かがいる感覚。
追われているこの感覚。
それはウマ娘では出せない、独特の雰囲気がある。
その威圧に闘争心は無い。
ただ、こちらを喰らわんとする飢えが肌を刺す。
そこには何も居ない。
だが、黒鹿毛は栗毛を通してそれを幻覚する。
「ハッ……ハッ……」
下り坂の直線。
まだ角度は緩やかで、落下と表現するには少しばかり足らない程度の速度。
バ身差はアタマ。
栗毛の表情はかなり強張っていた。
だが、黒鹿毛の表情も余裕がある訳ではない。
例え知っていても、その恐怖は薄れることが無いのだ。
300m地点の第一カーブまであと少し。
速度は僅かたりとも落とさない。
そのカーブは栗毛のステップで四歩。
角度が急であればあるほど、それを効率よく曲がるためにステップは綺麗に踏むものだ。
そして第一のカーブから、黒鹿毛は攻めることにした。
ウマ娘のレースにおける曲がりは、基本的に緩やかなものだ。
それは速度を持って走る上で、遠心力との関係上、鋭角な曲がりを行えば危険だからである。
公式のレースが、おおよそ楕円形のレースを走るように。
野良レースにおいて、公道を使うフリースタイル・レースが基本的に直線を走るように。
速度を持って鋭角なカーブを曲がることへの恐ろしさを、走る本人達も、レースを考える者達も、それを知っている。
だが、峠レースにおいて鋭角なカーブとは“華”である。
速度を落とさず、恐怖心を乗り越えていく精神。
遠心力に振り回されない体幹の強さ。
そして高速で行われていくテクニカルな曲がり方。
そのどれもがウマ娘が危険なカーブを走るときにしか見られない独特な文化。
そして峠レースを走る奴は頭のネジが吹き飛んでいると、そう表現される世界において、慣れた者の走りとは常道を遥かに踏み外す。
そして黒鹿毛は、峠レースに“慣れていた”。
「シ、ィ」
黒鹿毛が歯を食い縛れば、歯の隙間から笑いのように息が漏れる。
内ラチに栗毛、こちらは外側。
それに接触しないために、迫るカーブで遠回りに走ることは避けられない。
ならばどうするか。
───ステップよりも、速度を落とさない曲がりをすればいい。
一歩は、遥かに大きく。
それはステップと呼ぶにはあまりにも大雑把。
踏み出した足は、曲がる角度を考えない角度と位置。
そのままカーブの外へ投げ出されるような一歩だった。
観客が湧く。
多くの観客は、黒鹿毛を知っていた。
覚えていたとも。その、豪胆な曲がりをする黒鹿毛を。
普通のレースでは見られない、そのカーブを曲がっていく、峠レースの黒鹿毛を。
二歩目は、カーブを大回りに回る角度。
だが、その頭は栗毛に近いまま。
その曲がり方は、言うには易く、行うは余りにも難し。
内へ傾ける体の角度は、50度を超えて。
歩数は栗毛の倍以上、故に足の回転は更に速く。
それは、あまりにも大胆な、遠心力頼りの曲がり方。
ステップを挟まない、純粋な速度のみで実現される急カーブでしか見られない力任せの走り。
綺麗なステップを踏んで曲がる栗毛に、カーブ前から頭一つ分の差すら与えずに黒鹿毛は曲がり切る。
観客はそれを称賛し、畏敬を抱き、そして心からの叫びを上げた。
峠レースの強者同士の競いとは、通常レースでは見られない技術が出るものだ。
それを行う峠レースの走者を、観客は声をもって讃える。
それはURAレースにおける走者への応援より、ずっとずっと籠もるような熱気と、狂気を孕んでいた。
直線を走る。
逃げるために、ただただ足の回転を上げる。
こちらを狙う恐ろしき牙が、後ろにいる。
速度を落としてはならないと脳が警鐘を鳴らしていた。
恐怖と、高揚。黒鹿毛の思考からは、徐々に無駄が削ぎ落とされて。
直線と言えど、その輪郭はうねうねと曲がっている道。
それを、ほぼ真っ直ぐに走っていく。
次、約700m地点の第2カーブ。
角度は第1より緩いが、カーブ前20mから坂が一気に急になるため、先程より速度を上げての突入となる。
速度に比例する遠心力を考えれば、速度を調整するのが定石。
だが、命を賭けた走りを行う栗毛との競争において、後続が速度を緩めることは命を捨てることと同義。
唇を割り、食いしばった歯を剥いてカーブへと突入する。
やはり大股かつ、大胆な一歩。
黒鹿毛は栗毛より大回りで、進んでいった。
栗毛の足に接触しないように外へ広がり、体を一気に内へ傾けて速度は落とさない。
曲がり始め、曲がっていき、曲がり切る。
おおよそ一秒足らずで行われるその行為は、観客に黒鹿毛の闘争心を感じさせた。
離されまいと行うその曲がり方は獰猛で、譲らんとする何処まで強い負けん気の発露に近い。
やはりカーブ前とバ身差は変わらず、急坂で上がった速度に緩みは無く。
だがしかし、後方の圧力は徐々に距離を詰めていた。
その恐怖は、幻想だ。
幻想が故に、何処までも強く、何処までも速く、何処までも追い続けてくる。
栗毛が幻覚するそれは、例えどれほど加速しようとも、必ず何処かで最も後ろに追い付くのだ。
「は、ふ」
呼吸は緩く、しかし足の回転速度はより速く。
山の湿った空気を吸っているのに、黒鹿毛は喉の水気が失われているように感じていた。
1000mの目印を通り過ぎ、残るは500m。
緊張からか、以前走ったときと同様に、手先は痺れたように感覚が薄く。
血が巡っていないかの如く、冷たく白い指で黒鹿毛は力いっぱいに拳を作った。
距離は離れず、栗毛にほぼ横並びで追い比べる。
黒鹿毛の逃げとして走ってきた経験が、己が恐怖から掛かっている事を自覚させながら、しかし冷静に戻ることもできない。
結果的に、欠片たりとも速度は緩められず。
その運動から生じる熱によって汗は蒸発し、涼しい山中では白い湯気となって目視できるほどになっていた。
気付けば、1200m地点、最終カーブが目前で。
黒鹿毛の大回りの曲がり方は足と体幹への負担が激しく、その消耗は、普通のレースであればこれ以上のカーブは無理だと悟って馬群に沈むことだろう。
だが、だが───
黒鹿毛は、学生ではない。
次の出走予定など知ったことではない。
ただ、命を賭けて栗毛と追い比べを行う事だけを考えて。
最終カーブへの一歩を踏み出した。
黒鹿毛の前傾、それは前のカーブのどれよりも鋭く、どれよりも前へ行こうとする意志が強く。
内でステップを踏む栗毛より、足の回転はずっと速く。
互いの汗から生じる蒸気が、二本の弧を描いていき。
カーブ終わり、その黒鹿毛は僅かハナ差であれど、しかし確実に栗毛を抜いていた。
それは、レースの始まりから。
後ろを走る存在が近くにいるせいで、噛まれたような痛みを幻覚し続け、走るごとにそれは強くなっていく。
栗毛の黒い瞳は前を見続けているが、耳はずっと後ろを向いていた。
息が肩に当たりそうなほど近く感じ、その度に痛みは徐々に強くなっていく。
口内の湿りが血液なのではないかというほど苦しい。
それでも。
走ることは辞めない。
生きることを諦めない。
例え足が折れようが欠けようが、最期の時まで死から逃げ続ける意志の強さが瞳の奥に在る。
このままでは抜かれる。
そう確信すれば、恐怖が脳を塗り潰した。
牙の形に幻覚する痛みが、深く深く食い込んだような気がして。
痛い。
だが、それに興奮を覚える己がいた。
気付けば痛みは緩く、穏やかなものになっていて。
脳が過ぎた痛みを麻痺させるために、痛覚を鈍らせたのだ。
そしてそれは、興奮物質でもあり。
「ァア゛」
喉から濁った音を漏らし、足の回転は早まっていく。
それは、その筋骨の限界に挑戦するかのように。
表情は恐怖に歪んだものから一転してどこか柔らかく、しかしその瞳だけは興奮から大きく見開かれて。
タガの外れた加速力を以て、栗毛はラストスパートを開始した。
カーブ終わりのハナ差は、たった10mで無に帰した。
栗毛のラストスパート、瞬間的な加速力が、黒鹿毛の速度を上回ったのである。
しかし、そこから離されまいと黒鹿毛も、想定より僅かに速くラストスパートを開始した。
背後の威圧感は一気に距離を詰め、どちらかが僅かでも速度を落とせば、その足に喰らいついてくると思わせるような場所に居る。
下り坂を全速力で駆ける勝負どころで、黒鹿毛は大きく肺を膨らませた。
「勝つ、勝つ!勝つ!!」
奮起。
言霊に心奮わせ、恐怖に負けじとその直線を往く。
願いを込めた言葉は、黒鹿毛の抱く恐れを転じさせた。
勝ちたいとは即ち、生き残りたいという意志。
余計な思考を意識外へと消し、ただ栗毛より先へ行こうと土を踏む。
思考はただ、生き残るために向けられて。
気付けば、黒鹿毛の聴く世界は静かなものだった。
それは、URAで走るトップアスリートが言うような、領域と呼ばれるものとは異なる。
命を賭けた極限状況下において、脳が制限を外してしまう言葉通りの全力。
それを、火事場のバカ力と人は呼ぶ。
それは、黒鹿毛が望んだ状態。
ゴールまで、残り200m。
栗毛に追い縋る黒鹿毛を見て、観客は己の中の熱気を伝えんと、声を張り上げる。
それは原始的で、野性的で、峠レースにお似合いな、それぞれの本能的な雄叫び。
残り100m。
黒鹿毛の火事場のバカ力とて、やはり最初から掛かり続けた代償には勝てず。
ほんの僅かに一歩の回転が遅れれば、二歩も続き。
「う゛」
黒鹿毛は、地を蹴飛ばすための、ピンと張った脹脛に噛みつかれるような痛みを幻覚した。
「ぐ、まだ……!!」
だが、止まろうとはしない。
栗毛の背を追う形になれど、走り切ることを諦めない。
続いて腹に痛みが走る。
表情は苦痛に歪めど、しかし足は決して止めない。
転ばないように、しかし確かにその足は駆けるために地を踏んで、蹴飛ばした。
気付けば、ゴール地点を越えていて。
それに気付いたのは、鋭い痛みが疼くような痛みに変わったから。
牙を離されたように、鋭い痛みはすっかり消え、今では痛みを感じていた箇所が、傷口となっているかのように熱く、疼いて。
黒鹿毛はゆっくりと速度を落とし、そのまま道に寝転んだ。
湿った風が、火照った体を冷やしてくれて心地良く。
そして、讃えられるべき勝者は。
───よく、生き残ったじゃないか。
黒鹿毛の一歩先で、手を差し伸ばしていた。
その表情は、勝ちを誇るものではなく、同胞を讃える笑みを浮かべて。
■■■と共に走り、そして最後まで走りきった存在を讃える声が山中に木霊する。
黒鹿毛は力無く栗毛の手を掴み、柔らかな笑みを零した。