東方Project  ―人生楽じゃなし―   作:ほりぃー

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やっと次話から朝を迎えることができるでよ。



15話 B

 四季映姫は旅館の一室で本を読んでいた。部屋の縁側には小さなテーブルと対の椅子があって、彼女はそれに腰掛けている。電気は付けていない。クーラーも消している。ただ、月の明かりと網戸から入ってくる潮風だけが彼女の読書の「おとも」であった。それだけで涼やかである。

 彼女の緑の髪が揺れる。頭には閻魔帽をつけることはないから左側だけ長い艶のある髪に月光が反射する。

 

 映姫は浴衣姿ではあるが乱れは一切ない。椅子の背漏れが少しだけ軋む音がする。

 ぺらぺらとページをめくる指先は細く、しなやかであった。それでもニコリともしないのが彼女らしい。表紙には「ルバイヤート」と書かれた岩浪文庫である。どこかのキャプテンのように漫画はあまり読まない。

 

「…………」

 

 ぱたんと冊子を閉じる映姫。しおりを挟む様子はないのは、彼女はどこまで読んだのか覚えているからだろう。映姫はそのまますくっと立ち上がる。座っても立ち上がっても彼女の姿勢は良く、背筋が伸びている。

 

 彼女は冊子を部屋の隅においていたバッグに入れた。座敷の畳の上には寝床が敷かれている。後は寝るだけなのは彼女も同じなのであろう。明日からは野球の練習があるのだから、少しは寝ていないと堪らない。

 余談だが彼女は夜更かしをしているのではない。引率してきた少年少女達が夜中まで部屋で遊んでいないか、一定時間ごとに見回っているのである。もちろんのことだが、見つければ説教が始まる。

 

 ただ、映姫はふと喉の渇きを覚えた。彼女は特に独り言を言うこともなく。飲み物を買いに行こうと決めた。外に出なくても旅館のロビーには自動販売機がある。ついでに最後の見回りをしようとも思った。それで一石二鳥だが、別に子供達に「最後の見回り」などと言う気はさらさらない。映姫がいつ寝たのかわからないくらいがちょうどいいのである。

 

 とりあえず映姫は部屋のスリッパを履いた。少し大き目の物である。

 

 ☆☆☆

 

 廊下に出ると映姫は静かに歩く。他の宿泊客に迷惑を掛けない為にであるが、とある部屋の前に来るとぴたりと足を止めてから、眼も閉じる。彼女は耳を澄ませて中からの物音を聞いているのである。無論ここは少年野球のメンバーの部屋、その一つである。ドア一つを隔てて映姫は中で「まだ寝ていない子」がいないか確認しているのである。話し声等聞こえようものならば説教である。

 

 幸いにして何も聞こえなかった。映姫は眼をぱちっと開けて、歩を進める。いくつかの部屋の前で同じ仕草をしながら彼女は進む。映姫が立ちどまって場所は引率してきた子供達の部屋なのだろう。こちらからも物音はなかった。

 

「……」

 

 表情を変えずに映姫は廊下を歩く。良い子にしている教え子たちに対して、少々可愛らしく思う気持ちもあるが彼女の表情は変わらない。ただ、彼女はまだ甘いのかもしれない。普通夜更かしする子供というのは大人以上に用心深いのである。

 

 深淵を除いている時、深淵もこちらを覗いているという哲学者の言葉がある。それと同じように映姫が近づいてくる時には、中で子供達の耳を澄ませていると考えられないこともない。しかし、その真実は映姫がドアを開けない限りはわからないだろう。

 

 だが、映姫の前からやってくる一人の子供がいた。薄い緑がかった髪をした少女が廊下を歩いてくる。映姫はその姿をみて、ふと立ち止まった。誰かに似ているが暗闇でよくわからない。

 相手も廊下の壁を伝ってふらふらと近づいてくる。足もとがおぼつかないのは、眠たそうである。映姫ははあとため息をついて、彼女に近づいた。このままでは転んで危ないかもしれないからだ。

 

 もちろん彼女は古明地こいしである。部屋で姉から物語を聞かせてもらっていたが、いつの間にか寝入ってしまっていたらしく、部屋には姉の姿がなかった。だから探しに来たのだろう。ついでにいえばまだ「漫画」は読むので置いていてほしかった。

 

 ふらぁとこいしはよろける。映姫はその肩を持ってささえてあげた。ここまでくれば相手が誰かくらいはわかる。それも旧地獄を任せている者の妹とすればわからないはずがない。彼女は比那名居天子を見た時に旅館に誰か知人が来ることは想像していた。どうやら的中したらしい。

 映姫が手に力をいれてこいしを立たせる。こいしは眼をしばしばさせて、目の前にいる者を見た。寝ぼけて視界がぼやけている。

 

「ほら、危ないですよ」

 

 目の前の人影がこいしに話しかけてくる。女性の声だが、どこかで聞いたことがあるようなないような、まともにこいしは判別できない。

 

「……ぅん、おねえちゃん?……」

「いいえ。残念ながら違います」

 

 どうやら姉ではないらしい。こいしは眼をごしごしして、相手を見る。だが頭がうまく動かない。相手の頭髪が緑色だということはわかった。そこでこいしは「あっ」と何かに気が付いたように言う。

 

「もしか……して」

 

 こいしは自分のことに気が付いたのだろうと映姫は思う。しかし、これから彼女を放置しておく気もないから、どうせばれることだろうと思っていた。姉の方とも会うことにはなるだろう。それも致し方ない。

 こいしは言う。彼女が認識しているのは目の前の者が「緑色の髪」をしているということだけである。

 

「ぴっ……こ……ろさん……?」

「いいえ。違います」

 

 こいしは寝ぼけているのか全くわかってはいないらしい。そもそも誰のことを言っているのか映姫には見当もつかない。まさか自分よりも遥かに強い者の名前だとか気が付かないだろう。

 こいしはこくんと顔を動かす。今にも寝てしまいそうである。映姫にもたれかかってきてしまう。こいしは無意識に映姫の浴衣の胸元を掴んで、体ごとずり落ちそうになる。はだけそうになったが映姫はこいしの体を抱いて抱えたから大丈夫だった。

 

「仕方ありませんね」

 

 特に動じることはなく映姫は言う。こいしが一人で泊まっているとは感じられないから、彼女の家族か仲間がいるだろうと考えて、半分眠っているこいしに肩を貸しながらロビーへ向かう。もしかしたら誰かいるかもしれないし、それでなくもロビーで従業員に聞けばいい。深夜にも当直はいるだろう。

 

 だが、映姫は誰かを探すことはなかった。なぜなら直ぐに見つかったからだ。

 

 

 ☆☆☆

 

 こいしがとある漫画にはまったのは少し前のことである。

 

 とある晴れた日の縁側のことであった。お寺でやることもなかったこいしはアイスキャンディーを嘗めながらぼけっ空を見ていた。頭には丸帽子をかぶり、首元にフリルのついた淡いピンクのシャツを着ている。黒のミニスカートと黒の生地に白のラインの入った靴下を穿いている。

 

 こいしは空を見上げながらぺろぺろとアイスキャンディーを嘗めている、縁側から足を投げ出し。両方の足をぶらぶらさせる。要するに暇なのである。靴下の指先がくにくにと動くのは彼女がその小さな指を動かしているのだろう。

 

 青い空を見ているとなんだか眠たくなってくる。夢の中で眠たくなってくるとは不思議だが、そうなってしまったのであるから仕方がない。こいしは大きく欠伸をして、縁側に横たわる。足をぶらぶらさせるのはやめない。

 

「御飯ですよー」

 

 どこからか声が聞こえてくる。こいしはそのつぶらな瞳をくりっと動かして、寝ころんだままアイスキャンデーを口に咥える。がりっと噛んで、ごくりと食べる。甘くて、それに冷たくておいしい。

 お昼に「御飯ですよー」と言うのは山彦か船幽霊しかいない。こいしは「はーい」と声をだして立ち上がろうとする。ころんと寝転がったままうつぶせになる。腕立て伏せの要領で立ち上がろうというのだが、口にはアイスを咥えたままと考えると器用である。

 

「あれ、これ何かしら」

 

 こいしの目の前に漫画が十冊ばかり積んである。ここは縁側だから、船幽霊が置いていったものだろう。彼女はその漫画を手に取って読み始めた。当初は漫画というものも知りはしなかった彼女である。だからこれも絵本の一種だと思った。表紙には緑色の龍が描かれている。

 

「ふーん、どらごん……ぼーる」

 

 こいしはつまらなさげにタイトルを呟く。興味が出たから読んでいるというよりは、そこに落ちていたから読んでいるのである。無意識の行動であった。そもそも漫画という物は現実を誇張した表現が多いが、幻想郷の住人であった彼女にはそこまで衝撃的なことはない。

 空間を操る。心を読む。魔法を使う。そんな異能の力もこいしの傍にはたくさんあった。それだけでなく、死霊とか神様や吸血鬼なんて言う超常の生物も見慣れている。だからこいしはたまにテレビに映るアニメを「弱そう」と言って見なかった。

 

 どんな存在でも姉やその周りには敵わないだろうという信頼のような物がこいしにはある。だが、それも今日までだった。

 

 

 

 こいしが気が付いた時には夕方になっていた。遠くの山にオレンジ色の夕日が沈みかけている。彼女は漫画を夢中になって読んでいたから、気が付かなかったのだ。

 手元にはいつ食べたのかわからないがお盆に載った空の皿が置いてある。こいしの口餅に米粒が付いているから、漫画を読みながら食べたのだろう。持ってきたのは誰だろうか。

 

 そんなことより、こいしはどきどきする。胸が高鳴るのは恋をしたときの様であるが、むしろ激しい戦闘を見た後での興奮に近い。彼女は漫画を胸に抱きしめて呟く。

 

「……フリーザ……すごい」

 

 何かのキャラクターをこいしは言う。彼女は漫画を抱いたまま立ち上がった。

 目がきらきら、口元はにっこり。こいしはどたどたとどこかに駆けていく。途中廊下で靴下が滑り、こけそうになったが持ちこたえた。

 

 まさにカルチャーショックである。流石に幻想郷でも星を破壊する力を持つ者はいない。だが彼女の持つ漫画にはたまによくいる。だからこそ古明地こいしの心を鷲掴みにしたのだ。この世の中でここまで強い者がいるとは思わなかった。

 

 こいしは赤い可愛い靴を履いて、庭に飛び出した。何をしようと言うわけでもなく、心が湧き立って何かをしたいのである。特に力(りき) を高めたいと彼女は想っている。

 

「よーし、みんな元気をわけてー!」

 

 庭の真ん中で万歳するこいし。やりたいからやっているのではなく、もう体が勝手に動くのである。こいしはわくわくした顔で空を見る。夕焼け空に一羽の鴉が飛んでいくが、それ以外には何もない。

 

「うーん。修行がたりないのかしら……」

 

 腕を下ろして、両の掌をこいしは見る。どうやら「元気」とやらは集まっていないらしい。それでも彼女はぎゅっと両手を握りしめて、きりりと真面目な表情をする。その頬は赤く火照っていて、眼は爛々と光っている。

 

 

 

 それからこいしの修行は始まった。一日中暇なので、一日中修行に明け暮れることができた。たまに幻想郷で見たことのある者たちがお寺にやってくるがこいしは接客などしない。会えば挨拶はする。

 時には漫画フリークの船幽霊が新しい「ドラゴンボール」の漫画を買ってくると、矢も楯もたまらず読みふけった。基本的に邪魔をされないために漫画を持ってお堂にこもった。

 

 そう、お寺の裏には小さなお堂がある。そこはつくりは古いが、仏像が安置されており熱心な檀家が年に数回お参りに来る。もちろん住職も来るが、このごろが代理の聖 白蓮に寺を任せているので頻度は少なくなっている。つまり、あまり人は来ない。

 

 そのお堂で仏様の前でこいしは漫画を読む。間違っても真言など言わないし、お祈りもしない。ただ仏像とは仲良くなったらしく、こいしはお堂に入るときに「オッス!」と仏像に挨拶をするようになった。

 

 おたまに入り口が開いてこっそりと聖人が見に来たが、くすっとして去っていく。こいしがどこかに行った時を見計らって聖人は戻ってくる。たまにネズミがくるが、お供えのお菓子を一つ二つポケットに入れて帰っていく。

 

 一応毘沙門天や尼も来るが彼女達はこいしには気が付かない。こいし自身も誰にも話しかけたりはしない。集中しているからだ。ごくまれに忘れ小傘も来るが、こいしを見てからビックリして帰っていった。

 

 こいしは心行くまで漫画を読んだ。同じシーンを何度も繰り返して読みつつ、できそうな技は真似してモノにした。

 

「ろうが! ふーふーけんっ!」

 

 その日も修行でお堂で両手をふるうこいし。まるで獣が獲物に襲い掛かるような激しい動き。爪をふるうようにこいしは動く。彼女はばたばたと暴れた後にふふと笑う。

 

「習得したわ。一番簡単な技ねっ!」

 

 どすんとその場に座るこいし。彼女はふとスカートの裾を摘まんで思う。

 

「これじゃあ動きにくいわ……何か道着を探さないと……」

 

 こいしは自分のファッションを動きやすい物に変えようと決心した。しかし、今日は疲れた。彼女はその場にころんと寝ころんだ。しばらくするとくうくうと眠り始めた。

 

 

 

 

 しばらくするとこいしは眼を覚ました。お堂で寝たから体が冷えてもおかしくはないのだが、何故か彼女の体にはタオルケットがかかっている。それにお堂の板敷に寝ていたはずなのに、頭には座布団が敷かれている。

 

 こいしが体を起こすと念仏が聞こえる。見るといつも挨拶する仏像の前で誰かがお祈りをしている。もう夜だろうが明かりは付けていない。蝋燭の灯が二つ、三つとゆらゆらと動いている。

 

 そこにいたのは黒い袈裟を着た女性だった。長いウェーブのかかった髪は頭頂が紫で毛先になるほど鮮やかな黄金色になっている。それが蝋燭の光で光って、美しい。

 お堂では麗しい声で念仏が響く。まるで歌を唄っているように女性は言葉を紡ぐ。彼女の言葉には至誠が現れていると言っていいだろう。心の底からの声だった。

 

 きゅううとこいしのお腹が鳴る。それを聞いて女性は念仏を中断して、ゆるりとした仕草で後ろを振り返る。女性の大きな瞳がこいしをみると、彼女は穏やかに笑みを浮かべた。優しいその笑みを見るとこいしは何かに包まれるような錯覚を覚えた。

 

「こいしさん。起きられたのですね?」

 

 女性、聖 白蓮は聞いた。甘い声というよりは限りなく優しい声である。こいしはうんうんと首を縦に振ってこたえる。おそらく彼女にタオルケットを掛けたのも、頭に座布団を敷いたのも聖であろう。

 

「私寝ていたのね。お腹減ったぁ」

「ふふ、よく眠られていましたよ」

 

 聖は立ち上がる。彼女はこいしの為に念仏を中断した。あまり頓着はしない。不真面目ではなく、その程度のことで仏様が怒るわけがないと信じているのかもしれない。頑迷な考えは彼女は持ち合わせていない。

 

「ご飯を食べに戻りましょうか。こいしさん」

 

 言いながら聖は手で蝋燭を扇いで消す。息を吹きかけて消したりはしない。何故ならば人の吐息は穢れていると仏教では考えられているからである。ただ、手の風圧で蝋燭の火を消す行為がこいしにはとてもかっこよく感じられた。

 

「わ、私がやるわ!」

「えっ? そうですか……それではお願いします」

 

 聖は最後の蝋燭を消そうとしていた手を止めた。そのかわりに入り口に歩いていき、お堂の扉を開いた。夜とは言っても街中には街灯があり、空には月と星がある。だから夜の青い光が静かにお堂の中を照らしてくれる。先に蝋燭だけを消してしまうと真っ暗闇になってしまうから、聖はそうした。

 

 そうやって舞台は整った。

 

 炎の点った蝋燭の前で「狼牙風風拳」の構えをするこいし。聖は眼をぱちくりさせて見ているしかない。揺らめく炎を見つめているこいしの顔は真剣そのものだったからだろう。何故真剣かと言われれば修行っぽいからである。

 

「はいっ、はいっ!」

 

 手を振るうこいし。炎は揺らめくだけで消えない。ムキになってこいしは両手を動かすが蝋燭は消えない。びゅんびゅうと風を斬る音だけがお堂に響く。聖はそれを静かに見ている。

 

「はあ、はあ」

 

 こいしはしばらく動いてから膝に手をついた。これだけ動いても炎は揺らめいている。あまり激しくやっても効果は薄いようである。

 

「だめね。このわざは……」

 

 こいしはそう結論付けた。そうつけようとした、だが聖が口をはさんだ。

 

「こいしさん」

「んー?」

 

 こいしはくるっと振り返る。そこには法衣の袖をまくった聖がいた。お淑やかな彼女は実のところ体を動かすことが好きである。だからこいしが何かの武術のような動きをしていて、むずむずしたのだろう。

 

「そういう時は、こう目標に対してやみくもに拳を振るってはいけませんよ」

 

 こうやってと聖は足を広げ両手を上げた構えを取る。こいしはよくわからないが「ほうほう」とわかったような口調でその構えをまねる。つまりお堂の仏像と一本の蝋燭の火をバックに互いに向かいあったのだ。まるで格闘ゲームの一場面のようである。

 

 それから単に蝋燭の炎を消すという作業の為に、二人は拳の角度や体の使い方などを話合うことになった。こいしはそれを聞いていく過程で聖への尊敬の念を強めていく。

 

「まるで亀仙人みたいっ!」

「うーん? かめ? 私が仙人にということになると怒る人がいそうな気もしますが……」

 

 苦笑しつつ聖はこいしと戯れる。元々からお堂には人が来ることはすくなく、夜ということもあり。二人の時間がゆっくり、ゆっくりと過ぎていく。こいしは普段聞けなかった疑問などを聖と話し合うこともできた。

 

「気ってどうやって使うのかしら?」

「気……ですか。それも私が説明していいものかどうか……?」

 

 またまた苦笑しつつ聖は「道教」における気を説明する。仏教の概念からは少し外れているからだ。仏教では「念」などという物はあるが、意味が違う。というよりはこいしの聞きたい「気」は別の物ではある。

 

 結局蝋燭の炎が消えたのは一時間後だった。消したのではなく、自然に蝋燭が燃え尽きて消えたのである。その時には聖とこいしはお堂の外にでて、星空の下で仲良さげに話し込んでいる。それでも聖は蝋燭のことを忘れていないからしっかりしている。

 

 こいしは身振り手振りで「かめはめは」をやって見せる。すると聖もよくわからないがぱちぱちと拍手してくれる。可愛らしい仕草に笑みがこぼれている。このあたりで聖にもこいしが言うことが「漫画」であることが分かってきた。

 

 それでもこいしの話は尽きない。無意識に思うまま、心のまま話をする。聖も柔らかい微笑を浮かべてうんうんと聞いてくれる。だから、こいしもさらに大げさに体を動かして話をする。言葉と動作が彼女のコミュニケーションなのだろう。

 

 ――きゅうう

 

 突然そんな音が鳴る。こいしと聖は眼を合わせて、くすっとする。今の音はこいしのお腹の音だった。

 

「そういえばお腹が減っていたのだったわ」

「ふふ、楽しくお話もできて私もお腹がぺこぺこです」

 

 聖が「ぺこぺこ」と愛らしい表現を使ったのはこいしの前だからか、それとも地なのかもしれない。彼女は立ち上がってから、お堂の中をひょいと覗き込む。蝋燭はすでに消えているようだった。だから、お堂の扉を閉めてからこいしを振り返る。

 

「さっ、行きましょうか。こいしさん」

「うん!」

 

 花のような笑顔でこいしは答える。楽しいと表情に表れている。

 二人は並んで歩く。こいしの楽しげな声と聖の小さな笑い声が静かに、夜を彩っている。

 

 ☆☆☆

 

「う、うーん」

 

 こいしは眼を覚ました。ゆらゆらと体が揺れているような気がするが、別に足を動かしてはいない。彼女の鼻がくんくんと動く。なにかいい匂いがする。

 

「こいしさん。起きられたのですね?」

 あの日の様にやさしげな声が聞こえてくる。こいしははっとする。

 こいしは気が付いた。旅館の廊下で聖におんぶされている。背中があたたかいのは、聖がお風呂に入ってきたからだろう。横には村紗 水蜜が頭にタオルを巻いた浴衣姿で立っている。髪の水気を抜いているのかもしれない。

 

「先ほど、とても珍しいお方に会いましてこいしさんを任されたのですよ」

「めずらしい……かた」

「ええ、まさかとは思いましたが……」

 

 こいしは覚えていない。部屋で姉にお話を聞かせてもらっていたことからの記憶がすっぽりと抜け落ちている。しかし、そんなことはどうでもよくなっていた。

 

「くう……」

 

 温かい背中が心地よい。こいしはまた、夢の世界に降りていく。それを見て聖も「あら」と言いつつ、くすりとしてしまう。彼女は足取り緩やかに、背中で寝ている可愛らしい少女がいい夢が見られるように歩んでいく。

 

 聖は呟く。

 

「いい夢を見られますように」

 

 

 

 

 

 




山岳信仰と相まって空気が身体に馴染むのが感じられた。下界の穢れが届かない、豊かな湿原と渓流をたたえる信仰の山はまさに百名山の一つに数えられるに相応しい。
真っ青な空はまぶしく、入道雲が落とす影に隠れて暑さを凌ぐ。地図とプレートコンパスを頼りに、ぬかるむ道を少し強引に抜けると赤い鳥居が突然現れた。
どうやら目的地に着いたらしい。古びた神社は歴史の流れを感じさせ、かつて大勢いた修験者の姿は見受けられなかった。山に神を祀り、その神域に触れんとした人間たちはいなくなって久しい。
一抹の寂寥感に包まれながら写真を何枚か撮っていると、羽の音が聴こえる。同族の気配がしたので急いで頭上の樹々を見上げてみるが、誰もいない。再び消沈した私はしかし、そこに刻まれていた文字を見てニヤリと笑う。大きなカラスの羽と一緒に書かれていたのは随分と懐かしい『詫び証文』と同じ系統の文字。そっと供え物を置いて立ち去るとバサバサという羽音が聴こえた気がした。

今回もまた悪くはない旅であった、そう私は思う。


『四季桃月報・文月号』一部より抜粋

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