IS×PM   作:本棚の一冊

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日常のほうが楽しい謎


32話 慌ただしい土曜日 前編

チュン、チュン……。

 

窓の外から聞こえる小鳥のさえずりと、カーテンの隙間から差し込む朝の光。

昨日は文字通り命がけの激戦だったこともあり、土曜日の今朝くらいは少し遅くまでベッドで寝ていたい……そう微睡みながら、俺は無意識に腕の中にある『温かくて柔らかいもの』をギュッと抱き寄せた。

 

「んんっ……〇〇君……」

「……んぁ? ……山田、先生?」

 

至近距離から聞こえた甘い声に、俺はゆっくりと重い瞼を開けた。

視界に飛び込んできたのは、俺の胸元に顔を埋め、俺のパジャマの裾をぎゅっと握りしめている山田先生の寝顔だった。そして俺の腕は、彼女の華奢な背中と腰をしっかりと抱きしめている。

 

――数秒のフリーズ。

 

「「――――ッッ!!??」」

 

お互いにバチッと目が合った瞬間、俺たちは弾かれたようにガバッと飛び起きた。

 

「す、す、すみません山田先生!! 俺、寝ぼけててそのっ!」

「ひゃああっ! わ、私こそごめんなさい! いつの間にか〇〇君の方に転がっていっちゃったみたいでっ!」

 

お互いに顔を真っ赤にして、ベッドの端と端まで後ずさる。

好き合っているという自覚はお互いにある(はずだ)が、正式に恋人同士というわけではない。こんなハプニング、相手に「気持ち悪い」とか「馴れ馴れしい」と嫌がられてしまったらどうしようと、俺の心臓は早鐘のようにバクバクと鳴っていた。

 

「あ、あの! 嫌な思い、させてませんよね……?」

「い、嫌だなんてそんなこと絶対ないです! むしろ……あ、いえ! なんでもないです!」

 

先生は顔を両手で覆いながら、ふるふると首を横に振った。

なんとか落ち着きを取り戻し、俺たちは照れくささを誤魔化すように朝の準備を始めた。

 

「いい匂い……。〇〇君、朝ごはんありがとうございます」

「いえ、今日は簡単にホットケーキですけどね。シロップ、多めにかけときますか?」

「はいっ、お願いします!」

 

キッチンに立ち、フライパンでふっくらと焼き上げたホットケーキをお皿に移す。エプロン姿でそれを受け取る山田先生の笑顔に、先ほどの気まずさもすっかり溶けていた。

 

「そういえば〇〇君、今日はどうするんですか?」

「一夏の部屋に行って、様子を見てからどうしようか考えていたところです。昨日はあいつらも無茶しましたし」

「そうですか。……あっ、それならちょうどよかったです」

 

山田先生はホットケーキを小さく切り分けながら、思い出したように顔を上げた。

 

「織斑君に、今日から寮の『大浴場』が使えるようになったことと、使える時間帯をメールで送っておいたんですけど……一応、〇〇君からも伝えてもらえませんか? メール、ちゃんと見てないかもしれないので」

「大浴場が直ったんですね。了解です、二つ返事で伝えておきますよ」

 

朝食を済ませた後、俺は自室から一夏の携帯に電話をかけた。

 

『お、〇〇。どうした?』

「よお、一夏。体調はどうだ? 暇なら遊びに行こうと思うんだが、大丈夫か?」

『ああ、体は平気だぜ。……ただ、今はシャルルも一緒にいるんだけど、それでもいいか?』

「シャルルも一緒か。全然問題ないぞ、手土産買ってこれからそっちに行くよ」

 

購買部でスナック菓子とジュースを適当に見繕い、男子寮にある一夏とシャルロットの部屋のドアをノックする。

 

「お邪魔しまーす」

「いらっしゃい、〇〇くん。昨日ぶりだね」

「おう、〇〇! わざわざ差し入れサンキュな」

 

部屋に入ると、私服姿の一夏とシャルロットが笑顔で出迎えてくれた。

 

「いやあ、それにしても昨日は本当に大変だったな。二人とも、よくあのラウラを足止めしてくれたよ。マジでお疲れ様」

「〇〇の方こそ! あのゴーレムの大群を一人で食い止めてたんだろ? 千冬姉から聞いてビビったぜ」

「ボクたちも上から〇〇くんの無茶な動きを見てて、ヒヤヒヤしっぱなしだったんだよ?」

 

三人で車座になり、お菓子を開けながら昨日の死闘を労い合う。少し落ち着いたところで、俺は山田先生から頼まれていた伝言を切り出した。

 

「そういえば一夏、山田先生からのメール確認したか? 寮の大浴場、今日から使えるようになったそうだぞ」

「マジで!? よっしゃあああ! シャワーだけじゃやっぱり疲れが取れねえって思ってたんだよ!」

一夏は目を輝かせてガッツポーズをした。

 

「使用時間は……ほら、この通りだ」

俺は携帯の画面を見せながら、一夏に釘を刺した。

「一応言っとくけど、少し遅めに行けよ? 早すぎると、着替え中の女子生徒と鉢合わせ……なんてことになり得るからな。気をつけろよ」

「うっ……そ、それもそうだな。今の俺の扱いを考えると、洒落にならねえ。教えてくれてサンキュー、〇〇」

 

一夏が冷や汗をかきながら頷くと、横でジュースを飲んでいたシャルロットが、ふと不思議そうな顔で俺を見た。

 

「あれ? そういえば〇〇はどうしてたの? 一般の男子生徒は一夏くんだけだし、大浴場は使えないよね?」

「俺か? 俺は山田先生との共同部屋だから、教員用の部屋についてる浴室を使わせてもらってるんだよ」

 

俺が答えると、シャルロットは「そっか」と納得したが、俺は苦笑いしながら頭を掻いた。

 

「でもさ……やっぱり、相手が『異性の他人』の後の浴槽を使うっていうのは、めちゃくちゃ緊張するんだよな。残り香とか、髪の毛一本落とさないようにとか、色々気を遣うし……」

「あはは……わかるよ、その気持ち」

 

シャルロットは俺の言葉に、深く、とても深く同意するようにコクリと頷いた。

 

「ボクも、最初一夏と同室で『男性のふり』をしてここのシャワールームを使っていた時……本当に緊張したからね。バレないように必死だったし、いろいろと気を遣って……」

「あー……シャルル、あの時は本当に悪かったな。俺、全然気づかなくて……」

 

一夏が申し訳なさそうに身を縮めると、シャルロットはクスッと悪戯っぽく笑い、一夏の方へと向き直った。

 

「だからね、一夏も大浴場には本当に気をつけなよ?」

「えっ? ……どういうことだ?」

きょとんとする一夏に対し、俺もシャルロットの意図を察して、ニヤリと笑いながら脅かしにかかった。

 

「あのな、一夏。今のところお前の入浴時間は『全学年の女子の最後』に割り当てられてるだろ?」

「あ、ああ」

「でも、もし何かの事情で時間割が変わって、お前の『次』に女子生徒の時間割が入ったりしてみろ。……一夏と一緒に入ろうとして、こっそりフライングして突撃してくる肉食系の女子生徒がいるかもしれないだろ? 脱衣所で鉢合わせるだけならまだしも、浴槽で何されるか分かったもんじゃないぞ?」

 

「なっ……!?」

 

俺のリアルすぎる想定を聞いて、一夏は顔面を蒼白にさせた。

昨日までの「俺を殺そうとしていた女たち」が、今度は「別の意味で襲い掛かってくる」可能性に気づいてしまったのだ。

 

「そ、そりゃ……普通に怖いな……」

「でしょ? だから、お風呂の時間は気を抜いちゃダメだよ、一夏」

 

ひきつった笑いを浮かべる一夏を見て、俺とシャルロットは顔を見合わせ、声を上げて笑った。

命を懸けた戦いの翌日に、こうしてバカバカしい話で笑い合える。その平和な日常が、今はたまらなく愛おしかった。

 

その後も、昨日の緊迫した戦いが嘘のように、他愛もない話でゲラゲラと笑い合っていると、いつの間にか時計の針はお昼時を指していた。

 

「おっ、もうこんな時間か。腹減ったな」

「うん、お菓子だけじゃやっぱり物足りないね。お昼にしようか」

「だな。よし、学食に行くか!」

 

ということで、俺たち三人は連れ立って男子寮を出た。

お昼休みが始まったばかりの少し早めの時間に着いたおかげで、学食はまだ空いており、窓際の広めのテーブル席をあっさりと確保することができた。

 

「俺、今日はカツカレーにする!」

「ボクは日替わりランチのパスタにしようかな。〇〇は?」

「俺はスタミナ定食だな。食券買ってしまおう」

 

各々が事前に決めたメニューの食券を買い、カウンターのおばちゃんに渡してホカホカの料理を受け取る。席に戻り、三人で手を合わせた。

 

「「「いただきます!」」」

 

一夏がカツカレーを勢いよく頬張るのを見ながら、俺はふと思い出した話題を口にした。

 

「そういえば一夏、シャルル。小耳に挟んだんだけど、今年の夏休みって一年生は『臨海学習』があるらしいぞ」

「りんかいがくしゅう?」

一夏がスプーンを止めて首を傾げた。シャルロットもパスタをフォークに巻きつけながら興味深そうに耳を傾ける。

「詳しい場所までは正式に聞いてないんだけどな。海沿いの施設に行って、みんなで遊んだり、あとはISの訓練とかをするんじゃないかな」

「へえ! じゃあ、小中学校でやってた宿泊学習みたいなもんか。そりゃ面白そうだな!」

「うん、海かぁ……。みんなでお泊まりなんて、すごく楽しみだね!」

 

シャルロットが目を輝かせて喜ぶのを見て、俺はもう一つ、彼女にとって大事なニュースを伝えることにした。

 

「それと、シャルル。今朝のニュース見たか?」

「え? ううん、起きてすぐ一夏と話し込んでたから、まだ見てないけど……」

「今朝の新聞やネットニュースで、でかでかと報じられてたよ。――『L社とデュノア社が、IS技術を含む多角的な分野で正式に技術協力を結んだ』ってな」

 

俺の言葉に、シャルロットはハッと息を呑み、目を見開いた。

 

「L社と……デュノアが……正式に?」

「ああ。これでシャルルの実家はL社の庇護下に入ったようなもんだ。もう、シャルルが男のふりをして無理にデータを盗む必要も、親父さんに切り捨てられる心配もないってことだ」

「〇〇……一夏……っ」

 

シャルロットの大きな瞳に、じんわりと涙が滲む。彼女は両手を胸の前でぎゅっと握り締め、深く、深く頭を下げた。

 

「ありがとう……本当に、ありがとう。二人のおかげだよ。ボクを……デュノアを救ってくれて……っ」

「おいおい、そんなに畏まんなって! シャルルは俺たちの友達だろ? 友達が困ってたら助けるのは当たり前じゃねえか」

「一夏の言う通りだ。シャルル自身の勇気と頑張りがあったからこそ、この結果に繋がったんだ。胸を張っていいんだぞ」

 

俺と一夏が笑ってそう返すと、シャルロットは涙を指で拭いながら、花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。

 

「……うんっ! ボク、この学園に来て……みんなに出会えて、本当によかった!」

「へへっ、照れるぜ。……あ、ていうか待てよ?」

 

一夏がカツカレーの最後の一口を飲み込み、何か重大なことに気づいたようにポンッと手を叩いた。

 

「臨海学習ってことは、海に行くんだよな? ってことは……『水着』とか絶対必要になるんじゃねえか!?」

「そ、そうなるね。一夏くんはどんな水着持ってるの?」

「俺は普通の海パンだけど……そうか、みんなの水着姿……いや、俺は別にそういう不純な期待をしてるわけじゃ……!」

「ほう? どんな期待をしているのか、詳しく聞かせてもらおうか、弟よ」

 

「「「ひっ!?」」」

 

突如、一夏の背後から、絶対零度よりも冷たい声が降ってきた。

恐る恐る振り返ると、そこには腕を組み、鬼のようなオーラを放つ織斑先生――千冬先生が、仁王立ちでこちらを見下ろしていた。

 

「ち、千冬姉!? いつからそこに……!」

「お前がニヤニヤしながら水着の話を始めたあたりからだ。……まあいい」

 

千冬先生は小さくため息をつくと、その鋭い視線を少しだけ和らげ、俺たち三人を見渡した。

 

「昨日は、よくやった。お前たちの働きがなければ、学園は今頃どうなっていたか分からん。……よく生きて帰ってきたな」

「先生……」

 

それは、普段は厳しい千冬先生からの、最大限の労いの言葉だった。

一夏もシャルロットも、少し照れくさそうに、けれど誇らしげに姿勢を正す。

 

「それと、デュノア。食事が終わった後、少しお前を借りても問題ないか?」

「えっ? は、はい! ボクは大丈夫ですが……」

「そうか」

千冬先生は俺と一夏に視線を向け、俺たちも「問題ないです」と無言で頷きを返した。

 

「なら、食後に職員室まで来い。お前の秘密が明るみに出た以上、来週からの学生生活について色々と調整が必要だからな。制服のことや、部屋のこともある」

「分かりました、織斑先生!」

 

シャルロットが元気よく返事をしたのを確認すると、千冬先生は最後に、俺の方をじっと見つめてきた。

 

「〇〇。お前は、食事を終えたら『精密検査室』へ向かえ」

「精密検査室、ですか? 誰か怪我でも……」

「ラウラだ」

千冬先生が短く告げる。

「今朝、目を覚ました。バイタルに異常はないが、ずっとお前と話がしたいと言って聞かなくてな。……顔を出してやってくれ」

 

俺は少し驚いたが、すぐにまっすぐ先生の目を見て頷いた。

「……はい、分かりました。すぐに行きます」

 

ラウラが目を覚ました。その事実に安堵すると同時に、あの凄惨な戦いを経て、彼女が今何を思っているのか。俺は残りのスタミナ定食を手早く平らげ、彼女が待つ精密検査室へと向かう準備を整えた。

 

 

 

「ごちそうさまでした!」

 

俺たち三人は、ほぼ同じタイミングで食事を終え、席を立った。

ここでシャルロットは千冬先生に呼ばれていた職員室へ、俺はラウラが待つ精密検査室へと向かうため、それぞれの道へ分かれることになる。

 

「じゃあ、ボクは織斑先生のところに行ってくるね」

「ああ。シャルル、何か困ったことがあったら遠慮なく言えよ」

「うん、ありがとう! また後でね!」

 

シャルロットが手を振って去っていくのを見送った後、一夏が少し申し訳なさそうな顔で俺に耳打ちしてきた。

 

「なぁ、〇〇。俺もラウラのところへ様子を見に行きたいのは山々なんだけどさ……今俺が行ったら、また何か面倒なことが起きそうな気がするんだよな。だから、悪いけどお前、俺の分もラウラの様子見てきてくれないか?」

「ハハッ、まあ確かに、一夏が顔を出したらあいつの感情がまた爆発するかもしれないしな。分かった、任せとけ」

「サンキュ! 頼んだぜ!」

 

一夏と別れ、俺は医療ブロックにある精密検査室へと足を向けた。

 

コンコン、と軽くドアをノックする。

「入れ」という短い返事を聞いてから、俺はドアを開けた。

 

「よお、ラウラ。体調はどうだ?」

 

ベッドの上にポツンと座り、ひどく手持ち無沙汰にしていたラウラは、俺の顔を見ると少しだけ驚いたように目を丸くし、すぐにいつもの真面目な顔に戻った。

 

「〇〇か。……体は問題ない。システムダウンによる一時的な負荷で気を失っていただけだと、教官……いや、織斑先生も言っていたからな」

「そうか、ならよかった。挨拶もそこそこですまないな、顔を出せって言われてきたんだ」

 

俺がベッドの傍らの丸椅子に腰を下ろすと、ラウラは少しだけ視線を彷徨わせた後、静かに口を開いた。

 

「……昨日は、助かった。お前がいなければ、私はあのまま得体の知れないバケモノに取り込まれ、完全に自我を失っていたかもしれない」

「気にするな、これも俺の『仕事』の一部だからな。……俺だけじゃない、一夏とシャルルにも後でちゃんと礼を言っておいてやってくれよ」

 

俺の言葉に、ラウラは素直に小さく頷いた。

そして、自分の手のひらをじっと見つめながら、ポツリと呟いた。

 

「〇〇。……気絶する寸前に、一夏が私に言った言葉がある。……『お前は道具じゃない』と。あれは、どういう意味なのだろうか。私には、ずっとそれが引っかかっているのだ」

「『道具じゃない』、か……」

 

俺は腕を組み、不器用な彼女に届くように言葉を選んだ。

 

「お前は軍で、最高傑作だの最強の兵器だのって言われて育ってきたんだろう? だから自分のことを『戦うための道具』だって思い込んでる。……でも、一夏はそうは思ってないんだよ」

「……」

「軍人である前に、お前は一人の『人間』だろ。一夏は、強さとか実績とかそういうのを取り払った、お前自身のことを知りたいって言いたかったんじゃないか? あの時、一夏がお前を助けようと必死になっていなかったら、戦闘はもっと長引いていて、今の検査結果はもっと酷いことになっていた可能性が高いぞ」

 

俺の指摘に、ラウラはハッと息を呑んだ。

彼女の中で、憎悪の対象でしかなかった『織斑一夏』という存在が、全く違う色を帯びて塗り替えられていくのが分かった。

 

「……そうか。あの男は、私を……」

 

ラウラは深く思案するように目を伏せた。

 

「……間違っていたのは、あの男の力を認めず、ただ頑なに否定し続けていた私の方かもしれないな」

「それに気づけたなら、一歩前進だな。一夏の奴はお人好しだから、お前が真剣に謝れば絶対に許してくれる。命の恩人でもあるんだから、次に会った時は礼の一つくらい言ってやれよ」

「ああ、そうだな。お前の言う通りにする」

 

素直なラウラに、俺はホッと肩の力を抜いた。

これで、彼女もこの学園でうまくやっていけるだろう。そう安心しかけた矢先だった。

 

「ただ……どうにもおかしな気分なのだ」

「ん? どうした? どこか痛むのか?」

「いや、そうではない。……一夏のことを思うと、胸の奥から今まで感じたことのない、得体の知れない熱い感情が溢れてくるのだ。彼を見るだけで、共に戦いたい、側にいたいと強く……」

 

(……あー、なるほど。お前もか)

俺は内心で天を仰いだ。箒、セシリア、鈴音に続き、この生粋の軍人少女までもが完全に一夏にオチたらしい。さすがは天然のタラシである。

 

すると、ラウラは右手を胸に当て、どこか誇らしげな、そして真剣な表情でこう言い放った。

 

「なるほど、理解した。これが――『私の嫁』という感情なのだな」

 

「――っぶ!!?」

 

俺は丸椅子から派手にすっ転びそうになり、慌ててベッドの柵にしがみついた。

 

「な、なんだと!? 今、なんて言った!?」

「ん? なぜ驚く。私が彼を『嫁』にしたいという感情のことだが?」

「いやいやいや! どういうことだよ! なんで一夏が『嫁』なんだよ! 逆だろ普通!」

 

俺の猛烈なツッコミに対し、ラウラは「何を不思議がっているのだ?」とでも言いたげな顔で首を傾げた。

 

「私の部下に、クラリッサという優秀な者がいてな。彼女は日本の文化に極めて精通しているのだが……彼女曰く、日本においては『恋するほど好きになった異性のこと』を、敬意と親愛を込めて『俺の嫁』と呼ぶ文化があるのだろう?」

「は?」

「私は女だからな、『私の嫁』となる。……なるほど、彼を私の庇護下に置き、共に添い遂げる……悪くない響きだ」

「…………」

 

(顔も知らないクラリッサって部下の人よ……あんた、日本をなんだと思ってるんだ……!!)

オタクのネットスラングを日本の伝統的プロポーズか何かと勘違いしている部下と、それを100%鵜呑みにしている純粋な上官。ツッコミどころが多すぎて、俺は頭を抱えるしかなかった。

 

「ま、まあ……なんだ。お前の言いたいことはなんとなく分かった」

「そうか!」

「と、とにかく、すっかり元気になってよかったよ。お前がピンピンしてるって、一夏にも伝えておくからさ。それじゃ、俺はこれで」

 

これ以上ここにいると、とんでもない発言の巻き添えを食らいそうだと判断した俺は、そそくさと立ち上がってドアへと向かった。

 

「〇〇」

背中越しに、ラウラが凛とした声で俺を呼び止めた。

振り返ると、彼女はベッドの上に居住まいを正し、俺に向かって深く、真っ直ぐに頭を下げていた。

 

「お前は、やはり優秀な戦士だ。……この命を繋いでくれたこと、改めて感謝する」

 

その表情には、もう「最強の道具」としての冷たさはなく、一人の人間としての清々しい誇りが宿っていた。

 

「……ああ。ゆっくり休めよ、ラウラ」

 

俺は短く笑って応え、精密検査室を後にした。

これから彼女が「嫁宣言」をして一夏がパニックになる未来が容易に想像できたが、それはまあ、俺の『仕事』の管轄外だということで、一夏には頑張ってもらうしかないだろう。

 

 

精密検査室からの帰り道、自動販売機で冷たいお茶を買って一息ついていると、廊下の向こうから歩いてくる見慣れた金髪の姿を見つけた。

 

「お、シャルル」

「あ……〇〇」

 

目が合うと、シャルルは少し嬉しそうに小走りで駆け寄ってきた。

 

「少し時間あるか? よかったら、ちょっと話でもしないか?」

「うん、もちろんいいよ」

 

俺たちは廊下の窓際に並んで立ち、外の景色を眺めながら言葉を交わした。

 

「来週からは、ようやく女の子の『シャルロット』として振る舞えるんだよね。〇〇には、ボクのために色々と手配してくれて、本当にありがとうって言いたかったんだ」

「いや、俺は別に大したことはしてないさ。上の人間たちが色々と考えて動いてくれた結果だよ」

 

俺が肩をすくめて言うと、シャルルは優しく首を横に振った。

 

「ふふっ、謙遜しないで。君もボクのために色々と動いてくれたじゃないか」

「……」

「それに、一夏に命を助けられて……〇〇と一夏が、ボクのためにこんなに一生懸命になってくれて。ボクは本当に、幸せ者だよ」

 

夕暮れの光に照らされたシャルルの笑顔は、男装していた頃の作り物めいたものではなく、年相応の少女の心からの微笑みだった。

 

「そんなに重く受け止めてくれるなよ。これからは仲間や学友として、分からないこととか困ったことがあったら、お互いに教え合おうぜ」

「……うんっ。こういうの、ボクにとってはまだ慣れないことだから、少しずつかもしれないけど……そうするよ」

 

シャルルが嬉しそうに頷いたのを見て、俺も安心してお茶のペットボトルに口をつけた。

その時だった。

 

「あ、そうだ。〇〇に一つ、質問してもいいかな?」

「ん? なんだ?」

「君は、山田先生のこと好きなの?」

 

「ブッ!!? ゲホッ、ゴホッ……!!」

 

あまりにも直球すぎる言葉に、俺は飲んでいたお茶を危うく吹きこぼしそうになり、盛大にむせた。

 

「な、なんで……ゲホッ、なんでそう思ったんだよ!?」

「あはは、ごめんごめん。大丈夫?」

シャルルは悪戯っぽく笑いながら、俺の背中をポンポンと叩いた。

「だって昨日、幻想体の卵を運ぶ時から、君と山田先生の目が合うと、普段と雰囲気が違いすぎたからね。……それに、山田先生も〇〇のことが好きそうだったようにも見えたし」

 

(……女の子の観察眼、恐るべし)

俺は口元を拭いながら、観念したように息を吐き出した。

 

「……はぁ、シャルルには敵わないな。ああ、確かに山田先生のことは、一人の女性として好きだよ。でも、先生と生徒の立場とかを考えてしまうと、どうしても今は伝えられないだろうなって思ってるんだ」

「そっか……」

「少なくとも、学生の間は胸の内に秘めておかないと。もしバレたら、あのクラスがとんでもなく騒がしくなるからな」

 

俺は窓枠に寄りかかり、苦笑しながらぼやいた。

 

「実はシャルルが転校してくる前に、俺と山田先生が『一緒に寝た』って誤解される騒動があってさ……あの時は本当に地獄だった。俺だけが騒がれる分にはいいんだけど、この学園、というかうちのクラスの連中が山田先生に詰め寄って質問攻めにする姿を考えると、さすがになぁ……」

「あはは……確かに、あの子たちならやりかねないね」

シャルルは苦笑しつつも、まっすぐな瞳で俺を見た。

「でも、ボクは〇〇の恋、応援しているよ。……実はね、ボクも一夏のこと、好きなんだ」

 

(マジか。……コイツも一夏にオチたのか)

俺が内心で『一夏包囲網』の拡大に戦慄していると、シャルルはすぐに言葉を繋いだ。

 

「でもね、この『好き』は、箒さんたちが一夏に言っている『好き』とは違うんだ」

「……違う?」

「うん。恋愛っていうより、さっき〇〇が言ってくれた『仲間』というか……『信頼』としての好きに近いかな。……君のことも、そういう意味で好きだしね」

「ああ、なるほど」

「好きっていう言葉には、色々とあるね」

 

シャルルの清々しい言葉に、俺も自然と笑みが溢れた。

「……そうだな。本当にその通りだ」

 

「それじゃ、ボクは部屋に戻るね。またね、〇〇!」

「ああ、またな」

 

ヒラヒラと手を振って、軽やかな足取りで廊下を去っていくシャルル。

その後ろ姿を見送りながら、俺は心の中でそっと呟いた。

 

(……そういう意味では、俺もそうだな)

 

恋愛感情とは違う。でも、共に命を懸けて背中を預け合える、絶対の信頼としての『好き』。

そんな仲間たちと出会えた俺もまた、シャルルと同じように「幸せ者」なのだろうと、深く納得するのだった。

 

夕暮れ時、西日が廊下をオレンジ色に染め上げる頃。自室へ向かって歩いていると、前方の角から見慣れた優雅な人影が現れた。

 

「やっほー、〇〇君。こんなところで奇遇ね」

 

ひらひらと手を振ってきたのは、IS学園の生徒会長である更識楯無(さらしきたてなし)だった。

 

「楯無会長。お疲れ様です」

「ええ、お疲れ様。……ふふっ、昨日は本当に大活躍だったわね」

 

会長はパチンと小気味良い音を立てて扇子を開き、口元を隠しながら、ふと探るような流し目を向けてきた。

 

「それで? 〇〇君は、今回の件……どう思ってるのかしら?」

「どう、とは?」

「ただの事故だと思う?」

 

俺は廊下の壁に背を預け、周囲に人がいないことを確認してから、声を少し落として答えた。

 

「……ただの事故なわけがないでしょう。ラウラに取り憑いた幻想体はともかく、それに合わせてアリーナに無人機(ゴーレム)が大量投入されたタイミングが良すぎます。間違いなく、裏で糸を引いてる奴がいますよ」

「なるほど。他には?」

「それに……ラウラの機体にあんなもん――『VTシステム』なんていう非人道的なブラックボックスを組み込んだ奴の顔は、控えめに言ってろくでもない奴ですね。テストもしないでぶっつけ本番とか自殺行為か何かと勘違いしてる」

 

俺が吐き捨てるように言うと、楯無会長は開いていた扇子を「パタン」と静かに閉じた。

先ほどまでの飄々とした態度は鳴りを潜め、生徒会長としての、あるいはもっと裏の顔を持つ者としての真剣な瞳が俺を真っ直ぐに射抜く。

 

「……ええ。やっぱり、あなたもそう思うわよね」

「会長も、何か掴んでるんですか?」

「さあ? どうかしら。でも、きな臭いことだけは確かね」

 

会長は意味深に微笑むだけで、それ以上の明言は避けた。

俺は少し大きなため息をつき、頭の後ろで手を組みながら天井を仰いだ。

 

「この様子だと……近々一年生合同で行われるっていう『臨海学校』でも、また何か面倒なことが起きそうで嫌だなあ」

「全くね。敵もこのまま大人しくしているとは思えないわ。……だから、〇〇君も十分に気を付けなさいよ?」

「分かってます。……そうそう、一夏の強化特訓なんですが、昨日の一件もあって一区切り付きました。俺から今のあいつに教えられる技術は、できる限り教えてやったつもりです」

「あら、そうなの? 随分と早かったわね」

「あとは本人の気付きと、実戦を想定した訓練次第ですよ。基礎と回避の土台は作ってやったので、ここから先はあいつ自身がどう気付いていくかです」

 

俺の報告に、会長は満足そうに「ふふっ」と笑みをこぼした。

 

「織斑君の成長が楽しみね。……それで? 教官役を終えた〇〇君自身の夏休みはどうなるのかしら?」

「俺ですか? 俺の夏休みのほとんどは……まあ、たぶん全部自分の特訓と、L社の『鎮圧訓練』で潰れるでしょうね。海で遊んでる暇なんてなさそうです」

 

俺が苦笑交じりに肩をすくめると、楯無会長は少しだけ目尻を下げ、どこか同情するような、俺を深く労わるような声色に変わった。

 

「……そう。L社の職員としての責務もあるものね。それもそうね」

 

会長は閉じた扇子で自分の顎を軽くトントンと叩いた後、ふわりと柔らかい、年上の女性としての優しい微笑みを浮かべた。

 

「それはそうと……昨日の一件、本当にお疲れ様でした。あなたが体を張ってくれたおかげで、学園の生徒は誰一人傷つかずに済んだわ。ありがとう、〇〇君」

 

その言葉には、生徒会長としての心からの優しさと感謝が込められていた。

俺は照れくささを隠すように居住まいを正し、彼女に向かって深く、静かに頭を下げるのだった。

 

 




後編に続く
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