空っぽ転生ウマ娘は無敵のテイオー様をわからせたい。 作:テイオーのリボンの結び目
——意味ぐらいさ、あった方がいいと思わない?
虚ろなものとはずっと遠いところ。
目を背けたくなるぐらい眩しかった光。
それを湛えた瞳を前に、そう問われたことがあった。
◇ ◇ ◇
「——よーい」
どこか間伸びした声で観衆の一人が合図を出す。
あくまでも、練習用のコース。その上、模擬戦に過ぎないというのに集まったトレーナーや先輩、同級生で周囲は随分と喧騒に包まれていた。
とはいえ、それも当然と言えば当然だった。
かなり余裕があるのだろうか。若干力の抜けたようなフォームで隣に立つウマ娘——トウカイテイオー。
彼女へ向いている注目度の高さは、ここに入学してからの数週間で十分に理解していた——というよりも、そうあって然るべきなのだ。
彼女はそういう運命と共に、名を貰い受けたのだから。
その点、私はどうだろう?
肩に入った力は抜けない。
ストレッチをしても、足は強張ったまま。震えた足先が芝と擦れる度に立つ不快な音は、耳を突く。
私も、ウマ娘として生を受けた。
彼女と同じところ——“競走馬”がいた世界から流れ着いてきたことも変わりない。
けれど、決定的に違う。
彼女らが、皆が持っている名も、運命も。全てを伴わずに、私は今、ここに立っている。
これはきっと、武者震いなんて大層なものじゃない。
もっと情けのないもの——恐らくは、怯えを孕んだだけの震えだ。
「えーっと、アケノさん……だっけ? 大丈夫……?」
「……ん、一応は」
こちらを気遣ったらしい声にできた返答は、それぐらいだった。
そして、トウカイテイオーはスタートラインに立つ際にこちらを一瞥して以来、あとはずっと前しか見つめていない。
会話の一つすら、彼女との間に起こることはなかった。
「それじゃ、仕切り直してもう一度——」
そんな合図に釣られるようにして再び、視線を前に向ける。
「よーい、ドンっ!」
芝が舞った。
視界を掠めた、わずか一瞬。
合図すらも置き去りにして、靡いた鹿毛。
何が起きたのか理解するまでに、少々の時間を要して——私も地を蹴り駆け出した頃には、僅かなものでも、既に差ができていた。
トウカイテイオーは、基本的に差しか先行。
それぐらいの情報は脳に叩き込まれている。
実際、ペース的にはまだ彼女もさほど飛ばしている方ではない。テンポ正しく、僅かな差は保ったまま私の前を行くだけだ。この差を縮めて、今彼女を追い抜くこと——それぐらいであれば、まだ可能だろう。
けれど、そうしたところで彼女の瞬発力の前では、最後にまた抜かされる。
持っている情報の差程度で勝てる相手じゃない。
今まで、彼女の背中を見て走ってきたから。そして、つい近頃も一緒に走ることになってしまったから。それは熟知していた。
であれば、まだ差を縮めず広げず、このテンポを維持したまま彼女に張り付いていること。
一番無難な立ち回りはそんなところだろう。
ただ彼女について行くように、脚を動かし続ける。
そんな中でペースを乱したのは——未だ、強張ったままの脚だった。
一歩、一歩、踏み締めるごとに、僅かに身体が振れる。
——違う。
まだ、体力を温存しているはずなのに。
背中は、決してまだ遠くない。
跳ぶように走っているせいか、彼女の体だって振れている。
それでも——私のものとは、明らかに違う。
近いが故に、些細な違いですら目についた。
振れているとて危うさのない、小慣れたような走り。
それに対して、私はどうだろう?
視界の端で忙しなく動く腕、左右に振れる体——差し迫ったコーナー。
「——ッ」
半ば投げ出されるようにして、柵から引き剥がされて——大回りに取ってしまった進路。
先ほどまで張り付いていた背中が、遠ざかった瞬間だった。
——ザッ
地を蹴る音が、鼓膜を突いた。
頬を芝が掠めた、僅か一瞬の間。一度の瞬きですら致命的だった。
歓声は最早、耳鳴りにしかならない。
ずっと——ずっと、彼女は先を行く。
僅か1000m。差し掛かった最終直線。
短いはずなのに、捉えられないぐらい遠くへ。
——なんで、走ったんだろう?
不意に、そんな疑問が胸中で燻った。
意味なんか、持っていない。
さればこそ、このレースにも意味なんかない。
彼女に箔が付くだけ。ここまでの実力差を見せられてしまったら、学べることなんてないって——そうとまで、思えてしまう。
大口を、叩いてしまった。
自ら、恥の上塗りをする結果になってしまった。
入学した時にはもう認識していたはずなのに。私はそれよりもずっと——弱くて。
息は既に上がりかけている。
釣られるようにしてかけたスパートじゃ、たかが知れていた。
何が、トウカイテイオーに勝ってその表情を歪ませてやる、だ。
今歪んでいるのは、私の表情じゃないのか。
彼女を捉えている瞳は、虚ろじゃないのか。
トウカイテイオー——名実ともに定められた運命に沿えば歴史に名を刻むウマ娘。
それでも、空っぽな私でも、彼女に勝てばこの世界では歴史に名を刻めるって。
ここにいる意味は、あったんだって。
きっと、それを証明したかった。
だからこそ、満たされたような感覚に陥っていたのだろう。
——今、気付きたくなかったなあ。
何年もかけて辿り着けなかった答えを、今になって導き出してしまうだなんて。
瞬く視界、さらに遠ざかるトウカイテイオー。
揺れない背姿、広がっていく距離。
果てしなく遠いものを前にして。
けれど、それよりもずっと鮮烈に映ったのは——そんな眩しい姿ではなかった。
「──え」
そこに、彼がいた。
コースの外でこちらを見つめる、河瀬の虚ろな瞳がはっきりと瞬いた視界に焼き付いた。
何故こんなところにいるのか、と。脳裏を掠める疑問。
だけれど、そんなものを反芻している暇はなかった。
そうだ。私はあの虚ろさが——堪らなく嫌いだった。
空虚に日々を食い潰すのも、空っぽなまま、走り続けるのも。全部、全部嫌いだ。
だったら、せめて——せめて。
振り切らなきゃ。
たった一瞬。
残された猶予はそれだけ。
無駄にできるものは、何一つない。
——身体を。
普段よりも、斜めに。
できるだけ伸ばした脚。
「——ッはあ」
一息に取り込んだ空気は熱い。
肺を焼くように、私から気力を削ぐように。
息苦しさに、思わず足が止まりかける。
それでも……止まるなら——落ちるなら。
こんなに、虚ろで、真っ暗で——空っぽな場所じゃなくって。
もっと、近くがいい。
今はまだ、眩しすぎても、遠くても——一等星のすぐ側がいいっ!
「──ああッ!」
自身を鼓舞させるため、目一杯に顔を歪めてでも発した声。
芝の感触が、足先を包み——次の瞬間だった。
跳ぶように。
普段よりも伸ばした足は、無理矢理にでも私を進ませた。
その僅か一瞬、近づく彼女の背。靡く鹿毛、揺れるポニーテール。
振り向き様に、普段よりも少し見開かれた青い瞳は私を捉えた。
いつもみたいに、光を湛えたまま。
トン、トン、トン、と。三歩。乱れた歩調と共に、速度が落ちていくのを感じる。
彼女が振り向いたのもまた、たった一瞬の出来事だった。
何事もなかったかのように前を向くと、彼女はまっすぐにゴールを見据えて。
もう距離もそう遠くない。
あと一度瞬きをしたら、次の瞬間には彼女はゴールにいるだろう。
だから——だから。
最後に、もういっぺんだけでいい。
彼女の背を。
一等星を、瞳に焼き付けた。
◇ ◇ ◇
◇ ◇
◇
「——お疲れ様、アケノちゃん。はい、スポーツドリンク」
ベラトリクスから差し出されたスポーツドリンクを受け取り、一気に飲み下す。
焼けそうなぐらい熱い喉には十分それは染み渡る。
「……おいしい」
率直な感想を口にした瞬間だった。
「ほんとっ!? これね、あたしがいっつも混ぜてるやつなの。そっか——嬉しいっ!」
多少オーバーに見えるリアクションと共に、彼女は満面の笑みを浮かべる。
突っ込むのは——流石に無粋だろう。
それに今は、そんな気力も……。
「アケノちゃんっ!?」
「……疲れただけ。気にしないで」
安心感ゆえか、強張った足から力が抜け、思わずぺたんと尻餅をついてしまう。
すぐさま目の前に手が差し伸べられて——反射的に掴み、顔を上げた時だった。
「——食いついたじゃねぇか」
そこにあったのは、無精髭と、相変わらず顰められた顔。その反面、いくらか満更でもないような口調だった。
「——大口を叩いたからには、ね」
河瀬に対して、軽口で返す。
それが、どうやら彼の琴線には触れたらしかった。
「……ま、相応だ。存外、悪い名前でもなかったろ?」
軽く口元を緩めたまま、そんなことを口にしたりして。
ほんの少しだけ軽口を叩きあったのも束の間。
彼は、私が立ったのを確認すると、踵を返して去っていこうとする。
そして、特にそれ以上追う気はなかった。
芝に足跡を残しながらも、遠ざかっていく背中。
それをぼぅっと見つめていた時だった。
「——あたし、知ってるよ? アケノちゃん。振り向かせたいトレーナーがいるならね、模擬レースで勝てばいいの」
不意に、耳に入ったそんな声。
半ば受け売りではあったけれど。次の瞬間、私は叫んでいた。
「——河瀬さんっ! 模擬レース、来週あるから——っ」
けれど、それ以上声は続かなかった。
走ったすぐ後だ。絡みついた痰のせいで、思わず咽せてしまう。
「……走るんだろ?」
そんな声を拾った。
私が頷いていたのを、振り向くことすらしなかった彼が捉えられていたとは思えない。
それでも、振り向かないまま、ただ一度だけ頷いて。それ以上は声を発することすらせず、彼は去っていった。
「——アケノっ、いいレースだったよっ! でも、今日はボクの勝ちだ」
彼が去ったすぐ後、観衆の視線をまとわりつかせたまま、トウカイテイオーは近づいてきた。
出された手は、小学校の頃には一度もした覚えのない握手のため——だろうか。
『だから、テイオーさんが強いだけって。何度も言ってるでしょ?』
レース後、毎度のようにしていた会話が脳裏をよぎる。
……それでも、これは今口にするべき言葉じゃない。
「——選抜レース、負けない。テイオーさんの記録、超えてみせるから」
差し出された手を握る。
仕掛けるタイミングが定まったこと。ターフにこだまする宣言。
目を背けたくなるぐらいに眩しかった光を、初めて真っ直ぐ、私は捉えた。
それが少し意外だったのかもしれない。彼女は僅かに目を見開いて。
それでも、すぐにいつも通りの笑みを取り戻すと——私の手を、強く握り返した。