青い血溜まりが視界いっぱいに広がっている。
その中心には鳥と甲虫を混ぜて巨大化させたような異形の死骸。巨大な風穴が穿たれたそれを前に、里見蓮太郎は長い溜息を吐いた。
「割に合わねえな」
曝け出したブラッククロームの右腕は怪物の体液に濡れ、身に纏う制服は細かな傷と返り血によってアバンギャルドな様相を呈している。とてもではないが修繕など効くまい。
この分では買い直しになるだろう。そう思うと、一層気分が落ちた気がした。
『蛭子影胤テロ事件』からそろそろ半年が経つ。
多くの激戦を潜り抜け、IP序列は奇しくも蛭子影胤・小比奈ペアと同じ百三十四位にまで上がっていた。にもかかわらず民間からの依頼数はほぼ変わらず、天童民間警備会社の経営は相変わらず火の車。
まったくもって世知辛い世の中だ。再びパンの耳生活に戻ることを考えると、溜息が出る。
事後処理の手続きをしていた警察官に怪訝な顔をされたのも、仕方のないことだろう。
警察官との事務的なやり取りを済ませ、現場を後にする。
延珠はこの場にいない。紆余曲折あって再び通うことになった青空教室はここからだと反対方向で、拾ってくるほどの余裕がなかったからだ。
時刻は午後二時を回ったところ。今から教室に戻ってわずかばかりの授業を受けるのは面倒だと、蓮太郎はこのまま事務所に直行することを決めた。
しばらく歩くと、事務所が入っている四階建てのビルが見えてくる。
一階にはゲイバー『シュペールゲビート』、二階にはキャバクラ『マ・シェリ』、三階に天童民間警備会社の事務所があって、四階には闇金融『光風ファイナンス』───木更が借金をしたのもここだ───がそれぞれテナントに入っている。見れば見るほど最悪な立地だ。
民間からの依頼が来ない理由の半分はこの立地にあるんだろうなと思いながら視線を戻すと、正面から歩いてくる子供が視界を横切った。
見かけは八歳前後。身に纏っているのはもはや襤褸切れと化した布一枚で、肌と髪は真っ白。日光を受けて輝く赤い瞳が、現実離れした容姿を際立たせている。
身なりと瞳の色を見るに、外周区から来た『呪われた子供たち』だろうか。
能力を常に解放しているのか、あるいはアルビノの症状か。どちらにせよあまり積極的に関わらない方がいいだろう。面倒事はごめんだ。
そう判断し、蓮太郎がビルの階段に足を掛けたその瞬間。
───赤い光が、視界の端で傾いだ。
咄嗟に振り向いて駆け出すが間に合わない。少女は身体を投げ出すように倒れ込み、その矮躯を舗装された地面にしたたか打ち付けた。
「おいアンタ、大丈夫かッ!?」
少女の下に辿り着き、呼びかけながら状態を確認する。
意識はないようだが、見たところ外傷や再生の痕跡はない。あれだけ綺麗に頭を打ったというのに傷一つ付かないのには若干の違和感を覚えたが、それどころではない。
いくら『呪われた子供たち』であっても、肉体の構造は人間のそれと変わらない。長時間直射日光に当たっていれば熱中症を起こすし、派手に頭を打てば気を失うことだってある。
少なくとも、屋外に放置していい状態ではないことだけは確かだ。
「……事務所に連れてくしかねえか」
そう判断して、蓮太郎は倒れた少女を背負って階段を駆け上がった。
「で、そこで寝てるのがその女の子ってわけね?」
「そういうことだ。だから木更さん、その手に持ってる携帯をしまってくれ」
事のあらましを語り終えると、木更は携帯をポケットにしまってくれた。
過去五本指に入るレベルの危機を乗り越えたのを確認して、蓮太郎は脱力する。
『水原鬼八殺人事件』の犯人に仕立て上げられて拘留され、ライセンス失効の後逃亡生活を送るハメになったのは記憶に新しい。
流石にもう一度留置場に入るのは御免被りたいところだった。
「それにしても、この子……」
「聖天子様に似てる気がするのだ」
「そうね。綺麗な顔立ちだし、肌も髪も真っ白」
応接セットのソファで眠る少女の顔を覗き込みながら、木更と延珠がそう呟く。
二人の感想は的外れではないだろう。
確かに少女の頭髪と肌は聖天子と同じように白く、顔立ちも恐ろしいまでに整っている。隣に並べば姉妹に見えるかもしれない。
しかし、蓮太郎が少女に抱いた印象は異なっていた。
例えるならば、聖天子は透き通るような白。何者をも受け入れ、優しく包み込む清廉な色。
しかし、少女がその身に纏う『白』は何もかもを塗り潰す白。
蓮太郎にとっては、まるで吹雪のような根源的恐怖を煽る色に見えていた。
「この子は『子供たち』なんですよね?」
「そのはずだ。見た目がアルビノっぽいから確証はねーけどな」
「イニシエーターという可能性は?」
「民警ライセンスを持ってないし、武装もないから考えにくいとは思う。ただ、混乱して攻撃してくる可能性はあるから、それだけ注意しておいてくれ」
そう伝えると、ティナは片桐兄妹と戦った時に見せた黒い手袋を右手に嵌めた。
おそらく、暴れるようなことがあれば拘束する気なのだろう。銃ではなく手袋を嵌めたのは、流れ弾による被害を抑えるためか。
それを横目に見ながら、蓮太郎はふと思い立つ。
外周区育ちの『呪われた子供たち』ならば大人に対して特に警戒しているハズだ。建物の中で『奪われた世代』の蓮太郎や木更に囲まれていては安心できないだろう。
「延珠、ティナ。看病任せていいか?」
「構わないが、どうしてなのだ?」
「俺と木更さんが近くにいたら怯えるだろ」
そこまで言うと、各々が察したような顔をする。
「なるほど。確かに、同じ子供の方が安心できるかもしれませんね」
「そういうことだ。木更さん、少し下がろうぜ」
「わかったわ」
蓮太郎と入れ替わりになって、延珠とティナが看病を始める。
木更がおやつ代わりに時々食べている氷を氷嚢に詰めて首に当てたり、下敷きを団扇の代わりにして全身を扇いだり、パーティションを窓際に置いて日光を遮ったりと、甲斐甲斐しくお世話をしていた。
その光景を眺めながらデスクの周辺に移動すると、木更の表情が心なしか硬いことに気が付いた。
「不安か?」
「まあね。あの子たちの手前、大きな声で言えることじゃないけど───不自然だと思うわ」
「だよな。俺も考えてた」
その懸念は、蓮太郎自身も考えなかったわけではない。
まず思い至った可能性は、アンドレイ・リトヴィンツェフ勢力の残党。次いで五翔会の新たな刺客。ティナの知らない後発の『NEXT』という線もあるし、はたまた全く未知の勢力というパターンも捨てきれない。
少なくとも、それらの可能性を脇に置くにはあまりに怪しい遭遇だった。
とはいえ、
「それでも、目の前で倒れられちゃ助けるしかねえだろ。……延珠とティナの教育にも悪いしな」
「───ふふっ」
「ンだよ」
「別に。それでこそ里見くんだって思っただけよ」
そう言った木更の顔には、穏やかな微笑が浮かんでいた。
その美しさにドキリとして顔を逸らすと、いつの間にかこちらに来ていた延珠が膨れっ面をしているのが視界に入る。
「ちょっと目を離すとすぐおっぱいにデレデレする。ダメだぞ蓮太郎」
「してねーよッ! ったく、あの子のお世話はいいのか?」
「目を覚ましたから呼びに来たのだ。だというのに蓮太郎ときたら木更のおっぱいばっかり見て!」
木更が胸を隠して、ほんのり赤い顔でこちらを睨んだ。
「……里見くん?」
「見てねーって! とりあえず、目を覚ましたんだな?」
「うむ。ついてくるのだ」
延珠はそう言って振り返り、応接セットへ進んでいく。
視線の先では、先程まで眠っていた少女が身体を起こして座っていた。
大人に慣れているのか、蓮太郎と木更が近づいても怯える様子はない。
「気がついたんだな。よかった」
「……」
「体調はどうだ? 痛いとことかないか?」
「……」
「……えーっと、日本語わかるか?」
「……?」
蓮太郎は振り返り、木更に助けを求める。
───どうしてこうも面倒事が舞い込んでくるのか。
内心でそう独りごちて、ひっそり溜息を吐いた。