ウマ娘にしか呼べないウマ娘   作:指ホチキス

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乾いていた風は徐々に湿り、山中へと戻っていく。

血の臭いがした。
然とする人の気配が動いていた。

ウマ耳を生やした幼い風貌の少女は、振り返ることもなかった。
別にそれが特別なことだと思わなかったから。

減速すらせず、ただ逃げる。
それを置き去りにすることに、何の抵抗も無かったから。

大きな黒い瞳孔には、人間性が欠片も宿っておらず。
そこには、何が普通かなど知らない獣がいた。


4

 

───着る服が無い。

 

目が覚めて早々、そう気付いた栗毛の女は静かに溜め息を吐いた。

茶屋の老婆に勝手に洗濯されたのだ。

 

多少汗臭い(自認識)とはいえ、まだ着られたというのに。

困ったものだと思うものの、わざわざそれを言うつもりはない。

 

山に来たばかりの頃はまともに着替えもせず、老婆に獣臭いと言われ、以降親切心から洗濯していることは女でも流石に分かる。

洗濯物が乾くまでは諦めてキャミ&ショーツ姿で過ごすしかない。

色気の無いデザインに真っ黒のため、万が一誰かに見られてもスポーツウェアだと言って誤魔化せるだろう。

 

 

「────も─う……」

「……」

 

 

そして、こういうときに限って客が来るのだ。

店の外から聞こえる声の質は女。

このままがれても苛立つため、仕方なく店の扉を開けた。

 

 

「たのも、うひゃ!」

「……今日は休業だぞ」

 

 

栗毛の女の目の高さにあったのは、同じく栗毛のウマ耳。

少し視線をズラせば、小さな頭。

大人と子供の狭間という思春期特有の顔立ちに、変なのが峠に来たな、というのが女の感想だった。

 

対して栗毛の少女の目の高さには胸。

女が前傾のため、服の隙間から見える胸に目が吸われてしまい。

 

 

「おい」

「ハイ!」

 

 

あまりにも凝視するので声を掛ければ、少女が勢いよく背筋を伸ばした。

見たところ、峠に普段居る奴らと比べて身綺麗な服である。

こんなところに来るような服ではないだろう。

 

 

「用はなんだ」

「あ、えっと、峠レースに出てぇんだ!」

 

 

少女の言葉に、女は眉を顰めた。

若さからトレセン生である可能性に思い至り、溜め息を一つ。

こんな日こんな時間にここに来たということは、峠レースが初めてだということはわかる。

 

 

火曜日は老婆が街に降りるため、峠レースそのものが無い。

しかも朝9時といえば、レースがある日であってもまだ早い。

それこそ、■■■へ、勝負を挑むために来たなどという理由でもなければあり得ないほど早い時間である。

 

 

「今日は休みだ。明日の昼過ぎ以降に来い」

「えっあっ」

 

 

有無を言わせず扉を締め、居間で寝っ転がる。

明日来たとして、トレセン生ならそれはそれで、老婆が引っ叩いてどうにかするだろう。

対処を考えるのも、走ってよいかを選ぶのも己の仕事ではない。

暫く待っていれば気配が消えたので、女は老婆が帰ってくるまで寝ることにした。

 

目が覚める頃には、この出来事も忘れていることだろうと思いながら。

 

▽▲▽▲▽

 

 

夕暮れ時、ビルの影が街に伸びる。

 

 

「姉貴、どうっした?」

「今日やってないらしい」

「野良レースにも日程とかあんスね……」

 

 

そんな街のちょっとした溜まり場で、少女達は屯していた。

 

ウマ娘の輝かしい功績の影、トロフィーの裏に隠れた、零れ落ちた少女達の涙と汗。

トレセン学園という上澄みの中でも、競技者同士の弱肉強食世界によって生き残りに負けた少女たちも多い。

 

しかし、走りたいという本能は止められない。

勝ちたいという欲求は収まらない。

そう理由付けて、少女達は身を寄せ合う。

 

そんな者達が集まったグループの中で、後輩から慕われる栗毛の少女は、峠を思い出しながら息を吐いた。

 

 

「街と全然違ったぜ、道も空気も」

「ひゃ〜いいッスね! 噂で聞いたことはあったッスけど、まさか身近な場所でやってるとは!」

 

 

峠レース。

それはトレセン学園では危険な野良レースの中でもかなり危険なレースだとして、知る者だけが薄っすらと知っている程度のもの。

薄っすらと、というのは、トレセン学園に在籍していて、峠レースを見に行ったなどと大っぴらに誰も話さないからである。

 

特定の場所以外で行われる野良レースの観戦は、URAへの反意にも近いアウトローな行為。

ましてやそういった野良レースに参加など、下手をすれば何らかの処分が下るほどの不祥事だ。

 

街などでの野良レースであれば、処分はなあなあで済むこともあるが、峠などのかなり危険な場所には、基本的にトレセン学園の関係者は近付かないし、口にも出さない。

SNSではそういった前時代的な危険なレースがあるという噂は囁かれているが、都市伝説のようなものとして扱われている。

 

そのため、学園に在籍する生徒は余程のキッカケでも無い限り、峠の詳細な情報を知る事が無い。

 

 

そして当然、元はトレセン学園に身を置いていた少女達にとっても得られる情報はそう多くはなかった。

これは少女達が知らない事ではあるが、逆はあっても、街での野良レースに峠から誰かが来ることはないからである。

 

峠で走り始めた者は、基本的にもう峠から出てこない。

故に、少女達の前へ走者が姿を現すことはなかった。

 

 

「でも休みだったのは残念ッスね。誰もいなかったんスか?」

「なんか店番してるねーちゃんはいたな。すげえスタイルの」

「はえ〜やっぱレースクイーンみたいな、主催が呼んでるとかなんスかね」

「あ、いやそういうのじゃねえ。出走者って意味での体格だ。超強そうだったぜ」

 

 

扉から上半身を覗かせた、同じ栗毛の女を思い出す。

引き絞られ、トレセンでは見ないほどガッチリとした体格。走行時に当たれば弾き飛ばされそうな体幹を思わせるそれ。

トモは見られなかったが、貧弱なわけが無いだろう。

 

 

「走るのが楽しみだな〜」

 

 

思春期特有の無謀さと能天気さを秘めた言葉を咎める者はいない。

誰も彼も野良レースという身内特有の環境にいたからこそ、峠の空気を知らないのだから。

 

競い合うという、健全で真っ当な指標を根底に置く少女達はなぜ峠が危険なのかを、未だ知らない。

 

 

▽▲▽▲▽

 

 

翌日の昼頃、言われた通り峠へ来た少女は、然とした空気に周囲を見渡した。

なんとなく、ちらほら見える見学者であろう人々が落ち着かないように見えたのだ。

近くにいたという理由で、呑気におにぎりを食べている初老の男性に声をかける。

 

 

「なんかあったのか?」

「ン、午前のレースで怪我が出たんだよ。いつものやつさ」

「……」

 

 

返ってきた声に、思わず言葉を詰まらせた。

ウマ娘が怪我をした、という状況に対し、悲しむでもなく憐れむでもなく、どこか安心したような顔で言い放つ男の反応があまりにも見慣れないものだったからである。

 

 

「まあ、ありゃ引退だろうな。もう峠の道にゃ戻ってこないだろ」

「引退、か。その割に悲しくなさそうだな」

「よくある事だからよ」

「……嫌いだったのか?」

 

 

あんまりにもあっけらかんと言う男性が、怪我による引退などという、栗毛の少女にとって、“トレセンでの走り”を根底に根付かせた少女にとっては受け入れがたく、少し噛みついた。

しかし何のことも無しに、男はむしろ表情を緩める。

 

 

「ン? いやぁ、俺はアイツの走りが好きだったよ。好きだからこそ、峠を引退するってのに安心したぜ」

「安心?」

「そりゃお前さん、おっちんじまったら峠の観客席で話すこともできやしねえ。生きてるだけマシってもんだ!」

 

 

少女は、その言葉が変だと思った。

まるでそれでは、大怪我による引退が幸運とでも言うようではないか。

死んでないだけ良かった良かったなど、観客席で言い放った奴など袋叩きにされてもおかしくはない。

 

少なくとも野良レースですら、その様な発言は嫌厭される事だろう。

 

 

「んじゃ、俺は帰るからよう」

「あ、はい」

「お嬢ちゃんはどこでこんな場所を聞いたかはわかんねえけどな」

 

 

命が惜しけりゃこんなとこで走んなよ。

 

片手でチョイチョイと、ウマ耳を真似した男は、少女を脅すようにそう言葉にする。

その言葉に硬直した少女へ手を振ると、男はその場から去っていった。

 

残された少女は、何も言えずにそこに立ち竦むばかりだった。

 

 

▽▲▽▲▽

 

 

結局、戻るに戻れず、少女は山中の茶屋まで辿り着いた。

 

この前来た時と比べて賑わう山小屋には、走りに来たのであろうウマ耳がチラホラ見える。

ふと視線を感じてそちらに目をやれば、ほぼ無表情の女がいた。

 

それは、この前来た時に少女が遭遇した栗毛の女である。

視線が合ったことに気付いたのか、少女へ女が一歩近付いた。

 

 

「来たのか」

「おうよ!今日こそは走ってやるさ!」

「……」

 

 

嘲りも戦意も無く、少女に対する女の視線は無に近い。

己を強く見せようと語気を強める少女だが、その反応の薄さに対し、数秒の後、流石に困惑の表情を浮かべる。

妙な間を挟み、女は茶屋の奥を指差した。

 

 

「あそこの婆さんがここの仕切りだ。挨拶しておけ」

「そ、そうか。ありがとな」

 

 

マイペースなのか、呑気なのか。

女の独特な雰囲気に呑まれつつ、少女はなんとも言えない顔で頷いた。

 

言う事は言ったとばかりにその場から離れる女を目で追い、少女はふと、己が女の後へ無意識の内に着いていこうとしたことを自覚する。

 

それは意識外での行動であり、どこか幼子が親を追うような。そんな不思議な感覚であった。

 

 

───ヒトは女に対し、獣を前にしたかのような威圧感を覚えるものだが、同じウマ娘では、女の周囲がどこか居心地の良い空間だと感じる事がある。

 

それは女の魂が群れを率いていたからなのだが、誰もそれを知る由もない。

ただ、危機察知能力が高く、臆病さを持つその本質に、本能が薄っすらと安心感を得ているのだ。

 

 

「……」

 

 

己と同じ栗毛の女。

名前を後で聞こうと、そう思いながら少女は目線を外した。

 

茶屋へ足を進め、団子を焼いている老婆に声を掛けようと近付く。

 

 

「あぁん?また変なのが来たね」

 

 

少女の声より先に、老婆が口を開いた。

ゆっくりと顔を上げたその表情は、怪訝。

人が四つん這いで走るのを見たかのような、変なものを見る視線に少女は困惑した。

 

 

「こ、ここで走りたいんだが」

「……トレセンにゃ所属してないだろうね」

 

 

嗄れた老婆の声に、少女は俯いて唇を噛んだ。

ただの確認である事はわかる。

わかるが、それは少女の劣等感に淡く刺さった。

 

 

「あぁ、してない」

「自殺願望かい」

「は?」

 

 

少女が顔を上げれば、老婆の呆れたような目が向けられていた。

 

 

「聞こえなかったかい? 自殺願望でもあるのかと、そう聞いたんだがね」

「なんっ、自殺?」

「違うのか。変な奴が来たもんだ。親離れも済んでなさそうだがね……」

「あぁ!? 親なんて知らねえよ!」

 

 

反射的に出たその言葉に、老婆は目を眇める。

 

 

「ふん、走りたきゃ此処にサインしな」

「おう書いてやんよ!」

 

 

売り言葉に買い言葉とばかりに、言われた欄へ名前を書いてペンを叩き付ければ、老婆は呆れたように溜め息を吐いた。

 

 

「おい、そこのアシ!」

 

 

老婆が声を上げ、誰かを呼んだ。

それに気付いた芦毛の女が、少女の下へと歩いてくる。

見るからに大人とわかる顔立ちに、少女は居心地の悪さを覚えた。

 

寄ってきた芦毛は老婆を見て、栗毛の少女を見て。

いたように、表情を変えた。

 

 

「ありゃ、若いのがいるよ」

「新顔だ。全身無し。教えてやんな」

「あ、よろしくです」

 

 

子供と呼ばれる歳に囲まれてきた少女にとって、大人とは叱る、嗜めるといったネガティブなイメージが先行していた。

若干ぎこちないながらも栗毛が頭を下げれば、芦毛がにこやかに手を振る。

 

 

「よし、じゃあこっちおいで」

「え、あっと、参加費とか」

「後で団子でも買えばいいからさ、ほらほら」

 

 

急かすような芦毛の言葉に、栗毛はその背に着いていこうと足を動かして。

 

 

「潰すなよ!」

 

 

老婆の声に、芦毛が後ろ向きのまま手を振った。

その言葉は、決して少女を軽んじている訳では無い。

段階を踏めと、そういう意図であると芦毛は知っている。

 

ただし、その言葉の意図を、栗毛の少女が汲み取れるかは別として。

 

 

茶屋の従業員スペースの奥へと向かいつつ、芦毛は栗毛の方へ顔を向ける。

 

 

「失礼かもしれないけど、え〜っと、トレセンは?」

「中央でしたけど、辞めました。ここ最近は街で、ちょっとって感じで」

「あぁ〜野良の子だったか。そういう子も結構いるだろうし、もしかしたら知ってる子もいるかもね」

 

 

応答の最中の一瞬、ほんの一瞬だけ栗毛は表情を歪めたが、芦毛はそれを気にしなかった。

ただ、どこか。

どこか、その感情に懐かしさを覚えていた。

 

芦毛にとってそれは、既に忘れてしまったものだったから。

 

 

「えっと、あー……お名前は」

「アシって呼ぶか、おねえさんって呼んで。芦毛だからアシで覚えやすいでしょ。ここでは名前は使わないようにしてるんだ」

「使わないように、ですか」

「その方が切り替えられるからさ。私以外でも結構そういうのが多いよ。ここでは名前以外で呼んでってのがね」

 

 

芦毛にとってここは、そういう場所だった。

名前という、言語によってそう在れと望まれたものを、この場所に持ち込むのは違う気がしたのだ。

文化そのものが、なんだか場違いなようで。

 

───芦毛の女は、ずっと誰かの願いを乗せて走るのが苦手なはみ出し者だった。

願い、祈り、そして応援すら好まず、走るたびに激憤し、己以外の全てを拒否しながら在るがままの自身とその結果を愛そうとしたが故。

大人になって尚失えなかったそれらを峠で慰め続ける女にとって、名という冠は重すぎたのである。

 

そういうものなのか、という風に頷いた栗毛に対し、芦毛はそれ以上言わずにただ微笑んだ。

 

 

 

「さて着いた。えっと背丈は160から165の間であってる?」

「えっ、はい」

「よしよし、んじゃちょっと待っててね〜」

 

 

扉を開けた先、ごちゃごちゃと備品が積まれた部屋の奥から暫くしてダンボール箱を持ってきた芦毛は、その箱を開けて中の物を少女に押し付けた。

 

 

「じゃ、プロテクターつけよっか」

「え」

 

 

プロテクター。

それは走行の際に斜行癖を矯正したり、ゲート練習時に付けたりすることもあるが、基本的には補助輪のような役割のもの。

栗毛にとってそれは、本格化前の子供を示すような、未熟の証というイメージが先行する。

 

 

「あの、これいります?」

「一回だけね。まずは練習、何事においてもそうでしょ?」

 

 

峠が危険であることはわかっていた。

だが、流石に中央トレセンに入学できた身で、今更保護具を勧められるのには若干の抵抗がある。

しかし少女はトレセン所属だったからこそ、その勧めを嫌だと明確に断ることができなかった。

 

走ることそのものに怪我はつきもの。

管理されたトレーニングですら時として骨を折り、筋を痛め、関節を捻る。

その危険から生じる多くを学び、時として見てきたが故に、慮るそれを無下には扱えなかったのだ。

 

渋々と着用すれば、芦毛が満足そうに頷いた。

 

 

「そしたら試走しよっか。軽く流す感じで、ゆっくりね」

「試走っすか」

「いきなりだと死んじゃうかもだし、まずは慣らしてこ」

 

 

軽く言われたその言葉に、栗毛は身を硬くする。

トレーニングをしたり、野良レースをする上で、危険性は理解しているつもりだった。

全速力で走って転べば、大怪我は勿論、最悪の場合は死

に至る事も、知識としては知っている。

 

だが、それを明確に口にされることは少なく、意識することもあまり無い事だった。

 

そして、この場でカジュアルに、日常会話のような口調でその言葉が出てきたことで、足が竦んでしまう。

だが、若さから来る根性と無鉄砲さが、それを認めなかった。

それが恐怖であることを、無意識のうちに否定した。

 

 

「じゃあ、流して走ってみよっか」

 

 

外に出て、言われるがままに峠を軽く登り、直線を流して走る。

凹凸は独特。勾配はレースに比べて極端で、だからこそ面白いと栗毛は感じた。

 

 

「あっコラ、もう少し───」

 

 

踏み込めば、速度が出る。

芝やダートではなく、そしてアスファルトでもない。

山道の勾配による独特の加速。

 

───潰すなよ!

 

加速中、老婆の声が脳裏をよぎり、少女は歯を食い縛った。

潰れることなどない。この速度も、すぐに慣れて己のものとするだろう。

才覚では重賞に通用しなかったが、ここでなら。

すぐに実力で見返し、プロテクターなどという玩具も外して実力を認めさせてやると、そう意気込む。

 

笑みを深め、流す程度を超える、後ろを置き去りにするように全力で加速した末に、それに気付く。

 

気付けばカーブが、迫っていた。

山道の外へ回る道ではないため、直線先は崖ではなく土壁であるものの、道の先に壁とは少女にとって見慣れぬもの。

そのカーブは予測よりも遥かに急角度で、レースの慣れが染み付いていたが故の油断があった。

 

加速し続けた身では、芝の勾配を遥かに超える山道に減速も間に合わない。

だがこの速度で角度を無理に変えれば体勢が───

 

カーブを促す土壁が迫る。

転べば危険、ただ減速も難しい。

もはや全てが間に合わない、姿勢は中途半端なまま。

 

ぶつ─────

 

 

▽▲▽▲▽

 

 

「……ッ」

 

 

飛び上がるように目が覚めた。

その動きに半身が痛み、言葉も出せずにいれば、ここがどこだか徐々に理解できてくる。

 

山中の茶屋。

その茣蓙に寝転がっていたのだ。

 

目覚めに気づいたのか、遠くからあの栗毛の女が少女の方へ来る。

何を言われるのかと身構えれば、女は近くに転がるプロテクターを指差した。

 

 

「お前、プロテクターが無ければ下手すれば死んでたぞ」

「……」

「場所によってはカーブの先が崖なところもある。生き残ってよかったな」

 

 

淡々と、生死について語る女の目は冷え切っている。

それは鹿な真似をしたなという失望ではなく、特になんの感情も無い、事実を見ているだけの色をしていた。

それにどこか叱られているような気分になった少女は何も言えず、数度頷くだけに留まる。

 

 

「芦毛は帰った。あとは好きにしろ」

「あ、えっと……好きにしろって言われても」

「勝手に走られて死んでも面倒だ。まだ走りたければババアに、帰りたければ帰るといい」

 

 

事故死に対して面倒という、あまりにも社会性を欠いた言葉に、少女は女が酷く冷徹で、人間味の無い機械のように感じた。

突き放すような話し方もそうだが、その黒々とした瞳、熱を感じさせないそれが、こちらを見ているようで見ていないのも不気味に思えて仕方ない。

 

 

「アンタは、アンタはさ」

「なんだ」

「なんで峠で走ってんだ」

 

 

トレセンで見たこともなく、街の路地裏にもいない。

優しさ、というよりは善性そのものの薄さを感じるそのウマ娘に、本質が善である少女は疑問を抱いた。

 

それに対し、栗毛は考える素振りもなく口を開く。

 

 

「ここ以外が合わない」

「こんな危険なのにか?」

「適正のようなものだと思え。芝を走るのが得意なのもいれば、ダートを走るのが得意なのもいる。そういうものだ」

「他の人もそうなのか?」

「それは知らない。私は、ここで走りここで死んでもいいと思って走っている。他の奴も勝手に走り、それで走れなくなっても私はどうでもいい」

 

 

その言葉が、少女にとってはどうしても受け入れ難く。

 

 

「怪我した奴を、もう走れないかもしれない奴らを慮る気持ちは無いのかよ」

 

 

その言葉に、女は心底不思議な事を言う奴だと首を傾げた。

 

 

「当たり前だろ。生きて峠の引退なんて、ヒトとして生きるなら幸運に決まってる」

 

 

少女はその言葉を聞き、背筋が凍るような気分だった。

認識の違いがようやく腑に落ちる。

なぜ峠で走るのかという答えを、ようやく理解できた。

 

野良レースがURAやトレセン学園という柵の無い競争だとすれば、峠レースとは社会という全てを捨てた先の競争。

己の死すら納得できるような、一等にイカれたウマ娘たちの終着点。

 

ここが終わりなのだ。

 

走り、全盛期を過ぎ遥か衰えても尚辞められず、遂には引退も選べなかった者たちの世界。

人の社会に、染みきれない者たちが走る場所。

 

文字通り、ここで走り続けている者は、ここを墓場とする事に抵抗が無い。

ここに骨を埋める事を、奥底で望んですらいるのだ。

 

 

「……そうかよ」

 

 

だが、先程まで冷え切っていた少女は、徐々に心の底が燃え上がるのを感じていた。

その在り方に、その望みの自由さに。

今この瞬間、憧れたからこそ、この世界に足を踏み入れた事をようやく自覚できたのだ。

 

 

「アンタは……アンタも、そうなのか?」

「なんだ」

「アンタも、生きて峠を引退する気はないのか?」

 

 

熱気を感じさせない、黒い瞳が少女を射抜く。

何を言っているのかという、当然のことを返すような表情を浮かべて。

 

 

「知らんが、私という存在はヒトの世界で死ぬ事が出来ないと思っている」

 

 

その言葉が、少女の心を深々と貫いた。

少女は、町中で嘯いていた己を恥じる。

走る事が辞められない本能と自覚していたそれらは、未だ理性という殻を破いてはいなかったのだ。

 

何事も中途半端に諦められなかった少女の心臓が、興奮に鼓動を早めていく。

 

 

「なあ」

「なんだ」

「アタシと走ってくれないか」

 

 

怪訝そうな顔をする女に対し、少女の口端は興奮で歪んでいた。

 

 

「本物の空気を浴びたいんだ。プロテクターも付けるから、どうだ」

「流す程度なら、構わん」

 

 

に、と笑う少女の顔は、街で走っていた頃に比べてどこか満たされていた。

湿った山中の空気の中で、数刻後に敗北を味わうことになっても、その満ちは減ることがないだろう。

 

街にいた時の燻りも、後悔も、憎しみも、何もかもが今はどうでもいい。

 

ただ、全てを忘れてその身を走りへ晒していたかった。

 

 

「そういえばアンタ、名前は」

「■■■」

「フハ……ッ」

 

 

少女にとって、耳に入った女の名前は心地良かった。

なんて、なんて素晴らしい名だろうか。

 

この身が縛られているのかと錯覚するほど、自由で。

羨ましさすら滲ませ、少女は心から微笑んだ。

 

 

「あぁ、いい名前だな───」

 

 

 

▽▲▽▲▽

 

 

 

「───あ、久々ッス! 待ってたんスよ〜! その怪我は……峠で走ったんスか?」

「ん、あぁ……久し振り。やっててわかった。辞めとけあそこは。死にかけたよ」

 

 

いつも走っている街の野良レース場で、己を慕ってくれている黒栗毛に話しかけられた栗毛は、溢すように、僅かに笑った。

あちこちに赤黒い染みの見えるガーゼやら包帯やらを巻いた少女は、自らのそれらを指で示し、くたびれた顔で黒鹿毛の少女へ忠告する。

 

 

「あそこはヤバいわ。トレセンのトレキチよりイカれたやつしかいなかった。お前は行くなよあんなとこ」

 

 

そう伝える栗毛へ、ふと、黒鹿毛はその姿がどこか街という環境から浮いているように感じる。

ダートで見ることに慣れすぎて、芝に立つことが似合っていないかのような、そんな雰囲気。

 

何故、此処に居るのだろうか。

 

場違いと表現すべき違和感を、己が慕う存在から感じ取り、黒鹿毛は思わず栗毛の手を握った。

そうしなければ、その存在が霞んでしまうようで。

 

 

「あ、あの」

「ン?」

「行かないで、行かないでください」

 

 

何を口走っているのだろうかと、黒鹿毛が自己嫌悪に陥る前に、栗毛はその手を強く握り返した。

 

 

「ハッ、安心しろよ」

「えっと、その」

「走ることは、辞められねえのさ」

 

 

栗毛の少女は強い口調でそう言った。

たしかに黒鹿毛は、その言葉を聞いたのだ。

だがそれ以降、その栗毛を街の野良レースで見ることはなくなった。

 

 

▽▲▽▲▽

 

 

───峠の茶屋へ、少女が足を踏み入れた。

見ない顔、そして余りにも若い風貌に対し、数人が眉を顰める。

 

 

「……ここが」

 

 

その黒鹿毛の少女は、街で世話になり、非常に慕っていた先輩がいなくなった原因であろう場所へ、わざわざ足を運んだ。

最後の別れから暫くが経ち、ようやく訪れることができた峠。

先輩の言葉通り、独特の雰囲気はトレセンのようなアスリート気質なものではなく、殺伐とした、異様な雰囲気で、己が異物であることを強く感じさせる。

 

周囲を見渡せば、レース前かのような引き締まるほどの戦意が肌を刺す。

日常的に浴びるものではないそれらに、頬を汗が伝い。

 

───ふと、こちらを見る中に、栗毛の少女がいて。

それは知った顔で、もう会えないと思っていた顔で、そして噂では遠くにいったなんて聞いていて、死んだとすら囁かれていた、会いたかった顔。

 

 

「ハッ、お前……」

 

 

蝉の鳴き声が響く山中、土の香りと熱気が峠を満たす中。

瞳の奥、街で走っていた頃では見たことが無い程に、剥き出しの獣性を宿す栗毛の少女が歯を剥いて笑って。

 

聞き覚えのある声、街とは全く違う匂い。

知ってる顔の、知らない表情。

 

澄み切った、走りたいという願いの果てへ。

徐々に習熟した技術は、山中では感じられない筈の乾いた空気が頬を撫でるほどに磨かれて。

くすんだ栗毛を風に揺らし、街で感じていた、どこか諦めたような、寂しそうな気配はもうどこにもなく。

 

 

「来るなって、言ったのによ」

 

 

獰猛な生命の煌めきが、黒鹿毛の瞳に映っていた。

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