小説を書くのは初めてなので、温かい目でお読みいただけると幸いです。
ー半年前ー
冬。
冬だというのに、窓の外に映るのは雨でぼやけた灰色の景色だけ。
「雪が見たい…」
心の嘆きが吐息と共に漏れる。同時に、窓の外の景色はより一層ぼやけていく。
幸い、窓の内は暖かい。しかしその暖かさが空気と共に、僕の虚しさを膨張させていく。
トントン、と扉を叩く音が病室に響いた。
「どうぞ」
「失礼します」
扉を滑らせてこちらへ向かってきたのは、赤い髪を短く結んだ制服姿の少女だった。
彼女は、喜多郁代。僕の通うーーいや、所属する学校のクラスメイトだ。
明るく真面目な性格で皆に慕われ、委員長を務めているらしい。
「こんにちは、
調子はどう、と彼女の目が尋ねる。僕はそれに点滴針の取れない左手を挙げて苦笑する。
「雨なのにわざわざありがとう」
とは言ったものの、彼女が来るときはきまって雨ばかりだ。
「これも委員長の役目ですから」
そう言って彼女はベット脇の椅子に腰掛け、カバンから封筒と白い箱を取り出す。
「はい、どうぞ」
「これは…?」
開けてみて、と語る瞳に促され、箱の封を解く。
そこには、好物の和菓子が2つ入っていた。
いつも仏壇の前に備えてあったあの菓子。幼い頃、体を壊すと必ず祖母が食べさせてくれたあの味。
虚しさに張り詰めていた僕の体が一気に弛緩した。
「どうしてこれを…?」
「先生から聞いたの。
「ははは」
病室の空気が少しだけ萎んだ気がした。
「そうだ!今って2階のピアノを使える時間よね!弾きにいきましょ!」
キターンと響く効果音と共に、双眸から光が放たれた。
僕と喜多さんは小学校が同じで、休み時間にはよく2人で遊んでいた。
特に多く通ったのが音楽室。
そこで僕はぎこちない運指でピアノを弾き、そのガタガタなメロディを整えるように喜多さんが歌う。
時に二人で並んで座り、弾き方を教えた。歌い方を教わることもあった。
近くを通りがかった看護師さんに一言告げて部屋を後にする。
喜多さんに手を引かれ、点滴スタンドを連れて2階へやってきた。
がらんと空く食堂の端に、目当てのグランドピアノが佇んでいた。
椅子に腰掛け、指を鍵に合わせる。
横に立つ喜多さんが、ペンをマイクのように持って笑顔を見せる。
喜多さんの合図で、僕はイントロを弾き始めた。
この病院のピアノを弾くのも、もう十度目だ。
二人で聞くには大きすぎる音が無人の食堂を包む。
視線を落とし、指先に意識を集中させる。何百回と聞き、何百回と弾いたいつものあの曲ーー
指が重い。
手が震える。
ミスが多い。
リズムが乱れる。
左手のコードが右手のメロディに追いつかない。
二月ぶりに触れる鍵盤はあの頃よりずっと重く、そしてずっと深く沈んでいくように感じられた。
「暗く狭いのが好きだった 深く被るフードの中ー」
喜多さんの歌声で、ピタリと震えが止む。
空気を切り裂く澄んだ歌声。それていて力強く、心強い感情の叫び。
「無情な世界を恨んだ目は どうしようもなく愛を欲してたーー」
サビに差し掛かる頃には、もうすっかりいつもの調子を取り戻していた。
鍵盤から手を下ろし、喜多さんの顔を見上げる。
喜多さんは僕の横で、静かに拍手をしていた。
少し気恥ずかしかったが、それを悟られるまいと言葉を紡ぐ。
「やっぱり喜多さんはすごいな。僕のピアノには勿体無い位だよ」
事実、喜多さんの歌はクラスでも評判らしい。
「そんなことないわよ!それに、
「下手だね」
青く低い声が、赤く高い声を遮った。
「下手だね」
二度も言われた。
♪ ♪ ♪
下手だ、と言われた悔しさが和らぐのに、そう時間はかからなかった。
見舞いに来ていた母親が医師に呼ばれ、部屋を出ていった。扉の外で話す2人の影が動く。
死ぬのか…?僕は。
昨日行った検査の結果が悪かったのか?元々余命僅かと判っていて、それを今日遂に告げられるのか?
考えても考えても、良い結末は見えてこない。
鼓動が早まり、意識が遠のく。とっくに覚悟はできていた筈なのに。
何故だろう、恐怖心に食い殺されそうだーー
「来月には退院できるんですって!」
母の周りを憚らない大声がこだまする。幸い、この6人部屋に居るのは僕だけだ。
「…声が大きいよ」
気の抜けた返事が出た。よかった、命拾い…?した。
「いいじゃない!だって退院よ!お家に帰れるのよ!」
恐怖は一瞬で散った。そんな自分に驚いた。何故だろう、あんなにも生を望んでいたのに。あんなにもここから逃げ出したかったのに。
点滴が外れ、自由になった左手を見つめながら考える。
もう、喜多さんと”あの”ピアノを弾くこともないんだな。もう、見舞いに来てくれることはないんだなーー。
…何を考えているんだ、僕は。喜多さんにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないじゃないか。
「じゃあ、私は店に戻るわ。色々と用意しなくちゃ」
軽く手を振って母を見送る。そうか、こうやって見送るのもあと少しなんだ。
母の店ー下村楽器は、亡くなった父が開店した楽器店だ。
僕や父と違って健康な母は、夫を失った悲しみをものともせずに店を繁盛させた。
何でも、中古楽器の買取を始めてからはさらにお客さんが増えたらしい。
「ありがとう」
軽く手を振って母を見送る。そうか、こうやって見送るのもあと少しなんだ。
そうだ、喜多さんにも伝えておかなきゃ。
『来月、退院できることになりました』
慣れない手つきでロインを送る。スマホを持ってから、やり取りする”友達”は喜多さんだけだ。
初めは会って話すだけだったが、入院してからはこうしてやりとりしている。
ふと視線を画面の隅にやると、4つ並んだ数字が時を刻んだ。まだ弾ける時間だ。
入院着の紐を結び直して、僕は部屋を出た。
いつもの誰も居ない食堂が人で溢れかえるまで、僕はあの青い声を聞くことは無かった。
☆ ☆ ☆
カラオケの音に混じって、ブー、ブー、と震える音が響いた。
「ちょっと出てくるね」
友人たちにことわって、個室を抜けだす。そこかしこから漏れ聞こえる歌声をよそに、お手洗いへ駆ける。
『来月、退院できることになりました』
絵文字も、スタンプもない、たった一文。でも、この一文をどれだけ待っていたことだろうか。
よかった。やっと退院できるんだね。
これでまた一緒に学校に通える。これでまた一緒に…
「何考えてんのよ、私!」
ピシャリと頬を叩き、鏡に向き直る。
退院できるとはいえ、まだ完全に回復したというわけではないだろうから、慣れるまで支えてあげないと。
クラスの皆とも馴染みにくいだろうから、私がうまく間に入ってあげないと。
「でも、もうちょっと二人きりでいたかった…かな」
病院でなら、二人きりでいられた。あの時間が私の幸せだった。私の歌を褒めてくれる時のあの顔だけで、悩みや疲れが全て吹き飛んだ気がした。
退院するとなると、二人きりになるだけでも難しくなる、かな…
何か特別な理由があれば、二人きりになることもできる、かも…?
ーー特別な理由があれば。
☆ ☆ ☆
退院の日。
着慣れない私服を身に纏った僕は、ベットに腰掛けたまま母の迎えを待っていた。
窓の外に見えるのは、相変わらずの雨だった。
「とうとう一度も見れなかったな...」
雪のない地面を眺めてため息を吐いていると、誰かがこちらに向かって手を振っているのが見えた。
「えへへ…来ちゃった」
そう呟くと、彼女はタッタと駆け寄ってきて、僕の隣に座った。
雨の匂いを打ち消すように、彼女の髪が放つシャンプーの香りが鼻腔を通り抜ける。
「退院、おめでとう!」
長い髪を片側にまとめ、大きな赤いリボンを身につけて真っ白な歯を見せる彼女は、僕の幼馴染ー伊地知虹夏だった。
いつも明るくて可愛い、天使のような女の子。
同じマンションに住んでいたことから、小さい頃から付き合いがあった。
僕より一つ年上だから、学校でも一緒、という訳にはいかなかったけれど。
毎日のように虹夏の部屋に遊びに行っていたし、僕の部屋にも来てくれていた。
風邪で寝込んだ日も、入院が決まった日もずっとそばに居てくれた。
ーー助けられてばっかりだ。
「虹夏のおかげだよ」
そう礼を言うと、虹夏は内心の照れを隠すように胸のリボンを触る。
かわいい。
虹夏と居ると、舞い上がりそうな程胸が踊るような気分になってくる。
どんな難病に罹ったって、虹夏と一緒なら永遠に生きられるような気がする。
こんなに素敵な幼馴染が退院を祝ってくれるなんて、どんな奇跡だろうか。
神様は僕を病弱にすることで釣り合いをとっているつもりなのか?
「ひとりで来たの?」
「ううん。お姉ちゃんと」
扉の方を見ると、虹夏のお姉ちゃんーー星歌さんが扉にもたれて立っていた。
「わざわざありがとうございます」
「いいっていいって。お前のお母さん、店が忙しいらしいから代わりに来たんだよ」
母と星歌さんは歳が近く、趣味も合うためかとても仲がいい。
「スターリーは大丈夫なんですか?」
「バイトの子に任せてあるから心配ない」
スターリーというのは、星歌さんがやっているライブハウスのこと。
僕たちが住んでいるマンションの地下に作られた、星歌さん自慢の秘密基地だ。
「じゃ、私は下で待ってるからな」
そう言った星歌さんの横顔が、ニヤリと笑ったように見えた。
軽く頭を下げて、虹夏に向き直る。
背筋を伸ばして、大きく深呼吸する。
「今まで何度もお見舞いに来てくれて、ありがとう」
「うん」
「これからは、僕が虹夏を支える番だね」
「…んで、リョウは何の用」
眉を顰めた虹夏が扉に目をやる。
見ると、そこには青い声の主が立っていた。
「ププ…虹夏を…支える….ププ…けっさく…」
「こら!笑うな!」
虹夏に叱られると、青い声の主は猛スピードで何処かへ去っていった。
「虹夏、青…あの人は?」
「私の…友達、かな?」
「…!?」
♪ ♪ ♪
「それでは、一の退院を祝って、「「「カンパーイ」」」
グラスのぶつかる音とともに、マンションの一室に女子2人、男子1人の声が響き渡る。
「ごちそうさまでした」
食事を終え、お茶を片手に一息つく。
2年ぶりの伊地知家。ぬいぐるみの並べられたソファも、他とは一線を画すほど整えられたキッチンもあの頃と変わりない。
「改めまして、おかえり。一!」
「ただいま。って、ここ僕の家じゃないけどね」
「いいのいいの、ここも一の家みたいなものでしょ?」
「それもそう…かな」
2人で声を出して笑う。つられて星歌さんも笑う。ああ、久しぶりだな、この感じ。
「懐かしいね、この感じ」
虹夏に心を読まれた。
「また皆んなで過ごせて嬉しいな」
同感だ。
「ああ、虹夏のおかげだよ」
虹夏が僕の膝をポカポカ叩いてきた。
「だから、二人に恩返しがしたい。星歌さん、僕にできることがあれば、何でも言ってくださいね」
実際、僕にできることなど殆ど無いことは解っていた。それでも、言わずにはいられなかった。
膝に伝う衝撃の間隔が短くなる。
「ん?今何でもって」
星歌さんの声に、虹夏は膝を叩く手を止めた。
「言葉通りの意味ですよ。虹夏には返しきれないほどの恩がありますから。もちろん、星歌さんにも」
星歌さんには、僕の不甲斐なさも、それでも見栄を張ってしまう虚栄心も全てお見通しらしい。今更誤魔化す必要はない。
「ま、せいぜい頑張れよ」
何か不味いことを口走ってしまったか、と一瞬焦ったが、それは杞憂だった。
虹夏を目を合わせた後、そう言って笑顔を見せた星歌さんから、怒りの感情は微塵も感じられなかった。
その後は、虹夏の部屋で寛いだ。病室より狭く、病室より明るく、そして居心地の良い部屋だった。
「そろそろ帰るね」
と言って椅子を立ったとき、短針は21時を指していた。
「おやすみ、虹夏」
「おやすみ、一。明日も来てね」
小さく頷き、扉を閉めて虹夏と別れる。
師走の風が、病み上がりの体を締め付けるように冷やす。でも、不思議と心地よく感じられた。
手すりに肘をついて階下のアスファルトを眺めつつ、物思いに耽る。
ー何でも、とは言ったものの、実際何をすれば恩返しになるんだろうかー
ーそういえば、もうすぐクリスマスだったな。
虹夏には、何をあげたら喜んでもらえるだろうー
ーそうだ、喜多さんに訊いてみようー
結論が出るのを今か今かと待っていたかのように、両足が自室を目指して歩み始める。
階段の手すりの隙間から、こちらに手を振る青い人影が見えた。リョウだった。
「何」
平静を装うつもりだったのだが、失敗した。
虹夏の友達だから、一つ年上なのだろうということは分かっていた。それでも、丁寧な口をきく気にはなれなかった。
「虹夏に近付かないで」
白い吐息と共に放たれたその言葉は、僕の心を一瞬にして凍り付かせた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
誰がすき?
-
後藤ひとり
-
伊地知虹夏
-
山田リョウ
-
喜多郁代
-
廣井きくり
-
伊地知星歌
-
PAさん
-
ジミヘン
-
承認欲求モンスター
-
トルティーヤ