雲一つない青空から照りつける強烈な日差しと、耳を劈くような蝉時雨。いよいよ待ちに待った夏休みが始まり、IS学園の一年生たちは臨海学校へ向かうための大型バスの前に集結していた。
「よし、お前ら! 順番に乗車しろ! 座席は早い者勝ちだ、揉めるなよ!」
引率である織斑千冬先生の号令とともに、生徒たちがわいわいと歓声を上げながらバスへと乗り込んでいく。俺もその波に乗り、車内へと足を踏み入れた。
(さて、陣取るならここだな)
俺が真っ先に選んだのは、運転席のすぐ後ろ、フロントガラスと巨大なサイドミラーの視界が完全に確保できる最前列の窓際の席だった。ここなら、バスの進行方向だけでなく、後方の車列の動きもミラー越しに手に取るように把握できる。L社から課せられた「尾行を撒く(見破る)訓練」を行うには、これ以上ない特等席だ。
席に座り、シートベルトを締めて外の景色をチェックしていると、通路側にドカッと誰かが腰を下ろした。
「ふぅ……間一髪だったぜ。なぁ〇〇、隣いいか?」
「一夏か。ああ、構わないぞ。……って、おい」
俺が何気なく頷いた瞬間、背中を物理的な熱線で貫かれるような、凄まじい悪寒が走った。
恐る恐る後ろを振り返ると、そこには地獄のような光景が広がっていた。
「……チッ。なぜ私が一夏の隣に座れなかったのだ。〇〇……貴様、そこを代われ」
「ルールは早い者勝ちですわよ、ラウラさん! ……でも、〇〇さん。あなた、殿方のくせに少し気が利きませんこと?」
「ええいっ、一夏! なぜお前はいつもそうやって、無神経に男同士で固まるんだ!」
眼帯の奥から物騒な光を放つラウラ、扇子を握りしめてジト目を向けるセシリア、そして今にも木刀の袋を振り回しそうな勢いで睨みつけてくる箒。彼女たち三人の視線が、一夏の隣というプラチナチケットを手に入れてしまった俺へと、容赦なく突き刺さっていた。
「……なあ、一夏」
「ん? どうした〇〇、そんなに汗かいて。冷房、まだ効いてないか?」
「いや、冷房の問題じゃなくてな。……お前、本当にモテモテだな。背中に穴が空きそうなんだけど」
「はあ? 何言ってんだお前。単に席が空いてたから座っただけだろ?」
この期に及んで全く状況を理解していない天然の親友に、俺は呆れ果てて深い溜息をついた。
「はぁ……。お前なぁ、帰りのバスは絶対に女子の隣に座ってやれよ? じゃないと、俺の命が臨海学校の前に尽きかねないからな」
「だから、なんでそうなるんだよ!? 〇〇まで変なこと言うなよな!」
俺が軽口を叩いて肩をすくめていると、斜め後ろの席から、クスクスと控えめな笑い声が聞こえてきた。
視線を向けると、そこには「〇〇も大変だね」と言わんばかりの、同情と苦笑いが混じった温かい視線を向けてくるシャルロットの姿があった。
さらにその後ろの席では、布仏本音が「ほわぁ……」といつも通りのマイペースで平和な表情を浮かべ、窓の外の雲を眺めている。
(……ありがとう、シャルロット、本音。君たちのその普通の反応だけで、俺のすり減った胃粘膜がどれほど救われるか……)
俺は内心で二人に深く感謝の念を送りながら、前を向き直った。
「全員乗ったな? よし、出発する!」
千冬先生の合図で、バスはゆっくりと重低音を響かせて走り出した。
車内はすぐに、お菓子を開ける音や、トランプを配る声、海への期待に胸を膨らませる女子たちの賑やかなおしゃべりで満たされた。
普段なら「静かにしろ!」と一喝するはずの千冬先生も、今日ばかりは腕を組んで目を閉じ、黙って見逃している。臨海学校とはいえ、生徒たちにとっては貴重な夏休みのイベントだという配慮なのだろう。
だが、俺の「裏の仕事」はここからが本番だった。
(さて……ミシェルさんが放ったという『スペシャリスト』たちは、どう動いてくるか)
俺は窓枠に肘をつき、景色を楽しむふりをしながら、サイドミラーと窓の外へ意識を集中させた。
学園を出てから数十分。市街地の下道を抜けていく間、あからさまにバスの真後ろに張り付いてくるような、素人くさい尾行の車はない。
だが、俺の目はごまかせない。
(……あのシルバーのセダン。学園を出た直後の交差点から、間に数台の一般車両を挟みつつ、ずっと同じペースで付いてきているな)
俺は脳内で車の特徴をリストアップしていく。
車種、色、ヘッドライトの形状、そして運転席のシルエット。下道から高速道路の入り口まで、距離感を変えることなく、まるでバスと見えない糸で繋がっているかのように自然に追従してくる。
やがてバスがETCゲートを抜け、高速道路本線へと合流した時だった。
(……ん? もう一台いるな)
ミラーの端に、今度は黒のSUVが映り込んだ。
その車はシルバーのセダンのさらに後ろから現れ、高速道路に入ってからもバスを追い抜こうとはせず、一定の車間距離を保ち続けている。
(シルバーのセダンと、黒のSUV……。高速に入ってからの陣形変更か? 複数台でのリレー方式(入れ替わり)の尾行なら、セダンがいずれ降りるか、SUVが……)
俺がそう分析を巡らせていた、次の瞬間。
ずっと付かず離れずの距離を保っていたはずの黒のSUVが、突如としてウィンカーを出し、急加速した。
ヴォンッ! とエンジン音を響かせ、猛スピードでバスの右車線を駆け抜け、あっという間に前方の視界の彼方へと消えていったのだ。
「……なるほど。そういう手も使うか」
俺は誰にも聞こえない声で呟いた。
あえて目立つように追い抜くことで、こちらの意識をSUVに向けさせ、後ろにいる本命のセダンから意識を逸らすためのブラフ。あるいは、前方に先回りして待ち伏せポイントを作るための先行部隊か。
「〇〇、どうした? ずっと外ばっかり見て。海、まだ見えないぞ?」
一夏がポテトチップスをかじりながら不思議そうに覗き込んでくる。
「いや、ただの人間観察だよ。高速道路って、いろんな車が走ってて面白いだろ?」
「なんだそれ? お前、案外そういう乗り物とか好きなのか?」
無邪気に笑う一夏に「まあな」と適当に相槌を打ちながら、俺は記憶した二台の車のナンバーの断片と特徴を、頭の中で反芻し、深く刻み込んだ。
(スペシャリストの数は3〜5人だと予想した。車が2台なら、分散して乗っている可能性が高い。……上等だ、絶対に見破ってやる)
平和で賑やかな臨海学校の車内。その後ろで繰り広げられる、姿なきプロたちとの無言の駆け引き。
俺は非日常と日常が入り混じるこの奇妙な状況に、ほんの少しだけ口角を上げながら、再びサイドミラーへと鋭い視線を戻した。
「そろそろ、目標(ターゲット)の乗ったバスが高速道路を降りるわね。下道へのアプローチに入るわ」
シルバーのセダンの助手席で、マドカは手元の専用端末のマップ上に光るGPSの軌跡を見つめながら、インカム越しに通話をつないだ。
『了解。こっちはいつでも行けるぜ』
通信の先から聞こえてきたのは、排気音と混じったオータムのくぐもった声だった。
「先行させてブラフに使ったSUVは、既に本社の回収班に引き渡して撤収させたわ。オータム、あなたは用意してあるバイクで下道からの追跡をお願い。私たちに気付いた彼が、どう意識を切り替えるか見物ね」
『任せな。海岸線のツーリング客に紛れて、背後からじっくり観察してやるよ』
「こっちのセダンは、どう動かすの?」
運転席で滑らかにハンドルを握るスコールが、前方に見えてきたインターチェンジの標識を見上げながら尋ねた。
「私たちはこのままバスを追い越して、高速道路を直進。一つ先のインターチェンジで降りるわ。あそこからなら、海岸沿いのルートを逆走して、バスを正面から『挟み撃ち』にできる。〇〇君がどこまで視野を広げているか、試させてもらいましょう」
「ふふっ、悪びれないわね。了解、このまま加速するわよ」
スコールの踏み込んだアクセルが唸りを上げ、シルバーのセダンはウインカーを点滅させながら、バスの横を滑るように追い抜いていった。
(……ん? セダンが、降りない?)
最前列の席でサイドミラーを注視していた俺は、目星をつけていたシルバーのセダンが、バスが向かう出口車線には入らず、そのまま高速道路本線を直進していくのを見送った。
「フェイクだったか? いや、あの一定の車間距離の取り方は、絶対に素人じゃない。となると……」
俺はポケットからスマートフォンを取り出し、地図アプリを起動した。
現在降りようとしているインターチェンジから、目的地である臨海学校の旅館までのルートを素早くスワイプして確認する。
(……なるほど。一つ先のインターチェンジで降りて、海沿いの県道をUターンするように戻ってくれば、旅館のすぐ手前でバスと合流できるのか)
俺は画面上のその合流ポイントに、赤いピンのマークを落とした。
後ろから追うだけでなく、先回りして正面から監視の目を光らせる。対象を確実に視界に収めるための、基本にして完璧な挟撃(ピストン)フォーメーションだ。
「おい〇〇、見ろよ! 海だぜ、海!」
「うわぁっ、本当に綺麗な青色ですわ!」
「日差しが強そうね……日焼け止め、ちゃんと塗り直しておかないと」
バスが下道へ降り、海岸沿いのルートに出た途端、車内は一気に歓声に包まれた。
窓の外には、太陽の光を反射してきらきらと輝く見渡す限りの海が広がっている。一夏やクラスメイトたちが身を乗り出して景色を楽しむ中、俺は冷や汗をかきながら再びミラーへと意識を戻した。
(……厄介だな。海沿いの道は、ただでさえツーリングのバイクやドライブの車が多い。この無数の一般車両の中から、俺を追尾している『実動部隊』を見つけ出さなきゃならないのか)
景色を楽しむバイカーたちや、窓を開けて走るスポーツカー。その一つ一つを視線だけでスクリーニングしていく。警戒している素振りを見せれば、相手に悟られる。あくまで「景色を楽しんでいる」ふりをしながら、違和感だけを抽出する高度な情報処理。
そんな神経をすり減らす作業を続けて十数分後。
ピンを刺していた合流ポイントに差し掛かった時、対向車線から見覚えのあるシルバーのセダンが、すれ違うように走ってきた。
(来た……! やはり先回りして正面から監視するルートを取ったか)
俺がセダンの運転席のシルエットを目で追った、まさにその瞬間だった。
バスの斜め後ろ、一般のツーリング客に紛れるようにして並走していた漆黒の大型バイクが、すれ違うセダンに向けて、左手でほんのわずかに、ヘルメットのシールドを拭うような不自然な仕草――おそらく『合図(サイン)』――を送ったのだ。
(……ビンゴだ)
俺は瞬時にその大型バイクに意識をフォーカスした。
車体のメーカー、マフラーの形状、ライダーの着ている黒いレザージャケットの特徴、そしてフルフェイスヘルメットの僅かなデザイン。その全てを、網膜に焼き付けるように記憶領域へと叩き込む。
「……ふぅ」
静かに息を吐き出す。
セダンとSUVに加え、バイクの存在。そして、それぞれの連携の取り方。今日のノルマは十分に達成できたはずだ。
やがてバスは、目的地である大型旅館の駐車場へと静かに滑り込んだ。
「よし、到着だ! お前ら、忘れ物はないな? 荷物を持ったら順番に降りて、ロビー前に整列しろ!」
千冬先生の号令で、生徒たちが次々と立ち上がり、バスの通路が賑やかな足音で埋まっていく。俺も一夏たちに続いて荷物を手に取り、タラップを降りようとした。
「〇〇。お前、少し残れ」
「え? あ、はい。どうしました、織斑先生」
最後尾で生徒たちを降ろしていた千冬先生に、不意に呼び止められた。
全員が降りて静かになった車内で、千冬先生は腕を組み、俺の顔をジッと見つめてきた。
「……何をやっているかは、あえて聞かん」
「……」
「お前がL社の人間として、色々と抱え込んでいる事情があることは承知しているつもりだ。だがな」
千冬先生はそこで言葉を区切り、ふっと、普段の鬼教官からは想像もつかないような、悪戯っぽく、それでいてどこか楽しげな笑みを浮かべた。
「お前、さっきから『私は周囲を警戒しています』と顔に書いてあるくらい、分かりやすかったぞ」
「っ……!」
「素人相手ならごまかせただろうがな。その無意識の強張りや、ミラーを見る視線の動かし方は不自然そのものだ。もっと『日常』に溶け込む術を身につけるんだな」
ポン、と軽く肩を叩かれ、千冬先生はそのままバスを降りていった。
「…………マジか」
誰もいなくなった車内で、俺は思わず天を仰いだ。
自分では完璧に「自然体」を装い、尾行者を見事に見破ったつもりでいた。しかし、織斑先生の眼力から見れば、俺の行動など児戯に等しかったのだ。
(L社のスペシャリストたちには悟られていなかったと思いたいが……いや、千冬先生に気づかれるレベルなら、相手も『あの子、頑張って警戒してるわね』くらいに思っていたかもしれない)
自分の未熟さと、まだまだ甘すぎる技術を痛感し、俺は力なく笑うしかなかった。
「……先は長そうだな。しっかり反省して、改善レポートに書かないと」
気を取り直して頬を叩き、俺は夏の強烈な日差しが降り注ぐ旅館の駐車場へと足を踏み出した。
海と水着と、臨海学校の幕開けだった。
認識疎外の仮面って諜報戦において反則だよなぁと