東方Project  ―人生楽じゃなし―   作:ほりぃー

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第一部
第1話


 ある日。眼が覚めたら別の世界にいたらいいと思うのは、多くの人間が思うことだろう。それは普通ならば現実に起こりうるわけがないと分かっていても、心のどこかで考えてしまう幻想である。

 それは現実逃避なのか、それとも純粋な異世界への憧れなのかはわからない。いや、それこそ人それぞれなのかもしれない。しかし、そんなことを願っている人の元に運命がやってきてくれるとはわからないのだ。

 しかし、それが幻想郷の住人達に丸ごとやってきた。朝、目が覚めるとそこはいつもいた場所ではなくなっていたのだ――。

 

 

 目覚ましがけたたましくなる。

 古明地さとりは眠たい眼をこすりながら、起き上がろうとしたのだが、何かに圧迫されて起き上がれないことに気が付いた。彼女は眼線を下にやると、胸に「足」があることに気がついた。横で寝ている誰かの足だろうが、小さな指が誰なのかを表している。

 さとりの頭上で目覚ましがなっている、それでも他の「住人」は誰も起きる気配がない。自分だけ起きていることに不公平を感じることはないが、さとりは目覚ましの音に不快感を覚え、胸元にある足をどけて起き上がろうとする。

 さとりは足を掴んで、横に置く。彼女が足から手を離した瞬間に、突如として動いた足が顔にかかと落としを繰り出す。さとりは慌てて首を横に背けてよける。ばふんと彼女の枕にかかとによる攻撃が来て、さあとさとりは青くなる。一瞬でも遅れていれば、と考えてしまう。

 

「……目がさめたわ」

 

 さとりは起き上がって、ふああと大きく伸びをする。ピンクのパジャマを着た、桃色の髪の少女。それが彼女である。髪は少々寝癖が付き、横に跳ねている。片目はなぜかつむっており、開いたもう片方の目も眠そうであるが、これは元々だろう。彼女は目覚ましを叩くように止めた。まだ六時半にもなっていない。

 さとりはいきなり朝から、蹴り殺されそうになっても怒りを覚えなかった。彼女の住んでいるのは三畳一間の狭いアパートで、そこにめいっぱい安物の蒲団を敷いて、五人で寝ているのだから寝相が悪いくらいは仕方がない。ちなみにキッチンは一体型などと言われたことはあるが、普通に併設されているだけである。台所と言った方が似合っている。

 さとりは「足」の正体を見る。昨日寝た時とは逆さまの格好で、お腹を出し、幸せそうに寝ている青髪の少女はチルノという妖精だった。涎を垂らして、「がいむぅ」とこのごろ覚えたヒーローの名を呼ぶ。その下敷きになっているのが金髪で紅いリボンをつけた妖怪であるルーミアだった。

 

「そ、そうなのかー」

 

 チルノと寝言で会話するルーミアだが、純粋に重いのだろう。声に元気がない。チルノが彼女の背中でごろごろと転がるたびに、何かくぐもった声を上げる。逆にチルノはお腹を掻きながら「もう、たべられないよ」と心底嬉しそうに言う。

 

「ああ、起きていたのか……助けてくれ」

 

 さとりが見ると、壁に張り付いたように寝ている長髪の女性がいた。彼女の名を上白沢慧音といいその背中を足で抑えているのが、かつては巫女として飛び回っていた博麗霊夢である。彼女は慧音の背中を足で押して、壁に張り付かせている。

 霊夢は寝相が悪いほうではないのだが、この密着した空間で寝苦しさから慧音をできるだけ離そうと無意識に慧音を足で追いやっていた。ぐっと押すので慧音もどうしようもなく壁に張り付いたまま、身動きが取れないようだった。目覚ましが鳴っても誰も起きそうにないとさとりは思っていたが、正確にいうと慧音の眼は覚めていたが起き上がれる状況になかった。

 さとりは霊夢の体を動かして、慧音を救出する。この家には二枚の敷布団の他は二枚のタオルケットしかない。それでもこの夏に扇風機もなく密集して寝るのだから、たまったものではないのだろう。

 さとりはパジャマの首元を引いて、汗でぬれた下着に気持ち悪さを感じた。彼女ははあとため息をついて、立ち上がる。その瞬間にチルノの足がさとりのすねを蹴る。寝ぼけている。

 

「!…っ…」

 

 さとりは声を押し殺して、目元に涙をためながら自らのすねをさすった。こんな状況でも他の者が起きないように配慮している彼女は、優しいというよりは甘い。だが、さとりにも同情者はいた。慧音が立って「だいじょ――」と何かを言いかけた瞬間に、霊夢からすねを蹴られる。

 

「!!」

 

 慧音も歯を食いしばって声を上げない。これは配慮というよりは体の小さなチルノに蹴られるよりはるかに痛いことから、声が出ないのだろう。だが、当の霊夢は夢の中にいる。彼女は何があっても朝はぎりぎりまで起きないのだ。それには理由がある。

 慧音とさとりは眼を合わせて、ため息をついた。とりあえず、シャワーでも浴びようと彼女達は思った。

 

 

 

 

 この奇妙な共同生活が始まったのは、数か月前のことである。ある日目が覚めたら、彼女達は幻想郷ではなくばらばらの場所ではあるが「外」世界にいた。それがなんなのか、なぜなのかなどは全くわからないのだが、それでも生活していくために身を寄せ合って生活するしかなかった。

 知った顔を見つけては、助け合い、彼女達はやっとこのアパートに入ることができたのだ。幻想郷ではこの五人は一部を除いてほとんど交流がなかったのだが、この極限的な状況では互いに同じ場所に暮らすしかなかった。

 さとりはシャワーを頭から浴びながら、思う。

 

 (つめたくて、気もちいい)

 

 ここはアパート共用のシャワーであり、さとりのような住民であれば入ることのできる場所だった。といえば、聞こえはいいのだが共用「風呂」ではなく「シャワー」である時点でコストを抑えたいという意図がありありと見える。しかも、お湯が出ない。だからこそさとりは冷たい水を頭からかぶっている。

 冬はどうなるのか、想像には難くないのだが今は夏。さとりは心に思ったとおり、ありがたいと感じていた。さとりは風呂用のスポンジで体を洗う。それは一〇〇円ショップで買ってきたという、悲壮感漂うものである。それでもごしごしと立ったまま、さとりは体を洗う。彼女の「第三の眼」はタオルで巻いて、濡れないようにしている。

 

「さとり、終わったら貸してくれ」

 

 慧音がひょっこりと濡れた髪をポニーテールにまとめて、顔を出す。このシャワー室は仕切りが一つだけあり、シャワーが二つある。二つもあると考えるのか、それしかないのかと考えるのかは心の持ちようだろう。

 ともあれ、慧音は仕切りから顔をのぞかせてさとりにスポンジを催促する。スポンジは一つしかないのだ。一〇〇円でも貴重な生活が今の彼女達の窮状を表している。仮にスーパーで特売でもあろうものならば、いつでも出向く。徒歩で。バスを使う金などない。

 

「はい」

「すまない」

 

 さとりは慧音にスポンジを渡す。無論、渡す前にシャワーで洗ってはいる。元々ボディーソープのような贅沢品などは使っていないので、泡などはついていない。体をそれらで洗うのは夜だけだ。

 さとりはきゅっと錆びついた蛇口を締める。温度を調整することができるはずのメーターが付いているのだが、いくら動かしてもその日の水温以上にならない。夏の暑い日の、それも昼限定でお湯が出る可能性はある。

 さとりはシャワーのしきりにかけておいたビニール袋を手に取って、中からバスタオルを取り出して、頭を拭く。ビニール袋は二重にしており、中には着替えなども入っているので濡れないようにしているのだ。脱衣所など最初からないので、できた生活の知恵である。ビニールをかける吸盤も一〇〇円ショップである。

 ごしごしと頭を拭いて、さとりは思案する。

 今日の買い物のこと、朝ごはんのこと、チルノとルーミアの世話。それに霊夢をどうやって「説得」するかのこと。彼女はとりあえず、いろんなことを考えてから最後に思った霊夢の問題に悩んだ。毎日のことではあるのだが、それをどうにかしないと餓死しかねないのだ。こちらの世界に来てから、著しく妖怪の力が落ちて、普通にお腹は減るし、怪我をすれば治るのに時間がかかる。

 

「ふーふーん」

 

 横で鼻歌を歌う慧音など。頭からコンクリートにぶつかって、治るまで時間がかかったこともある。それはどこぞの烏天狗と飲んでいた帰りだった。美人なのだが、こちらではどこか抜けた女性にしか見えない。

 慧音が歌う中で、さとりは下着を着ながら考える。

 

☆☆☆

 

 さとりは桃色のポロシャツに半ズボンのジーンズを着て、その上からエプロンをかける。頭にはカチューシャがあり、味噌汁をお玉でかき混ぜながら、少しだけ小皿にとって飲む。塩気が少し強い気がするがそれはわざとである。

 もう夏も本格的に熱くなってきたのだ。塩分を取っておかなければ、健康に問題がある。さとりはその点では全員のことを心配していた。彼女の横では炊飯ジャーが音を鳴らしながら水蒸気をあげている。

『九月一日に日印での首脳会談が行われることとなり、内閣総理大臣は……』

 さとりの後ろでニュースが聞こえる。そこは今朝皆で寝ていた部屋である。すでに蒲団はたたまれていて部屋の隅に置かれている。そのかわり折り畳み式の円卓が部屋の中心におかれ、それを囲むようにして慧音と霊夢がミカン箱の上にあるテレビを見ている。

 慧音は髪をポニーテールでまとめたまま、頭には小さな帽子をかぶっている。そして、しっかりとプレスされたワイシャツを着ており、下は黒のパンツスーツ、スタイルの良い彼女なので似合っている。

 その横で霊夢はぼけえとテレビを見ている。彼女は作業服を着ていた。青いそれは一応、アイロンをかけられていてしわが少ない。普通ならばアイロンなどかける必要はあまりないのだが、さとりは彼女の作業服を清潔かつキチンとするようにしていた。

 

「ろっくおーん」

 

 その二人の後ろで何故か慧音のベルトをつけたチルノが、何か決めポーズをする。ルーミアはゴロゴロしながら、チルノを見ている。紅い眼をきらきらさせる彼女の前で、チルノは腰に手をあてて、ふっふんと鼻を鳴らす。

 

「あたい、今日はらじおたいそーで一番だったんだから」

「そーなのかー」

 

 さとりはそれにくすりと笑い。食事の用意を進める。この朝の時間はすさまじいほどに、大切である。命がかかっているといってもいい。さとりは冷蔵庫を開いた、冷蔵庫といっても普通であれば、缶ビールなどを冷やすための小さなものである。

 そこからさとりはもずくをとる、冷奴と行きたいところだがそんな金はない。

 

 

 

『が162キロのスピードを計測し……』

 テレビの音を聞きながら、全員で円卓を囲んで食事をとる。さとりはチルノの横について、彼女が箸を適当に持つたびに、注意する。反面、ルーミアはお味噌汁を両手で椀をもって飲みながら、ご飯を食べる。

 慧音はもくもく、霊夢はちびちびと食べ、質素な食事を味わう。慧音は時折、味噌汁などを褒め、今日は久方ぶりに炊き立てのご飯だなと言う。よく聞くと悲しい気もするだろう。だが、霊夢は終始無言で、ちらちらとテレビの時計に目をやる。

 

「あっ」

 

 霊夢のそんな様子にさとりは気が付いた。もう8時になろうとしている、そろそろ霊夢の「出勤の時間」であるのだ。さとりは片目でちらと慧音を見る、慧音も気が付いたのかこくりと頷いた。ここからが戦いの時間である。

 こほんとさとりが咳払いをする。

 

「れ、霊夢」

「なによ」

「そ、そろそろ出勤の時間」

 

 バッと立ち上がった霊夢はそのまま、部屋の窓から逃げ出そうとした。ぎらりと慧音が眼を光らせて、その腰を抑える。霊夢はわめきながら窓わくに手かけてそれでも逃げようとする。

 

「お、落ち着け霊夢」

「いやよおおおおおお、もう、刺身の上にタンポポを乗せるだけの仕事はいやあああ!!」

「お、落ち着いて霊夢! あれは菊らしいわよ」

「どっちでもいいわよぉお! 八時間もコンベアーから流れてくる、刺身にぽとぽとぽと……」

 

 霊夢はそれで気分が悪くなったらしく。顔色を青くする。そう彼女はこの一家の大黒柱にして単純労働従事者なのだ。ヘタな技術職よりも精神がつらい仕事を毎日やっているのである。さとりはそれに申し訳なく思いつつも、彼女が逃亡した場合全滅することが明らかなので毎日このように説得しているのだ。だが今日は、さとりも霊夢を気遣い、言う。

 

「だ、だったらまた転職する?」

「……いや」

 

 霊夢は「転職」の言葉に反応した。

 

「いやよ……ミルクねじりパンを四六時中ねじる仕事は! あの親父! ねじる角度が違うって。同じでしょうがあああああ」

 

 いつかの記憶に憤慨する霊夢。空想の上司に右ストレートをお見舞いする。そんな様子に慧音は言った。

 

「れ、霊夢。お前が働いてくれないとだな」

「うっさい! この無職!」

「ぐふう」

 

 慧音はすさまじい苦悶の表情で膝をついた。かろうじて霊夢の腰は離していない。ぱっと見るかぎりのキャリアウーマンではある慧音だが、その実態はノージョブであった。

 チルノとルーミアはテレビを見ている。さとりと慧音と霊夢の不毛な言い争いはもはや理解の範疇を超えているのかもしれない。

 

「わ、私だって。毎日ハロージョブで仕事を探しているんだ……教職の仕事を!」

 

 そう、慧音は仕事を子供に物事を教えることに限定して探していた。幻想郷で行っていたことなので、自信があるのだろう。実のところ、あまり才能のない事柄なのだが、彼女にも意地がある。

 

「な、何が事務職ならだ! わ、わたしは」

 

 慧音にもトラウマがあった。以前、塾の講師をしたときに、生徒全員を眠らせたことがあるのだ。話が面白くないというより、難解で長くしかも無駄に発音だけはいいのでよい子守歌になったようである。先の発言はその授業後に言われたことである。

 ちなみにさとりにもその手の、話はある。トラウマというほどでは全然ないが、霊夢と一緒に面接に行って落とされて、のちに霊夢から人事部の者が「ピンク頭」とあだ名していることを彼女は知った。落ちたのもそれらしい。以来、アパートでの家事全般はさとりの仕事になった。

 霊夢はそんな二人の前で言う。

 

「も、もう幻想郷に帰りたい!」

 そういいながら暴れそうな霊夢をなだめすかし、慧音とさとりは二人係でバス停まで彼女を連行した。弁当と水筒は忘れずに持たせている。

 

☆☆☆

 

 バスが走り去っていくのを慧音とさとりが見送る。バスの窓から怨念のこもった巫女の顔がへばりついていることは見えたが、見なかったことにした。

 慧音ははあとため息をつく。彼女はスーツをはおっており、その姿はどこからどう見ても「できる女」である。実態については二重に言う必要はないだろう。

 

「私は、ハロージョブでこのまま仕事を探してくる」

 

 慧音はさとりに言う。彼女も頷いて、それを承認する。

 

「じゃあ、あまり遅くならないようにね?」

「いや……もしも、早くなりそうなら十六夜さんのところで資格の勉強をしてくるよ……SPIの勉強もしておかないといけないし……な」

「そう。わかったわ……それなら」

 

 さとりはポケットからがま口を取り出した。その中から300円を取りだして、慧音に渡す。いつも行くカフェでのアイスコーヒーならば、それでことたりるだろう。慧音はそれを震える手でもらってお礼を言う。

 

「ありがとう」

 慧音はお金に余裕がないことは重々知っている。それなのに自らの為に割いてくれたことに申し訳なさと感謝を感じる。

 このことからわかるように一家のお金はさとりが管理していた。彼女は厳格な性格ではないのだが、公正、温厚で聡明であるのでお金の管理には適しているのだ。つまり霊夢が働き、さとりが管理し慧音、チルノ、ルーミアを養っている形なのだ。この構図からみても、慧音のストレスがわかるだろう。子供のような彼女達と一緒なのだから。

 

 

 慧音もどこか背中を丸くしながら仕事探しにでかけた。

 さとりは家に帰るために道を少し遠回りすることにした。家にはチルノとルーミアがいるのだが、ルーミアはああ見えて別に子供ではない。チルノの相手をしているから、同じくらいの精神年齢にみえても、実のところは大人といっていい。少なくとも留守番をする程度は問題ない。

 だからさとりは商店街のほうへ足を向けた。その顔がだんだんとにやけてくるのは彼女にも止めることができない。サンダルが軽快な音を立てる。

 そう、さとりはこの現代に来てからなによりもうれしいことがあったのだ。それは彼女が歩くたびに、人とすれ違うたびに、第三の眼にその人が映るたびに確認できる。さとりは彼らが「何を考えているのか」がわからないのだ。

 さとりは「心を読む」妖怪である。それは相手を見るだけで、心の声を無条件で聞いてしまい。聞きたくないことまでも聞いてしまう、そんな能力である。彼女の妹はその能力で心を閉ざしてしまったほどだ。その妹は今、とある寺にいる。

 さとりは軽い足取りでにやついたまま、道行く人の心を覗こうとする。無理だった。それでうれしくなる。厳密にいえば凄まじいほどに集中すれば聞き取れないことはないが、そんなことはしない。

 人の考えが分からないことがうれしい。さとりにしかわからないその感覚を彼女はこれ以上ないほどにかみしめる。これが「外」の世界に来てから、毎日のようにさとりが楽しむことだった。そのせいで商店街の者たちからは背中から赤い変なアクセサリーを付けた、桃色とあだ名されていることなど、彼女は露知らない。だが、それも愛されてのことだろう。

 さとりはそんな気持ちのまま、商店街に入った。アーケードに入り、彼女は左右に立ち並ぶ店を外から覗きながらいく。八百屋や肉屋、魚屋、花屋、その他もろもろのお店たちは幻想郷の住人であるさとりには何度みても飽きない。

 

「さとりちゃん。今日はきゅうりをやすくするよー」

 

 八百屋のおばちゃんにそんな風に呼び止められればさとりは、立ち止まり。世間話をしながら野菜を物色する。大抵は彼女があまり裕福でないことを知っているおばちゃんにおまけをもらうのだが、さとりはさとりで必要な分はできるだけ決まった場所で買うようにしている。

 

「ありがとねー」

 

 そんな声を聴きながら、さとりは八百屋を後にして手に持ったビニール袋に詰まった野菜の重さを感じる。エコバックにしないのはビニール袋がほしいからだ。それも生活には欠かせない大切な資源である。地球温暖化など気にしている余裕などない。

 

「ふ、ふふふ」

 

 さとりはとある店の前で立ち止まって、くぐもった笑いをもらす。そこには「本」と書かれた旗のたった店だった。朝はまだ早いのだが、もう開いているようだった。彼女は中に入っていく。

 自動ドアを超えて、入り口近くには「黒田官兵衛コーナー」があったが、それをちらりと見ながら、移動する。商店街の本屋にしては奥行きが広く、背の高い棚が並んでいる。棚の大きさは広いといっても、無駄なくスペースを使おうとしているのだろう。

 レジは奥にある構造なので自動ドアの音に反応した店員の「いらっしゃいませー」だけが響いて、姿は見えない。さとりはそれでもお目当ての棚まで、歩く。その動きから慣れているのがわかるだろう。

 

 さとりは恋愛小説のコーナーで立ち止まり、適当に取った本を読み始めた。昔から、その手の本は好きだったが「外」の世界にはそれがあふれている。だからこそ、彼女は毎日のようにここに通っていた。時間は短い。本に折り目は付けない。立ち読みなんてしたくはないのだが、なんとなくやめられない。

 数週間後にとある人物から「図書館」を教えられて飛び上がって喜ぶさとりだが、今は申し訳なさを抱えて、本を読む。たまには何かを買ってあげないと、とも思っていた。だがその平穏な空気は、一つの音ととともに破られることになるのだ。

 ヴヴヴとさとりのポケットが揺れる。ぱちくりと眼をしばたかせたさとりは、電話だと気が付いて。本を置き、ポケットからスマートフォンを出す。無論ではあるが、格安のスマートフォンである。

 一応、霊夢とさとり、それに慧音の三人はそれを所持している。電話代の関係上めったに使わないので、さとりはいきなり鳴ったものがなにかと気が付けなかったのだ。しかし、今画面にでているのは「慧音」の文字。

 

「何かしら?」

 

 さとりはその電話を取ってから、ちょっと受け方を思い出しながら、出る。電話口でははあ、はあと何か荒い息が聞こえた。慧音が何か慌てているのだろう。

 

「どうしたのかしら?」

「た、大変だ! さっき、電話があったんだが、そ、それが霊夢からだったんだ」

 

 慧音は言う。とにかく無駄な言葉を省いて要件だけを伝えようとする。普段それができないから、塾の講師にすらもなれない彼女がそれをした。どれだけ焦っているのかがそこからわかるだろう。

 慧音の声が響く。

「霊夢が、逃亡した――」

 さとりはその場で固まってしまった。

 


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