「ふぅ……」
自室のドアを閉め、防護服を脱ぎ捨てながら重い息を吐き出す。
いつも通りの見慣れた部屋のはずなのに、今日はなんだかひどく広く、そして静かに感じられた。
「……落ち着かないな、どうにも」
無理もない。いつもなら、俺が先に帰った時は山田先生の帰りを待ちながら夕食の支度をしているし、先生が先に帰っている時は、ドアを開けた瞬間に「おかえりなさい!」と、エプロン姿の彼女がぱたぱたと足音を立てて出迎えてくれるからだ。
あの柔らかい笑顔と、少し甘い匂いがないだけで、こんなにも手持ち無沙汰になってしまう。どうやら俺は、自分で思っている以上にこの生活と、山田先生の存在に依存してしまっているらしい。
「……先生が帰ってくるまで、先に報告書を片付けておくか」
気を紛らわすように、俺はデスクに向かいL社支給の特殊端末を立ち上げた。ガブリエルチーフには明日の昼までと言われたが、記憶が鮮明なうちに書いておくに越したことはない。
キーボードを叩き、厳秘指定のフォーマットに本日の戦闘記録を打ち込んでいく。
【特務事案報告書】
報告者: 特別3級職員 〇〇
件名: IS学園アリーナにおける幻想体2体および無人機群の鎮圧記録
本日、学園内アリーナにて突発的に出現した幻想体2体、ならびに多数の無人機の鎮圧作業に従事。各幻想体の特徴および戦闘データを以下に記す。
■ 幻想体-1(木製の人形と思われる形状の個体)
【特徴および交戦記録】
交戦対象の模倣を行い、その対象と同一の性能で対峙する特性を持つことを確認。なお、模倣に関しては基本性能だけでなく、対象の持つ特殊性までも正確に模倣することを確認した。
本個体に対し『クリフォト抑制弾』を使用したところ、命中直後に動作の著しい低下、および模倣精度の低下がみられた。交戦中、当方も至近距離でクリフォト抑制弾の余波を被弾したが、人間相手にはデバフ等の効果が一切ないことが実証されたのは幸いである。
また、本個体は模倣対象の『装備』も模倣するが、対象が所持あるいは装備していない武装を独自に模倣・形成することがある。しかし、それらは出力や性能が伴わない「見掛け倒し」である可能性が高く、その瞬間が最大の攻撃の好機となる。見掛け倒しの武装を使用していると見抜かれた際、個体は自身の防御や体勢に著しい脆弱性を露呈した。
【提言】
脱走した本個体を鎮圧する際は、従事する職員の装備を意図的に統一してから鎮圧に当たることを推奨する。これにより、本個体が形成した武装が「見掛け倒し」であるか否かの判別が容易となり、鎮圧効率が飛躍的に向上すると思われる。
■ 幻想体-2(ラウラ・ボーデヴィッヒの機体に付着・寄生した個体)
【特徴および交戦記録】
何らかの対象に取り憑き、それを保護するような強固な「赤い殻」を作成する。また、目と思わしき器官を発生させ、取り憑いた対象の戦闘行動を模倣する習性を持つことから、ALEPH級幻想体『何もない』の別種、あるいは変異体に近い性質を持つと推測される。
一方で、模倣の精度に関しては『何もない』より大幅に劣っており、対象の形を模するか、取り憑いた装甲の補強(寄生)に留まっていたことを実戦中の解析にて確認した。詳細については、ガブリエル情報チーフの解析データ、および当方の視覚情報を元に判断を下したカーリー保安チーフの証言記録を併せて添付する。
通常、幻想体の別種・変異体は原体と近似の性能、あるいは上位性を持つことが多い。しかし今回の個体は、両チーフの証言からも原体より性能が「劣化」している可能性が高い。とはいえ、『何もない』の近似種であるという事実がある以上、今後同種の個体が確認された場合も決して油断はできないものと考える。
■ 総括および武装に関する提言
今回の鎮圧作業において、『クリフォト抑制弾』の有用性は極めて高かった。危険度の高い幻想体に対し、抑制弾を撃ち込んで対象の機能を物理的・概念的に鈍化させる戦術は、実戦において非常に有効であると示す結果となった。
幻想体の鎮圧作業に際し、事前の制圧射撃として抑制弾を撃ち込んでから本隊が鎮圧作業に移行することで、作業効率と生存率の上昇が見込める可能性は高い。
クリフォト抑止力が働いていない「収容室外」での脱走鎮圧作業に際しては、全鎮圧部隊に本武装を標準携行させるべきであると強く提言する。
「よし、こんなところか」
タイピングの手を止め、報告書の内容をざっと見直す。
内容を暗号化処理し、L社本部のデータベースへ向けて送信ボタンを押した。「送信完了」の無機質なポップアップが出たのを見届けてから、俺は背もたれに深く寄りかかり、大きく伸びをした。
「あー……疲れた。肩がバキバキだ」
関節を鳴らしながら天井を仰ぐ。一仕事終えてホッとしたせいか、先程までの張り詰めていた緊張の糸が解け、どっと疲労感が押し寄せてくる。
しかし、心はどこか穏やかだった。
『……〇〇君が、無事で本当に良かったです。あとで、お部屋で温かいものを淹れますね』
別れ際、山田先生がかけてくれた言葉と、あの心配そうに揺れていた瞳を思い出し、自然と口元が綻んでしまう。
「……早く帰ってこないかな、先生」
誰にも聞こえない独り言を呟きながら、俺は立ち上がった。
彼女がいつ帰ってきてもいいように、お湯を沸かし、二人分のお揃いのマグカップをテーブルに並べておく。静かな部屋の中で、俺は愛おしい足音がドアの向こうから聞こえてくるのを、今か今かと待ち続けるのだった。
ケトルのお湯が沸き、カチリとスイッチが切れる音が部屋に響いた直後。
ガチャリと玄関のドアが開き、疲れ切った足音が聞こえてきた。
「ただいま戻りましたぁ……ふぅ」
「山田先生! おかえりなさい、お疲れ様です」
時計の針はすでに19時近くを指していた。アリーナの被害状況の確認、上層部への報告、そして生徒たちのケア。事後処理がどれだけ大変だったかは、彼女のくたびれた表情を見れば一目でわかった。
「〇〇君もお疲れ様です。お待たせしてすみません、色々と立て込んでしまって……」
「いえ、俺は先に休ませてもらってましたから。……ん? 先生、その袋どうしたんですか?」
山田先生の手には、見慣れた学食のプラスチック容器がいくつも入った大きな袋が握られていた。
「ああ、これですか? さっき、学食の方から持たされたんです。一年生の子たちが『〇〇君と山田先生の姿が見えなかった』って心配して話していたらしくて。そしたら『あの二人は絶対にご飯を食べる暇もなかったんだろうから、これ持って帰りなさい!』って」
「マジですか。学食のおばちゃん、相変わらず鋭いというか、ありがたいですね」
袋の中を覗き込むと、唐揚げにハンバーグ、卵焼きやポテトサラダなど、俺と先生の好物ばかりがこれでもかと詰め込まれていた。二人分の夕食としては十分すぎるほどの量だ。
「これだけで立派な晩御飯になりますね。先生、俺がお皿に移しておくので、着替えてきちゃってください」
「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……」
山田先生が部屋着に着替えて戻ってくる頃には、テーブルの上には学食特製の豪華なオードブルと、お湯を注いだばかりの先生特製ハーブティーが並んでいた。
「わぁ、美味しそう……! 学食の皆さんに感謝ですね」
「ええ、本当に。冷めないうちにいただきましょう。いただきます」
「いただきます!」
二人で向かい合って、一口食べる。
「んん〜っ……! 疲れた体に味が染み渡りますぅ……」
「うまっ! やっぱここの唐揚げ最高だな。ハーブティーも落ち着きますね」
激戦の疲労と空腹が重なっていたこともあり、食事は今の俺たちにとって最高の回復魔法だった。
「そういえば、一夏君たちも無事に部屋で休んでいるみたいですよ」
「よかった。あの二人も相当無茶しましたからね。明日が土曜日で本当に助かりました」
「ふふっ、〇〇君も一夏君も、本当に頑張り屋さんですから」
他愛もない話をしながら、笑い合い、箸を進める。さっきまでの死闘が嘘のような、穏やかで温かい時間が流れていった。
食事を終え、食器を片付けた後。
「先生、お風呂のお湯、もう張ってありますけど……俺、先に入っちゃってもいいですか? 汗と泥でベタベタで」
「はい、どうぞ。ゆっくり温まってきてくださいね」
俺は脱衣所に向かい、ドアに『入浴中』のプレートを掛けてから浴室に入った。
熱めのシャワーを浴び、バスタブに体を沈めると、全身の筋肉が悲鳴を上げているのがわかった。
「……っあー、疲れたぁ……」
思わず声が漏れる。装甲越しとはいえ、無数のゴーレムの攻撃を躱し、時には受け止めた代償は小さくない。あちこちに打撲のような鈍い痛みがあった。
「(それにしても……)」
湯船でぼんやりと天井を見上げながら、俺は今日の襲撃について思考を巡らせていた。
ラウラの暴走やVTシステムの起動に、あの幻想体が共鳴して反応したのは百歩譲ってわかる。だが、それに合わせて外部から『ゴーレム』の部隊が絶妙なタイミングで投入されたのは、どう考えても出来すぎている。
「(間違いなく、誰かが裏で糸を引いて指示を出したんだろうな……)」
ただの暴走事故じゃない。明確な悪意を持った第三者がこの学園を狙っている。
嫌な予感が胸をよぎるが、俺みたいな末端の職員が一人で考えても答えは出ない。ガブリエルチーフや上層部もすでに気づいて、何らかの対策を練っているはずだ。そう信じることにして、俺は頭を振ってお湯から上がった。
「ふぅ……。先生、お風呂空きましたよー」
寝巻きに着替え、『入浴中』のプレートを外しながら声をかけると、山田先生がバスタオルを持って小走りでやってきた。
「はーい! ありがとうございます。私もササッと入ってきますね」
山田先生がお風呂に入っている間、俺はベッドに腰掛けながら、今日一日の出来事を反芻していた。
やがて、お風呂から上がってきた山田先生は、ほんのりと頬を上気させ、少し湿った髪からシャンプーのいい匂いを漂わせていた。
「お待たせしましたぁ。んん〜、さっぱりしました」
「お疲れ様です。髪、乾かしましょうか?」
「ふふ、今日は自分でやりますから、〇〇君は先にベッドに入っててください」
ドライヤーの音が鳴り止み、部屋の明かりがオレンジ色の間接照明だけになる。
俺たちは、いつものように並んで一つのベッドに入った。そして、ごく自然に、布団の下でそっと手を繋ぐ。
山田先生の少し小さくて、でも温かい手が、俺の指に絡みついてきた。
静寂の中、山田先生がポツリと口を開いた。
「……〇〇君」
「はい」
「今日は……本当に、お疲れ様でした。でも……」
繋いだ手に、ぎゅっと少しだけ力が込められる。
「あまり、無茶はしすぎないでくださいね」
「……先生」
彼女の震えるような声を聞いて、俺の脳裏に、地上でたった一人、ゴーレムの大群の射撃を浴び続けていた時の光景がフラッシュバックした。
(あの時、もし一つでも回避をミスして、大量の銃弾を被弾してしまっていたら……)
想像しただけで、背筋がスッと寒くなる。俺が死ねば、悲しむ人がいる。隣で震えるこの手から、その恐怖が痛いほど伝わってきた。
「……はい。心配かけて、すみませんでした。次からはもっと気をつけます」
俺が素直に頷くと、山田先生は布団の中で寝返りを打ち、こちらを向いて優しい目で見つめてきた。
「……先生の立場として、無茶をする生徒を見守らなきゃいけないのは、本当に心臓に悪くて、大変なんですよ?」
「う……返す言葉もありません」
「でも……」
山田先生は、繋いだ手を自分の胸元に引き寄せ、愛おしそうに微笑んだ。
「あなたが、こうして無事に私の隣に帰ってきてくれて……本当に良かったです」
その真っ直ぐで甘い言葉と、至近距離で見つめてくる潤んだ瞳に、俺は一気に顔が熱くなるのを感じた。
「っ……せん、せい……そういうこと不意打ちで言うのは、反則です……」
「ふふっ……〇〇君の顔、真っ赤ですよ? ……あっ、私も、人のこと言えませんけど……」
山田先生も自分の言葉の恥ずかしさに気づいたのか、耳まで真っ赤に染めて、照れ隠しのように布団を口元まで引き上げた。
「……おやすみなさい、〇〇君」
「……おやすみなさい、山田先生」
繋いだ手から伝わるお互いの熱動と心音。
激動の一日を終えた深い疲労と、何にも代えがたい安心感が心地よい睡魔となって押し寄せてくる。
顔を真っ赤にしたまま、俺たちは吸い込まれるように、泥のような、けれどとても温かい眠りへと落ちていった。
サブタイトルを考えるのが大変だ