来年が楽しみです
L社の処方薬は、やはり最後まで何の意味もなさなかった。
重い瞼をこじ開け、ホテルのベッドから這い出す。鏡に映った自分の顔は、これから輝かしい学園生活を始める新入生のそれではない。ピアニストの残響、アルガリアさんの鎌、そして「都市」の誰かの人生……。断片的な夢のせいで、僕の精神は入学前から既に削れ始めていた。
「この安定剤、返品不可の不良品なんだろうか…」
アンジェラ社長の顔を思い浮かべながら、僕は支給された「制服」に袖を通す。
「よし、忘れ物はないな。……レポート用の端末、予備のクリフォト干渉弾、あとは……胃薬か」
苦労人の自覚はある。だが、これから始まる「女尊男卑」の極致のような学園で、L社のワンオペ任務をこなすとなれば、胃がいくつあっても足りない。
学園への連絡橋を渡る。
四方八方から突き刺さる女子生徒たちの視線は、もはや物理的な質量を持って僕の背中を叩いていた。
「ねえ、見て……男子が二人もいる」
「一人はニュースの織斑一夏よね? もう一人は……L社の?」
「なんだか、あっちの人は目が死んでない?」
放っておいてくれ。こっちは半年間、笑顔の狂人に鎌で追い回されてたんだ。
そんな僕の横で、同じように居心地悪そうに、けれどどこか「普通」の戸惑いを見せている少年がいた。
「……あー、君も今日から?」
声をかけてきたのは、織斑一夏だった。世界で初めてISを動かした男子。僕にとっては「観測対象」の一人だが、今のこのアウェーな状況下では、唯一の戦友のように見えた。
「ああ。L社から来た。よろしく、織斑くん」
「お、よろしくな! なんだ、他にも男子がいて安心したよ。……なんか凄く疲れてないか?」
「……まあ、ちょっとした『訓練』がハードだったんだ」
一夏の能天気なまでの明るさは、僕の耳には「混じり気のない単音」のように聞こえた。
彼には裏表がない。精神の歪みがほとんどないのだ。それはこの学園において、非常に稀有で、そして危うい特質だった。
教室――1年1組。
扉を開けた瞬間の静寂と、その後に爆発したようなざわめき。
一夏に向けられる黄色い声と、僕に向けられる「L社という得体の知れない組織への警戒心」。
僕は教室の隅、目立たない席に陣取ると、即座に端末を起動した。
その時、教壇に一人の女性が立った。
「全員、席に着け」
空気が凍りつく。織斑千冬。
一夏の姉であり、世界最強のIS操縦者。彼女の背後に見える「圧」は、ゲブラーさんのそれとは質が違うが、紛れもない強者のものだ。
彼女に続いて、おどおどとした様子で入ってきたのが、山田真耶先生だった。
「え、えーと、皆さん、おはようございます! 副担任の山田ですっ」
派手に机の角に膝をぶつける彼女を見て、教室に小さな笑いが起きる。
(……山田先生、やっぱりただのドジっ子じゃないといいけど…L社とのパイプ役、期待して良いよね…)
IS学園という場所は、平たく言えば「黄金の檻」だ。
最新鋭の科学の結晶に選ばれた少女たちが、その翼を競い合う華やかな園。そこに放り込まれた二人の男子――織斑一夏と僕は、さながら動物園に突如現れた新種の珍獣だった。
「ねえ、あっちのL社から来た子、意外と背が高いわね……」
「でも目が死んでない? 何か怖い仕事でもしてたのかしら」
教室に入った瞬間に突き刺さる、好奇と畏怖、そして微かな蔑みの混じった視線の群れ。
同年代の女子に囲まれるという状況は、世の男子なら鼻血を出して喜ぶのかもしれないが、僕にとっては「いつ収容違反(脱走)が起きるかわからない幻想体の檻」に入っているのと同程度の緊張感を強いるものだった。
「えー、じゃあ次は織斑くん、自己紹介お願いしますっ!」
山田先生の促しに、教室の期待が最高潮に達する。世界で唯一ISを動かした男子。その口から語られる壮大な野望や秘密を誰もが待っていた。
だが、彼から出たのは「……えー、織斑一夏です。よろしくお願いします」という、あまりに味気ない一言だった。
――ドゴォッ!!
直後、千冬先生の拳が彼の脳天を捉えた。鼓膜を震わせるその打撃音は、優に90デシベルを超えていただろう。不憫に思いつつも、僕は「ああはなりたくない」と強く心に誓った。
僕の番になると、L社という看板のせいか、教室は妙な静まり返りを見せた。
「L社から派遣されました。趣味は芸術と、好物は……まあ、焼き鳥とかです。よろしくお願いします」
親族を失った過去や、ピアニスト事件の生き残りであることは伏せておく。この華やかな場で「重すぎる真実」を提示するのは、パーティー会場に汚染されたエンケファリンを持ち込むようなものだ。
休み時間、一夏が「助かったよ、お前がいてくれて」と寄ってきた。彼のような裏表のない性質は、この学園では貴重な清涼剤だ。
そこへ、一振りの研ぎ澄まされた日本刀のような気配を纏った少女が近づいてくる。
「一夏、少し時間を貸して。……あなたは、L社の?」
「篠ノ之箒さん、ですね。どうぞ、ご自由に」
一夏の幼馴染だという彼女の「礼」を受けて送り出す。
僕は一息つきながら、習慣的に教室内を「観測」した。L社の実地訓練で叩き込まれた、人間の精神状態の視覚化。
(罪まではいかないけど…騒がしいのは仕方ないか…)
感情の過剰な蓄積は、最悪の場合「大罪」や「ねじれ」のトリガーになる。
このキラキラした学園生活の裏側で、僕の端末には着々と不穏なデータが蓄積されていく。
授業が始まると、周囲の女子たちがISの基礎知識に四苦八苦する中、僕は入学前の「地獄の詰め込み教育」に感謝していた。
だが、隣の一夏は完全にフリーズしている。山田先生に指され、彼が「教科書が……古い電話帳と間違えて捨てました」と答えた瞬間、教室は絶望の渦に包まれた。
「……入学前に渡された内容の、ただの復習ですよね?」
僕がそうフォローを入れると、山田先生が「そうなんです! 助かりますっ」と胸を撫で下ろしていた。
ISの基本を知らずに機体を動かすのは、L社で言えば何も知らない一般人に「何もない」の作業をさせるものに等しいのかもしれない。
その後、再び教室に響いた90デシベル超の打撃音を聴きながら、僕は一夏の胃の辺りを心配せずにはいられなかった。
だが、話は「クラス代表」の選出でこじれた。
「わざわざ話し合うまでもありませんわ。この私(わたくし)、セシリア・オルコットがクラス代表を引き受けて差し上げますわ。それがこのクラスにとって最も幸福な選択ですもの」
流れるような自薦。彼女の言葉は、自己の完成を疑わない自信だったが、それを塗りつぶすように、クラスの女子生徒たちから次々と声が上がる。
「先生! 私は織斑くんがいいと思います!」
「私も! 織斑くん、唯一の男子だし、代表に相応しいよ!」
一夏さんの他薦。彼を推す声の渦に、セシリアさんの眉が不快げに跳ね上がりました。
女子生徒たちの推薦という「突き上げ」を喰らった僕と一夏。それに納得しないセシリア。
三つ巴の言い争いが過熱し、千冬先生の眉間の皺が限界を超えようとした時、僕はすかさず「L社との契約書」という名の盾を差し出した。
「先生、僕は契約上、学園内の『特異事案』への対処が優先されます。拘束時間の長いクラス代表は、業務に支障をきたす恐れがあります」
「……そうだったな。貴様は除外だ」
千冬先生の鶴の一声。僕は心の中でガッツポーズを決め、一夏の「裏切り者……!」という恨めしげな視線を無視した。
結局、一夏とセシリアの一騎打ちで代表を決めることになったが、あの二人の衝突から漏れる「嫉妬」と「憤怒」の感覚を見ながら、僕は胃薬の追加発注を検討し始めていた。
「どうか、僕の生活が豊かになりますように……か。アンジェラ社長、前途多難すぎますよ」
窓の外、平和な空を見上げながら、僕は誰にも聞こえない溜息を吐いた。
最初の一日は、何事もなく終わる……そんな淡い期待は、L社の入社試験に合格する確率よりも低かったらしい。
授業が終わった瞬間に訪れたのは、女子生徒という名の「波」だった。
「ねえ、L社のこと教えてよ!」「誕生日は?」「好きなタイプは?」「その指輪、どこのブランド?」
四方八方から飛んでくる質問の礫。一七五センチの視界は、瞬く間に制服の海に沈んだ。情報を丸裸にされる恐怖は、収容室のセンサーが真っ赤に染まる瞬間に似ている。
「あ、はは……仲良くしましょう、とは言いましたけど……」
人当たり良く返そうにも、多勢に無勢だ。ふと見れば、一夏の方は僕以上に悲惨なことになっていた。織斑先生の弟という特大のブランドを背負った彼は、もはや揉みくちゃだ。その輪の外で、一振りの抜身の刀のような殺気を放っているのは、幼馴染の篠ノ之箒さんだろう。
(……誰か、この『大罪』予備軍の集団を鎮圧してくれ)
そんな僕の切実な願いが届いたのか、人混みを割って山田先生がやってきた。
「はーい、そこまでです! 二人の寮の部屋が決まりましたから、すぐに移動してください!」
手渡されたのは、部屋番号が記された鍵。僕は事前に個人部屋の契約を社長と交わしていたが、一夏の方は事情が違うらしい。
「あの、俺は自宅から通うって聞いてたんですけど……」
「事情が変わったんです。IS操縦者のリスク管理の一環として、無理やり部屋割りを変更したんだとか」
山田先生がこっそりと手招きし、僕たちにだけ聞こえる声で告げる。
「……申し訳ないですが、織斑くん。あなたは女の子と同室になります」
「えっ、女の子と!?」
一夏が素っ頓狂な声を上げる。年頃の男女を同室にするなんて、L社の倫理規定(あるのか怪しいが)なら即座にアウトだ。案の定、周囲の女子生徒たちが「誰と!?」「不公平よ!」と騒ぎ出す。
荷物の準備のために一度帰宅したいと申し出たが、現れた千冬先生に「生活必需品は用意してある。余計なことは考えるな」と軽く小突かれ、強制的に寮へと連行されることになった。
案内された寮の部屋は、出入り口に最も近い角部屋だった。
緊急時の出動を考えれば、これ以上ない配置だ。僕が部屋に入る際も「ここがあの人の部屋……」「夜中に忍び込めば……」なんて物騒な囁きが聞こえてきたが、今は無視することにする。
「……ふぅ。やっぱり、一人は落ち着く」
ノックをしてから入った個室は、元々二人分だった場所を一人で使っているせいか、かなり広かった。
L社の社員証、業務用のPC、通信機器。それらをデスクに並べ、最後にクローゼットの奥へ、重厚なケースを収める。
(……落ち着いたら、少し描けるだろうか)
ケースの中身は、僕の唯一の趣味であり、スケッチブックと色鉛筆。
思い描くまま描くことは下手でも楽しい唯一の時間だった。
しかし、筆を手に取る時間は与えられなかった。
――ドォォォォォォォンッ!!
遠くの廊下から、ISの衝撃砲でも食らったかのような破壊音が響いた。
反射的に部屋を飛び出す。
廊下には、着替えの途中だったのか、部屋着や……その、目のやり場に困るような格好の女子生徒たちが溢れていた。普段の僕なら「変態扱いされたくない」と即座に目を逸らすところだが、今の僕の鼻を突いたのは、彼女たちの香水の匂いではなく――焼けた金属と、焦げた臭いだった。
「……何があった!」
「わかんない、突然大きな声が聞こえたと思ったら、あそこの扉が……」
女子生徒が指差した先。そこには、何かの巨大な牙で噛みちぎられたかのように「穴あきチーズ」状態になった扉があった。一夏の割り当てられた部屋だ。
数秒後、扉が内側から弾け飛び、二人の影が転がるように外へ放り出された。
「一夏! 箒さん!」
二人は煤まみれになりながら、信じられないものを見たという顔で部屋を指差す。
群がる女子生徒たちの悲鳴を切り裂き、部屋の暗がりから「それ」が這い出してきた。
それは、トカゲのような形状をした存在だった。
全身から高熱の蒸気を吹き出し、節々の隙間や体からは赤い液体が滴っている。何よりも不気味なのは、その頭部にあるべき「目」が、明らかに人間のような、知性を伴った光を宿していることだ。
(見たことあるタイプだけど早速合うとは思わないだろ…)
周囲の空気が一気に膨張し爆発音とともに二人の部屋を火を付け始めたそれと女子生徒たちの悲鳴が響き渡る。
火炎の隙間から、その「怪物」と目が合った。
(……見つかった。こいつ、僕を狙ってやがる)
僕は右手の指輪を握りしめた。
早速の残業を終わらせるべく目の前の脅威を排除しなきゃならない。
「L社への報告、第一号だ……。識別、大罪現象。――『宇宙の欠片』、癒着開始します」
黒いスーツに、子供の落書きのような星とハートが躍る。
槍を構えた僕の前に、炎を纏ったトカゲが飛びかかってきた。
なぜ宇宙の欠片なのか サイコロの結果
というのは置いといて比較的被害が少なく即死はないからという理由。