東方Project  ―人生楽じゃなし―   作:ほりぃー

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今回は14話のカットしていた部分を抽出しつつ、14.5話にしました、
Windows8.1みたいなものです。


14.5話 B

 旅をする上で最も問題になるのは宿泊施設である。それは旅費の大部分を占めることが多く、そもそも確保できなければ大変なことになる。もちろんこの河童の海の家に働きに来たもの達も例外ではない。

 

 だが、彼女達には準備などは欠片もしてなかった。それもそうだろう、寺の住民は拉致されてきたのであるからその計画などない。アパートの者たちは金がない。正確に言えば慧音が持っているが、本人も自分の財布にお金があるということを忘却しているきらいがある。それも染みついた「貧乏」がさせるのであろう。

 

 だから食事を終えた一行は「寝る」という問題に突き当たった。海の家で泊まるというよりは、横になることすらも人数的に実質不可能である。何人かは砂浜にごろ寝となるだろう。それはほぼ全員が一致した見解で「嫌」だった。一人、聖人はそれでもよかったが何も言わなかった。

 

 そこで妥協案を示したのがにとりという「首領」が不在の河童達である。彼女達はここで数日暮らしているから、別に海の家で寝てもいいのだが、寝床が狭いのはどう考えても「嫌」である。ある意味、さとり達「非正規労働者」と河童達「正社員」の利害は一致した。これは稀有なことかもしれない。

 

 そこで全員が決めたことは一つである。「河城 にとり」こと河城商会の代表取締役が帰ってくる前に宿泊施設を確保して、その上で領収書を切ってしまおうというのである。こうすれば基本的に全て会社持ちになる。後でにとりが何か言って来れば、それはそれで労働基準監督署に駈け込めばいいのだ。いろいろ守っていないことを逆手に取るという高度な戦術を最近の河童は覚えてきた。

 

 余談だがこのころ河城 にとりは巫女の手の中で船酔いで死にかけている。

 

 しかし、時間は深夜。チェックインできるホテル、旅館は限られている。それでも「寺」や「アパート」の住民はこのあたりの宿泊施設には詳しくないので、全て河童達の手にゆだねられることになった。

 

 そういうことでやっとこさで見つかったのが丘の上にある小さな旅館であった。流石に一人一部屋などは無理だが、幸運なことに和室部屋が空いていた。普通ならば数人で泊まるべきものだが、寺、アパート、天子、河童と合わせると二桁を超える。こうなれば和室というよりは、タコ部屋といっていい。

 とりあえず深夜に電話したことを河童達は詫びつつ、二部屋確保した。その程度ならばにとりも領収書を認めるかもしれない。認めないのであれば、その時はその時である。死ぬまで戦う。河童とて一枚岩ではない。にとりはあくまで「盟主」であり「主人」ではない、というのが近代的な企業体型の建前である。

 

 そんなこんなで彼女達は寝床を確保した。そのころ、紅白の巫女は「ヨイサー!」と眼を血走らせながら男達に混じり一人で働いている。横の方では船酔いで死にかけている水生生物が倒れていた。

 

 ◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

 

 旅館には大浴場がある。ここには温泉はないが、それなりに広く作られていて、なによりも深夜でも入ることができるという幸運があった。一応少女達の借りた部屋にも和室なのにユニットバスが付いていて、そこで風呂に入れないことはない。だが、疲れたのなら大きな風呂が良いと思うのも人情である。

 

 大浴場は岩風呂である。広い浴場の中央に大きな浴槽があるシンプルな造りになっている。密閉された空間には暖かな湯気が充満している。明かりは洒落たもので、風呂場の柱にいくつか丸いそれが付いて、柔らかなオレンジに光っている。

 一応露天風呂もあるが、今は扉が閉じられている。時間制なのだろう、閻魔御用達の由緒ある風呂には入る事が出来ない。

 

 それでも一日中働きづめの少女達には風呂に入ることができるだけでありがたいだろう。特に朝から働いていた雲居 一輪は湯船に肩まで入って、頭にタオルを載せたまま「はぁぁ」と息を漏らした。

 

 

 隣を見れば水蜜が日焼けのまま湯船に入ってからすぐに出て、タイルの上でのたうち回っているが一輪は無視した。

 

 一輪の青い髪がしっとりと濡れている。体が少しぴりぴりするのは自分も日焼けをしているのだろう。日焼け止めをぬっておいてよかったと彼女は想う。それから全身の力を抜いて、湯船の壁に背中を預けた。

 

 一輪は上を向く。ぽとっと真後ろにタオルが縁石に落ちたのが気にしない。彼女は細い腕を「うーん」と伸ばしてから、体をのばす。肌をお湯が流れて、照明の光にきらきらと光る。両手を上げて、腋を伸ばすようにすると湯船から体が少し出て、胸元をお湯が流れていく。

 

「明日……仕事したくないなぁ……」

 

 現実的なことをぼやく尼。リラックスするとじわじわと眠たくなるが、眠りたくはなくなる。なぜなら寝床に入れば「明日」だからだ。仕事が待っている上に「びいちばれえ」をするということには彼女は乗り気ではない。きついということよりも恥ずかしいからだ。

 

 それでも一輪は顔をぷるぷると水気を振って払い、自分の右肩を揉む。体がお湯に包まれていると、眼がトロんとしてくるのは、疲れているからだろう。彼女は寝てはいけないとぼんやり思いつつ、こくりこくりとしている。

 

 その頭を誰かがぽんと押す。一輪が後ろを見ると、水蜜が覗き込んで来た。水蜜は日焼けをして小麦色の肌と「そうではない肌」がまじりあっている、ただ彼女は風呂に入っては来ない。彼女はタイルに手をついて湯船で眠りかけていた一輪を起こしたのだ。

 

「眠ってはだめですよ、一輪」

「……そうね」

 

 といいつつ一輪はこっくりと首を傾ける。水蜜は少しむっとして、自分の黒髪を指でつまむ。湯船に入っていなくても湯気でしっとりしている。だが、どことなくくせ毛である。

 水蜜が見ると、目の前で「船を漕いでいる」一輪の髪は艶々している。実は「むっとした」のは注意したのに一輪がすぐに寝そうになっていることにではない。髪の質について水蜜はむっとしたのだ。可愛らしい嫉妬と言っていいだろう。

 

 そこで水蜜はにやっと笑った。今は一輪は無防備にも自分を背後にしながらうつらうつらとしている。だから、水蜜はそおっと両手を広げて一輪の両肩口から手を回す、そして彼女の前に手を出してそれを掴み、いたずらしてやろうとしたのだ。

 

 白い歯を見せて、声を噛み殺す水蜜。顔には薄く笑いが張りついている。いきなり「掴まれた」ら一輪もびっくりするだろうが、別に減る物でもない。だから、水蜜はペロッと自分の唇を嘗めつつ、そおっと手を動かした。

 

 そこでびくっと一輪が肩を震わせた。水蜜に反応したのではない。自分が寝ていることに驚くように、眼を覚ましたのだ。

 

「はっ!? 危ないっ、今寝て…ふご」

「あ、ああ、き、急に起きるからっ」

 

 いきなり起きた一輪にびっくりした水蜜は、回していた腕を反射的に締めてしまった。だから必然的に一輪をヘッドロックすることになる。「うげぇ」と唸る一輪の驚きもひとしおである、というよりはいきなり同僚に首を絞められたのだから意味が分からない。

 あわてて水蜜は手を離す。ある意味抱き付くような恰好だったのも恥ずかしい。ただ、一輪はげほげほと咳こみつつ、じろっと後ろを向いた。眼が光っているのは怒りを表しているのかもしれない。

 

「な、なんで首を絞めた……?」

「い、いや。今のはわざとじゃないんですよ?」

 

 今のヘッドロックはわざとではない。この言葉を聞いて、誰が信じるだろうか。一輪はむかっと来て、立ち上がる。じゃばっとお湯が彼女の細身の体を滝のように流れているのが、その勢いを表しているだろう。彼女は近くに合った桶を持って、お湯をつめて水蜜に掛けた。

 

 水蜜は一輪が立ち上がったのに驚いて、お尻をぺたんとタイルにつけた格好だったので体中にお湯を被った。普通に考えれば単に「お湯を被っただけ」ともいえるが、今日の彼女はそうはいかない。

 

「ぎゅああぁあ!」

 

 断末魔の悲鳴のような何かを出しながら、水蜜はタイルの上でグネグネとのたうつ。演技ではない、純粋に日焼けにお湯を被って痛いのである。むしろささやかな復讐としてお湯をかけた一輪の方が罪悪感を持ってしまう。

 

「ふ、ふん。そこで反省するんだな!」

 

 それでも一輪はそっぽを向いて腕を組んで強がりつつ、ちらっちらっと一輪は水蜜に心配そうな目線を送る。天性、甘い性格なのかもしれない。

 

 

 ◇◇◇

 

 そんな水蜜と一輪の悶着を見ている紅い眼が二つあった。彼女は洗面台でバスチェアーにちょこんと座って、頭を洗っている。くすんだ灰色の髪にシャンプーを付けてごしごしと丹念に洗っている。時折泡が落ちて、体に付いたりもするがあまり気にしない。風呂場で気にする方が可笑しいのかもしれない。

 

 彼女はネズミである。無論ナズーリンであった。

 よく誤解されるがネズミは別に「汚いことが好き」なのではない。単にそういう場所に身を隠しているだけで、実際は綺麗好きなのである。そもそも汚いことを好む生物など殆どいない。

 ナズーリンは一輪達を冷たく一瞥すると、シャワーのノズルを掴んで頭にお湯をかける。丁寧に、丁寧に泡を落とす。それが終わると頭を振って、水気を払う。その仕草はネズミである。それでも綺麗に髪を洗えたと、こっそりと誰にも見えない様に笑みを浮かべる。そのあたりだけは女の子として可愛らしい。

 

 ところでナズーリンは一人ではない。彼女の少し離れた場所には短く切った金髪にシャンプーの泡を付けたまま瞑想している寅丸 星が居た。何故かわからないが彼女は、眼をつぶったまま背筋を伸ばしてバスチェアーに座っている。

 微動だにしない寅丸。膝に濡れたタオルをかけている。

 ナズーリンは一輪達を見ていたのよりも冷たい目で寅丸を見る。じとぉとした紅い眼は何か言いたげなのだが、何も言わない。寅丸も動かない。だからナズーリンもはあとため息をついて、声を掛ける。

 

「ご主人様……もしかしてシャンプーが眼に入ったんですか?」

「…………………はい…………」

 

 寅丸は瞑想しているのではない。眼が痛くて開けられないのである。それにはネズミもやれやれと肩をすくめて立ち上がる。彼女の手にはお湯がでているシャワーが握られていた。彼女はとっとこ彼女に近づいてシャワーのホースが伸びる限界が来ると、

 

「ほら、こっちを向いてください」

「? わっ」

 

 お湯をご主人様に向かって掛けるネズミ。寅丸は手でガードするが仕方ないのでごしごしと顔をこする。それでも眼が痛いらしく、眼をクシクシと指でこする。

 

「駄目ですよ……眼をこすっては」

 

 ナズーリンはシャワーを止めて寅丸に近づく。そして彼女の顔を覗き込んで「眼を開けてください」と言う。素直に寅丸が眼を開けると、少し赤い。

 

「赤くなってるじゃないですか……」

 

 ナズーリンは一つため息をつく。それで彼女は寅丸の前の洗面台に手を伸ばして、据え置きのシャンプーを手に取る。彼女はそれを小さな手にどろっと垂らして、寅丸の頭に付ける。

 

「な、何をするんですか、ナズーリン!」

「頭洗ってあげますよ。前向いて。ついでに眼はしっかりと瞑っていてください」

 

 抗議しようとした寅丸だが、ナズーリンは気にせず「はいはい」とごしごしと手を動かす。寅丸は少し背を丸めた。まるで猫の様である。ただ、シャンプーに負けても一応は毘沙門天なのだ。そしてネズミはその使いである。

 

「かゆいところはありますか」

 

 けだるげに聞く毘沙門天の使いに毘沙門天は首を振る。随分とおとなしいのは気もちいいのかもしれない。いつの間にか寅丸はバスチェアーの上で姿勢を崩して、少し内またになる。実際ここまで素直なのは相手がネズミだからかもしれないだろう。気を許しているともいえる。

 

 寅丸の頭を一通り洗い終えるとナズーリンはシャワーで洗い流す。泡の下から艶やかな金髪が現れて、ふんっとネズミは鼻を鳴らす。うまく洗えたことに少々得意気なのかもしれないが、彼女はそんなことを口に出すネズミではないので真意はわからない。

 

 ◇◇◇

 

 一輪と水蜜とナズーリンと寅丸の四人は並んで湯船に入った。一人だけ歯を食いしばって何かに耐えながら、だらだらと汗をかいている船長がいるがせっかく風呂に来たのに入らないのはもったいないのだろう。覚悟すれば耐えることはできる。

 

 誰も何も言わない。ただ湯気が水面から立ち上って消えていく。一輪は自分の手を伸ばして、肩を撫でる。お湯が静かに流れて、彼女の肌を流れていく。

 

 そして歯ぎしりをする船長。体の至る所が痛くて仕方がない。水着を着ていたところは無事であるが、それ以外が痛いのだ。彼女こと水蜜はしばらく耐えたがたまらず立ち上がった。ざばあとお湯が跳ねて、一輪の顔にかかる。だが水蜜は気にする余裕もなく、湯船からあがった。

 

 水蜜はぺたぺたと可愛らしい足音を鳴らしながら、脱衣所に向かう。歩きながら大きな欠伸を一つするあたり、彼女も眠いようである。元々トウモロコシを一日中焼く仕事をしていたので、疲れたのかもしれない。

 彼女は脱衣所に出るつもりでサウナ室を開けて入っていく、寝ぼけているのかもしれない。幸いもう深夜と言うこともありサウナ室に熱はこもってはいないので、辛うじて干物になる危険性からは逃れることができた。

 

 

 水蜜がいなくなったのでナズーリンも立ち上がった。彼女は寅丸に「ご主人様」と言いながら、湯船から上がることを示唆する。寅丸も立ち。一輪もそれにつられて湯船からあがる。

 

 三人は並んでペタペタと足音を鳴らす。濡れた足でタイルを歩けば、そのような音が鳴るのは必然であろう。端的に言ってしまえば、中年の男性でも鳴る。

 

 ◇◇◇

 

「あれ? 水蜜はどこに?」

 

 と脱衣所の籠から下着を取りつつ、一輪はあたりを見回した。どこに行ったかと問われればサウナ室である。だが、ここにいる者はネズミを除いて誰も彼女の行方を知らない。実はネズミは水蜜の行動を見ていたが、止めることもせず呼びに行くこともしなかった。

 

 ナズーリンはさっさと着替えて、浴衣になっている。青の生地にささやかな「藤」の文様のはいったそれは旅館からの借り物である。彼女は腰帯をしっかりと締めて、胸元を整える。白い胸元がちらっと見えた。ただ、直ぐに浴衣の前を整えた。

 

「さて、寝るか」

 

 一輪が水蜜を探していることも、その水蜜が妙なところに入り込んだことも知っていて、自分のことだけを口走るナズーリン。彼女は着替え終えると脱衣籠を元合った場所に収納して、一足先に風呂場から出ていこうとする。

 

 その時チラリとご主人様である寅丸がバスタオルで頭を拭いているのが見えた。彼女は一輪達とは少し離れた場所で着替えている。だからナズーリンもやれやれと思い、脱衣所にあった丸椅子に腰かけた。ご主人様を待っているのだろう。

 

 その寅丸はバスタオルで頭を拭いてからナズーリンと同じように浴衣に着替えた。色とは違い深い藍色である。彼女はふうと息を吐いた。振り返ると一輪もナズーリンも着替え終わっている。ちなみに一輪の浴衣はナズーリンと同じものである。

 

「さて、部屋に戻りましょうか」

 

 寅丸はそう二人に声を掛ける。一人減っているのにはあまり関心を払わない。もしかしたら彼女も疲れているのかもしれない。特に精神的には彼女と一輪の疲労は相当な物だろう。タブレッドもなくしているのだ。

 

 そうして三人は脱衣所から出ていく。火照った体で廊下に出ると、少し涼しかった。

 

 ◇◇◇

 

 三人が去ってからひょっこり顔を出した女性はあたりを伺いながら、脱衣所に入ってくる。手には着替えの浴衣を持っているから、風呂に入りに来たのだろう。ただ、どことなくその女性の眼が輝いている。

 

 長いウェーブのかかった髪は頭頂から毛先降りるまで、だんだんと黄金色になっている。もちろん彼女こそ聖人、聖 白蓮であった。何故か彼女は、己の弟子たちと風呂へ一緒にはこなかった。それには理由がある。

 

 表向きの理由は彼女に課せられた仕事があったのだ。それはすでに終えて河童に引き渡している。明日の朝にでも公開されるだろう。だが、それとは別に理由もある。すなわち「裏」の理由である。

 

「……ふふ……」

 

 柔らかく笑う白蓮。お昼の時の彼女とは別の表情である。まるでいたずらを思いついた少女のような純粋な笑みを彼女は持っている。事実、純粋なのだろう。だからこそ妖怪を助けようとして人に封印された経歴を持っているのだ。

 

 白蓮は脱衣籠の前に来ると浴衣をいれる。投げいれてはいない。そのあたりの作法はしっかりとしている。その着替え用の浴衣の上から、今まで来ていたシャツや下着を折りたたんでおいていく。丁寧そのものである。

 

 白蓮は着ている物を脱いでから、浴場へ向かう。彼女が曇りガラスのドアを開けると、中から暖かな空気が体を包む。白蓮は少しうきうきしているように軽い足取りで浴場に入っていく。

 

 ドアを閉めて、白蓮はやってみたかったことの一つをする。

 

「あっ!」

 

 と声を出す風呂場の壁に反響してくる。こんなことは大きなお風呂場でしかあまり味わえない。正確に言えば家庭用の風呂でも大声を出せばいいが、お寺で忘れ小傘が風呂に入っている時に大声で「ファンファントレイン」を歌って寅丸に怒られた。

 

 ただ、ここでは気兼ねをすることはない。大声を出しても早々迷惑は掛からない。ただ、白蓮は反響することに「すごい」と言いたげな表情をしてからやめた。少しやってみたかっただけなのだ。

 

 そしてまだやりたいことはある。そもそも彼女が他の弟子たちと一緒に来なかったのは見られると恥ずかしいことをしたかったのだ。それならば旅先で、しかも一人でいると気が良い。

 

 聖 白蓮は単なる堅物ではない。というよりは世の中で聖人だとか賢人だとか言われている者たちを「真面目」とだけ理解すると訳が分からなくなる。基本的に「聖人」などと言われる人種は破天荒なことをして名を残す。

 仏教でいえば釈迦。またはその一番弟子で死に際に爆発四散した阿難。またはキリストとその十二使徒。彼らの事績を追えば到底常人ではできないようなことをする。思いつかないことではなく「しない」ことをする。

 

 ある意味、心のままに生きることを「聖人」と言うのだ。その点で言えば、彼ら彼女らは子供の様に純粋で無垢なのかもしれない。やってみたいことをする意思とやらなければならないという義務感が彼らの根本である。本人達でもどうしようもなかったのだろう。だから「聖人」には悲劇が多い。妥協「できない」からである。

 

 つまり今、この場における聖 白蓮は「少女・白蓮」なのである。やりたいことをこっそりしに来た可愛らしい少女でしかない。少なくともこの湯気に囲まれた空間にはなんの苦しみもなければ、悲しみもない。

 

 白蓮は桶を取って浴槽からお湯を取る。片膝をついて肩からお湯を流すと、暖かなそれが体を流れていく。かけ湯である。彼女はそれを二、三度してから湯船に入った。

 

 肩までつかると「あぁ」と白蓮の桃色の唇から声が出る。眼を薄く閉じて、体の力を抜く。だれもいない場所、聞こえてくるのは緩やかな水音。それも心地よく白蓮の耳に響いてくれる。彼女はお湯の中で体を伸ばす。

 

 そうしながらあたりを見回す。誰もいないことをしっかりと確認して、お湯の中で体を「浮かす」。彼女は壁を蹴って、反対側まで静かに泳いだ。広い湯船でしかできない贅沢である。普通ならやってはならないが、他に誰もいないのであれば迷惑を掛けようがない。

 

 つまり「広いお風呂で泳いでみる」ことをやってみたかっただけなのだ。白蓮は反対側まで来ると、縁石に手をついてふうと息を吐く。満足したのだろう。彼女の髪先からお湯が滴り落ちる。

 

 しばし、彼女は考える。そういえばと。

 

 ――こら、泳いではいけませんよ? 

 

 自分が誰かに言った言葉を彼女は想いだす。それはずっと、ずっと昔のこと。誰かと一緒に、そう子供のころに信濃の山奥で温泉に入った時の記憶。白蓮には昨日のことのように思い出すことができる。まだ幼かった自分の後ろをとてとて着いてきた誰かのこと。

 

 白蓮は思い出す。思い出してしまう。今まで何度も何度も思い出してきたことを。その「誰か」はとても聞き分けのよい子で白蓮のことを慕ってくれていた。彼女もまた、それに負けずその「誰か」を愛おしんだ。

 

 それは昔話である。今の白蓮には届くことのない過去の出来事だった。彼女は顔を上げて、天井を見る。もう、「誰か」が自分を呼んでくれる事は無い。最後まで看取ったのだから、それは間違いがない。そうもう誰も――

 

「聖様?」

 

 声がした。どきりと白蓮の心臓が鳴る。

 白蓮は後ろを向く。そこには罰の悪そうな顔をした、黒髪の弟子がいた。何故ここにいるのかは白蓮にはわからない。まさかサウナ室にいたとは思わないだろう。そもそもなんでそこに入っているのかは訳が分からない。

 

「水蜜? ……」

 

 きょとんとした顔で聞く白蓮。それから眼をぱちくりさせる。もちろん黒髪の少女が村紗 水蜜である。彼女は何故か困ったような顔をしている。白蓮はそこではたと思い至った。

 

「見ていましたか?」

 

 白蓮は水蜜に聞いた。にこおと笑みを浮かべながらだが、その顔は妙に怖い。ある意味では照れ隠しと取れないこともないだろう。水蜜はごくりと息をのんで、フルフルと横に首を振った。師匠がお風呂で泳いでいたところなんて「見てない」と言うのだ。

 

「水蜜? 嘘はいけませんよ」

「えっ?」

 

 諭すように言う白蓮。

 

「見てしまったことは仕方がありません。私も注意が足りませんでした。でも、誤魔化そうとして嘘をつくことは……水蜜? どうですか」

「い、いけないと思います」

「はい。そうですね。わかってくれて私も嬉しいと思います。ですが、まだまだあなたには修行が足りません……そうですね、河童さんたちにも相談しなければいけませんね」

「え!? ひ、聖様!? そ、それは、どどどういう」

「このままでは一輪との平等性もありませんし……」

 

 さあと青くなるキャプテン。まさか、水着が変更になるのではと彼女は焦った。一輪が着ている気が狂った(少なくとも水蜜は思う) ようなものは着たくはない。彼女は哀れを誘うような声で言う。

 

「ひ、ひじりさまぁ」

 

 白蓮を呼ぶ水蜜。この湯船に入った聖人は思う。いや、一瞬だけ脳裏に浮かぶ。水蜜の姿がなんとなく「誰か」に重ね合わせてしまう。

 

 ――姉上

 

 白蓮は一瞬だけ、笑顔の「誰か」が見えたような気がする。もちろん過去の記憶でしかないだろう。それでも彼女は「ふふ」と愛らしく笑みを浮かべる。それから手に平を合わせて、水蜜を呼び返す。

 

「水蜜。精進しましょう」

 

 にこっと笑ってから首をちょっとだけ動かした白蓮の仕草はいつかの少女がやっていたことなのかもしれない。その前には誰が居たのだろう。

 

 ◇◇◇

 

 和室の電気は消えて、窓から入ってくる月光が美しかった。

 蒲団がいくつか敷かれていて、そこには赤い髪の猫や寝相が悪いのか浴衣の肩あたりが乱れた地獄烏が天人を下敷きにして寝ている。そう、ここは幻想郷の少女達が止まる二つの部屋に一つである。彼女達は今日の疲れをいやすためにお風呂に入ってから蒲団を敷いて寝ていた。

 

 ただ古明地 さとりは寝ていない。彼女も浴衣に着替えて、ちょこんと蒲団の上に座っている。その膝には妹が寝ていた。ひざまくらである。さとりはその妹を愛おしげに見つつ、手には本を持っていた。

 

 少し前に古明地 こいしがさとりの元に来た。曰く「お姉ちゃん、本を読んで」と眠たげに言ってきたのだ。つまりは絵本を読んでほしいのだろう。それを読んでもらいながらこいしが寝たかったのだ。

 もちろんさとりも承諾した。断る理由がなかったからだ。しかし、持ってきた本に問題があった。

 

「……へっきたねえ花火だ……」

 

 さとりは複雑な顔をしながら声に出して読む。こいしが持ってきたのは旅館のロビーに置いてあった漫画である。それを朗読していると膝枕をされているこいしは面白そうに聞くのでやめられなかった。

 だからさとりは「片付けておけよ、ぼろ屑を」とか「ドドリアさん」などと彼女の長い一生で一度も言ったことのない言葉を次々に口に出して読んだ。ついさっきキュイが爆発した。さとりはこの手に持った本はこいしの教育に悪いのではないかと本気で心配しつつ、読んだ。

 

「おね、えちゃん」

「……どうしたの? こいし」

 

 呼ばれてさとりは聞き換える。見るとこいしは眼を瞑って、静かに寝息を立てている。いつの間にか眠ってしまったのだろう。彼女の柔らかそうな頬が、小さく膨らんだりへこんだりしている。

 

 さとりはこいしの髪を撫でてあげる。むずがるようにこいしは動くが、起きない。それにさとりは微笑を浮かべる。いつでも妹は可愛いものである。

 

「おやすみ。こいし」

 

 とさとりはこいしを蒲団に寝かせてから膝を動かす。起こさないようにしているのだが、結構気を遣う。ただ、幸いこいしは心地よさげに寝息を立てている。さとりはそれにほっとして、彼女の読んでいた本を重ねて持った。何冊かこいしは持ってきていたのだが、返しにいかなければならない。

 

 さとりはそう思って立ち上がる。そして部屋から出ていこうとするのだが、その前に彼女は部屋の隅を見た。そこには浴衣を着た青い髪の女性が体操座りをして、こくりこくりとしている。慧音だった。

 

 慧音は自分は寝ても問題ないのにわざわざさとりが眠りにつけるまで一緒に起きていようとしていたのだ。それでも睡魔には勝てなかったらしい。さとりは彼女に近づいて言う。

 

「慧音。もう布団でねむってもいいわ」

「む……あっ、いつのまにか寝ていたのか? すまない……」

 

 謝ってくる慧音にくすりとするさとり。慧音のどこに悪いところがあるのだろう。少なくともさとりには「わからない」のだ。

 

「……わたしはこいしが持ってきた本を返しに行くから、先に寝ていて」

「そう、か」

 

 目を半分閉じた慧音は言う。

 

「……生きて……帰れ……」

 

 完全に寝ぼけているらしい。慧音はみょんちくりんなことを言ってしまう。さとりは命がけで漫画を返してくるような大冒険はしない。さとりは苦笑して彼女も蒲団に寝かせる。胸元が少しはだけていたのでさとりは直してあげた。

 

「ふぁあ」

 

 さとりはそれが終わると欠伸をする。疲れたのは彼女もいっしょである。もう昔のような気もするが彼女もお昼は「プールの監視員」の仕事をしていたのだ。それから移動してからの深夜までの労働が体を鉛のようにしている。

 

 さとりはそれでもふらふらと部屋を出ていく。その後ろ姿を見ているわけでもないが、彼女の妹は眠ったまま言う。

 

「お姉ちゃん……だいすき……」

 

 こいしは幸せそうだった。

 

 

 


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