朝起きると、何故か泣いている。
怖い夢でも見ていたのかもしれない。けどその内容は思い出せない。少しくらい、断片の光景ならば思い出せそうな気もするけど、一度覚醒してしまうと、その断片すらも失ってしまう。夢の欠片すらも掴めなくなる。
だから私はいつも通り、夢を思い出すのを諦めて、流れ続ける涙を腕で拭った。
「ふぅ」
枕元に置いてある水を飲む。感情が揺れ動いた訳ではないけど泣くと疲れるし、喉が渇く。それはここ数ヶ月の発見だ。何の役にも立たないけど。
ペットボトルを机の上に置き、ベッドから降りる。机の上には知らない男の子が二人映っている写真が置いてある。早くどければいいのだけど、何故だかどけられない。それは私の中に遺された彼の僅かな抵抗なのかもしれない。
くだらない感傷。
私は頬を三日月に曲げた。写真を眺めるついでに、ついでといっても本命はこちらだけど、時計を見た。針は6時半を示している。時間通りだ。泣きながら起きるわりに、なかなかどうして目覚めはいい。本当に便利な体だ。
そこまで思って、まるで人の体を乗っ取った悪魔みたいと面白くなる。
まぁ実際、それは今の私の状況と変わらないけど。でも一応、私は16年間この体のはずなんだ。
パジャマを脱ぎ、鏡の前に立つ。
長い黒髪、小さな顔には大きな瞳がはめ込まれていて、痩せすぎず、太り過ぎずの均整の取れた体が映し出される。それを見て、うむ我ながら美しいと自画自賛した。
事故に遭って唯一よかったのはこれかもしれない。
と、あまり見惚れていても、学校に遅れてしまう。私は夏物のセーラー服を物干しから取って、体に当てた。
日差しが窓から差している。それが部屋の埃を照らして、雪のように私に降りる。鏡の前で笑顔を浮かべた私は、自分でも少し見とれてしまうくらいに美しくて。
自分が神話に入ったら、きっと自分はナルキッソスだろうと思った。
…………ここでフレイヤとかアフロディーテとか言わない辺り、私はそこそこ謙虚というか分を弁えている。
ソーセージと卵、食パンという健康そのものな朝食をブラックコーヒーで流し込んだ私は、ローファーを履き、相棒の茶色鞄と共に玄関を飛び出した。
意気揚々のスタートダッシュにも関わらず、私の足取りは重い。周囲を窺うように身を縮こませて歩く。そこに先ほど鏡の前で笑みを浮かべていた姿はない。その原因ははっきりしていた。
私はどうしても登下校が好きにはなれない。
いや、別に私は学校が大好きな訳じゃないから好きじゃないのは当たり前かもしれないけど、そういう事じゃない。むしろ町を歩くのは好きだ。産まれてからずっと過ごしているらしいこの町には、まだまだ気になる物ばかりだ。たとえば、街角にあるいつも煙を出しているパン屋さん、廃工場前にぽつんと置いてある自動販売機、煙草の看板を出す、やってるかやってないか分からない駄菓子屋さん。
全部、全部気になってる。
だから町歩きは好きだ。現に朝のランニングは陸上部を止めても続けている。それはもはや趣味の領域と言ってもいい。
だけど登下校は好きになれない。いや、もうこの際はっきり言おう。私は登下校が大嫌いだ。
そんな風に心の中で独白しながら、私はいつもの道を歩いていた。ブロック塀に囲まれた道路、その右側をお行儀よく歩く。季節は夏だ。名も知らぬ家の庭に植えられている木には、緑の葉が生い茂っている。強い日差しを浴びて、彼等は生を謳歌していた。
「あっつー」
一方で、私は干物になりそうだった。バレないようにちょっとスカートを大きめに翻す。パンツは見えないように、太ももも見え過ぎないように。
吹き込んだ風が涼しくて心地いい。初めは慣れなかったスカートも慣れればちょろいもんだ。もし私が男だったら、暑さで死んでいただろう。
そんな地獄の夏、オアシスのようなひと時を過ごしていた頃、二人の女子生徒が十字路から出て来た。
私は「しまった」と思った。こんな所を見られてしまったら。
案の定、彼女らは口元を手で覆い隠しながら、話し始めた。
私はため息を吐く。
結局こうなってしまうんだ。
私の目の前を通り過ぎる時、不意にその話し声が耳に飛び込んで来た。
「今の見た?」
「見た見た。やっぱり、恰好だけじゃダメだよね」
「それそれ。結局、中身は男だよあれ」
「やだ、襲われる」
「いやぁ、あんたは襲わないでしょ。私ならごめんだよ」
「なんだって」
二人は私に会話を聞かれているとも知らずに、笑いながら通り過ぎて行った。
私は彼女達と違う方向に曲がった。学校への最短ルートを曲げて、あえて遠回りする。もしかしたら遅刻してしまうかもしれない。可能性が頭によぎる。だけどそれを振り払った。
しばらく歩いた。川沿いに出た。川が中央に走っていて、周りに堤防が築かれている。堤防には桜の木が植えられていて、変わり映えしない緑を実らせる。
荒れていた心をせせらぎが癒す。胸に清涼感が満ちる。それでも不快感は消せなくて。行き場を失った心と共に、ローファーで小石を蹴飛ばす。それはぽちゃんと音を立て流れに呑まれた。
「なにが男だよ」
また蹴飛ばす。
「なにが襲われるだよ」
それは転がって。
「私だって知りたいよ」
転がり続けて。
「私だって前の自分が何を考えてたか知りたいよ!」
そして川の流れの一部となった。
少女の慟哭は消えて行く。せせらぎと、道路を走る車の走行音に掻き消される。それでも彼女の胸の中ではわだかまり続ける。
「どうして記憶をなくしたんだろう」
「どうして私は女になったんだろう」
「男だった時の私はどんなだったんだろう」
何も分からなかった。
三か月前、全てを失った私に医者は言った。
『君は大きな事故に遭って、その治療の副作用で記憶をなくしてしまったんだ。性別に関しては、正直分からない」と。
私は尋ねた。
『大きな事故ってなんですか? 私は誰ですか?』
医者は少し逡巡し、それから決意を瞳に宿して答えた。
『君は海野千尋。事故は大きな自動車事故だ。君はこれから女の子として生きるんだよ』
記憶を失った私は、ただ頷いた。
元男の記憶を失った私は、もはやただの女の子と変わらない。そう思っていた。今もそう思っている。私だけが。
私は知らなかった。見ないふりをしていた。男が女になって戻って来た時の周囲の視線を。
自分が完全な女だと思っていても、不完全な女としか見られない現実を。
だから私は登校が嫌いだ。
女の私を肯定してくれるクラスの皆じゃない、他の人はみんな私を『元男』とみなして、行動全てに男の面影を見出そうとしてくる。
私の顔を知ってる人はみんなそうだ。
しかも私はなまじ目立つ。無駄に整っているんだ。男だったせいで女にしては168センチもある。嫌いだ。嫌いだ。元男な私が嫌いだ。
今の私は女でしかないのに。
ああ、本当に私は登校が嫌いだ。