ナイモノネダリ 作:ワレモコウ先輩
時系列はAfterglowバンドストーリー1章になります。
朝は早く起きる。
ベッドを出て、顔を洗い、寝間着を脱ぎ、着物に着替える。足袋を穿いて部屋を出た。
家の廊下は広くて、外の空気が多く入ってくる。蒸し暑い夏や床まで刺すように冷たくなる冬のそれは億劫だけど、何だかんだで嫌いじゃなかった。少なくとも、朝っぱらからあの人と顔を突き合わせてしまうことなんかよりは、余程。
いつも通り寝覚めは最悪で、でも今日は輪にかけて最低な朝だった。
「今回はここまで。朝食は母さんが作ってくれているから、道具を片付けて着替えたら早く食べて学校に遅れないように」
「ありがとうございました」
朝稽古を終えると、疲労と共に小さな息が零れた。父さんは娘だからなんて理由で手緩い指導はしない。寧ろ高校生になってからは更に厳しくなった。本格的に後継者としての勉強が始まったのだ。
帯をきつく締め過ぎてしまったような気がして、少し息が詰まる。
もう朝陽が昇っていた。最近は朝もそこそこ長くやるようになって、その点に関しては不満がない訳でもない。別に遅刻ギリギリになってしまうとか、そこまでの不自由ではないけれど。
ある意味それ以上の不具合──いや、不都合がある。
「桜……」
主に私の、精神面での話だ。
「おはよう、蘭。家出るの早いんだね」
「……まぁ。色々あるから」
それは勿論姉と出くわすこと。
戸が開いた玄関に制服姿の蘭が立っていた。スクールバッグを肩にかけて、黒光りするギターケースを背負っている。
こちらを振り返り揺れた髪には一筋のメッシュが入っていて、不知火のように揺らめいた。バンドを始めてから染めたその紅色を、私は勿体ないと思っている。私の緩い癖のある髪と違って、蘭は濡羽色で真っ直ぐな、綺麗な髪をしているから。
蘭なりの決意の表れなのか、それとも単なる反骨心なのか。そんなことはどうだっていいけど。
「また、バンド?」
「そうだけど。桜には関係ないでしょ」
形の良い眉を吊り上げて短く吐き捨てる。にべもない態度は最早通常運転で、この人がどんな風に私の前で笑っていたのかを思い出す方が難しい。少なくとも2年前のあの日から、私たちはずっとこんな感じだ。
「そりゃ私には関係ないよ。でもさ、今日もどうせ遅くなるんでしょ? で、父さんたちには何も言ってない」
「……だったら何」
「自分が何しようが自由だってよく父さんに言ってるけど。蘭の自由って責任がないよね」
「……っ。小言なら、父さんからので十分だから」
売り言葉に買い言葉。一度始まると中々止まらくなってしまうから、日頃蘭とは簡単なやり取りだけにしようと心掛けているつもりではあった。
突っかかってしまったことに若干の後悔とそれ以上の辟易の念を覚えたけれど、吐いた唾は飲めなかった。
「そ。……ま、父さんたちには私から言っておくよ」
「は? 別に頼んでな──」
「バンド頑張ってね、おねーちゃん」
だから無理矢理に終止符を捩じ込んだ。「行ってらっしゃい」なんて、何時ぶりに言ったか分からない挨拶まで丁寧に添えて。
……あの日のことを夢に見てしまったからだろうか。今日はやけに気色が悪い。扉越しに聞こえた蘭の叫びが、延々と脳内に反響している。過去と今のどっちにも山彦が鎮座しているみたいに、それは消えてくれない。
扉の向こうで蘭はどんな顔をしていたのだろう。今となっては怒り顔しか思い浮かばない姉は、あの時何を思って私を否定したのだろう。
(……もうどうでもいいでしょ、そんなこと)
無為な思考を棄却に附して、私は蘭に背を向けた。朝焼けが眩しいから。
廊下を歩き自室に向かう。
「……行ってきます」
背中に投げ掛けられたのは、蚊の鳴くような返り事で。
蘭がどんな顔でそう言ったのか、私には分からなかった。
▽
舗装された桜並木の下を手持ち無沙汰に歩く。アスファルトを叩くローファーの爪先はコツコツと小気味よい音を立てて、それが却ってぽつねんと帰路に就くことを責め立てているように感じた。
放課後、携帯を開くと所用で夕方の稽古は無しになったと父さんからの連絡が入っていた。
ここ最近は学校から帰ると直ぐに稽古だったから、急な暇というのは何とも
このまま家に帰ってもいいけれど、少しお腹が減った気もする。
そんなことを思案している時だった。
「へーい、そこの彼女。今ヒマー?」
間延びした声が後ろから飛んできた。色素の薄い髪が葉桜と一緒に風に揺れていて、大きな垂れ目はいつも通り眠たげに細められている。振り返った先にいたのは、蘭の親友だった。
「や、桜。久しぶりー」
「今のセリフ、モカちゃんには絶望的に合わないね」
「えー、カッコよく決まったと思ったんだけどなぁ」
青葉モカ。蘭が所属しているバンド──Afterglowのギター担当。蘭の10年来の幼馴染の一人で、私から見るに特に蘭と仲が良いのは彼女な気がする。
蘭の幼馴染ということもあって私も多少の親交はあるけど、姉を介しただけの関係だから微妙な距離感だ。あの頃からは、特に。
「で、今時間ある? 良かったらちょっと一緒にお茶でもしばかないー?」
「あら、まさかホントにナンパだったなんて。バンドの方はいいの? 蘭なんて今日も朝早く出て行ったけど」
ただ四人いる幼馴染の中では、彼女とが一番やりやすい気がする。誘ってくるモカちゃんのジェスチャーは明らかにお茶ではなく酒を飲む時のそれで、私もおどけて適当に返事をした。
改めてこの性格で蘭と上手くやれる彼女の処世術の上手さを感じた。あの無愛想で不器用な姉とやっていけるんだから相当だ。
「いやー、ね。実はその蘭のことで、ちょっと桜に聞きたいことがあってさぁ」
用件は案の定だった。蘭の荒れ具合を見かねた彼女らは、どうにかしてあげたいと本人に知られないように色々と苦労しているのだろう。素敵な友情だと思う。多分何をしようと、結論は変わらないのに。
「わかった。いいよ、私もちょうどどこか寄って帰ろうと思ってたから」
「やりぃ。お礼に今日はモカちゃんが奢ってしんぜよう。綺麗なお姉さんには大サービスだよー」
「太っ腹、流石ナンパ師だね」
「ふっふっふー。そうだろうそうだろう。で、どっか行きたいとこある?」
「んー、どこでもいいよ」
まぁ、私にしてみたらそんなことはどうでもいい。
「私はただ、お茶が飲みたいだけだから」
モカちゃんと連れ立って来たのは、これまた蘭と縁のある店だった。
羽沢珈琲店。キーボード担当の羽沢つぐみという子の実家だ。何度か来たことはあったけど、こうして足を運ぶのはかなり久しぶりだった。
蘭の手前若干の気まずさがない訳ではないけど、既にモカちゃんと話すことになっているのだし、そこはもう割り切ることにした。
「いらっしゃいませ! ……あ、桜ちゃん!」
「こんにちは、つぐみちゃん」
つぐみちゃんは有り体に言えばすごくいい子で、恐らく蘭と私の関係も知ってはいるのだろうが、とても優しく接してくれる。
「やーやー、ちゃんと連れてきたよ」
「よくどこにいるか分かったね。いきなり桜ちゃん連れて来るって言い出すんだもん、驚いちゃった」
「まー、名探偵モカちゃんですから」
「身分詐称しないの、ナンパ師さん」
「なんぱ……?」
「うん。そこのお姉さんお茶しない? って言葉巧みに連れて来られたんだ」
「いやいや、合意の上だってー。こう、ちょっとだけだから、先っちょだけだからーってな感じで」
「生々しい気持ち悪さを醸し出さないでくれない? 帰るよ」
「ごめんてー」
「あはは……、コーヒー持ってくるね」
こんな低俗な会話にも眉ひとつ……いや少しは引いていたか。ともあれ私とモカちゃんの凡そ飲食店に相応しくないやり取りの前でも笑顔を崩さない。……他にお客さんがいなくて本当に良かった。
カウンターで珈琲を淹れているつぐみちゃんは、いつか見た時のそれよりも大人びていた。暫く顔を合わせていなかったから、当然と言えば当然だけど。
「はい、お待たせしました! コーヒーだよ」
「待ってましたー。つぐも座りなよ、つぐパパから許可は貰ってるんでしょ?」
「うん。じゃあここ座るね」
適当な雑談をしていると、つぐみちゃんが珈琲を持ってきてくれた。
どうやら彼女も同席するようで、彼女たちにとっては結構な緊急事態らしかった。
「それにしても……桜ちゃんと会うのすごく久しぶりな気がする」
「ま、学校も別れたしね。って言っても、去年までは結構校内ですれ違ってはいたけど」
「桜、花女に行っちゃったもんね。てっきり羽丘で内部進学すると思ってたから、あたしは寂しくて夜も眠れず……」
「授業中に寝ている、と」
「ぴんぽーん」
「もう、授業はちゃんと聞かないとダメだよ」
「はーい」
コーヒーカップを揺らすと、香ばしい豆の匂いが鼻を通り抜ける。香気はそのまま広がり天井のシーリングファンで店中に攪拌されて、流れているジャズと混ざり合っていくみたいに感じた。レッド・ガーランドの『A Foggy Day』。古い曲だ。
「でも何で花女行ったのー? 桜成績すごい良かったし、落第したって訳でもないでしょーに」
「も、モカちゃん……!」
理由なんて、たかが知れているだろうに。
中学校までは私も羽丘女子にいた。高校進学を機に少し離れた花咲川女子学園を受験して、今年の春からはそこに通っている。
華道や勉学に支障が出ないようにするからと説得を試みるつもりだったけど、父さんも母さんも拍子抜けする程あっさりと認めてくれたのを覚えている。まぁ、現状両親の目下の懸案は私の進学先どころではないというのは目に見えていたが。そういう意味では、蘭に感謝するべきなのかもしれない。……全くそんなことはないが。
「セーラー服を着てみたかったんだ。羽丘はブレザーだったから」
「……なるほど。ま、確かに制服似合ってるねー」
「う、うん。私も可愛いと思う!」
二人が私の事情を知っていようがいまいが、話す必要は特にないだろう。そう結論付けて適当な脚色でお茶を濁した。モカちゃんも別に本気で知りたかった訳ではないのだろう、すんなりと乗ってきてくれた。
彼女たちの懸案も、きっと両親と似たようなものだろう。
「ありがと。……って、私の話なんてどうでもいいでしょ? 蘭のことで何か聞きたいって言ってたけど」
「そのことなんだけどね。蘭ちゃん、最近バンド練習の時もちょっと辛そうにしてて……」
「家で何かあったんじゃないかなーって思った訳ですよ。バンド練の途中に電話で怒鳴ってることもしょっちゅうだし」
「今度ガルジャムっていうライブに出るんだけど……蘭ちゃん、家とのことで板挟みになってるんじゃないか気になって。出ようって言ったのは私だから、どうしても」
ほら、やっぱり。
珈琲を口に含むと苦味が口内に広がる。ブラックのままだとどうも飲めなくて、コーヒーフレッシュとスティックシュガーを入れて混ぜた。白と黒の境は途切れて、そのまま混濁していった。
「結論から言うと、モカちゃんが言ってるので合ってるよ。高校から華道の勉強も本格化させるって父さんは言ってるけど、蘭は稽古自体突っぱねてる。最近は毎日言い合いで、我が家は針の筵って訳」
「やっぱり……。ねぇ桜ちゃん、何か私たちで蘭ちゃんに──」
「──ないよ。できることなんて」
「……」
つぐみちゃんが息を呑む。モカちゃんも私をじっと見ている。
少し吐きそうになって、私は嘔吐感ごと珈琲を嚥下した。
「蘭は逃げてるだけだもん。とっ捕まえたって変わらないし、どうしようもないよ」
「桜も、蘭がバンドするの反対?」
「それは別に。蘭が何しようが勝手だし自由だけど、そのツケに対する担保も立てない、誠意も見せないのはただの無責任だって話」
「……そっか」
「……まぁ、話くらいは聞けるんじゃないかな。あの人、つぐみちゃんたちのことは好きだろうから」
ソーサーにカップを置いた。黒々とした液体に反射する自分ごと飲み込んだ後に残ったのは渋みとか苦味とかで、やっぱりあまり得意な味ではなかった。
「ご馳走様、コーヒー美味しかった。……役に立てなくてごめんね」
席を立ってお代を置く。黄銅色の硬貨一枚分だけ軽くなったリュックを背負って出口に向かう。
「あ、あたしが奢るって言ったのにー」
「いいよ、
唇を尖らせるモカちゃんをあしらって店を出た。もう外は陽が沈みかけていて、残光は地面に朱と黒のコントラストを作り出している。
二人とも、本当にいい人だと思う。家族でもない他人をあそこまで慮ることが出来る人間なんて、そうそういない。突き放すような物言いに、その後に付け加えたおざなりの慰め。悪いことをしてしまったなんて、遅効性の毒のように罪悪感が鎌首をもたげる。
他人どころか家族を嫌うような性分の人間が、何を今更とも思うけど。
別に私は、Afterglowのメンバー全員が嫌いな訳じゃない。坊主憎けりゃ袈裟まで憎いなんてことは思わない。
ただ私は、私を否定したあの人の全てを否定したいだけ。
ただそれだけだ。
苦味はまだ口の中に残っている。ある筈もない溶け残りのスティックシュガーが、ざらざらとしたヤスリのように身体を内側から削っている。
「あーあ、最悪……」
とぼとぼと歩く私を、夕焼けが見下ろしている。
緋色の空は、目を潰したくなるくらいに眩しかった。
Afterglowだとつぐみが推しです。
モチベに繋がりますので感想等あれば是非よろしくお願いします。