ウマ娘にしか呼べないウマ娘 作:指ホチキス
ただ、生き残るために。
何年も前、トレセン学園の体験入学として、栗毛のウマ娘が怪訝な顔で芝を踏みしめていた。
外部からのスカウトという形で学園の内に入った少女は、整備された環境に対する疎外感を既に感じ始めていて。
「どうだい、これが芝だよ。ダートもあるからまずは好きなだけ走ってみるといい」
「……」
ゴムのグリップではない、金属製の蹄鉄が芝を踏む。
自由な方針で育成していこうと考えているトレーナーに対し、無口な栗毛は数歩ほど歩いた後にようやく口を開く。
「……石、無い」
「うん?そりゃそうだ。石なんてあったら万が一転んだときに大怪我を負ってしまう」
「…………」
走るように力を込めて芝を踏みつければ、靴の形に芝が沈む。
■■■にとってその感覚は、己の好む走りができないことを察知させるに十分すぎるものだった。
決して嫌と言う訳ではない。走りやすいだろう。
転んでも岩壁に叩きつけられるより安全で、足への負担も少ない。
転ぶことへの恐怖もなく、逃げることに集中できるはず。
スポーツとして、切磋琢磨していけるはず。
だから、ここに馴れない。
「違う」
そう言って、山に戻ったウマ娘がいた。
山を避けるように伸びる麓の道路で、栗毛の女はため息を吐いていた。
汗を顎から垂らしつつ、抱きかかえていた少女を日陰に下ろす。
その少女は青鹿毛で、幼さを残す童顔であり、何よりウマ娘であった。
「はぁ……ありがとう、御座います……」
「あぁ」
街と違い、こんな場所の道路にはウマ娘用のレーンが無い。
明らかに体調不良の少女が徒歩のような速度で走っているのを見かけ、倒れて事故を起こされては夢見が悪いと女が一言二言声を掛け、道脇に寄せてやるのも当然のことだろう。
オーバーワークか、はたまた無理をして熱中症になったか。
走っている最中の思い詰めた顔から、原因はその辺りだと察せられる。
女にとって、そうなる理由は欠片も理解できなかったが、そうなってしまう奴がいるというのは知っていた。
「あの……ご迷惑をかけてしまい申し訳ありません……」
「運が悪ければ、そのうち道で倒れて車に轢かれていたかもしれない。それと比べれば迷惑ではない」
最悪のケースと比較されているため柔らかく聞こえる言葉は、しかし迷惑であった事を否定している訳ではなく。
沈黙が続き、少女は居心地が悪そうに肩を狭めた。
「勝てないか」
女の無遠慮な声に、少女のペットボトルを掴む手に力が入る。
俯いた顔を覗くことも無く、女はゆっくりと体を解し始めた。
「……私、中央トレセン学園で走ってるんです」
「あー……」
上澄みも上澄みじゃないか。入れただけで十分だろ。
そんな言葉が浮かんだものの、流石の女も初対面にしてそれを口に出すほど冷酷では無かった。
「地元では勝てたけど、中央じゃみんな強くて、勝てなくて。どうしても勝ちたくて、どうすればいいかわかんなくて……」
遂には涙を流し始めた少女に対し、女の心情はあまりにも冷めていた。
女にとってはめんどくさい。ただそれに尽きる。
冷酷ではないが、女は理想を抱くような夢想家ではなく、その本質は冷淡である。
女は勝ちたいと思って走ったことは無かった。
だから、かける言葉も、優しい慰めも、有用なアドバイスも無い。
女の心と競技者の心は、文化が異なると言っていいほどに違った。
「んー……こう、私には分からないが、それで体を壊していいことがあるのか?」
「勝つためには、体ぐらい」
「そういうものか。じゃあ走るといい」
「……止めないんですか?」
「私はウマ娘だが、レースで勝ちたいと願ったことはない。だからそもそも気持ちがよくわからん。すまんな」
気性難は多くとも、どちらかといえば善性の者が多いトレセン学園では中々見ないほど冷たい対応。
しかしこちらを嫌っているように見えない歳上のウマ娘に、少女はなんとなく質問を零す。
「どうしたら勝てると思いますか?」
「知らん。お前のトレーナーなら知ってるんじゃないか」
「トレーナー、さん」
トレーナーの顔を思い出し、少女は弾かれるように顔を上げる。
「そうだ、トレーナーさん。なんで私、勝手に……」
ポロポロと後悔の涙を流し始めた少女に対し、女が掛けた言葉は。
「ペットボトルはどこかのゴミ箱に捨てといてくれ。じゃあな」
慰めでも諭しでも無く、これといって無感情のものだった。
「えっと、待ってください!この辺で走っていたってことはレースに出たりするんですよね!?せめてお名前を……」
「■■■だ」
「■■■さん、ですか。今日の感謝に、出場レースへ応援へ行かせて頂きますね」
少女の言葉に、女は首を傾げる。
はて、出場レースとは。
この少女は己の事を知っているのだろうか。
「レースに来るのか?」
「えぇ、はい。中央だろうと北海道だろうと沖縄だろうと、どこのトレセン所属でも社会人レースでも恩は返したいのです」
「いや、レースに来てほしくは無いが」
「え……?」
これ以上話していても無駄だという判断の元、女は適当に会話を切り上げることにする。
「まあ、気になるならお前のトレーナーに私の名前でも言えばいい。じゃあな」
そう言い放ち、女はその場を後にした。
「わ、すごい、脚……」
山を、地を、野を駆けるべく筋骨逞しく育った肢体に見惚れる少女など、一瞥もせず。
日本で最も設備が揃い、日本で最も有名なトレセン学園がどこかと言われれば、誰しもが中央トレセン学園と言うだろう。
レースで勝つ。重賞で勝つ。G1で勝つ。
願いを秘め、才能を持つ上澄みを寄せ集めた学園。
そんな中央トレセン学園のトレーナー室で、スーツ姿の無精髭を生やした20代の男に対し、制服を着た鹿毛の少女が手を大きく動かしていた。
「すっごい脚だったんですよ!憧れちゃうぐらいに!」
「はいはい、聞いた聞いた」
「レースで見たことないぐらい強そうで、きっとすっごい速いんだろうなー!!」
「で、反省文できた?」
「まだです……」
しょぼしょぼと顔を悲しげな形にする少女に、男はため息を吐いた。
「無断で外出して?」
「うっ」
「無断でトレーニングして?」
「うっ」
「あまつさえ知らないウマ娘様に迷惑までかけて?」
「うぅ……」
「心配だったんだからな。ちゃんと反省すること」
少女の行いは、決して褒められるものではない。
勝てないという燻りは多くのウマ娘が共感するものだが、だからといって規則を蔑ろにし、己の体すら蔑ろにすることを誰が褒めてくれるというのか。
「まあ、嫌がられたとはいえお礼も兼ねて俺も一緒にそのウマ娘様のレースに行きたいからな。お前がそこまで言う脚を拝ませてもらうよ」
「トレーナーさん!」
「ちゃんと名前は聞いたのか?」
「はい!■■■さんと言うらしいですよ!!」
トレーナーはゆっくりと首を傾げると、訝しげに目を細めた。
「もう一回いいか?」
「■■■さんです。珍しい名前ですよね」
「……?何語だそれ」
その後、何度聞いても男の舌では正確に発音できず、少女はふざけているのかと憤慨した。
しかしトレーナーが真剣であることに気が付くと、事の異常性を理解し始める。
己にとっては容易く正確に聞き取り発音できる■■■という名前が、トレーナーには発音どころか聞き取りすら正しく出来ていないという事実。
少し怖くなった少女は、その場で同じチームの少女へと電話を掛ける。
「もしもし?」
『はいはい。どした』
「この前は勝手に飛び出してごめんね。で、ちょっと聞きたいんだけど、■■■さんって知ってる?」
『■■■さん?聞いたことない名前だなあ。トレーナーさんに聞いてみたら?』
「うーんそっか!わかった、ありがとう!」
顔を上げ、少女はトレーナーと目を合わせる。
数秒考えた少女は、真剣な顔で口を開く。
「名前がわからないのトレーナーさんだけっぽいので、今すぐに脳の病院へ行ったほうがいいかもしれません」
「うわ、マジでヤバいやつかこれ」
「おいおい、誰か脳がヤバいのか?」
その時、ワイワイと賑わうトレーナー室に顔を出したのは、学園からの通達を渡しに来た壮年の男であり。
それはつい最近、峠レースなどという怪しい場所に若手を連れ込んでちょっとしたお叱りを受けたベテラントレーナーであった。
事情を説明され、少女が■■■という名前を口に出した事でベテラントレーナーは大体を察した。
「あー……そりゃ多分ナナシだな。どうやったらアイツと道端で出会うんだ……」
「ナナシさんですか?」
「君たちみたいなウマ娘だけが名前を呼べて、俺ら人ではその名前を正しく認識できない奴だよ。そういうウマ娘もいるんだ。人からはナナシって呼ばれてるね」
「へぇ〜初めて知りました!それでトレーナーさんは■■■さんが出るレースって知ってますか!私、どうしても応援しに行きたいんです!!」
善良で素直で好意的な言葉を前に、ベテラントレーナーは思わず渋面を作る。
「うーん……多分、駄目、かなあ……」
「ど、どうしてですか!?」
「ナナシが走るのって非公式で、しかも危険な野良レースなんだよ」
「げっ野良レースが主戦場か……」
「ほら、お前さんのトレーナーは理解したみたいだが、そういった野良レースはトレセンの生徒が参加するどころか見ることすらあんまりいい顔されないんだよ」
「■■■さんは、そんな危険なレースで走っているんですか……?」
「あぁ、そうだ。自主的に、誰から強制されるわけでもなく、わざわざそこを選び、そこで走っているんだ」
「なんでそんな、絶対に安全なレースで走ったほうがいいですよ……!」
少女の言葉に、ベテラントレーナーは苦笑した。
普通はそうだ。普通の価値観では、間違いなくそうなのだ。
だが、どこか社会性を損なったあの目は、その意見に頷くことは無いだろうとも思っていた。
それに、そのレースにすら出られない子もいる。
実力が、運が、才能が足らず、URAのレースで走ることができずに涙した子にとって劇毒にも近いその言葉を指摘しても良かったが、担当のトレーナーに目配せをするだけに留めた。
価値観という人格の根幹に関わる事を、他者の担当する子に指摘するのは気が引けたのだ。
「それに、トレセン学園のトレーナーに当たりが強いからね。俺はいいけどちょっと怖い」
「何かあったんですか?」
「いやね、我々とは反りが合わないだけなんだけどさ」
在り方が違いすぎる。
少なくとも、あの大きな黒い瞳孔がトレセン学園のトレーナーに対し、友好的な光を宿すことは無いだろう。
「そうだねえ……どうしても見に行きたいなら連れてくけど、相談窓口辺りに事情を説明しないとだからな。担当の我儘だし、お前その辺はちゃんとやれよ」
相談窓口に近い理事長秘書という役割を持つ女性に、その辺りの説明は一度すべきだろうというベテラントレーナーの言葉。
無言で行き、後々明るみに出た時にいらない探りを入れられても困るというのは、少女でも流石にわかる。
「えぇ〜!?でもまあ……うちの担当が迷惑をかけたならお礼に行かなきゃいけないしな」
その社会性を含む言葉に、ベテラントレーナーは首を振る。
それは、ナナシの嫌う“もの”だと察していた。
「それはやめとけ。トレセン関係者が峠に来るだけで渋面作られるからな。見るだけなら連れて行くのも構わないが、そういう社会性を感じさせる繋がり方は駄目だ」
「……ひょっとして気性難ですか?」
「うーん……そう、でもあるかな。とりあえず確認してみて、許可が出たら連れてくよ」
そう言って部屋を後にしたベテラントレーナーの背を見送り、少女はグッと手に力を入れた。
「トレーナーさん、私、見に行きたいです」
「わかったわかった。秘書さんに聞いてみるよ」
怒られず、かつこちらの要望が通りそうな文面を脳内でこねくり回しつつ、男はノートPCを開く。
作成したメール送信後、暫くしてトレーナー室で直接お話を伺いますと返信が届くも、返信されたメールのCCに理事長の名が入っている事を確認し、男は大量に冷や汗を流すのだった。
数分後、特徴的な緑の制服を着た女性が入室した。
理事長秘書である。
その顔に生徒へ向ける笑みは無く、トレーナーを見定めるかのような目で、真剣な面持ちをしていて。
緊張感に指先の痺れを感じつつ、トレーナーとそれに追随するように少女は軽く説明を交えて要求を伝えた。
「ふむふむ、そういうことですか」
「いけませんか」
「うーん……」
おおよその事情を聞いた秘書は、口を結んで眉根を寄せる。
「トレセン学園としては、許可は出せませんね」
「理由をお聞きしてもよろしいでしょうか」
「まず、危険なレースを生徒に見せるというのは、確実に宜しくないことです。万が一事故に遭遇した際、メンタル面での懸念がありますし、何より学園の生徒を導く者としては観戦を推奨する事はできません」
それは真っ当な意見だった。
指導者の一員であるトレーナーとしても、そこに否定の言葉を向ける事はできない。
やんわりとした窘めの言葉に、しかしウマ娘である当人が待ったをかける。
「で、でも、助けていただいたお礼に、せめてレースを見に行きたいんです」
「もしかして、その当人に見に来るよう誘われたのですか?それは……少し、角度を変えて問題視するべきかもしれません」
「違います!」
感情のままに大声を出した少女は、暫くして申し訳無さそうに目を伏せた。
それでも耳は絞られており、相当に感情が荒れている事を察したトレーナーが咄嗟に声をかけようとするが、それより先に少女が静かに喋り始める。
「違います。あの人は、私にレースに来てほしく無いと言っていました。でも、私が勝手に見に行きたいだけなんです。本当はあの脚が走るところを、見たいだけなんです。ごめんなさい」
「……そうだったのですか。早とちりしてしまい申し訳ありません。そのお気持ちはよくわかります」
「やっぱり、ダメですかね」
「うーん……」
先程よりかは表情が柔らかくなったものの、やはり反応は芳しくない。
「先程は精神面での話でしたが、実情の話をすれば、URAの影響が強いトレセン学園の者として、非公式レースの観戦を表立って認める訳にはいかないんです」
「それでも……!」
「ですが、プライベートで、各々がトレセン学園という看板を背負わず、ただの観客として隠れて行くのなら……表沙汰となって追求されない限り、我々がそれらを一々咎める気は無いですね」
要するに、行くなら隠れてバレないように行けということ。
この話をしながら、例えばこの話を秘書ではなく生徒会長が拾えば、もう少し話はスムーズだった代わりに、彼女ならばこの結論がもう少しウマ娘側に傾いていただろうなと、秘書はなんとなく考えていた。
秘書の回答は、冷たくはないが甘くもない。
事実上の黙認とはそういうものである。
「ただ峠……峠ですか。フリースタイル程度ならまだしも、あそこに競技者が足を踏み入れるのはあまりオススメしませんけどね」
「どういう事ですか?」
「ああいう所はちょっと……意向が外れ過ぎているといいますか。レースで走る子にとっては単なる毒に近いので気を付けてください」
その秘書の口調は、峠を知っている口調であった。
かといってトレーナーの口からそれを深堀りするわけにはいかず、表情を引き締めて頷くに留めておく。
「ちなみに、私に話をしたのは何故でしょうか?」
「あの……最近峠に行ったあの人に確認するよう言われまして……」
「なるほど」
にこり、と口が笑みの形を作る。
「そうでしたか」
しかし、その目は笑っておらず。
「少し彼とお話することがあるので、私はこれで失礼します」
「はい、ありがとう御座いました」
「くれぐれも、深入りはしないよう。トレーナーさんは気をつけてください」
その言葉を最後に、秘書は部屋を後にした。
「行くのは明後日、13時からだ」
暫くして、酷く疲れた顔のベテラントレーナーが部屋に顔を出した。
名前出しやがって……などとぼやくベテラントレーナーは、少女と目を合わせる。
「行くときは帽子を被って、尻尾を隠せるような服を着ること。可能ならメガネを掛けて、普段着ている服とは全く違う服を着るように」
「大変ですね」
「あんなとこにそういうのはいないと思うけど、すっぱ抜かれて騒がれると学園としても困るからな」
「そ、そこまでなんですね」
「いいかい、君が何かをやらかしても君に責任は取れない。責任を取るのは君のトレーナーと俺だ。君の希望を叶えるために俺達は自分の首を賭けている」
その言葉の重圧に、少女が怯えたように拳を握ったのを見て、ベテラントレーナーは表情を緩めた。
「君の希望を叶えるために働いてるのが俺達だから気にしなくてもいい。我儘も好きなだけ言ってもいい。でも、この行為がトレセン学園から認められた行為ではないということを良く覚えておくんだよ」
「はい」
少女は、しっかりと頷いた。
正午、ベテラントレーナーの手に入れた情報通り、13時からナナシが走る事に間違いは無く、かなり離れた場所から三人でナナシを見ていた。
「うわ、聞いた通りすっげえトモ。脚の形が凄まじいな」
「間違いない、■■■さんです」
「気付かれたら即座に帰るぞ。生徒を連れてきたと気付いたら超怖いからあのウマ娘」
やがてストレッチを終え、ゴール地点へ向かい始めた栗毛の背を少女は見続けた。
なぜこのような場所で走るのか
なぜ危険な場所で走るのか
そう、疑問を抱き続けたまま。
ストレッチを終えた栗毛は、いつもやや上の方を向いていたり、深呼吸をしたり、茶を飲んだりとどこか日常的で落ち着いた、緩やかな雰囲気を見せる。
そしてその競争前の雰囲気は、熟練の走者としてどこか異様であった。
ウマ娘の多くは、レースに向ける感情が基本的に大きなものであり、走る前などはそれが顔や行動に出る。
強者へ向ける好戦的な笑み、緊張感を孕む硬い表情、焦りを燻らせた渋い顔、心を落ち着けるように静かにルーティンを行う行動など。
競技者としてそういった心の在り方がレース前に出るものだが、■■■のそれは一般的には見られないものであった。
「ふぅ」
その姿は、日常的であり。
その姿は、競技者と言うには違和があり。
だがその姿は、常に何かを気にして張り詰めているようにも見える。
そんな栗毛へ、挑戦者の鹿毛が近寄った。
後ろで一つ結びの長髪に小柄。
健康的に張った脚は、中距離よりもマイラーに近い。
「さあ行こう、今日も楽しく走ろうか!」
「……テンションが高い」
ウキウキとその場で飛び跳ねる鹿毛が、栗毛を見てニッコリと笑う。
「アレだよアレ。アレにハマっちゃってね。もう■■■のいないレース場なんて走れない」
URAレースでは絶対に味わえない恐怖。
速度を緩めた瞬間に終わってしまうようなあの感覚は、結果として脳が錯覚を引き起こして快楽物質が分泌され、思考が“トリップ”する。
死を前にしたような、リミッターの存在しない限界近い能力の開放。
「どこを走っても、誰と走っても、■■■を忘れられない!」
耳は絞られ、瞳孔は開き、興奮状態であることを全身で示すような鹿毛に、栗毛は目を細めた。
「まあ、今日も喰われるといい」
「いいや!今日は私が生き残るさ!」
峠レース、第二スタート地点。
約1500mの下り坂を駆け降る大人用“マイル峠道”のスタートラインへ二人が体を向け。
挑戦者がコインを指で弾く。
───峠レースが始まった。
■■■はやはり、スタートダッシュを完璧に決める。
鹿毛はその背に僅か遅れて走り始めた。
鹿毛から見た■■■の走りは、独特という他無い。
フォームは綺麗ではなく、何かと何かが混ざったような、そんな雑味が強い。
走りにおけるフォームの研究は、最速を理論で叩き出したもの。
競技者であればその最速の形を己に擦り合わせていくものだが、■■■の走り方は根本から違う。
背後から見える動きはどこか遅いようにも見える、タイミングをズラされるような、妙なものなのだ。
そしてそれを観客として観察したことのある鹿毛は、なぜそう見えるを知っている。
そのタネは、上半身のブレである。
走っている最中に、時折ふと揺れるように上下左右前後へゆらりと動く上半身により、速度が緩まったようにも速まったようにも見える錯覚を瞬間的、または断続的に発生させているのだ。
栗毛はそれを自然と、ほぼ無意識的にそれを行う。
特に追い詰められれば追い詰められるほど、最も嫌なタイミングでそれを無意識のうちに挟むのだ。
追いつきにくく、抜かしにくい、前を走るからこそできる技術。
それは意図せず、他を蹴落とすための癖。
レースの序盤からその揺れがあることを鹿毛は見抜き、そして口角を上げた。
こちらの実力を覚えていたのか、はたまた何かを感じ取ったのか。
強者から実力が評価されているという事に、喜びを得る。
気付けば、第1カーブが迫っていた。
鹿毛は前の女から意識して視線を外し、道を見た。
それは、知っているから。
女の動きを注視していれば、カーブの仕方を間違える事を知っているからだ。
カーブに入ると同時、女は上半身をそのまま置くように揺らしてステップへの一歩を踏み始め。
初心者は女を見る余裕は無く、上級者は意図的に女から視線を外す。
峠レースに慣れ始めた中級者が■■■に挑むと起きる、コースアウトを誘発するテクニック。
体が、残る。
腰の捻り、股関節の軟み、そして蹴り出しの強さが、下半身のみでステップを実現する。
栗毛を注視すれば、その走行姿勢によって曲がり始めへの反応が遅れていく技術。
女の揺れ、遠近感を麻痺させるその動きが、曲がり始めをさも直線だと僅かな時間錯覚させる。
そして上半身の戻しによって、女は一瞬にして後続の視界から消えるように曲がっていくのだ。
その錯角させられる僅かな時間で、後続は何歩踏めるのか。
───たった2歩で、コースへの復帰は困難だろう。
故に追跡者は、前走の姿から目を逸らさねばならないというディスアドバンテージを受け入れねばならない。
鹿毛が歯を剥いた。
笑う。
歯を食い縛りながらも、口角は弓なりを描く。
「───!!」
曲がる。
栗毛のようにステップを踏む。
流れるように、その足取りは軽く速い。
その足音の正確さ、そして速さに栗毛の顔が強張った。
空気は徐々に乾いていき、山中の雰囲気がかき消されていく。
踊るように、余裕の足取りが女を追う。
そのやり取りだけで、峠での経験を女へ叩きつけた。
カーブを抜け、下り坂。
うねる道、バ群は非ずとも、揺れるように動くその姿はレースにおいて並走者の脇をすり抜けていく様に。
斜め前方へ一歩、そして逆の斜め前方へ一歩。
ウマ娘の脚力を使い、跳ぶように走る。
地を蹴り体の落下位置をコントロールするように。
呼気は乱れず、しかし徐々に明確になっていく恐るべき威圧感に鼓動が早まっていく。
腹から頭へじわじわと熱が上がり、歯を食い縛らねば興奮から叫んでしまいそうで。
恐怖と興奮が相まって、既に理性はトんでいた。
やはり速度では女に叶わず、鹿毛がほんの僅かではあるが追い付けずに距離を離されていく。
知っている。それも知っていた。
速さで敵わぬ事など、誰よりも鹿毛自身が分かっていて。
第2カーブが見えた。
それは、直前の急勾配な下り坂によって加速したまま突入する危険地点。
緩やかなカーブを描くことが許された道幅だが、女達は内側を攻めていく。
鹿毛は、己の脚が出す速度を過信しない。
現実的で、己の実力をどこまでも知っていた。
だから、峠での技術を磨き上げたのだから。
レース場で技術があれど、まずは追い付き追い抜かせる速度が無ければ意味がない。
そして速度が足りたとして、芝のレース場で磨ける技術など、純粋な走りの他ではほんの僅かな駆け引き程度。
だから鹿毛は峠に来た。
生粋の技術が、ただの速度を超えるために。
それを現実にするために。
「ケ、ケケ……!!」
観客席の少女が鹿毛の笑い声に身を震わせた。
狂気を孕むその笑い声が、山中に響く。
ウマ娘の驚異的な肺活量によって漏れ出たその声は人間のものより遥かに強く、大きいため、そこに込められた感情がより誇張されて見えて。
歓喜。
体の揺れに惑わされず、ステップの開始。
足を挫かぬように丁寧に、まるでタップダンスのように優雅に足の指、表面、踵を使って素早く踏んでいき。
鹿毛の姿勢は前傾、そしてそれが曲がりにおいて起き上がることはなく。
下半身が、脚だけが奇妙なほど素早く動いていた。
磨き上げられた技術が、恐るべきその滑らかさが。
たった数歩のステップ中、栗毛のステップ速度を凌駕し、半歩ほどの有利を得た。
数歩における半歩分の速度差など、考えるまでもなく互いの距離を縮めることは明白で。
カーブ終わりには、その数歩で1バ身弱を詰めていた。
直線に入り、またじわじわと緩やかに距離が離される。
しかし鹿毛の顔には、未だ朧気ながら後ろに感じる気配に冷や汗を流しながらも笑みがあった。
目を背けたくなるほど、攻撃的な笑顔が。
空気は完全に乾き、飢えた気配が明確なものとなる。
栗毛の描く恐怖、それがなりふり構わず逃げるその姿が、よりそれを鹿毛へと共有させた。
鹿毛の速度は栗毛に比べて遅くとも、それは致命的な差ではない。
己の苦手な直線走行ですら、鹿毛にとっては相手を追い詰めるまでの過程の一つと捉えていた。
対し、栗毛の表情は酷く硬い。
追い詰められている。
直線で離す距離と、カーブで詰められる距離。
足し引きなど考えずとも、いずれ追い抜かれる事は感覚でわかる。
カーブが恐ろしい。
全てが直線であれば己が逃げられるのに。
曲がる度に詰められる。
「ケ───」
荒い呼吸に混ざり、鹿毛の笑い声が聞こえた。
その声には、勝利を求める意思など無い。
競技者の勝利欲求など混在せず、捕食者の気配を前に純然たる野生の面が表層化していた。
栗毛は逃げ、後ろを置き去りにするために。
鹿毛は追い、前を抜き去るために。
そして他者を餌とし、己が生き残るために。
山中に、不気味な笑い声が響く。
獣の嘶きのように、動物的なそれが。
「───ヤベェのが走ってるな」
山の麓近く、ラストスパートを見るにあたって最高の場所に立っていたベテラントレーナーは、山中に響く笑い声に身を震わせた。
隣にいたウマ娘に至っては耳を伏せ、落ち着かない様子である。
「なんですかこの声は」
「……あぁ、極限の状況下において、生物は多くの選択肢を取る。だが喜色を滲ませる様な生き物はそういない。これはそういう、例外の声だ」
「狂戦士みたいですね」
「まあ……そうとも言えるかもな」
理性が拒絶するような、受け入れ難い声。
同じ種族から発せられたのだと、理解を拒んでしまうような、そういう声だった。
ウマ娘の少女にとってその声は、全く違う世界で走っているのだという事実を叩きつけられたようだった。
競技者では、この様な声を発せないだろう。
常人では、この様な笑いを出来はしないだろう。
峠レースの孕む狂気が、少女の多感な精神を揺らし始めた。
「大丈夫か」
「……はい」
だが、少女は逃げない。
己を助けた栗毛が、そこで走る意味を知りたいが故に。
己の知らぬ世界を、己の目で見るために。
直線で差を拡げたものの、互いの距離は前の直線より近く、栗毛の耳はその足音の近さを拾っていて。
第3コーナーを前に、栗毛の“揺らし”が増えた。
速度はもとより、直線であることすら誤認してしまうような、栗毛を見ているだけで己が揺れているかのような錯覚を覚えるそれ。
しかし鹿毛は技術のウマ娘。
それを視線を逸らし足を見て環境を見て全てを躱して栗毛を追う。
その揺れの必死さに、懸命さに、鹿毛は笑みを深めた。
あまりにも余裕が無い。
後続を置き去りにできず、抜き去られるビジョンが頭をよぎるのだろう。
背後の威圧感は既に近い。
おおよそゴール前にてより後ろの者へ追い付くそれは、ウマ娘の速度を以てしてジリジリと距離を詰め続けていた。
カーブを前に、牙の喰い込む幻痛に苛まれる栗毛の顔は逆に緩んでいく。
痛みは一定のラインを越え、既に興奮物質によって栗毛の能力は限界近くを発揮していた。
最終の第3コーナーへ突入。
そこに緩やかな曲線など無い。
峠の折れ曲がったかのようなその曲がりは、慣れていなければコースアウト一直線。
故にステップを多く踏まねばならず、鹿毛の本領が光る。
「ケケ、ケ───」
鹿毛のギラついた瞳が、道を正確に把握する。
体の流れは完璧で、カーブを曲がり始め。
そして、来る。
走る踵に、威圧感の爪先が当たるかのような距離感。
背後に居るそれは、残り僅かな距離でどちらかの足に噛み付くことだろう。
ステップの開始。
急カーブのため体が遠心力によって外へ投げ出されようとするものの、体の揺らしによってその勢いを曲がる先へと持っていく。
足は地を素早く踏み、踏み込み、蹴飛ばして。
「ケ」
あっという間に二人は曲がり終え。
直線へ入るときには、1バ身もの鹿毛のリードがそこにあった。
後ろを振り返ることもなく、鹿毛の笑い声だけが残される。
その差が、残りの距離で詰めるには致命的な事を栗毛が察知して。
背後に迫っていた恐怖が、その牙が、栗毛の片足に喰い込んだ。
これまでの幻痛ではなく、それは喰われる前のもの。
明確な敗北が、即ち死が。
栗毛の脳裏をよぎる。
最終カーブを越えてラストの直線に入り、ようやく見えた走者の2名。
その姿に、少女は震えた。
少女は、数多の競技者を見てきた。
G1の頂きに輝かんと才能を磨き上げた煌めきを。
未勝利戦で全てを賭して勝とうという努力を。
だがここの走者は、今まで見てきたウマ娘とは違った。
速度は下り坂であることを含めて、ようやく世代の比較的上ぐらいで、群を抜いて速いわけではない。
だが、その表情が、振る舞いが、栗毛の見ている風景を、青鹿毛の少女へと朧気ながらに伝えて。
───少女の頬を、乾いた風が撫でる。
共感性が高く、相手の心に寄り添う善性を持つ少女は、栗毛の描く被捕食者の世界へ片足を踏み入れていた。
感じ取ってしまった。
思い描いてしまった。
それがわかる。
栗毛の足に喰い込んだ牙が。
二人を狙うその捕食者の気配が。
それを見ているだけで、ここから逃げ出したいという感情に駆られる。
野生の世界。
文化というそれらを持たない、法の無い世界。
峠レースの本質に触れた。
本質に直面した。
違うのだ。
安全だとか、そういう目線で語れるものではない。
人気は出ないだろう。
当然だ。危険すぎる。
商売にならないだろう。
当然だ。血生臭すぎる。
峠の者を芝の世界で見ることは無いだろう。
当然だ。走る世界が違いすぎる。
競技として努力し、勝利を目指す世界に峠の走者たちはいない。
自己責任によって限りなく社会から、縛られた法から外れようと、己の本能に素直になろうと還っていく走者たちがそこにいる。
平地で走れば、下手をすれば己は彼女たちより早く走れるかもしれない。
だが峠という場所は、競技者という形を成した己では挑む事すらできない世界だった。
「……ッ」
目が離せない。
こんなレース、一度きりしか見ないだろう。
これほどのレース、一度きりしか見られないだろう。
怖くて、恐ろしくて、これを見続けてしまえば芝の世界で走る事に影響が出てしまうことを理解していた。
勝敗、即ち爽やかで苦い終わりなどここには無い。
生死、血を吐くような競争がただあるだけだ。
終わりを前に、少女は目を離さない。
喉を開き、熱を帯びた意味のない音で吼えた。
応援など、できようはずもない。
頑張れと声をかけるのも烏滸がましい。
血液が沸騰したような熱を感じながら、山中の狂気と熱を帯びた声と一体になって。
少女は結末を前に、瞬きすら忘れていた。
差は1バ身。
栗毛は片足に咬み付かれた。
だが、そこには痛みなど無い。
それを引き摺り、皮を、肉を削ぎ殺す勢いで地を蹴っていく。
脳が過剰なほどに快楽物質を分泌しているのだろう。
高揚感が止まらない。
「■■……」
栗毛の歯の隙間から、人の言葉ではない嘶きが漏れる。
栗毛は全能感と多幸感に溺れているようだった。
そしてそれすら、徐々に薄れていく。
───土を踏む足が、一歩前より更に沈む。
背後の恐怖は消えていないが。
逃げたいという欲求は果てを超え、なぜ走っているのかすら曖昧になっていき。
───膝のバネが爆発したように体を前へ押す。
血が噴き出すような感覚すら無視して。
前へ、前へ、前へ。
このままでは、ただ喰われるだけだと自覚した。
それ故の、被捕食者の最期の抵抗。
栗毛の雰囲気が変わった。
緩やかな表情が消え。
目尻は吊り上がり、その形相は獣の如く。
窮鼠猫を噛む。
追い詰められた被捕食者ほど、恐ろしいものはない。
そして競走バに在らず、本物の被捕食者という感覚を持つ者でなければ本当のそれを持ち得ない。
栗毛の環境下で追われるそれは、あくまで幻想に過ぎないのだから。
魂に競技者を秘めたそれらは、肉食獣に追われ、逃げ続け命を賭けた走りを行う野生とは、僅かばかりにズレているのだから。
土を踏む力が強くなる。
筋骨は軋み、噛み締めた歯が砕けそうだった。
死ねない。
残り300mで1バ身差。
致命的なほど遅れている。
栗毛と鹿毛の速度でその距離は抜ききれない。
既に足は“齧られた”。
だが、終わらない。
そこで諦めて、終われない。
最期の瞬間まで、己の全てを燃やし尽くす。
本物の命を賭した走りを。
己の思い描く絶望へ相手を引き摺り込もう。
己の思い描く全てを相手に見せつけよう。
■■■の名に恥じぬ走りを。
■■■の在り方を相手へ押し付けるように。
───野生の世界において、捕食者は獲物をただ己の足で追いかけるだけだろうか。
否、捕食者の多くは罠を張る。
命を賭けた弱肉強食の世界にスポーツマンシップなど無い。
騙し、待ち伏せをし、潜むことなど良くあること。
■■■の魂はそれを知っている。
前を走っていたはずの同種が餌となる瞬間も。
己が先頭にいない時、それは起きていた。
己の先を行く同種、それが予想外の牙に斃れることが。
誰よりも臆病で、誰よりも独善的。
生き延び続けたが故に見たそれらが、無意識の内に表面化して。
乾いた風は、微かに血の臭いを孕んでいき。
栗毛が明確に後続へと落ちたことにより、山中にて野生の世界がより顕になっていく。
栗毛を抜いた瞬間、鹿毛は威圧感が増えたのを感じた。
後ろだけではない。
だが、それがどこにあるのかはわからない。
胃が重くなったように、先程までとは比べ物にならないほど呼吸が厳しい。
重賞ですら感じたことのないほどのプレッシャーが四方八方から向けられていた。
喉が干乾び、ただの呼吸がまるで固体を飲み込むかのように感じるほど硬さを帯びている。
酷く乾き、どこか血生臭い風が体を撫でた。
「……」
何かが前にいる気がする。
こちらに走ってきているような錯覚がある。
そこにはいない。何もいない空間だ。
だが鹿毛はそれを無視できなかった。
後ろから走者を追っている筈のそれが、突如前から来たのだ。動揺も相まって無視できる筈もない。
体幹がズレる。
足がブレる。
ただでさえ速度で負けているのに、その無駄が減速へと繋がっていく。
前にいる気がする。
横にいる気がする。
後にいる気がする。
増える。増えていく。
いない。何もいない。
そう言い聞かせても、それを無視することができない。
ただの走りすら満足に出来ず。
栗毛のラストスパートに、距離が縮まっていく。
あっという間に栗毛が並び、そしてそのまま追い抜いて。
「ケケ……」
「…………」
鹿毛の思わず溢れた笑いに、返す言葉は無い。
ただ振り返りもしない栗毛の横顔が遠ざかっていく。
栗毛の上半身の揺れから、すり抜けるように威圧感が迫る。
その揺れがそれらを自然な動きで躱しているのだと気が付けば、呆れた笑いが零れ出た。
「───ケ、生き残るにゃまだ足りないかよ」
存在しない牙が喰い込む感覚。
峠の走者という矜持と意地によって走りを辞めはしないが、それでも速度は徐々に鈍化する。
普段と違い複数箇所にそれを感じながら、既にゴールの線を越えた先、そこでこちらを振り返る栗毛を見た。
それは、あっけないと思うほどの勝負の決着だった。
だが、そこを走った者はそうは思わない。
───惜しかったな。
それが何を見ているのか。
責めているわけでも、貶しているわけでもなく、ただただ事実を述べたという栗毛の顔に、鹿毛は苦笑する。
レースとは違う、レースでないからこその感覚。
緩やかな速度でゴールを踏み越えた鹿毛に、山中から歓声が聞こえ。
次こそ生き残るという決意を胸に、鹿毛は栗毛へ獰猛な笑みを向けるのだった。