私は退院した後、特に何の変哲もなく学校に行き、何の変哲もなく授業を受け、何の変哲もなく放課後を迎えている。退院した後に学校に行ってもクラスメイト達はいつもと変わらない。入院が英雄扱いされるのは小学校から中学校までと相場が決まっている。それに、以前から私に話しかける人間はごく少数だ。病欠くらいで変わりはしない。
まるでスワンプマンになった気分である。アメリカの哲学者ドナルド・デイヴィッドソンが考案した思考実験。思考などの主体が来歴にも依存するという彼の理論への可能な反論として提唱されたのだったか。
ある男が落雷で死亡し、再びの落雷によってすぐそばの沼から死んだ男と全く同一、同質形状の生成物を生み出してしまう。これをスワンプマンと呼び、原子レベルで死ぬ直前の男と全く同一であり、見た目は勿論、脳の状態も完全にコピーされている。沼を後にしたスワンプマンは、死ぬ直前の男の姿でスタスタと街に帰っていく。そして死んだ男がかつて住んでいた部屋のドアを開け、死んだ男の家族に電話をし、死んだ男が読んでいた本の続きを読みふけりながら、眠りにつく。そして翌朝、死んだ男が通っていた職場へと出勤していく。
果たしてこれは同一人物と言えるだろうか。
私の答えは『言える』だ。どのような経緯を辿った者であれ、周りがその男をその男だと認識すればそれはその男である。ちょうど私が
文化祭のステージではそれなりに暴れた気もするが、数カ月も経てば風化するという事だろう。私の名前を教師が呼び間違えても誰も気にすることの無かったように。それが良いか悪いかは分からない。気楽ではあったが、人によっては寂しいと言う意見も言うだろう。だが、私自身はそれに対して何の感情も持ち合わせてはいない。
それに、そのような事など些事であると断言できるような出来事があった。
「彩加ー!」
私に新しい家族が出来た。
♪
虹夏は同級生であり、新たにできた義妹である彩加を探していた。彩加は1月生まれなので、高校二年だが16歳である。バイオリンが弾けるが、ギターやベース、ドラムなどの知識は無い。しかしバンドという物には興味を持っているようだった。今日は集まって練習する日でもあり、彩加が虹夏のバンドを知る日でもある。
「虹夏、彩加ってどんな子なの?」
一緒に歩いていた虹夏のバンドメンバーである山田リョウが尋ねる。リョウは伊地知彩加という人間について虹夏から聞いてはいたものの、実際に会うのは初めてである。文化祭での凄まじい演奏は記憶に残っているが、人となりは全く分からなかった。
「そうだねー、一言で言って……一言で言えない子かな」
「一言で言えないの?」
「うん、詳しくは本人の事もあるから言えないけど、悪い子じゃないよ」
「私はバイオリンの演奏しか知らないけど、それなら安心」
「まあ、荒っぽい人なのかと思うよね……正直気持ちは分かる。と、噂をすれば彩加ー!」
二人が噂をしていると影が現れた。昇降口に佇み本を読む白髪の少女は紛れもなく彩加だった。虹夏がすぐに彩加を見つけられたのは理由がある。
(彩加ってやっぱり背が高い!)
家で顔を合わせた時から、なんなら文化祭での演奏を見た時から判明していた事だが、彩加は女子生徒の中ではかなり背が高い方だ。推定でも175cmは有り、虹夏からすればほぼ巨人である。早生まれは背が低い傾向があるという話は何だったのか。
件の少女である彩加は虹夏の声を聞くと本を閉じて自分の義姉を見やる。閉じた本のタイトルは『中原中也詩集』だった。
「あ、虹夏だ。そっちは?」
「この子はベースの山田リョウだよ。表情出にくいけど変人って言ったら喜ぶよ」
「嬉しくないし」
そう言いつつリョウは嬉しそうであった。まあ、変人を自称する人間は古今東西一定数いるものだ。それが良いとも悪いとも彩加は思っていない。全体主義は嫌いなのだ。
「よろしくお願いします、山田リョウ」
「うん、よろしく」
(あれ? リョウと彩加って実は相性良い?)
虹夏が仲良くなれそうだとホッとしていると、二人は「呼び方は山田でいいか?」「うむ、良い」というやり取りをしていた。意外と純粋な部分もある彩加にリョウの欠点まで移らないか心配していると、虹夏の携帯電話が着信を告げる。
「あ、ぼっちちゃんからだ」
「ぼっちちゃん……?」
「バンドメンバーの一人。本名が後藤ひとりだから『ぼっち』って呼んでる」
「それは……あだ名にしていい事柄なのか? 山田」
「本人が喜んでるしいいんじゃない? 因みに私達のバンドは結束バンドって名前」
「へえ、面白い名前だな」
彩加とリョウが会話していると、虹夏がロインを見て首を傾げていた。どうしたのかと首を傾げた二人が近寄ると、虹夏がメールの文面を見せてくる。そこには
「すみません…!EDMガンガンかけてリョウさんとエナジードリンク片手に踊り狂いながらバイトしててください」
と書かれてあった。経緯も何も分からないが、後藤ひとりなる人物がまた一段と良く分からなくなった彩加であった。会ってみれば分かるかもしれないと言うのは見通しが甘いようである。
「エナジードリンクか……今日が私の命日のようだ」
「彩加は飲まなくていいから! 死んじゃうから!」
彩加は退院できたとはいえ胃潰瘍は完治したわけではない。カフェインを多量に摂取すると胃壁がダメージを受ける可能性もある。虹夏からしてもライブハウスで吐血されるのは色々と困る。
かくして三人は「よく分からないがエナジードリンクは買っていこう」という暫定的結論を出し、学校を出発した。
「少々買い過ぎではないのか、これは」
彩加は自分含め三人が持つ大量のエナジードリンクを見て彩加が呟く。彩加は飲んだことが無かったので詳細はよく分からないが、通常の飲料よりも値段が高く、刺激物も豊富なこの商品を一日に何本消費する気なのか、と素朴な疑問を浮かべている。
ぼっちなる人物の意図は未だによく分からないが、この時点で彩加は戦力外通告だ。運送業者でもあるまいに、自分の腹に入ることの無い飲み物を大量に持ち運ぶというのも少々虚しいものだが、退院後のリハビリにはなっているかと気持ちを切り替えた。
そして、暫く歩いていると目当ての人物である後藤ひとりを発見する。
「ぼっちちゃ~ん、よく分からないけどエナドリ沢山買ってきたよ~」
三人が練習場所であり、虹夏の姉である星歌が経営するライブハウスでもある『STARRY』に向かう道中、三人は思いがけない出会いをする事となる。そこにいたのは結束バンドのメンバーである『ぼっち』こと後藤ひとり、これはいい。練習のために向かっているのだから予定調和である。しかし、
「あっ! 逃げたギター!!」
病室での虹夏の話に登場したライブ直前に逃げたらしいギターボーカルまでいた事は三人にとって想定外であった。
「「逃げたギター……?」」
桃色の髪の少女である後藤ひとりと、一番の新参者である彩加が首を傾げる。彩加も一度だけ話題には上がったものの、容姿等は聞いていなかったので「あの赤髪のが逃げたのか」という印象であった。涙目で彩加を見られても、彼女にはどうすることも出来ない。
「あれ……?」
しかし、虹夏達の後ろから買ってきたエナドリを飲みながらやってきた山田リョウが赤髪の少女を視界に入れると、虹夏と赤髪の少女の間で膠着していた事態が動く。なんと、赤髪の少女がリョウに向かって土下座し始めた。
「何でもしますからあの日の無礼をお許しください! どうぞ私をめちゃくちゃにしてください!」
「誤解を生みそうな発言やめて!」
何やら危ない事を口走りながら土下座を繰り返す赤髪の少女と、彼女を必死で止めようとする虹夏を見ながら彩加は率直な感想を口にする。
「なんか……凄いな……」
彩加は暫く乱痴気騒ぎを眺めていると、一人で佇む少女を見つけた。「彼女が後藤ひとりか」と分かった彩加は自己紹介だけでもしておこうと彼女に近づく。
「初めまして、伊地知彩加だ。よろしく」
だが、彩加はこの時いくつかの計算違いをしていた。
一つ目は『ぼっち』こと後藤ひとりが筋金入りの人見知り――俗に言うコミュ障であり、もはや対人恐怖症の域に達していた事。見知らぬ人間から急に声を掛けられて対応できる力は持ち合わせていないのだ。
二つ目は彩加自身の容姿の事である。175cm程度はある長身に、雪女のような美貌、そしてつり目気味の目と上手く笑う事が出来ないが故の無表情。参考までに書いておくと、後藤ひとりの身長は156cmである。見上げるような長身に不愛想な表情で見下ろすように睥睨する彩加の顔を目を逸らす直前にうっかり見てしまった後藤ひとり。
「ピっ……ぎゃああああああ!」
人当たりの良い虹夏ですら目を合わせられない彼女は、盛大な顔面崩壊を起こして気絶してしまった。
「えー、喜多ちゃんギター弾けなかったの?」
「はい……」
「それで合わせの練習頑なに避けてたんだね」
虹夏の言葉に赤髪の少女こと喜多が頷く。どうやらギターを弾けるという虚偽の情報を話してバンドに参加したらしい。何故そんなすぐに露見しそうな嘘を、と思わなくも無いが、実際そうなりそうだったから逃げたのだろう。
「突然音信不通になったから心配してた」
「先輩……!」
「死んだかと思って最近は毎日お線香あげてた」
「いや勝手に殺さないで?」
リョウの中では喜多は死んでいたようだ。量子力学的に言えば観測されなければ存在しない事になるが、どこぞの白髪オッドアイなバイオリニストでもあるまいに、無用な心配である。虹夏も確りとツッコんでいた。
「あの……怒らないんですか?」
「気付かなかったあたし達にも問題あるし、それにあの日は何とかなったしね!」
そう言って虹夏は後藤ひとりを見る。物は言いようと云うが、実際そうなのだ。喜多が逃げ出さなければひとりはずっとバンドを組めなかった。だが、件のひとりは視線を右往左往させている。
原因は彩加だ。STARRYに来てからずっと椅子の上で器用に膝を抱えて落ち込んでいる。原因は後藤ひとりだ。血を分けた肉親から人外、醜女と蔑まれてきた彩加だが虹夏の言葉によって多少は前向きになれていたのである。なれていた所にあの反応だったのである。後藤ひとりに顔を見られた瞬間に悲鳴を上げられ、顔面崩壊して気絶してしまった。正に人外の化生にでも遭遇したかのような反応ではないか……
「私は結局のところ死の家の化け猫か……
「ご、ごごごごめんなさい!」
傍らでひとりが謝り続けるのにも気付かずひたすら自己嫌悪の言葉を吐き続ける彩加。そして倒れる以前は実に闇の深い人生設計を立てていたことが判明した。
「彩加~、そろそろ立ち直って喜多ちゃんに自己紹介して~。あとそんな人生設計はポイしなさい!」
虹夏の言葉にようやく顔を上げた彩加は簡潔に自己紹介をする。
「伊地知彩加、高二だ。よろしく、喜多」
「あ、はい、よろしくお願いします……伊地知?」
「血は繋がってないけど、私の妹だよ」
「そうなんですね……(綺麗な人……)」
喜多は脚を下ろし、死んだ目で自己紹介をする彩加の美貌に内心で感嘆していた。自分も初見では良い意味で驚いてしまうだろうと。
「結束バンドのバイオリン担当として入る事になったよ」
「バイオリンが弾けるんですか? 凄い……」
彩加自身、バンドというものに興味があったので入る事に決めたのだ。バイオリン用の機材を買いそろえなければならないが、それは後でもいいだろう。
「サラサーテのカルメン幻想曲、ヴィヴァルディの冬の第一楽章、モンティのチャルダッシュ、パガニーニのラ・カンパネラ……これらを弾けるだけの技量はある。オーケストラの経験もあるから足を引っ張ることはおそらくない」
「あたし達にどんな難曲を演奏させる気だ」
「とはいえ、現代曲を弾いた事はあまり無いから、不具合が生じたら誰かを頼るかもしれない」
「抱え込まないでね、お願いだから」
彩加は誰にも助けを求めなかった前科がある。本気で自殺しかねないので釘をさす虹夏であった。これに関してはまた別の疑惑があり、虹夏と星歌はゆっくりと無理のない範囲で解決する心算だが。
だが、この彩加の発言に恐怖した者がいる。
(彩加さんの言った曲はクラシックに疎い私でも幾つか知ってる……決して簡単ではない曲の数々……)
それは初対面時に意図せず彩加に精神的ダメージを負わせた後藤ひとりだ。彼女の脳裏に思い出されるは結束バンドとしての初ライブ。ソロでは無類の腕を誇るひとりだが、他人と演奏した経験が無いため突っ走った演奏をしてしまう。故に音楽が崩壊してしまうという事態を招いた。
(バイオリンの経験者でオーケストラの経験もある……そんな人の前でこの前のような醜態を晒そうものなら……!)
ひとりは想像してしまった。演奏が滅茶苦茶になり、怒り心頭の彩加に詰め寄られるところを。
「ひぃぃぃぃぃぃぃ!!」
「どうした!?」
「いいいいいイキってすみません!」
「い、生きろそなたは美しい……?」
「あ、ぼっちの雄叫びが」
「なんだろう、ぼっちちゃんと彩加の間に何かしらの情報の齟齬を感じる」
ひとりの奇行に慣れていない彩加が驚き、戸惑いながらも宥めようとしているのをリョウと虹夏が冷静に見ていた。
とりあえず全員の顔と名前がお互いに共有されたところで、喜多が「何か償いをしなければ気が済まない」と言い、店長である星歌が「だったら店を手伝ってくんない?」という提案をし、喜多はこれを快諾。
客入りが多いと予見された今日はそれだけでも助かるところだが、喜多は手に余る罪悪感を抱えていたらしくそれでも罰が足りないと主張した。その様子を見た彩加が「ラスコーリニコフみたいだな……」とドストエフスキーの『罪と罰』に登場する予期せぬ殺人の罪の意識や自白の衝動に苦しむ青年になぞらえた発言をし、虹夏を苦笑させた。
とにもかくにもごねた喜多に星歌は「じゃあ恥ずかしい恰好もしてもらおう」と私物のメイド服を着せた。なお、何故そのような服を持っているのかは虹夏にも分からないようだ。しかし、喜多はそのような格好でも恥ずかしがるでもなく手際のよい仕事をする。鼻歌混じりにモップ掛けをし、本来の明るい性格が戻っているようだ。
「それにしても喜多ちゃん手際いいね~」
「ああ、臨時なのに使えるなあいつ」
「惰眠を貪る時間まで出来てしまった……」
「時給から引いとくな」
伊地知姉妹が喜多を褒めるとひとりが肩を震わせる。そしてリョウは地味に給料を減らされていた。そして、虹夏が喜多の愛想の良さを見込んで受付の仕事を勧めると、ひとりはゴミ箱の中に入っていった。
「では聞いてください……『その日入った新人より使えないダメバイトのエレジー』」
「器用だな、アイツ」
ゴミ箱の中から器用に両手を出しギターの演奏を始めるひとりを見て彩加は素直に感心した。そしてひとりの魂が抜けていくのを見て少し慌てたのは余談である。
(私より死にそうな奴いるじゃないかよ……)
彩加が目の前のカオスな状況に宇宙猫状態になっていると、喜多を連れた虹夏がひとりに近寄り「喜多ちゃんにドリンク教えたげて?」と言った。
(名誉挽回のチャンス!)
と思ったかは不明だが、水を得た魚のように跳ね起き、喜多とともにカウンター裏へ行った。
「彩加はどうする? まだまだ病み上がりだから休んでても良いけど」
「いや、私も働こう。リハビリになりそうだし、一人だけ何もしないのも居心地が悪い」
「了解。その精神をリョウも見習ってほしいんだけどね……」
そんなわけで彩加は喜多とひとりと共にドリンクを提供する仕事に従事する事になった。喜多とともに経験者であるひとりの教授を受けようとしたが、ちょっとした惨劇が起きた。
「きゃああああ! 後藤さん溢れてる溢れてる!!」
「何やってんだアンタは!」
見られるという状態に極度に緊張したひとりが給湯ボタンを押しっぱなしにして、溢れた熱湯で自分の手を湯引きしてしまった。
軽い惨劇の後、火傷したひとりの手を冷やし、喜多は自分のハンカチを取り出してそっと巻いた。ひとりは暫く鼻を啜りながらされるがままになっていたが、喜多の手を見て何かに気付く。同時に彩加も気付いていた。
「良かった! 大事にならなくて……」
「あっありがとうござ……!」
ひとりの処置が一段落した所で、喜多がなんとなしに疑問を投げかけた。
「後藤さんって何でバンド始めようと思ったの?」
「え……」
(インドア趣味なのに派手でカッコイイし人気者になれるし……動機が全部不純すぎる!)
思いつくのは自分がバンドを志した、あまり良いとは言えない理由の数々。喜多や傍で聞いている彩加に失望されない方法を探した結果、
「あっ……世界平和……世界平和を伝えたくて……」
「意識高いのね~」
という、因果関係が迷子となった荒唐無稽な嘘であった。通常であれば悪ふざけともとられかねない内容だが、喜多は信じたようだ。そして、「彩加先輩は?」と質問を投げかけた。
「私は大した内容じゃないけどな。何処であろうと音を奏でる。最期までそれは止められぬと悟っただけだ。とりたててバンドを選んだ理由など無い。あるとすれば、アンサンブルでもオーケストラでもない音楽形態に興味が湧いたという程度か」
(凄い……理路整然としてる……)
「そうなんですね……私は後藤さんや彩加先輩と違って不純なんですけど、リョウ先輩の路上ライブを見て一目惚れしたんです」
喜多が語るには、リョウに憧れ、バンドメンバーを募集していた結束バンドに入ったらしい。
「バンドって第二の家族って感じしませんか? 本当の家族以上にずっと一緒にいて皆で同じ夢を追って……友達とか恋人とかを超越した不思議な存在だと思うんです」
(音楽性の違いとかで離散するらしいが……言わない方が良いだろうな)
「部活とか何もしてこなかったし、そういうの憧れてたんです。友達なんかじゃない、先輩の娘になりたかったの!」
(あれ? 喜多さんって結構ヤバい人……?)
(ワーグナーといいパガニーニといいリストといい……芸術家はどこかしら頭がトんでいるのかね)
「だからこそバンドにはもう入らないけどね。私みたいな無責任な人間はいちゃいけないんです」
「………」
「家族……か」
「彩加先輩?」
彩加は少し逡巡した。正直に言うと、これは言わない方がいいかも知れないからだ。『家族』という関係に何も幻想の抱けない自分が、喜多の言いたいことを理解できているとも思えない。だが、今なお悩み続ける少女を見ていると、口が開いた。
「私は家族という物を語れるほど、多くを知らない。私が観測した家族は、死の家の記録しか持ち合わせていないからな」
「先輩……」
『死の家の記録』、実質上のドストエフスキーの獄中体験記録とも言える小説。その名前を出されただけで、今日知り合ったばかりのひとりや喜多にも彩加が家族と確執を持っている事が分かる気がした。
「思惑よ、汝、古く暗き気体よ、わが裡より去れよかし。われはや単純と静けき呟きと、とまれ、清楚のほかを希はず。アンタが言いたいのはこういう事だろう」
「は、はい……」
中原中也の『羊の歌』。それ自体は喜多やひとりもかろうじて知っていたものの、つかえもせずに暗唱した彩加を少し恐ろしいと思った。
「私個人から言わせてもらえば、そんなものに価値など有りはしない。ワーグナー、リスト、モーツァルト……彼らの生涯は清純とは言い難く、決して人格者などではなかった」
「………」
喜多の話を正面から叩き潰すような言葉だが、二人は彩加の纏う雰囲気に何も言えずにいた。
「そこでだ……お前は腹が減った時、どうやって食べ物を得る?」
「それは……家族に作ってもらうか、買いに行きます。簡単なものなら作れますけど……」
喜多は彩加の真意が読めないながらも質問には答える。根本的な所でひどく真面目な少女だ。
「まあそんなところだろうな。だが私の答えは、音楽で空腹を表現する、だ」
「は、はあ……」
「要するに、満たされていれば、飢えていなければ音楽は生まれない」
「………」
「アンタは飢えているんだろう? 喜多。その『不純』こそが音楽を生み出す糧だ」
どこまでも、骨の髄まで音楽家である彩加に喜多は言葉を発せなくなる。ひとりは既に魂が抜けかけているが、それを気にする余裕は無かった。片や彩加はその狂気とも言える理論を語りながら、ライブをするバンドの音楽を聴いていた。
「強制するのは嫌いだから、最終的な判断はアンタに任せる。だが、家族であれ友人であれ、人間関係の本質が陰鬱なる汚辱の許容であると云う事は変わらない」
最後の言葉は喜多に言った物か、彩加自身に言った物か……
「じゃあお疲れ。今日はもう帰っていいよ」
バイトの時間が終了し、虹夏と彩加以外は帰り支度を始める。その中で、真っ先に出口に向かう人物がいた。
「今日はありがとうございました。これからもバンド活動頑張ってください。影ながら応援しています。それでは」
「あっちょ、まっ……まっちょ……帰らな……」
「待ってあげるから落ち着いて!」
結束バンドとの決別を言って帰ろうとする喜多に、ひとりがそれを止めに向かった。
「あっ……このまま帰って……ほっ本当にそれでいいんですか……」
「彩加先輩はああ言っていたけれど、私、やっぱり結束バンドには入れないわ。皆真剣にやってるし、私は一度逃げ出した人間だもの」
裏切ったことが十字架となり、銀貨と荒縄を持たされたかのような喜多がそう呟く。やはり根本的な部分でひどく真面目なのだろう。そして、彩加のような闇や狂気を持ち合わせているわけでもないのだ。
「戦時中であれば脱走兵は罪となるが、この場合はそうでもあるまいさ。でなければ、射干玉を征く敗残兵の私が加わっているはずも無い」
彩加がやや大きな声でそう言うと、ひとりはそれに背中を押されたように話す。
「あっあっあのさっき喜多さんに手当てしてもらった時、指の先の皮が硬くなってました。かっかなりギターを練習していないとそうならないはずです……逃げ出したって言ってるけど本当は練習してたんですよね。本当はバンド続けたかったんじゃないですか」
それは彩加も気がついた事だった。故に、喜多が『飢えている』と判断した。
「………でも」
「もっもしかしたら楽器を弾くのは人より苦手なのかもだけど……どっ努力の才能は人一倍あるから大丈夫です」
まだ迷いを見せる喜多に、虹夏が会話に加わる。
「私も喜多ちゃんにこのバンド盛り上げるの手伝ってほしいな!」
「虹夏先輩……」
「ギターが増えたら音が賑やかになるしノルマも5分割」
「素直な言い方しなよ!」
リョウの場合割と本気でそう思っていそうだが……しかしそこで喜多に電流が走った。
「先輩分のノルマ、貢ぎたい!」
「爛れた関係が爆誕しそうなんだけど!」
「令和のワーグナーか山田」
少し空気が壊れかけたが、ひとりが更に言を続ける。
「あっ、私も喜多さんとバンドしたいです。きっ喜多さんもバンド好きってわかったし……もっもう一回結束バンドに入りませんか? ひっ一人で弾くより皆で弾くのは楽しいですよ」
その言葉に、喜多はようやく決心がついたようだ。
「うん、頑張る。結束バンドのギターとして」
その後、後藤ひとりは考えている事がすぐに顔に出る事が判明したり、喜多がギターと間違えて多弦ベースを購入していた事が判明し、喜多が「二年分のお小遣いとお年玉前借したのに……」と言い残してエクトプラズムを吐き出して倒れるという事件が起きた。なお、虹夏と彩加はギターやベースの知識に疎いため、事態の重さをあまり把握できていなかったりする。
こんなに長い話書いたの初めてかも知れない……下手な所で区切ったらダメな気がしたので。それと、基本彩加の言っている事は私個人の持論です。