主である魔女を失った結界が崩壊する。ほむらが呆然と立ち尽くす前で、雫のドッペルは砂埃となってさらさらと消えていった。そうして地面に降り立った雫は、ふらり、ふらりと覚束ない足取りで何とかバランスを取り、近くに生えた木に体を預けるようにして倒れ込んだ。
「……ソウルジェムの浄化を!」
浅い呼吸を繰り返す雫の横ではっと気が付いたほむらは、地面に落ちたまま放置されていたグリーフシードを拾い上げ、すぐに雫の横へと屈んだ。
「その、必要は、ないの」
「そんな、まさか……!」
雫がゆっくりと差し出した左手、掌の上に乗せられたソウルジェムが透き通った輝きを放っていたから、ほむらはグリーフシードを手に持ったまま固まってしまった。キュゥべえが魔法少女を作り出し、魔法少女が魔女に成り、その穢れをキュゥべえが回収する。キュゥべえが作り上げたこの魔法少女を利用したエネルギー回収サイクルを、ドッペルという事象は根本から破壊してしまったのだ。ソウルジェムが穢れきったとしても魔女に成らないのだとしたら、それは確かに魔法少女の解放と言えたし、ほむらはその意味を、今この瞬間に理解してしまった。荒い息を吐く雫の隣で、ほむらはじっと自分のソウルジェムを見つめた。それの中には僅かに黒い穢れが蠢いていたけれど、今のほむらには、それを右手に握ったグリーフシードで浄化しようとは思えなかった。もしも。そんな甘い誘惑がほむらの心に憑りついた。もしも、本当に魔法少女を魔女に成る絶望の運命から、キュゥべえの管理下から、解放できるのならば。それが、できてしまうのならば。
「……フェントホープはこの先。もう少し」
「フェント、ホープ……」
希望の名を冠するその場所も、口に出したほむらには妙にしっくりきた。息を整えた後に再び歩き出した雫の後を、ほむらは迷わずについていった。
万年桜、と雫が呼んだ桜の木は、そこからすぐの場所にあった。木々が開けた広場のような場所にぽつんと生えた立派な桜の木だったが、周囲の木々が青々と葉を茂らせているのに、万年桜だけはひとつも葉のない枯れた姿のまま、寂しげにそこに立っていた。ほむらが万年桜に近づいていくと、
急に視界が開けた。いままで山の中にいた筈なのに、目の前には見覚えのない巨大なホテルが聳え立っていた。
「ここは……」
「ここがフェントホープ。私たち、マギウスの本拠地よ」
「おや、雫ちゃん。おかえり。その人は?」
「灯花様のお客様。聞いてないですか?」
「ああ、彼女がね。案内するよ。ついてきて」
真っ白なローブを羽織った少女が、エントランスに立っていた。彼女は目深に被ったフードのせいで顔は見えず、けれどほむらよりいくらか身長が高く、少し大人びた声だった。雫と別れ、ほむらはその白ローブについてフェントホープを歩いていく。彼女はそれきり何も話さないまま、こつこつと硬質な音を響かせていたから、ほむらも何か聞く気にもなれないまま、その後ろに追従していった。そうしてしばらく歩いている間、ほむらは周囲を軽く見まわしてみた。びっしりと何かが書き込まれているホテルの内装はかなり豪華なもので、その中を黒いローブを羽織った少女たちが時折歩いていた。足元には時たま何か小さいものが落ちていて、それは熊を模したマスコットキャラクターのようなものの頭部だけだったから、ほむらは気味悪くなってそれを踏まないように慎重になっていた。
「さ、ここだよ。……灯花様、入りますね」
二回ノックをしてから扉を開けると、その先は談話室になっていた。中央に大きな机が置かれ、その両サイドにはアンティークの椅子が四脚、そのうちの一つ、もっとも上座にあたる場所に、その少女は座っていた。ゴシック調のドレスを身に纏った彼女は、ほむらと比べてもあまりに幼い姿をしていて、灯花と呼ばれたその少女は来客の事など気にも留めていないような態度でティーカップから紅茶を啜っていた。ほむらが談話室に入ると、白ローブの少女はその部屋から出ていったから、扉が閉まる音と共にほむらと灯花は二人きりになった。
「暁美ほむら、だっけ。ようこそ、フェントホープへ!」
灯花は明るくそう言って対面の椅子に座るように促した。ほむらは扉の前に立ったまま、動かなかった。灯花はそれを別に気にしていないように、椅子に座ったままほむらの方を見ていた。
「わたくしは里見灯花。皆からはマギウスってよばれてるんだよ。ほむらは、見滝原の魔法少女だよね」
「……ええ、そうよ」
「わたくしはあなたに興味あるんだよね。なにせ、
びくり、とほむらの眉が動いた。灯花は紅茶のカップを口に当てながら、横目でほむらの事を見ていた。
「……それに答えるつもりはないわ」
「そっかー、残念。ま、そのうちわたくしが解明するから」
「そんなことより、貴方に聞きたいことがあるわ、里見灯花」
「そうだよねー、いっぱいあるよね。何から聞きたい? 解放のこと? ドッペル?」
「……ドッペルとは、何なの?」
一呼吸おいてから、灯花はほむらの方を向いた。
「わたくしたちがドッペルと呼んでいるあれはね、魔法少女が魔女に成る時に発生するエネルギーを転用したものだよー。ソウルジェムに穢れが溜まり切った時、魔法少女は魔女に成っちゃうよね。その時にソウルジェムを突き破って出てくるあの穢れ、そのエネルギーをわたくしたちが"回収"して、それを別の形……魔法少女が自在に扱える形に"変換"して、それを"具現化"したものなんだよ。この神浜市に結界が張ってあるのは知ってるー? キュゥべえが入れないようになってるんだけど、本当の役割はそれじゃない。この神浜市で発生した
そこまで喋ってから、灯花ははっとしたようにほむらの目を見た。
「んー、初めましてのほむらにこんな話してもわかんないよねー」
そう言ってにこりと笑った灯花を、ほむらはじっと見ていた。そこから続く灯花の説明は段々と難解なものになっていく。それはほむらの理解の範疇を軽く超えているのだった。滔々と意味の分からない理屈を話し続ける灯花を、ほむらはまるでキュゥべえのようだと感じていた。
「……つまり、このドッペルがあれば、魔法少女は魔女には成らない、ということね」
「そうやって一元的な言葉に纏めるのは嫌いなんだけど、そうとも言えるかなー」
「そう。それだけ分かれば十分よ。ドッペルには、何か問題はないのかしら」
「問題ー? ……わたくしたちのシステムに欠陥はないよ。完璧だもん」
胸を張ってそう言う灯花の姿はあまりにも幼く見えて、ほむらの中に燻っていた不安の火は一気に勢いを増した。完璧、絶対など、この世には無いのだと、ほむらはそう信じていた。
「灯花、入りますよ」
二回のノックと、声。談話室の扉が開くと、一人の女性がその中に入ってきた。ほむらより随分と大人びて見えるその女性は、ほむらの方を見てにこりと微笑んだ。
「来客中でしたか、ごめんなさい」
「いいよー。で、何の用かにゃ?」
「まもなく定例会議の時間なので、呼びに来たんですけど……。二人にはもう少し待つように伝えておきますね」
「あ、そっか。いいよ、いま行くから。ほむらには、是非ともマギウスの翼に入ってほしーな」
膝の上をはたいて、灯花は椅子から立ち上がった。そうしてほむらの方を見もせずに横を通り過ぎて、部屋を出ていった。
「暁美ほむらさん、ですよね。外まで送っていきますよ」
女性にそう促されて、ほむらも談話室から出ていった。残されたティーカップだけが、戸の閉まる音を聞いていた。
「ワタシは、梓みふゆといいます。マギウスの翼のまとめ役をやってるんですよ」
道中、みふゆはほむらの方を向かずにそう言った。それから、何でも聞いてくださいね、と続けたから、ほむらは少し考えて、
「ドッペルは完璧だと言っていたけれど、何か問題や欠陥はない?」
と聞くと、みふゆは少しだけ俯いて、
「……ない、と言えば嘘になりますね」
と言った。
「それは?」
「ドッペルをよく使用している魔法少女の一部に、おかしな点が見られるんです。症状は人によって違うんですが、よくよく話を聞くと、どうやら
「……それは、どういう意味?」
「詳しいことは、何も……。灯花にこの話をしても、あしらわれてしまって」
話している内に、二人はホテルの外へと出ていた。行きに通ってきた大きな門が、音を立てて開いた。ほむらは門の外へと歩いて行ったが、みふゆはその場で立ち止まって、ほむらの背中を見ていた。
「あ、ほむらさん」
呼び止められてほむらが後ろを振り向くと、みふゆは柔らかく笑っていた。
「今日はありがとうございました。……マギウスの翼に入るかどうか、考えておいてくださいね。不安はあるかもしれませんが、魔法少女を救えるのは、マギウスだけです。それだけは、覚えておいてください」
「……ええ、覚えておくわ」
ほむらはゆっくりと歩いて行った。来る時は不快に思った現実との境目は、帰りは何も感じることもなく、スムーズに通り抜ける事が出来た。ふと、ほむらはグリーフシードを雫に渡し忘れたことを思い出した。しかし、もう一度あのホテルの中に入って雫を探す気にもなれなかったから、盾の中にしまったグリーフシードのことは、ひとまず忘れることにした。
「……マギウス、里見灯花……」
口の中で呟いてみても、やはりその名前は不快な印象で刻まれていた。
「やあ、ほむら。神浜はどうだった?」
家に帰ったほむらを出迎えたのは、見たくもない白い獣の姿だった。ほむらはその問いを無視して部屋へと戻ったが、キュゥべえもその後をついてきていた。
「君が神浜に行っている間に、いいことがあってね。君にも伝えておこうと思ったんだよ」
「いいこと?」
「ああ、美樹さやかが魔法少女になった。巴マミの薦めでね。これで、見滝原の魔法少女は三人になった。普通ならグリーフシードの管理が難しいところだけど、今は魔女が集まっているらしい神浜市があるからね、まあ大丈夫だろう。君もマミといっしょにさやかの面倒を見てくれると助かるんだけど」
「……そう」
「あとこの街にいる魔法少女候補はまどかだけだ。でも、まどかはあまり契約に乗り気じゃないみたいでね。あの子なら、途方もない強さの魔法少女になれるだろうに」
「黙りなさい」
銃声が響いて、その残響が消えると、部屋の中は静かになった。