ナイモノネダリ 作:ワレモコウ先輩
「ただいま」
「帰ったか、桜」
「父さんこそ。用事って言うから、もっと遅くなると思ってた」
居間に入ると父さんがソファに座っていた。家でも外でも和服をきっちりと着ていて、その着こなしは几帳面さや厳格さを体現している。
大きな体躯と低い声は、さながら苔むした
「あぁ。次の花展についての話し合いがあったんだが、予定より早く終わってな」
「そうだったんだ」
花展。華道における展覧会のことで、公民館や老人ホームでやる小規模なものから催事場を貸し切って行われる大規模なものまで、様々な花展が存在する。
父さん──華道の家元がお呼ばれした緊急の会合なのだから、恐らくは後者だろう。
「桜。次の花展、お前も出てみないか?」
「……えっ」
だから私が父さんの放った言葉を飲み込めずに停止したのも、無理のない話だということで勘弁して欲しい。
今まで私が出た花展と言えば、公民館で行われるものか、お免状の昇級試験の際にその一環として出たものくらいだったから。
「そんなに驚くことでもないだろう。最近実力も付いてきているし、美竹の後継としてのいい経験になる」
「……いいの?」
「あぁ。これは何も私だけの意見じゃない。皆納得してくれていることなんだ。……自信を持て」
けどこれは私にとっては願っても無い話だ。華道における昇級は、稽古の回数や熟練度で判断される。何にでも言えることではあるけど、華道の昇級では特に経験が活きることが多いのだ。
目標に早く到達できる足掛かりになるのなら、それ以上のことはない。
「うん、分かった。……謹んでお受けいたします」
父さんが僅かに微笑む。
「詳細は追って話す。伝えた通り今日の稽古は無しだ。また明日から再開しよう」
「うん。じゃあ部屋に行くね──あ、そうだ」
「?」
「蘭、今日も遅くなるって」
珍しい表情は一瞬にして崩れ、渋面が広がる。親の顔より見た、なんて言い回しがあるけれど、私にとっては親の笑顔より見た顔がこれだ。
▽
学校と稽古という反復横跳びを繰り返す。日々の工程が固定されていると、感覚が鈍くなって毎日を素早いコマ送りのように感じることがある。
今が正にその状態で、気付けば花展まで二週間を切っていた。
花鋏に付いた汚れを布で拭き取る。汚れが残っていないことを確かめたら、別の布に椿油を染み込ませて、刃の部分へ丁寧に塗っていく。
鈍色の刃に光沢が宿る。本来在るべき所に納まったようにも見えて、微かな達成感を覚えた。
花鋏の手入れは、私のルーティンとも言える行為だ。
必要な作業を必要な手順でこなす。そうすることでその目的は成就される。
胸のすくような落ち着きを取り戻せて、頭の中がクリアになる。花展も近い。……もっと気を引き締めなければ。
しかし。そんな決意をしている私の横がさっきからうるさい。正確に言えば、それは隣の部屋からの騒音だ。
ついさっき帰ってきて勢いよく部屋に入っていったと思ったら、今度は柔らかい布越しに壁を殴るようなくぐもった音が断続的に響いてくる。もう高校生だというのに何をやっているのだろうと、我が姉ながら憐憫にも似た呆れが溜息となって漏れた。
手入れを終えた鋏を防錆紙に包み箱にしまう。迷惑な隣人に苦情を入れるべく、部屋を出て直ぐ横にある扉をノックした。
「蘭、うるさいんだけど。暴れるなら外にでも行ってくれる?」
「……」
「……蘭?」
返事がない。いくらここ最近荒んでいるとは言え、ここまで暴挙に出る蘭をあまり見たことがなくて、胸中に一抹の不安が過る。
ドアノブを捻ると、鍵は掛かっていないようで何の抵抗もなく扉は開いた。
蘭はベッドの上で膝を抱えていた。皺の寄った枕が床に放置されている所を見るに、恐らくこれで何かしら発散しようとしていたのだろう。壁を直接殴るだとか硬いものを投げるだとかの手段に出ていない辺り、まだ可愛げもあるか。
そんな生意気な感想も浮かんだけれど、姉の顔を見た瞬間それは驚愕に打って変わり、先程から頭に入れていた厭味たらしい文句も一瞬の内に消え失せた。
蘭が泣いている。
父さんの叱責に反発こそすれ、涙を見せるようなことは一切なかった蘭がだ。
「え、何。……どうしたの?」
「……」
狼狽が口を衝いて出る。寄り添うつもりなんて微塵もないけど、こんな姿を見て何事もなかったかのように接しろというのも中々難しい話な訳で。
「桜には、関係な……」
目を擦りながら漸くひり出した返り事はいつも通りの姉かと思いきや。
俯き止まった言葉の後に、短く息を吸い込む音がして。
「……つぐみが、昨日倒れて……病院に運ばれた」
「……え?」
耳を疑うような一言をぽつりと呟いた。
「倒れたって、容態は?」
「……」
「今度ライブに出るって話、つぐみちゃんから聞いたけど。どうするの?」
「……知らない」
思わぬ報せに、矢継ぎ早に質問が飛び出る。
膝に顔を埋めてぼそぼそと吐き出したのは、匙を投げたような答え。
「知らないって。じゃあモカちゃんとか、他の人たちは何て──」
「──そんなの知らない! って言うか関係ないでしょ!?」
尚の質問に耐えかねたのか、蘭は叫んで私の言葉を遮った。
「心配してるだけとか、バンドはただのごっこ遊びとか! 全員あたしの事見下して馬鹿にしてるだけじゃん! 何、皆そんなに偉い訳!?」
それは誰に向けた咆哮なのか。いきなり叫ばれた身としては、何が何だかというのが本音に近いけど。
まぁ、大体何となくは分かった。
「あたしはただ、皆とバンド続けられて……続けられたら、それだけでいいのに……」
すん、と小さく鼻を啜る音が聞こえる。蹲ったままの姉を見下ろす。
「ほんと、何なの……」
バンドのボーカルをやっているとは思えない程、小さく掠れた情けない声だった。
綺麗に磨かれたリノリウムの床が、蛍光灯の光をぼんやりと反射して白い靄を象る。歩く度靴底が擦れて立てる音は、耳に入ってもそのまま抜けていくようだった。
翌日。羽沢珈琲店でつぐみちゃんのお父さんから彼女が入院している病院を教えて貰って、私はお見舞いに来ていた。面会に来たと受付で通してもらい、ドアを三回ノックする。「はい」と中からハッキリとした返事が聞こえた。どこぞの愚姉などよりも、倒れまでした病人の方が余程上等な対応だった。
「こんにちは」
「桜ちゃん!? 来てくれたんだ」
「蘭から聞いて。近くまで来たから、ちょっとね」
ベッドから降りて椅子を用意しようとするつぐみちゃんを制して、自分で横に丸椅子を持っていく。「りんご、食べられる?」と聞くと、嬉しそうに頷いた。染み一つない病院服は少し痛々しさを感じさせるけど、にこりと笑うその顔色は悪くない。
「みんな色々持ってきてくれたんだけど、りんごは初めて」
「あれ、そうなんだ。ありがち過ぎて逆になかったのかな……」
「でもすごく嬉しいよ! ありがとう」
「なら良かった。体調は大丈夫?」
持ってきたペティナイフと紙皿を出して林檎を切っていく。持ち込みが大丈夫な病院で良かったと内心で胸を撫で下ろしながら、他愛のない世間話を続けていく。
「うん、もう大丈夫。ちょっと疲れてただけだから。心配かけてごめんね」
「ううん、元気そうで安心した。蘭から聞いた時は、何かちょっと……色々深刻そうな感じだったから」
「……そう、だったんだ」
「はい、りんご切れたよ」
細い指が林檎に伸びる。紅い皮に指が浮いて、消毒液のような混じり気のない白が目に映えた。
「ありがとう。あ、兎」
「クラスの子が兎好きだからさ、なんとなく思い出して」
「可愛い……! 桜ちゃん、手先器用なんだね」
「まぁ、長いこと華道やってるし。そこで刃物も使ってるから、見様見真似で何とかね」
「……そっか。えへへ、何か食べるの勿体なくなってきちゃったな」
「何でよ。ほら、食べて。なんならあーんってしてあげようか?」
「そ、それは恥ずかしいから大丈夫! いただきます」
しゃくり、と林檎を齧る。唇を結んで頬を動かしている姿は、何処か小動物を思い出させる愛らしさを感じさせた。
窓からは中庭が見えて、ヤマボウシの木が植わっている。花も盛りの時期だろう。咲いて散った幾つかの白い花弁が芝に落ちて、その上を小さな子供達がはしゃぎながら走り回っていた。
「……ごめんね、つぐみちゃん」
「え? 何が?」
外から聞こえる楽しそうな笑い声は妙に遠かった。時計の秒針が進む音の方が余程煩く聞こえた。
「つぐみちゃんが倒れたの、色々重なったんだろうけど、蘭のこともあるんじゃないかと思って」
「……」
「前につぐみちゃん達から相談された時、私も突っぱねちゃったから。何もできることなんてないって意見は、変わらないんだけどさ」
私の視線につられてか、つぐみちゃんも窓の外を眺める。その表情は分からないまま、ぽつりと呟いた。
「昨日、蘭ちゃん授業に出てなかったんだって。それで練習の時にひまりちゃんが大丈夫? って聞いたら、怒らせちゃったみたいで」
「……何となく想像はつくかな、その光景」
くすりと笑ったような気がした。外で風が吹いて、ヤマボウシの花が揺れている。
「巴ちゃんが蘭ちゃんのこと怒ってたら、『逃げて周りに噛み付いてるだけだったら、そんなの何も上手くいく筈ない』って、モカちゃんが言ったんだって」
「……モカちゃんが」
今度は全く想像できなかった。蘭を揶揄うような言動こそすれ、彼女が真っ向から否定をするようなことは、私の知る限り一度もなかったから。でも、それは多分……。
「そこからは皆スタジオから出て行って練習どころじゃなくなっちゃったって、ひまりちゃんから連絡が来てた」
ただ、昨日の蘭の様子については合点が行った。父さんとの不和、つぐみちゃんの不在、メンバーとの衝突。全て重なった結果が、あの爆発だったのだろう。
そして、それには少なからず私が関わっているのも事実だ。
ふぅ、と。珍しく、つぐみちゃんにしては本当に珍しく、疲れを隠さない溜息を吐いた。
「ガルジャムに出ようって言ったのも私で。バンドを組もうって言ったのも、私なんだ」
窓から視線を戻したつぐみちゃんの目は伏せられて、長い睫毛に礫がきらりと光る。掛け布団に乗せられた手は固く握られていて、くしゃりと皺が寄った。
「でも、一人だけ遅れてると思って無理した結果がこれで。大変な時に皆の傍にいられなくて、その上バンドが蘭ちゃんの負担になってたとしたら……」
シーツに水滴が落ちる。
「バンド、辞めた方が良いのかなぁ……? 私の、やってることってっ、皆にめいわくでしか、なかったのかなぁ……っ?」
風に吹かれていたヤマボウシの花が、また一つ散っていった。
沈黙が降りる。彼女の静かな嗚咽だけが、兎の紅い耳に届いていた。
「つぐみちゃん」
震える背中にそっと声を掛ける。ハンカチだけ彼女の手に握らせた。
「中二の頃だったかな。皆がバンド始めたくらいの時、学校で偶然皆のこと見掛けたことがあるんだけどさ」
「……?」
「蘭がね、にこにこ笑ってたんだ。家では仏頂面しかしてないような人が、にこにこって」
今でも覚えている。彼女たちにとってはありふれた、なんて事の無いいつも通りの一瞬なのだろうけど。
「皆がどんな理由でバンド始めたのか、何となく見当はついてるんだ。だからなんて言うか、そういうのを守りたいって気持ちがあるんだったら」
でもそれは。私にとっては──
「バンドを休むのも、一つの選択肢なんじゃないかなって思うよ」
──一度も手に入れたことがなくて、どうしても否定しなければいけないものだ。
「桜ちゃん……」
「私は部外者だから、バンドについてとやかく言う権利もそのつもりもないんだけど。もし部外者にだからこそ話せることとかがあれば、いつでも聞く」
彼女の顔を覗き込む。潤んだ瞳の中に、優しい微笑みを湛えた女が映り込む。
「私は、つぐみちゃんのこと好きだから」
姉と似るその女は、決して姉が口にしないような言葉を、事も無げに嘯いた。
▽
ガールズバンドジャム。通称ガルジャムと呼ばれるこのイベントは、かなり大規模なものらしい。
ガルジャムの出場を経験した後に人気の出るバンドも多く、出場を目指すガールズバンドはそれ以上に多いのだとか。
別に蘭たちがこれに出たところで人気が得られるとは限らないし、何より結局バンドを逃げ道として利用しようとしている事実は変わらない。私としては、どちらでも構わない。
でも。もしバンド活動を休止して、彼女たちがそのまま散り散りになってしまうのだとしたら。
私を人形と侮蔑したその口からどんな泣き言を吐き出すのか、興味がない訳でもない。
どこまでも歪んだ性根を持ち合わせていることは否定しない。それでも私は進み続ける。
元より失うものなんて、持ち合わせていないのだから。
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