ナイモノネダリ 作:ワレモコウ先輩
美竹桜は知っていた。
華道の家元に生まれた者の果たすべくを。家を継ぎ、次の世代へと流派の全てを授けていく。百年よりも前から続いてきたこの脈々を、今度は自分か姉が繋いでいかなければならないことを。
その意味も意義も、桜にとっては充分理解できるものだった。その大役を誇らしくさえ思っていた。物心つく前から聞かされていただろうこの訓話は、幼心に英雄譚のように映った。
「桜ちゃんは頑張ってて偉いね」
「ご両親も安心だね」
そんな一心で華道に励む桜を見る大人達は、口々にそんなことを言った。
その言葉は齢十にも満たない幼子には十分過ぎる燃料だったらしい。少なくとも、桜にとっては。
尊敬する姉、誇る歴史を持つ家、撫でてくれる母親の温かい手。
桜の世界はそれが全てで。
姉もきっとそうなのだろうと、桜は信じて疑わなかった。
美竹桜は知らなかった。
現実は御伽噺とは違っていることを。後継を欲する家の下に、双子が産まれてくる意味を。
今となっては、蘭が華道に背を向けたことは自分にとって幸運であったと理解している。それを解ってしまう自分とその力量が、桜にとってはどうしようもなく業腹ではあったが。
それでも、認めざるを得なかったのだ。
▽
誰かに頭を下げることは、いつの間にか桜の日常になっていた。
「すみません。姉は今日も気分が優れないみたいで……」
「いいえ、桜さんが謝ることじゃないわ」
稽古に通っている道場の師範は、桜の謝罪に頭を振る。けれどもその声音は落胆を無遠慮に滲ませていて、それが何に対しての落胆なのかなんてことは、もうこの頃の桜には容易に読み取れてしまった。
中学二年の夏。
扉越しにジリジリと鳴く油蝉が、玄関先を丸ごと炙っているように桜は感じた。
「でも、桜さんが一番蘭さんのことを理解してあげなきゃ駄目よ。何かあったなら話をして、また一緒に稽古を受けられるように、ね? 双子の姉妹なんだから、支え合わないと」
「……はい。また、姉と話してみます」
俯く顔には、重力に従って汗の粒が這う。後ろで結んだ髪から覗くうなじは、茹だるような暑さの中でもシンと冷え切っていた。
師範の女性はニコリと笑った。
「さ、汗を拭いて着替えて来てください。今日も厳しく行きますよ」
「はい。本日もご指導よろしくお願いします」
彼女の表情を象るように浮かべた桜の笑みは、誰が見ても可憐な微笑だった。
毎日のように、そうやって桜は頭を下げ、そして微笑んでいた。
着物の着付けも完璧にできるようになった。稽古だって真面目に出ているし、家元の娘としての立ち振る舞いも意識しているつもりだ。少なくとも桜は自分のできる最大限を出し惜しんだりなどしていなかった。
そう、自負していても。
「まだ稽古をサボっているらしいぞ、美竹さんとこの長女は」
「あそこの当主殿はお堅いからな。まぁ中学生にもなれば反抗するだろう。……しかし残念だ」
「あぁ、姉と妹の性格が逆だったらな。腕が良いのは間違いなく姉だが、従順なのは妹と来た。……つくづく上手くいかないもんだよ」
そんなものは世間の知ったことではない。
「このままだと妹の方が継ぐことになりそうだが……果たして美竹さんはそれで良いのやら」
「さぁ。ただ姉が継いだ方がいいのは流石に分かってるだろ。妹も面は姉に似て良いんだから、さっさと何処ぞに縁談でも持ち掛けたり、な」
男達からすればそれが事実で、美竹にとっての最善だった。百年の歴史を持つとは言えど、華道六百年余の歴史からすれば美竹流など赤子も同然だ。そんな流派がこの先も看板を保つには、現状は厳しいものだと言わざるを得ない。
美竹桜は知っている。
赤の他人の下衆な会話なんて聞くまでもなく、誰よりも知っている。
姉の生ける花の美しさを。自分にはない姉の才覚を。自分は、姉よりも──
「……っ」
襖越しの謗言を耳にして、桜は拳を握り締める。
誰も桜のことを見ていない。周りの人間は蘭を、蘭は自分の幼馴染を。家を捨てた蘭に誰もが後ろ髪を引かれる程に、彼我の差は歴然だった。
桜はそれまで以上に華道へとのめり込んだ。
教本を読み漁り、稽古の時間も無理を言い伸ばしてもらうようになった。頭を下げるのには慣れているから、頼み込むことは苦ではなかった。血の滲むような努力だって、いつの間にか誰も彼もが離れていくことよりは余程マシだった。
──蘭ちゃんも桜ちゃんもいつもお稽古頑張ってて偉いねぇ。将来が楽しみだな。
──わたし、将来はおねーちゃんと一緒におっきな花展を開くんだ。そこにおとーさんとおかーさんとみんな呼ぶの!
──うん。あたしもそれやりたい。おっきくなったら、二人で花展開こうね。
在りし日から、ひとりひとり。
──お姉ちゃん。今度公民館でやる花展、一緒に出ようよ。
──出ない。悪いけど、先生にもそう言っといて。
桜の世界は綻んでいった。
──今日も、蘭さんは?
──はい。稽古には来ないと、言っています。
──はぁ、そう。連れてくることもできないのね。……残念だわ。
だからその綻びを繕うことにした。
人ではなく実力で。実力が足りないのなら努力で。姉と違うのなら自分のやり方で、桜はそうすると決めた。
無いものねだりをしていても仕方がないのだ。
そうして中学を卒業する頃には、蘭のことを話題に出す人間はいなくなった。
それでも桜の胸中に燻る靄は、一切晴れないままだった。
▼
「いやぁ、中々の難攻不落具合だよねー」
隣でボヤくモカが一体何のことを言っているのか、今のあたしには一瞬で分かった。
「元々一朝一夕でどうにかなるとは思ってないよ」
「それはそうなんだけどさー。流石は蘭の妹なだけあるなぁって」
「それ、一言余計だから」
「ごめんごめん」
バンド練帰りの住宅街にはもう夜が顔を覗かせている。揺れるように灯る白色の街灯には、飛び始めたコウモリがちらちらと照らされていた。
「もういっそのこと、蘭がジャンピング土下座でもしてみるのはどう?」
「何それ……。謝るにしても避けられるから……今はとにかく話す時間が欲しいかな」
モカの提案もあながち一笑に付すものではない。でも今言ったこともそうだし、ただ訳も分からず謝ったところでお互いに納得できるとも思えない。
だから、今必要なのは桜を理解する為の時間。
「話す時間を確保するための時間もかかりそー」
「まぁ、それは否定しないよ。でも、今はそれしかないと思ってる」
「……そっか。なら頑張ってね〜、モカちゃんも陰ながら応援してあげるよ」
こんなことを言っておきながら、何だかんだモカは協力をしてくれた。今まではそんなモカを頼ってきたけど、いつまでもそれじゃ駄目だ。
バンド以外の時間を稽古に費やした甲斐あって、父さんから桜と一緒の稽古に参加することも許された。これからきっと、直接話をするチャンスも増えるはず。
「ありがと、モカ」
「蘭がこんな素直にお礼を言うなんて……お姉ちゃんになったねぇ」
「はいはい、そうだね」
モカの揶揄いを受け流しつつ、そんな決意を胸の内に灯す。
黒いギターケースはずしりと背中に重いけど、悪くない重みだった。あたしの居場所がここにある事を感じられる気がするから。
(……桜にも、そういうものはあるのかな)
考えても、何も浮かんでこない。それだけあたしは今まで家のことを桜ごと遠ざけてきたという事実を、改めて実感する。
謝って済むことじゃないことは分かっている。この数年間で桜に掛けた負担はきっと計り知れないものだろう。
あたしは、Afterglowでいられた今までを後悔はしていない。
だけどその自由のツケはあたし自身で払わなくちゃいけない。
それが華道を学ぶことで、そしてあたしの過去に対する清算──桜との蟠りの解消だ。
「じゃ、あたしこっちだから」
「はーい。じゃあね、蘭」
モカと別れて帰り道を一人で歩く。
もう春は過ぎて、湿り気を帯びた初夏の風があたしを追い越した。後もう少しで家に着く。
ギターケースのストラップをギュッと握り締めて、見慣れた帰路を大きく踏み込んだ。
これにて2章完結です。来月以降更新頻度落ちます。
感想等あれば是非。
ついったをはじめました。更新告知、作品の話などしていると思うので気が向いたらどうぞ。
@Mi_Bamboo0410