「はるか昔、この稲妻が雷電将軍に平定される前の話です」
「そのお方の故郷は、魔神率いる魔物たちに襲撃されてしまった」
「島の侍すべてが力を合わせ決戦を挑むも、その非道なまでの戦いに生き残ったのはただひとり」
「島民の娘に治療を受けどうにか起きてみれば、そこには魔物に占領され、変わり果てた故郷のみがありました」
「彼は復讐を誓います。侍としての意地も、戦いの正道も、武士としての誉れを捨ててでも魔物を殺し、島を解放すると。島民たちを守ると」
「援軍も望めず、一人だけで島を周り、すべての敵の拠点を破壊し、村を解放し、民の頼みを快く聞き入れ、ただひたすらに魔物を殺す」
「魔物の将を殺し、力を求め敵に寝返った牢人を殺し」
「いずれ敵たちは彼の姿を、名前を聞くだけで震え上がるほどになりました」
「そしていつしか島民たちは彼のことをこう呼ぶようになりました。我々を守るために冥府から黄泉帰った侍だと。島の救世主だと」
「曰く」
「稲妻の
「……すっげぇぇ!!!本当にたったひとりで島を助けたのか!?」
「ええ。稲妻の古い文献には必ず冥人の文字があります。そして彼がいなければ今の自分はいないとも」
桃色の髪をした少女と、宙に浮かぶ人物が話をしている。そこは珊瑚宮の屋形。雷電将軍の目狩り令に反発する者たちをまとめ上げるそこになぜ彼らがいるかと言えば、その反幕府軍に参戦するからである。
と、そこまで口を開かなかった少年が桃の少女に目線を向ける。あまり見かけない服装をした彼こそが参戦を期待される反幕府軍の戦力、旅人の空だ。
「それで、その冥人さんは魔神を倒せたの?」
「はい。それまでに得た力と知恵の全てを使い、嵐の中討伐せしめました」
「えええ!?ひとりで魔神を!!ホントに人間かよ!?」
「正真正銘人間ですよ。この稲妻に生まれた武士の一員、元素の力も扱えぬ侍が、島を救ったのです」
その少女、珊瑚宮心海はどこか得意げだ。島民ならば誰もが知る英雄を語れることが嬉しいのだろう。
「海は魔神の力で大きく荒れ、しかも魔神配下の魔物が見張っていたので島から逃げることも外部から援軍を呼ぶこともできませんでした。救援に行けないことをもどかしく思っていた雷電将軍は、嵐が晴れてすぐに仲間を連れて海を渡りました」
「けどすでに魔神は討たれ、嵐が晴れたのもそのせい……」
「そういうことです。その後、冥人は戦いで負った傷を癒して快復してからは雷電将軍を主とし、稲妻を治めるための戦いに身を投じました」
「……なんかその人、旅人みたいだな!強いのだってそうだけど、旅人だってこないだ魔神倒したし、こうやって戦いに参加してるだろ?」
「うーん、そうかな?それにしてもその話をなんで今俺に?」
当然といえば当然の疑問である。ここには決起集会のために集まったのだし、なによりもうじき決戦だ。これからの作戦の概要や参戦したことへの感謝などならわかるが、おとぎ話をされる理由が旅人には思いつかなかった。
「……今、幕府側には特筆すべき戦力が幾つかおります。頭にして最大戦力の雷電将軍。その側近たる九条裟羅に、幕府の侍たち。そして中でも最大の障壁となるのが、ひとりの侍、境井仁」
「え?雷電将軍がいちばん強いんだろ?なんでその境井…って人が問題なんだ?」
「そこが先ほどの話と繋がります。たったひとりで幕府軍と並ぶほどの脅威……」
「その、もしかして……」
何かを察した旅人が唾を飲みながら尋ねる。できれば外れて欲しい、そもありえない予想は、残念ながら覆ることはなかった。
「その通りです、旅人さん。侍、境井仁。その二つ名を、冥人と言います」
かつての英雄が今、主のために冥府より帰還する。
○○○○
「おお、どうどう」
1人の男が馬屋から嘶く馬を宥めながら出てきた。髪を団子に結い、甲冑など身に付けず袴姿だ。太刀と小刀を差したその風貌はまるで牢人のように見える。
宿から出てしばらく、城下町を抜け広い道に出たところで馬に跨る。晴れ上がって広い空とそこに輝く影向山に目を細めて、ゆっくりと馬を歩ませ始めた。
かつて追い求めた青い空に、多少いざこざがあるとはいえ概ね平和な世界。街道を行けば魔物に襲われ死に瀕する民は無く、小さな村が拠点にされることもない。冒険者協会や神里の者、幕府の侍たちの尽力で人里の周りには牢人の1人もいない。人売りも根絶され悲しい思いをする子どもも増えない。
その好き陽気に満足して、これまた慈しむように周囲を見て歩く。主や仲間とともに戦いに明け暮れた頃は考えも出来なかったこの景色に、自らも関わっているのならば感動も一入なのだろう。
少しばかり与えられた暇を余すとこなく楽しむために、彼は街道を旅することを選んだ。一日で戻らなければいけないため大した旅程ではないが、今を感じるためならば一番だろうと思ってのことである。
また数時間馬を走らせれば魚が美味いと評判の料亭があると彼は聞き及んでいた。とりあえずそれを目的として道を歩いていく。
「……ぃやあ!助けてぇ!!」
「っ!悲鳴!」
町からでて2時間ほどの、ちょうど町と料亭の間ころに着いた時だ。少し離れた森のほうから女性の悲鳴が聞こえてきた。彼はそれを捉えた瞬間手綱を操り襲歩で悲鳴の元へ急ぐ。
彼が知っている世よりも確かに穏やかであるとはいえ、その時に生きる者にとっては危険が多いのも事実だ。特に戦う術も持たない百姓などからすればもってのほかである。やはり牢人は絶えないし、彼の知らぬ魔物が島に繁殖している。盗掘を生業とする破落戸どももこの稲妻には多く入ってきた。直接見たことは無いが、絡繰のような魔物もいると彼は聞き及んでいた。
そのどれかに襲われているのやも、そうあたりをつけて馬を走らせる。どうか俺が着くまで無事でいてくれ、と。
その時、梢の向こうから1人の女性が走ってきた。随分と疲弊している様子だ。その姿を見て彼は安堵すると共に気を引き締める。
「無事か!?」
女性も彼と馬を見てそちらに寄っていた。刀を佩いていること、なによりもその堂々とした態度に安心したのだろう。
すぐ近くに来た女性と話すため彼は馬を降り、今度は呼びかけではなくもっと柔らかく声をかけた。
「何に襲われた?人数はお前だけか?」
「は、はい!山菜を採っていたらヒルチャールに襲われてしまって……ああ!追いつかれました!来ます!」
ヒルチャールとは新たな魔物である、と男は知っていた。近年、この国のみならずさまざまな場所で増えて問題になっているとも聞き及んでいる。
その習性は獰猛、知性は感じられるが稀薄で娯楽のために人や獣を襲い、殺す。そのような敵であると、男は認識していた。
「下がっていろ」
女が走ってきた方向から、茂みを動かす音が大きく聞こえてくる。戦いの邪魔にならない程度かつ問題なく守りきれる距離で女を待機させて、男は刀を抜く。
まるで工芸品のような刀だと、後ろから見た女は思った。白雪のような鍔に鈍く煌めく刀身。重なる三角形の紋が表されたその刀を、侍は高く掲げ頭の横あたりで構える。相手に大きく衝撃を与えるための構え、岩の型だ。
茂みから抜けてきたその人外の姿を捉えたその時、侍は大きく名乗り上げた。それが伝わるかどうかは関係ない。ただ、相手をしてやるという気迫でもって発するのだ。
「我が名は境井仁!死にたい者から俺の前に出よ!」
その意味はわかってはいないだろう。だがそこに含まれる挑発の言葉を感じ取ったヒルチャールが、その棍棒を振り回して侍に突進する。彼我の距離はそう離れていないというのに侍は刀を構えたまま避ける素振りも見せず、突進するそれではなく、その背後にいるヒルチャールたちを見ていた。
「棍棒が二、弓が一。盾を持つ小さいのと大きいのが一ずつ」
問題ない。そう結論付け、すぐそばまで迫った棍棒の対処をすることにした。
迫るヒルチャールはこの侍を馬鹿にしていた。こちらを挑発し武器を構えたくせに一歩も動かず、自分と目も合わせず背後の仲間たちを気にしている。怖気付いたのだと内心笑いながら、その眼前の臆病者に棍棒を振り下ろした。
そして、確かに殺意を乗せたその棍棒は気付けば宙に流れ、その瞬きの間にヒルチャールは物言わぬ屍となりその場に落ちた。
『受け流しの極意』。相手が振った武器に一瞬だけ刀を合わせ、またその瞬間に力を抜く。そしてすぐ打ち合った箇所に力を入れ、攻撃を横に弾く。
敵を殺さんと殺意と勢いのつけられた武器を逸らされれば、どのような達人だろうとよろめいてしまう。そして侍は、境井仁はその一瞬の隙を見逃さない。
棍棒を打ち逸らし、帰す刀でその首を勢いよく斬る。そのたった一瞬の、それでも修羅のような戦いにヒルチャール達はは足踏みする。それどころか2体ほどは完全に怖気付いてしまい、武器を取り落として逃げ出してしまっている。
そして、それを見逃すほど侍は優しくなかった。走り出し、背を向けたそのヒルチャールたちに懐から取り出したそれを2本同時に投げつける。小型の刃物、愛用している暗器のくないである。
2本は誤ることなくそれぞれの首に刺さり、その場に死体を増やしていく。残ったのはほとんど腰が引けている盾と棍棒を持った者と、こちらに狙いをつける弓、そして衰えることのない殺意を持った大盾だ。
次は棍棒と大盾が同時にかかってきた。先ほどのやられた仲間を見てか、無闇に仕掛けることはしないようだ。大盾が侍の正面に、盾はその背後に回り囲い込むように動いていく。だが男はそれを止めるそぶりもなく、ただ見るのみだ。まるで何を仕掛けようが問題ないと、敵ではないと言うかのように。
ヒルチャールたちの緊張が張り詰めていく。前衛の2体が油断なく武器を構えたところで、弓兵が矢を放った。
「voida!iste nwdo!」
それは仲間に対した言葉であった。いくらヒルチャールといえど誤射してはまずいとは考える。そういったとき、弓に背を向けている仲間がいるときは大声で呼びかけ、体勢を低くするよう呼びかけるのだ。
そしてその習性もまた、侍は知っていた。弓兵が叫んだ瞬間視線を矢にのみ向け、放った瞬間素早く踏み込んで矢を躱し、踏み込みの勢いそのままに弓兵に向かって走る。矢を避ける体勢を取っていた2体のヒルチャールは、それを止めることが出来ないでいた。
走り来る明確な死に、弓兵は怯まず矢を番えた。この近さなら避けられないだろうと、ある種希望的観測を以て。
そしてその期待は裏切られることになる。確かに避けはしなかった。侍は勢いよく飛んでくる矢を、走りながら刀で弾いたのだ。
最早どうすることもできない弓兵に、その走りの勢いを乗せた刀が迫った。速さをそのままに振り抜き、胴を断つ。崩れ落ちるヒルチャールを横目に、侍は刀をさらに高く、頭の上に構えた。
大盾が怒りに任せて突進を仕掛けた。何も考えないなかば反射のような攻撃であったが、その圧倒的な質量攻撃はいくら侍といえども受け流すことはできない、強力な攻撃となる。
侍は刀を上部に構えたままその突進を見据えていた。向かってくる脅威に怯まず、ただ待ち構える。
大盾が侍に触れようと、その矮躯を跳ね飛ばさんと力を入れる。まさに当たろうとしたその時、侍は横にズレた。なんてことは無い、ただ数歩分の距離を移動し、攻撃を避けただけである。
だが大盾兵にとってはまるで、侍が透けたように見えたのだ。それほどの瞬間、それだけの刹那。攻撃が触れるその一瞬前に回避することで敵は完全な隙を晒すことになる。
『後の先の極意』。空を流れた大盾兵が勢いのままに通り過ぎるまでの一瞬の間に、その大盾を構える腕の肩を刀で突いた。片腕を使えなくされ思わず大盾を取りこぼしてしまうものの、その突進の勢いが無くなるわけではない。重心が変えられたことによりその速度は行き場を無くし、より遠くまでヒルチャールの身体は流れることとなった。
そうして危険な攻撃を避けた侍は、刀の届かない所まで突進していったヒルチャールを追うことなく、先ほど背後に回ってきた盾と棍棒を構えたヒルチャールがいた場所に視線を向ける。だがヒルチャールはそこにおらず、向こうで茂みに隠れている女性に向かっていた。
「下衆めが!」
もはや勝てぬと察したのか、それともせめて一矢報いようとでもしたのか。恐怖で動けない女性に向かってヒルチャールはバタバタと手足を動かし走り寄る。
ここからくないを投げるのはダメだ。外さない自信はあるが、万が一がある。射線が重なってしまっているため遠距離攻撃はできない。
そう判断した侍は走りながらぐっと身を屈め脚に力を込める。強く、強く踏み込む為に。頭上に構えていた刀を腰溜めにし、素早く、大きく地面を蹴り飛ばす。
その棍棒が女性を襲わんとしたその時、森に一陣の風が吹いた。そのように錯覚してしまうほど、強く、疾く踏み込んだ刃が、ヒルチャールを切り飛ばしていた。
十歩ほどの距離をたった一歩の踏み込みで跳び、防御不能なまでに練り上げられたその鉄色の光は、銘を『紫電一閃』という。かつて男が空の雷を見て編み出した、最速の一撃だ。
「……凄い」
「大事ないか?」
女性は襲われかけたことすらも忘れ、ただひたすらにその剣戟の美しさに心を奪われていた。今の閃きはまるで、雷電将軍のかの一撃にもひけを取らない……。そう思えてしまったのだ。
どこか呆然としているが、怪我もないようだと判断した侍は後ろを向き直る。未だ殺しきれていない大盾兵が、潰された腕とは逆に盾を構えにじりよって来ていた。
仲間の攻撃も、自身の攻撃も悉く反撃された大盾兵は、もはや自分から攻撃することなく、相手の剣を防御して怯んだ隙を攻撃しようと考えた。故に油断なく大盾で全身を覆い、ゆっくりと侍へと近寄る。
「もうしばしそこで待っていろ」
女性を安心させるように努めて柔らかい声を掛け、再び刀を上方に構える。それは水の型。連撃に優れた、流水のような怒涛の攻撃を得意とする型である。
ヒルチャールと侍が一対一で相対した。このときヒルチャールが忘れてはいけなかったのは、先ほど利き腕を潰されたせいで盾の握りが悪いこと。そして眼前の人間の強さを誤っていたことだ。
ヒルチャールは朧気ながらも、その侍の刀の構え方に意味があるだろうと理解していた。先ほども今も刀を上に掲げている。ならばそれはこちらに対して何か有効な構えなのだろうとも。
故に、その構えが崩れたときを狙って接近し、刀を無効化する。そう考えた。
そして次の瞬間、侍のその構えは変わった。頭の上から、左脇のすぐそばに刀を構え、足は開いて重心を落とす。それを見た大盾は好機を逃すまいと刀が届く距離まで接近する。
一撃。やはり打ってきた!大盾兵はその衝撃の強さに少し怯むが、予想が当たったことにほくそ笑んだ。あとは刀の振り回せないほどの距離まで詰めてしまえばこちらの勝ちであると。
二撃。右に振られた刀は続けて袈裟斬りに大盾を襲った。大盾兵は疑問に思う。これまで戦ってきた刀を持つ人間は、己が盾で弾いてやれば手を痺れさせまともに振れなくなったというのに。
三撃。刀は再び左から右へ斬り抜く。あるはずのないその3つ目の衝撃にヒルチャールは驚愕する。確かに二撃目を打てた者はいた。だが三撃だと!?
四撃。右肩口から左下へ強く打ち抜ける。想定すらできなかったその連撃にヒルチャールの方の腕が痺れてきている。まずい、このままでは盾が捲られる!
五撃。左下に構えられた刀は、より一層の踏み込みでもって逆袈裟に振り抜いた。その最後の攻撃は大盾を大きく捲り、何の防御もない体を曝け出すことになった。
この連撃は体を傷つけるのではなく盾を剥がすことが目的であったのだと、ヒルチャールがそう気付いたときには遅かった。もしかしたら健常な利き手ならばいくら侍といえど弾くことはできなかったかもしれない。それを見越して、先ほど肩を潰しておいたのだとも今更ながらに察した。
返す刀で盾を持っていた腕の腱を斬られ、もはや両手どちらでも持てそうにない。どうにか身体が流れてよろめくことだけは防いだが、攻撃手段も無くなってしまった。
ヒルチャールが怯んでいた視線を侍に戻す。もうあの刀から繰り出される攻撃が全て脅威であるとは理解した。両腕を潰された今勝ち目は無い。どうにか刀を避け、すぐさま逃げるべきだと。
そしてその判断は、なにより刀のみを注視することとなってしまった。それが最も大きな過ちであるとも知らずに。
刀が動いたら避ける。それのみ考えていたヒルチャールは、侍が上体を落として足を振り上げたことに気づくのに遅れた。その動きの中で刀はほとんど動かなかったためだ。そのせいでヒルチャールは自身へと飛んでくる蹴りを対処することができなかった。一撃目は腹に、二撃目は胸に。斬撃ではないその打撃に思わずたたらを踏んだヒルチャールに対し、侍は上段から大きく袈裟斬りに振り抜いた。
月の型。自分よりも大きく強靭な敵への対応に優れた型である。
足元がおぼつかないところに強い斬撃。ヒルチャールはもはや身体がよろめくことを耐えられなぞしなかった。その勢いの乗った突きが喉笛に刺されば、ヒルチャールはなす術もなく、その場に崩れ落ちる。
残心を解き、刀を素早く手元で回して血払いし納刀する。血で塗れながらもその流麗な立ち姿を、どこからか吹いた風が巻き、落ち葉が舞う。殺伐とした場であるのに、それを見た女性は美しいと、そう思ってしまった。
「終わったぞ」
「は、はい!ありがとうございました!いったい、貴方がいなければどうなっていたことか……」
「抜かるでないぞ。森に入るときは複数で、可能なら戦える男を連れるといい」
まずい!これは別れる流れである!女性はそれを察知した瞬間続けて侍に話しかけることにした。これほどの剣技を持つ者と知り合いになっていて損はない、そう判断してのことである。その内に多少の下心が芽生えていたこともまた、当然のことであった。
「あぁあの!私、いちっていいます!これ、手拭いです!返り血をお拭きになって下さい!」
「感謝する」
思わず名乗りながら懐から手拭いを出して押し付けてしまったが、なんの問題もなく受け取ってくれたので良しとした。それにしてもこの男、名はなんと言うのだろうか。先ほどヒルチャールへ名乗りを上げていたが、大声だったことと女性からは背を向けていたこともあってよく聞こえなかったのだ。また女性は無意識であるが、その名が聞き覚えがありすぎて受け止めきれなかったと言うこともある。
女性が名を聞くべきかどうか思案していると、侍は手拭いで血を拭き終えたようで一息ついていた。そしてその手拭いを見て、衝撃を受けたような顔をしていた。当たり前ではあるが、多量の血を拭ったせいでもはや使い物にならないほどにまで汚れてしまったのだ。
「……すまぬ。金を払おう、幾らかかった?」
「ぃいえいえ!!大丈夫ですよ!命をお助け頂いたのにお金なんて求められませんよ!」
「いいや。それでは武士が廃れようというもの。この境井仁、施しには礼をもって返そう」
ん?さらりと名を言ったがなんと言った?境井仁とはまるで聞き覚えしかない名である。稲妻の民なら誰もが知るおとぎ話で昔話。人間として最大の英雄。聞き間違いでないなら、確かにその名を名乗ったようだ。
もしや騙りであろうか。いやそうに違いない。かのお方はずっとずっと前の人だ、生きている筈がない。確かに信じられないほど強いようではあるが、彼の名を騙るなぞ不届きであると女性は思った。だがしかし、騙りであるにしてはあまりにも堂々とし過ぎている。まるで牢人とは思えぬほどのその立ち振る舞いは、確かに武士を感じさせるものだ。
「あの、すみません。ご職業を伺っても……?」
おずおずと切り出されたその疑問は確かに妥当なものであると侍は思った。金銭の話をしているのだからそれに直結する職について訊くのは当然であると。
だからこそ包み隠さず、言った。
「今は故あって将軍様の懐刀を勤めている。今日は暇を頂いた故、向こうの料亭まで飯を食べに行こうとしているのだ」
境井仁、将軍の懐刀、あれほどの剣技、この民への誠実な態度。間違いない。
「冥人さまあぁあ!!!???」
森に女性の声が響き渡り、その声は影向山を超えて紺田村まで聞こえたという。
○○○○
「聞きましたよ、仁。貴方、先の休日に料亭の奉公娘を助けたようですね」
「は。 森より襲われる声が聞こえたため、魔物どもを倒し救助した次第です」
稲妻城上方、将軍の執務室。侍、境井仁は先日とは打って変わって黒い甲冑を身につけている。胸には刀と同じ連なる三角、境井家の家紋が記されたそれは、かつての戦陣の折より愛用している境井家の家宝だ。
「将軍様より、人と関わる度に名を名乗れとの言伝でしたので確りと。将軍の懐刀が、冥人が戻ってきたと。民はそう認識しておるようです」
「……仁、前も言ったはず。二人のときは敬わずとも結構です」
「ならばこちらもお断り申したはず。かつてとは違い、我らは肩を並べる仲間ではなく、主君を守るための部下であるのです。いかような場でも主には敬意を持たねば侍ではありませぬ」
「ッ!……武士の誉れは捨てたと聞きましたが?」
「あれは緊急時故でごさいます。将軍様とともに戦うようになってからは毒も捨て、また誉れに恥じぬよう生きております」
ああいえばこう言うのだ。執務を休憩し茶を嗜みながら会話していた雷電将軍はそのイラつきを隠せないでいた。
かつての盟約を頼って呼び戻すことはできた。彼さえいれば百、いや千人力だと。しかし今のこちらの立場を知った彼は記憶にある友人としての振る舞いどころか、侍と将軍の間柄に恥じぬ行動と言葉遣いを徹底し始めた。ならばと将軍命令でかつてのように接しろと言っても、今では関係が違うと一点張りだ。
あの頃の仲間はもういない。眞も死に、思い出話ができるのもこの目の前で畏まる男ひとり。そんな者に、それだけ大事な者に、敬語など使われてたまるものか。
時を越えて再び稲妻の地に降り立った冥人は、差し当たっては外敵の徹底排除よりも友であり上司である彼女の乱心を止めようと邁進していた。
好評なようなら続けます
最後の特殊タグで遊んでみたかった。