ナイモノネダリ 作:ワレモコウ先輩
屋上に来たのは初めてだった。
校則で立ち入りは禁止されているから、当たり前と言えばそうなのだが。
化学室や生物室なんかが立ち並ぶ特別棟の階段を上がると、扉を守っている筈の鍵は見るからに壊れている。今しがた山吹さんから聞いた通りだ。
ギィ、と軋むような音を立てながら扉が開く。想像以上に重いものだから、開けるのに少し手間取った。
「美竹さん、ここだよ」
此方からはちょうど見えない裏側の方から、山吹さんがひょっこりと顔を覗かせる。普段見せないいたずらっ子のような表情だった。
「屋上、行けるなんて知らなかった」
「私も最近知ったんだ。まだ香澄達にも教えてない、秘密の場所」
「皆には内緒ね?」なんて笑う山吹さんは、やっぱりらしくないと思った。朝のチラシの件から、彼女はどこか授業中も上の空のように見えた。
山吹さんに倣って壁を背に座り込む。スカートが汚れるのも嫌だから、ハンカチを敷いて腰を下ろす。
雲一つない青穹がいつもより近くに在る。それでも空は高くて、私達は届かない蒼を暫く眺めていた。
「憧れてたんだ、こういう場所。皆知らない秘密基地みたいな所で、友達だけと集まったり、呼び出されて告白なんてされちゃったり。そういう、普通のこと」
小さな声で山吹さんが話し始める。
訥々と語られる言葉は、何を悼むような、失くしたものをそっとなぞるような、そんな声で紡がれていった。
「うん。……何となく、分かるよ」
「あはは、女子校なんだから告白はないでしょーって突っ込み待ちだったんだけど」
「ふふ、確かに。でも、山吹さんって何となく女子から人気ありそう」
「それを言ったら美竹さんだって。最初クラスで見た時、どこかのお嬢様が入学してきたって思ったもん。実際市ヶ谷さんなんて、前話した時かなり緊張してたし」
「あれはちょっと人見知りなだけじゃ……」
ツバメが高く飛んでいる。陽光を紺青色の背に受けた小鳥は、小さく鳴いてそのまま飛び去っていった。
「でも市ヶ谷さん、美竹さんが華道やってるって聞いた時少しそわそわしてたよ。盆栽が趣味だから、通じる所とかあるんじゃない? 今度話してみなよ」
「へぇ、中々渋い趣味だね。うん、次会った時話してみる」
「そうしてあげて」
遠い回り道のような他愛のない問答が続く。
下で話すのと大差ないやり取りが絶えないのは、多分測りかねているからだ。自分と、他人との距離を。
「……戸山さん達とは、集まらないの? ここに」
「……」
そういう意味では、私と山吹さんは少し似ているのかもしれない。
私の質問に、山吹さんは息を詰まらせる。少しの沈黙の後、淡い吐息を混じらせて彼女は話し始めた。
「知っての通り、私の家パン屋なんだけどさ。母さんが身体弱くて。年の離れた弟妹もいるし、いつも父さんは大変そうにしてた。……ちょっと前まで、そんなことにも気付けなかったんだけど。だから今は、私もできるだけ家のこと手伝うようにしてるんだ」
空色の瞳は遠くを見ていた。彼女にしか分からない程の遠くを。
「別に家に不満がある訳じゃないよ? 家族のことは好きだし……。でも、やっぱり私にバンドはできない。絶対迷惑掛けるから、香澄達と一緒にはいられない」
やはり彼女の悩みはそれだった。朝に見せた翳りの理由、その過去を山吹さんは明かした。
「前にもね、バンド組んでたんだ。ナツ……隣のクラスに夏希って子がいるんだけど、その子達と。私達の──CHiSPAの初めてのライブの日だった。母さんが倒れて、私の分穴開けちゃって……」
身体の弱い母親と、まだ幼い弟妹達。お店を切り盛りするのは父親一人で、やまぶきベーカリーは慢性的な人手不足に陥っていた。緊急時にはどうしても、山吹さんが店に出るか、家族を見るしかなかった。
「その後も、皆私に気を遣ってくれた。お店を手伝うとか、練習時間減らすとかって。……でもさ、そんな風に皆に迷惑掛けてまで、私だけが楽しい思いするのって……それは違うと思うの」
そんな彼女の心労は、私なんかに推し量れるものではない。それでも山吹さんは笑う。自分にあの居場所は相応しくないと。
その笑みの奥に隠された感情を、それに似たものを、私は知っている。
「美竹さんも華道の家元で色々忙しいって聞いたから、ちょっと話したくなっちゃって。……ねぇ、私の言ってること、間違ってないよね?」
そういう事か、と合点がいった。
人はそれぞれ生まれ持った事情がある。私は華道の家元の娘として、山吹さんは病弱な母親を持つパン屋の長女として。
その人にしか分からない、一人だけの事情だ。其処に誰が足を突っ込もうと関係ない。
私にも譲れないものがある。
私の全てを否定したあの人の全てを否定する。私の中にあるのは、これだけだ。
変な意地を張るなと窘められるかもしれない。その考えは間違っていると諭されるかもしれない。性根が歪んでいると貶されるかもしれない。
だけどそれを捨ててしまえば、私は私でなくなってしまう。納得できない自分がいる。
そういうものが彼女にもあるのなら、私の答えは決まっている。
山吹さんの考えに、私も──
「私は……」
でも。
──キラキラドキドキしたいです!
声が、聞こえた気がした。
──今までずっと一人でギター弾いてたから。私の音と誰かの音が重なって、ひとつになって。そういうのに凄いドキドキしたし、震えた。
その声は、きっと……。
開きかけた口は一拍の空白を挟んだ後で、自分でも考えていなかった一言を吐き出した。
「今から私が言うことは、私個人の考えで……山吹さんがどう受け取るのも自由だけど」
なに? その前置きは。
自分でも分からなかった。以前つぐみちゃんに似たようなことを言った時には、一切の躊躇も湧かなかった癖に。
変な予防線を張って、何をそんなに怯えているの? あの時みたいに、漂白された言葉で正しく見せてしまえばいいだけでしょ?
そう思ってはいても、どうしても、前に中庭で見たあの眩さが脳裏を過る。
今私のやっていることが、本当に正しいことなのか分からなくなる。
……いや、正しいか正しくないかの問題じゃない。これこそ、人の意思では曲げられない根源的な問いだ。
山吹さんが、華道の家元の娘としての責任を負う美竹桜という存在に問い掛けているのであれば。
「家の事情でバンドができないのは、仕方のないことだと思う。自分のことに責任を持てるのは自分だけで、そこを人の意思で曲げちゃったら、もうそれは自分の意思で動いていないことになる」
──私が返す言葉は、最初から決まっている。
「だから、私は山吹さんの言ってることは間違ってないと思うよ」
山吹さんに向き直る。目を真っ直ぐに見つめて、語気を強めてそう言った。
雲ひとつない空の下に、微風が流れる。後ろでひとつに結んでいる山吹さんの髪が吹かれて、柑橘系の匂いが僅かに鼻を擽る。合わせていた空色の瞳は微かに揺れて、けれどその揺らぎは数瞬にして治まった。
「ありがとう、美竹さん」
にこりと山吹さんが笑う。そこには一点の曇りもない。
「おかげで自信が持てた。やっぱり私は間違ってないって」
「どういたしまして。役に立てたなら、良かった」
「誰かに相談するのって初めてだから不安だったけど、美竹さんに話して良かった。……ね、これからは桜って呼んでいい?」
「うん。じゃあ、私も沙綾ちゃんって呼ぶね」
「あはは、そう改められると何か照れるね」
「やめてよ、こっちまで恥ずかしくなる」
連れ立って屋上を去る。
憑き物が落ちたかのように見える山吹さん──沙綾ちゃん。私なんかの言葉が彼女に何かしらの切っ掛けを与えられたのなら、それはとても良いことだと思う。彼女と話すことができて、沙綾ちゃんも私と話すことができて、きっと良かったのだ。
そう思い込むことにして。
残り続ける胸の痼を、見ないようにした。
それが気の所為ではなかったということを、私はすぐに知ることになる。
▽
父さんがまだ基礎もままならない蘭に個別で指導を行っている間、私は教室に通い稽古をつけてもらうようになっている。父さんの指導のみを受けるというのは、昇級の観点からもよろしくない。だから他の先生に稽古をつけてもらうことは今までにもあった。
私としては、蘭と同じ空間にいなくて済む訳だから願ってもない話だ。
その帰り道、商店街を通った時だった。
「あ、美竹さん……!」
「市ヶ谷さん?」
どこか切羽詰まった表情の市ヶ谷さんに声を掛けられた。そのまま駆け寄ってきたかと思ったら、彼女に制服の袖を握られる。市ヶ谷さんらしからぬ行動に驚く暇もなく、彼女の放った次の言葉に冷や水を浴びせられる心地を覚えた。
「香澄と山吹さんが言い争いしてて……! ウチらじゃ止められそうにないから、来て欲しいんだけど……」
「──戸山さん達が?」
ドアを開けると、軽やかなベルの音が鳴る。その小気味好い音色とは裏腹に、閉店直後の店内には沈鬱な空気が流れていた。
子どもの啜り泣く声が聞こえた。目を向けると、小さな男の子が泣いている。沙綾ちゃんの弟の純くんというのはこの子だろう。その子の前にしゃがみこんで宥めているのは、牛込さんだった。
「有咲ちゃん」
「ごめん、美竹さん見つけたから出て行ってた。香澄達は、まだ?」
牛込さんが首肯する。
市ヶ谷さんの先導でお店の奥へと進んでいく。「お邪魔します」とだけ小さく呟きそのままリビングに入ると、そこではさっきと似たように、泣いている沙綾ちゃんの妹──紗南ちゃんの頭を撫でている花園さんがいた。
「桜、来てくれたんだ」
「市ヶ谷さんに呼ばれたから、まだ何が何だかって感じだけど……。状況は?」
嘘だ。本当は、何でこんなことになっているかなんて分かりきっている。
「話すと長くなるんだけど……昔山吹さんがバンドやってたこと聞いて、香澄が改めて誘おうとしたら、怒らせたみたいで」
「二人とも、まだ言い合ってる」
「ぐすっ、お姉ちゃん……!」
戸山さんは、良くも悪くも直情的な人だ。楽しいと思えば笑って、悲しいと思えば泣いて、疑問に思えば首を傾げるような。それでいて絶妙な所で他人の機微に敏感で、だから沙綾ちゃんの逆鱗に触れてしまったのだろう。
──私の一言で張り詰めさせてしまった、彼女の心を縛って支える為の糸に。
「──だからっ、香澄には分かんないよッ!」
上の階から声が響いてくる。
聞いた事もないような、沙綾ちゃんの怒声だった。
「分からないって……、だってさーや何も言ってくれない! 言ってくれなきゃ分からないよ!」
「分かってもらわなくていい! そうやって迷惑掛けるのが一番嫌なの!」
戸山さんの声も聞こえる。二人とも涙ぐんだ、震えた声だった。
「でも! バンド好きだって、嫌いな訳ないってさっき言ってた。さーやの好きが、私達の好きと同じって分かって、嬉しかった……!」
「……!」
「それだけは分かるから、一緒に好きなことやりたい! 同じ好きを、さーやとやりたい!」
「香澄……」
「お願い。何でも一人で決めないでよ……そんなの、寂しいよ……」
嗚咽は絶えない。
陽は沈もうとしている。煤けた光が窓から差し込んで、フローリングにぼんやり照り返していた。
「ケンカしちゃダメ! ……ぐすっ、みんな、仲良くしなきゃダメぇ!」
耐えかねた紗南ちゃんが、階段を上がって二人の元へと駆けていき叫ぶ。
妹が割って入ったことで、二人の激情は消え失せたように感じた。
「ごめんね、ケンカじゃないよー。ほら、泣いたフリ」
いち早く動いたのは、どうやら戸山さんらしかった。明るい声音を振り絞って紗南ちゃんを宥めるのが聞こえる。幼子の鼻をすする小さな音だけが、静まり返った家の中に響いていた。
暫くすると紗南ちゃんと一緒に降りてくる。目は腫れ充血していて、整った顔が二人して台無しだった。酷い顔だった。
でも、そんな顔を二人にさせたのは──
「お疲れ」
「! 何で……」
市ヶ谷さんがそう言って初めて、私達がいることに気付いたらしい。
「香澄が先行っちゃったから」
「声、下まで聞こえてたぞ」
「純くん、びっくりしてお店の方に逃げちゃった」
あくまで普段通りに接する皆に、戸山さんと沙綾ちゃんは気まずそうに顔を背ける。
二人の間を流れる空気は、かつてないほどに沈んだもので。私だけ、彼女達に声を掛けることができないままだった。
市ヶ谷さんは気を遣わせないような口ぶりで、知らない誰かとやるよりは山吹さんとの方が楽だとそっけなく呟いた。牛込さんは市ヶ谷さんに同意して、優しい笑みを沙綾ちゃんに向けた。花園さんは曲のデータを送ったと、迷いなく携帯を操作した。
戸山さんは「待ってるから」と、涙を拭いながら力強く言った。
でも、私は?
何を言えばいいというのか。沙綾ちゃんの背中を押したのは間違いなく屋上での私の答えで、その結果がこれだ。
もう文化祭は明日に迫っている。戸山さん達Poppin’Partyはライブを控えていて、勿論それはクラスでの出し物も同じで。
そんな大事な時に、徒に皆の輪を乱すような行動を、少なくともそれを助長してしまうような行為をした。理解はできなくても知っている。彼女達がどれだけその日を楽しみにしていたか。
なのに……。
「ありがとね、桜ちゃん」
やまぶきベーカリーからの帰り道。戸山さんが呟く。
もう陽は沈んで、朱に染まる空に黒色がのしかかっていた。
「……お礼なんて。何もしてないし、できてないよ」
「それでも、来てくれたから」
「……」
「決めた。今は駄目でも……いつか、さーやと一緒にいられるように。明日のライブ頑張る! いつか……」
目の端に滲んだ雫が灯り始めた街灯の光を反射して、星のように煌めいた。
乱暴に袖で拭ってから、戸山さんは笑う。
「だから、桜ちゃんも見ててね! 明日、すっごく頑張るから!」
そう言うと、脇目も振らずに駆けて行った。先を歩く市ヶ谷さん達に追い付いて、歌詞を作り直すのだと言っているのが僅かに聞こえた。
南の空に土星が見える。
夜空に浮かぶ星が眩しいなんてことはない。けれども、私には彼女達の背中を見送ることもできなくて。
夜の帳が降りる中で見えもしない明日のことを考えて、誰に聞こえる訳でもない詫び言を、小さく漏らした。
「……ごめん」
文化祭が、始まる。
次話ではAfterglowのメンバーをちゃんと出そうと思います。