彼女とベランダでタバコを吸う話   作:Damy

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眠気を誘う暖かさ

 タバコを灰皿において、缶ビールを煽ぐ。ぬるく、炭酸も抜けた、ただ苦いだけの液体が口に流れ込む。手のひらは缶の汗で"ぐっしょり"濡れていた。

 吸いかけのタバコを手に取るが、もう一口分も残っていない。指先にタバコ先の熱が伝わるほど短い。新しいものに火を付け、「……すぅ」肺を煙で満たす。

 

――カラカラ……ピシャン

 

 網戸を勢いよく開け、雪姫がリビングから顔を覗かせる。髪はビチョビチョで身体にバスタオルを巻き付けただけの、シャワーを浴びたばかりといった姿。

 僕が缶ビールを手に「まだあったっけ」というと、雪姫は「ちょっと待って!」と物干し竿にかけてある、僕が使ったばかりのバスタオルをサッと取り顔を引っ込めた。

 

「無防備というか、無邪気というか……なんだかなぁ」

 

 缶ビールをまた煽る。今度はゴクゴクと。口の中の不快感は一層増して、アルコールが身体に回り始めたのか後頭部のあたりの感覚が鈍くなるのを感じる。

 普段、お酒を飲まないせいで明日が少し不安になる。明日というより……もう今日になっているのだが。今日は平日で講義はたしか3講、昼から登校だ。

 寝坊の不安はあるが、それでも今日はお酒を飲みたい気分だった。

 

――カラカラ……ピシャン

 

 数分経って再び、勢いよく網戸が開く。

 今度は髪を乾かし、寝間着に着替えた雪姫が顔を覗かせる。

 

「飲み終わったの?」

 

 そういって右手を差し出す雪姫に、いつの間にかクシャっと握りつぶしていた缶ビールを渡す。

 雪姫は受け取った缶ビールを振って中身が残っていないか確認すると、舐める程度しか残っていないビールを飲み干した。口元で缶を振る仕草を見て「おっさんかよ」と茶化すと、雪姫は「へへへ……」と可愛らしく笑う。

 

「はい、新しいの。こっちは私の」

 

 僕のビール缶と、レモンサワーの缶が手渡される。

 

「飲むのか? もう3時半だぞ」

「君が飲むなら私も飲むでしょ、それともどっちも冷蔵庫に戻す?」

 

 僕の返事を待たずに、雪姫はリビングにゴミを捨てに行く。

 僕ののパーカーをぶかぶかに着て戻ってくると、僕とベランダの柵の間にするりと挟まった。擦り寄せてくる背中は、まだシャワーを浴びた温もりを残している。柑橘系のシャンプーの香りは口の中の不快感を一掃してくれた。

 

「わ、これは今がお昼だったら苦情ものだね」

「……うん、吸い過ぎた」

 

 灰皿に転がる10本ほどのタバコを見て、僕も少しギョッとしてしまう。いつの間にこんなに……。たしかにこれは、近隣住民に怒鳴られても何も言えない。

 カシュッ、と耳元で音がなって水滴が顔にかかる。雪姫が僕の顔の前でプルタブを開けたようだ。

 

「うわっ、つめて!」

「ぼーっとしてんね、はい、カンパーイ」

「乾杯……そりゃもうこんな時間だしお酒も入ってるし」

 

 耳元で開けられたレモンサワー缶から飛び散った水滴を拭うと、涼やかな匂いに包まれた。タバコの煙と雪姫のシャンプーの香りが鼻腔に渋滞して少しクラリとする。

 雪姫がもたれかかってきて、後ろに倒れそうになるのをなんとか踏ん張る。夜風に晒されてすっかり冷え切った身体が、徐々に暖かさを取り戻していった。

 

「私も吸おうかな」

「なら、横にズレてね」

「んー、わかってるわかってる」

 

 生返事のあと、横に移動せずに吸い始めた雪姫のセブンスターの煙が目の前を昇っていく。目がシバシバする。

 2人、いつもどおり何を話すでもなく森閑と寝静まった街を見下ろす。雪姫のセブンスターの煙が、アメスピの煙と重なって夜空に昇る。そこには、ただただ幸せなだけの時間が流れていた。

 

「ねえ」雪姫はそう溢して後頭部を僕の鎖骨のあたりに押し付ける。「きょう、なにかあったの?」

 

 雪姫のつむじから覗く、白くてぶにぶにしてそうな頭皮を見つめてビールを一口含む。

 悪い癖がまろび出る。全く関係のない思考が頭をよぎる。

 頭皮は身体において最も社会に接していない部分なのではないか、と。髪に隠れて日差しを浴びることもなく、油に守られて寒風を受けることもない。頭皮を見れるのは、心を許した恋人か、飼い主に懐いて毛づくろいをしてあげている猫くらいだろう。

 そんな調子で僕が黙っていると、雪姫は不満げに息を吐く。

 

「黙って逃げようったってそうはいかない」

 

 雪姫がくるりとその場で半回転して、僕の背中に腕を回す。いくら恋人だからと、近すぎる顔の距離を遠ざけようと身じろぎするが……逃げられない。

 

「ちょ、もう酔ってる? 流石に近いし恥ずいんだけど?」

「1缶だけで酔えるほどコスパ良くないよ」

「そういや、この前一升瓶飲み干す勢いだったっけ。あれでほろ酔いとか肝臓デカすぎ。あとそろそろ離して」

「あれは四合瓶で、一升瓶の半分もないよ」

「どちらにしろ日本酒なんて一杯で限界の僕から見れば別次元だ。あとそろそろ離して」

「あはは、めっちゃ早口じゃん」

「男はみんなこんなことされたらなるよ、毎日女取っ替え引っ替えしてるヤリチンでもないと無理だって、マジで」

「じゃあ、そうなれば?」

「ははは……笑えねー」

 

 ようやく雪姫ホールドから解放される。というより、焦る僕がよっぽど可笑しいのか、笑って腕の力が抜けたみたいだった。

 ご近所迷惑に配慮しているのか、雪姫は小刻みに肩を振るわせて静かに笑う。

「ひー、ひひ、おかしい……ひー」などと変な笑い方をする。僕もそれに釣られて笑ってしまう。

 

「はー、笑った。たまには酒を飲んで息抜きするのもいいよね」

「そうだな。深夜4時、それも平日の……じゃなければもっとよかった」

「休んじゃおうか?」

「さすがに講義は出席するさ」

「起きているかは別として?」

 

 缶ビールを傾けて首肯する。それに雪姫が「乾杯」とレモンサワーを当てた。

 今から飲み直すのもありかもしれない、そんなふうに思ってしまう。といっても、僕は2杯目で、雪姫は1杯目飲み始めたばかりなのだけれど。

 明日は心配だけれど、講義に遅れてしまっても最悪、仁志にさえ──

 

「明日は何かやることあるの?」

「仁志に会って確認しなきゃいけないことが……」

 

 不意の質問に、つい口を滑らせてしまった。

 雪姫が不審そうに首を傾げて続ける。雪姫の直感というのは本当に鋭い。的確に今聞かれたくないことをついてくるのだから。

 

「仁志? もしかして珍しくお酒飲んでるのと関係あるの?」

 

 きっと、僕はわかりやすく狼狽していることだろう。深夜にお酒を飲んで、彼女と楽しい時間を過ごしている男は何ひとつ隠し事ができないんだな。他人事のようにそんなことを思う。

 雪姫は尻尾を掴んだ、とでも言いたげな目で僕を見つめる。もう言い逃れることも、する気も起きなかった。眠気で胡乱な脳みそが「もう言ってしまえよ」と催促する。

 

「……写真がさ。仁志から見てほしい写真があるって言われてたんだよ」

 

 そこまで言って口を噤んだ。僕の中に渦巻く言葉をうまく言語化できず、しばらくの間。

 雪姫は先ほどのように催促することなく、ただ静かに僕の表情を覗き込んでいる。

 いつもに似た静寂。風切の音、たまに通る車の走行音、缶から漏れる炭酸が弾ける音。僕と雪姫しかいない空間に侵入してくるそのどれもが、今は不快でしかなかった。

 タバコを咥える。雪姫も似たような仕草でタバコを咥え、僕の言葉を待っていた。

 

「また、浮気してるよね」

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