ここ数日の間で香川の形相は一変していた。
普段は身なりをきちんとしているが、今は無精ひげを生やし、目の周りには濃い隈が出来ており、顔色は悪く、髪型も乱れている。
寝食の時間どころか命を削るぐらいの覚悟で研究と開発を進めていた。その没頭する姿は鬼気迫るものであり、助手を務めるスマートブレインの技術者たちもおいそれと香川に話し掛けることが出来ない。
唯一彼の教え子である仲村だけは香川に普通に話し掛けることが出来ていた。
香川に頼まれていたことの進捗状況を報告しにスマートブレインに訪れた仲村が見たのは、一心不乱に研究を進めている香川の姿。
「香川先生」
仲村が名を呼ぶが、香川は反応しない。
「香川先生っ!」
ほぼ怒声に近い声で香川を呼ぶと、ようやく仲村が来ていたことに気付く。
「──来ていましたか」
形相は変わっていても口調までは変わらない。ただ仲村の知る声よりも弱々しく聞こえた。
「香川先生……どれだけ休んでいないんですか?」
「さて……覚えていませんね」
瞬間記憶能力を持つ香川がそれを言うと笑えない冗談になる。
「もう何日も自宅に帰っていませんよね」
「……家族にはきちんと説明をしています」
あれだけ家族のことを大切にしていた香川が、家族を二の次にして研究と開発に没頭している。仲村にはそれが痛々しく見えて仕方がない。
「今日はもう休んで下さい……香川先生が居なくても大丈夫ですから」
「それは出来ません」
仲村の気遣いを香川はきっぱりと断る。生気が失われていた目がこのときだけは爛々とした輝きを取り戻す。
「大詰めを迎えています。責任者である私が今ここで抜けたら進捗に滞りが出来てしまいます。それを見過ごす訳にはいきません。一日でも早く完成させなければならないのです……!」
「その前に香川先生が死んでしまったら元も子もないじゃないですかっ!」
「……大丈夫です。スマートブレインがちゃんと体調管理をしてくれていますし、定期的に検査をしてくれています。……まだ許容範囲です」
頬がこけ、顔に色艶が無い香川が言っても説得力が無い。
「頼むから休んでくれよ、先生! あんたの死に目まで見るなんて俺はごめんだ!」
乱暴な口調ながらも香川のことを親身になって心配していることが伝わる仲村の怒声。その想いを無下にすることに心を痛めながらも香川は言う。
「一日でも……少しでも早く完成しないといけないのです……私も東條君のような犠牲者を見たくはありません……」
東條の名を出されると、仲村は表情を歪めながら視線を落とす。
東條の死因は車に撥ねられたことによる事故死という形で片付けられた。スマートブレインは東條の死を隠蔽し、いとも容易く真実を捻じ曲げる。その手際の良さから過去に同じようなことを何度も行っていることを容易に想像出来た。
しかし、香川も仲村も真実を知っていても口を閉ざさないといけなかった。東條の死の真実は何も知らない者たちからすれば狂人の妄想のような出来事であり、誰も信じることは無い。真実を知っていても尚黙っている自分たちもまたスマートブレインの連中とは変わらない、と香川は独り自嘲していた。
村上の計らいにより東條の葬式も行われた。かなり豪華な葬儀場を用意されたが、親類で呼ばれた者たちは東條の死を悲しむ様子は無く、早く終わってほしいと顔に書いてあった。
友人知人関係も壊滅的な状態であり、東條に焼香を上げたのは香川と仲村しかいなかった。東條の死を弔う筈が反って東條という青年がどれだけ孤独であったのかを露わにする結果に終わってしまう。
香川と仲村は最後まで葬儀に参加していたが終始無言であった。東條が出棺され、霊柩車で運ばれた後に仲村は思わず零す。
「あれなら葬式なんてしない方がましだ……」
涙一つ流さない親族。極めて狭い交友関係。東條の死に鞭打つようなことになり、東條を憐れんだ仲村は義憤に駆られていた。
香川はその言葉を否定することが出来ず、ただ沈黙するしかなかった。
あれ以降、香川は変わった。今まで大事にしていた時間を削り、神崎たちと戦う為の準備をひたすら進めていく。
仲村には香川が自らを罰しているように映っていた。教え子を救えなかったことへの贖罪。香川に非など殆ど無い。そもそも香川と神崎との間に因縁など無いに等しく、偶然香川が神崎のやろうとしていることを知ってしまっただけのこと。香川が神崎の戦いへの介入を目論んだのは、偏に香川の正義感と使命感故。
仲村から見ても香川は人格者であり、尊敬すべき人物である。手も足も出なかった自分にオルタナティブという戦う力を与えてくれた恩人でもある。
そんな善人がやつれて消耗していく様は見ていられない。誰が悪いかと言われればそんなのは一人しかいない。
「神崎士郎……!」
ありったけの恨みを込め、その名を吐き捨てる。掌に爪が食い込む程強く握り締める。存在するだけで多くの命を奪い、人生を狂わせる元凶。元々仲村にあった怨恨の火に恩師の苦しむ姿と東條の死がくべられることで一層激しく燃え上がる。
「仲村君」
香川に名を呼ばれ、燃え上がっていた憎悪の炎が鎮火する。
「その怒りは決戦までとっておきなさい」
諭す言葉で内心を見抜かれていたことに気付く。仲村は恥じるように視線を逸らす。強く握っていた手は開いていた。
香川は直情的で青さが抜けない仲村に苦笑しながら彼に背を向けて仕事を再開しようとする。
「香川先生っ!」
まだ説得し切れていない仲村は香川を呼び止めようとした。
「──分かっています」
香川は足を止め、少しだけ横顔を見せた。
「今日は程々にしておきますし、家にも帰ります。……色々と心配を掛け過ぎてしまっているようですからね」
仲村の説得は通じた。が、実際は少し違う。それは仲村も察していた。
(気遣われた……)
懇願する仲村の様子に香川が折れたのだ、本心を押し殺して。香川は他者の気持ちに鈍感ではなく敏感である。それ故に仲村の気持ちを汲んだのだ。
「……私は私のすべきことをします。貴方も貴方がすべきことをしてください」
香川は今度こそ行ってしまう。去り行く香川の背中に仲村は様々なものを幻視した。
東條の死。名も知らない人々。ミラーモンスターによって大切な人を奪われた者たち。そして、家族。香川の背中にはそれらが圧し掛かっている。
常人には耐えらない重さだが、香川はそれを苦にせず背負い、しっかりと歩いている。
最後までこの人に付いて行こう、そう思わせる背中であった。
◇
笑顔を浮かべる親子連れ。仲睦まじい夫婦。初々しい反応をしているカップル。通り過ぎていく人々を見ながら、香川は手を引かれて通り過ぎて行く。
「お父さん! お父さん! 早く早く! 次はあれに乗ろう!」
「分かっている、分かっている。走ると転ぶぞ?」
香川の手を引くのは彼の息子の裕太。香川の後ろでは香川の妻の典子が微笑ましくそれを眺めている。
香川は、今家族で遊園地に来ている。
仲村に休めと言われてから一週間が経過していた。心身と人生を削る一週間であったが、その甲斐もあって、ようやく香川の研究と開発は完了した。
やるべきことをやり遂げた香川に与えられたのは束の間の休暇。最初の一日は泥のように眠り、丸一日目を覚ますことは無かった。
次の日は久しぶりに我が家で目を覚ますことができ、長らく味わっていなかった妻の手料理を堪能することが出来た。その日は今までの埋め合わせの為に家族団欒で過ごした。
その翌日もまた埋め合わせの続きであり、家族と共に遊園地に来ていた。裕太には寂しい思いをさせていたので、目一杯楽しませるつもりであった。裕太も久しぶりに父と遊ぶことが出来てはしゃいでいる。
裕太の望むままに色々な乗り物に乗り、楽しい時間と思い出を作っていく。
一通り乗り物に乗った後、香川は妻と一緒にベンチに座って休憩していた。少し離れた場所にあるメリーゴーラウンドで裕太が馬の遊具に乗り、こちらに手を振ってくるので振り返す。
「──あなた、折角の休みなのに無理をさせてごめんさない」
典子は香川の体のことを労わる。妻である彼女は、香川が働き詰めで疲労困憊であったことを知っていた。
「何を言っているんだ。寧ろ、私の方が謝るべきだ。ずっと君ばかりに裕太の世話をさせていた」
「いいんですよ。仕事、忙しかったんでしょう?」
微笑む典子の顔を見て香川は反射的に目を逸らしそうになる。当然ながら典子にはスマートブレインの下で働いていたことを教えていない。妻には大学の仕事が忙しくなったとしか伝えていない。
家族の為に身を尽くして働いてくれている夫を誇らしく思っている妻。だが、香川自身は自らの行っていることを誇るつもりはない。戦う為の力、謂わば兵器を作っているに等しい行為であり、それを知らずに自分を支えてくれている妻に香川は罪悪感を覚える。
「お父さーん!」
メリーゴーラウンドを乗り終えた裕太が走って香川の方へやって来る。香川は我が子を抱き上げた。
「楽しかったか?」
「うん!」
遊園地と父とのスキンシップを存分に楽しんでいる様子の裕太。腕の中に伝わってくる我が子の温度。それを慈しむように見ている妻。理想像の一つと言える家族の幸福がそこにはあった。
香川は裕太を抱き上げたまま次の遊具へ向かおうとするが──急に足を止めた。
「……」
「お父さん?」
立ち止まる香川を心配そうに見つめる裕太と典子。二人には聞こえていないだろうが、香川には聞こえていた。ミラーワールドから漏れ出すあの音が。
香川の予想通り近くにある鏡面内にはミラーモンスターたちが蠢いている。偶々狙われたのか、それとも神崎の差し金なのかは分からない。
先程まであった幸福感が一気に冷めていく。そして、これが今の現実なのだと香川に突き詰めてくる。
誰もがミラーワールドのことを知らない。誰もがミラーモンスターのことを知らない。今もこうやって楽しく過ごしている無辜な人々は、一時間後、一分後、一秒後にはミラーモンスターの餌食になっているかもしれないという非情な現実。自分たちの平穏が薄氷の上で成り立っているなど理解出来る筈が無い。
何も知らずに生きていくことは幸福なのか。最期の瞬間に怪物の餌となって終わることを知るのは不幸なのか。
香川の視界にいる数多の平穏。誰もが最後まで平穏に生きられるならばそれに越したことはない。しかし、それが難しいことは香川も知っている。
どんなに力を持とうと救える数は限られている。だからこそ決断しなければならないのだ。迷えば救える者すら救えなくなる。
香川は顔を横に向け、視線だけ鏡面へ向ける。鏡面に波紋が生じ、飢えたミラーモンスターが顔を出している。
だが、一つ確かなことはある──
ミラーモンスターが鏡面から飛び出そうとした瞬間に首に荊のような鞭が巻き付いて動きを止め、その間にレイピアがミラーモンスターの胸を後ろから突き刺す。
刺突されたミラーモンスターは鏡面の中へ引き摺り込まれていった。
「お父さん? どうしたの?」
「──いや、何もない。行こうか」
──今日、この平穏が崩されることは無い。
香川は微笑んで誤魔化すとミラーモンスターなど最初から居なかったかのように再び歩き出す。
鏡面の向こう側では灰色の二つの鏡像がそれを見ていた。
「……まさかラッキー・クローバーである我々が人間の護衛などするとは」
「愚痴らないの、琢磨君。これも村上君から頼まれた大事な仕事よ」
陰から香川たちを守る。村上がわざわざラッキー・クローバーを動かしてまで頼んだ仕事がそれだった為にセンチピードオルフェノクはつい愚痴を洩らしてしまい、ロブスターオルフェノクに窘められる。
「彼も珍しくやる気みたいなんだから」
ロブスターオルフェノクが視線を上げる。ミラーワールド内の遊園地にはあちこちに蜘蛛の巣が張り巡らされており、巣には多くのミラーモンスターが捕縛されていた。蜘蛛の巣を動き回って捕らえたミラーモンスターを好きに捕食しているディスパイダーリ・ボーンたち。回らない観覧車の上でスパイダーオルフェノクがそれを眺めている。
「……頼まれたからには全うしますよ。この程度の依頼もこなさなければラッキー・クローバーの沽券に関わります」
スパイダーオルフェノクに対抗心でも燃やしたのかセンチピードオルフェノクは少し感情を込めた声を出してやる気があることをアピールすると、ロブスターオルフェノクはその幼さを感じさせるプライドに小さな笑いを零す。
「ふふふ……琢磨君、仕事が終わったらデートでもしましょうか? 折角遊園地に来ているんだし」
「え……ええっ! そ、それは……」
女に慣れていない初心さを露骨に出すセンチピードオルフェノクにロブスターオルフェノクは再び笑う。
香川はスマートブレインでの仕事をほぼやり終えた。しかし、まだ利用価値があると見なされて監視されている。
スマートブレインは香川の中にある全ての技術を吸い尽すつもりであった。それまではスマートブレインも香川を生かす。
香川たちとスマートブレインの関係もまた極めて危うい。神崎士郎という共通の敵がいるだけで繋がっている関係。
敵の敵は味方、で終わることは無い。
◇
「行ってくるよ」
香川は自宅を出る。典子と裕太が玄関で見送ってくれる。
「いってらっしゃい!」
「今日は早く帰って来られますか?」
香川は妻の確認に対し、微笑みを返すだけで何かを言うことは無かった。
香川は自宅を離れ、十歩程進んで振り返った。玄関ではまだ二人がこっちに手を振っている。
香川はその姿を目に焼き付ける。これで見納めになるかもしれない。
多くの命を救う為に小さな犠牲を払う。当然ながらその二つの選択のどちらにも香川と家族が含まれている。例外は無い。
香川が家族を見るのはこれで最後かもしれない。家族が香川を見るのもこれで最後かもしれない。
後悔はしない。戦うことを選んだときから、最初から答えは出ている。
香川は歩き出す。今度は振り返ることなく。
「お待たせしました」
辿り着いた先に待つのは仲村。そして、彼を含んだ十二人の男女。誰もが覚悟を決めた表情をしている。
「……香川先生。いつでも行けます」
「行きましょう……ミラーワールドを終わらせる為に」
まるで香川先生が主役みたいな作品になっていますね。