臨海学校の拠点となる大型旅館は、歴史ある和の趣を残しつつも、百人規模の生徒を収容できる広々とした贅沢な造りになっていた。
事前に決められていた割り当ての部屋へと荷物を運び込みながら、俺は密かに安堵のため息をついていた。
今回、俺と一夏が同室になることは直前で回避されたのだ。もし『世界に二人しかいない男性IS操縦者』が同室になどなれば、夜な夜な他クラスの女子生徒たちまで徒党を組んで雪崩れ込んでくるという大惨事が容易に想像できた。
その防波堤として、一夏は織斑千冬先生の部屋へ強制連行され、俺は山田先生と同じ部屋を割り当てられることになったのである。
「初日である今日は、夕方まで自由時間とする! 各自、存分に羽を伸ばすように!」
という千冬先生の号令により、旅館はすっかり浮き足立ったバカンスの空気に包まれていた。
俺も荷解きを済ませ、開け放たれた窓の外から聞こえる潮騒に耳を傾ける。
(ずっと部屋に引き籠もっているのは、逆に不自然だ……。さっき千冬先生に指摘された通り、警戒しすぎると外にいる尾行の連中にも怪しまれる)
何より、ここ最近はL社の過酷な業務や特訓続きで精神的にも張り詰めていた。純粋な気分転換も兼ねて、俺は海へ泳ぎに行くことを決めた。
「山田先生、俺もせっかくなんで海に行ってこようと思います。着替えますね」
「あ、はいっ! 〇〇君が行くなら、私も海に行く準備をしますね!」
広い和室の中央には、立派な木製の衝立(パーテーション)とふすまによる仕切りが設けられていた。男女が同室になる以上、お互いの着替えを見ずに済むこの細やかな配慮には、心底感謝しかない。
隣の空間から聞こえる、布が擦れるわずかな衣擦れの音。それに少しだけ意識を持っていかれそうになるのを必死に振り払いながら、俺は持参した水着に素早く着替える。
下は黒を基調としたトランクスタイプの水着。そして上半身をすっぽりと覆うのは、同色の長袖ラッシュガードだ。
L社の業務や、アルガリアさんとの死闘じみた近接特訓で全身に刻まれた無数の生々しい傷跡を、平和な学園の生徒たちに見せるわけにはいかないからだ。
準備を整え、仕切りの前で軽く咳払いをする。
「山田先生、着替え終わりましたけど……そっちは大丈夫ですか?」
「あ、はい! 大丈夫です、開けますね」
カラカラ、と小気味良い音を立てて仕切りが開く。
そこに立っていた山田先生の姿に、俺は思わず息を呑んだ。
彼女が選んでいたのは、淡いパステルカラーのセパレートタイプの水着だった。その上から、日焼け防止のための薄手で透け感のある白いパーカーを羽織っている。派手すぎず、それでいて大人の女性らしい柔らかい魅力と均整の取れたスタイルが存分に引き出された、彼女にぴったりの装いだった。
「……どう、でしょうか? ちょっと、海だからって若作りしすぎちゃったかなって、心配なんですけど……」
もじもじとパーカーの裾を摘み、ほんのりと頬を染めながら上目遣いで聞いてくる山田先生。そのあまりの破壊力に、俺は一気に顔へ熱が集まるのを感じた。
「い、いや! すごく似合ってます。……綺麗です」
「えっ……き、綺麗だなんて……! あ、ありがとうございますぅ……っ」
俺の直球すぎる感想に、山田先生も一瞬で茹でダコのように顔を真っ赤に染め上げ、両手で顔を覆ってしまった。
照れ隠しのように視線を泳がせていた山田先生だったが、ふと俺の服装に気がつき、不思議そうに小首を傾げた。
「あれ? 〇〇君は……上にラッシュガードを着るんですね。最近は着る人も多いですけど、せっかくの夏の海なのに、暑くないですか?」
「ああ、これですか」
俺は自分の胸元を軽く叩き、努めて軽い調子で答えた。
「俺、L社での仕事柄、どうしても体に生傷が絶えなくて。結構派手な傷跡もあるんで、そのまま見られたら一夏や他の生徒たちに余計な心配をかけちゃうじゃないですか。だから、隠しておこうと思いまして」
俺が笑いながらその言葉を口にした瞬間、山田先生の瞳がわずかに揺れた。
――彼女は、知っているのだ。
俺がL社の地下深くで、どれほど凄惨な現実に直面しているかを。そして、その傷のほとんどが、あの『青い残響』アルガリアという狂人による、指導という名の虐待にも等しい壮絶な戦闘訓練によって刻まれたものであることを。
少し前に彼女は、L社から送られてきたその特訓の映像を偶然見てしまっていた。容赦なく叩き伏せられ、血に染まり、意識を飛ばしながらも何度も立ち上がる俺の姿を。
(……〇〇君は、私に心配をかけまいと、こうして無理に笑ってくれている……っ)
山田先生は、胸の奥をギュッと締め付けるような強烈な痛みを覚えた。
あの映像を見た時の恐怖と悲しみがフラッシュバックしそうになる。けれど、彼女はここで決して「知っている」とは言えなかった。彼がL社の人間として一人で背負っている過酷な現実と、彼なりの思いやりを、今ここで突き崩すわけにはいかないからだ。
山田先生は小さく深呼吸をすると、その胸の痛みを心の奥底へとしまい込み、いつものふんわりとした、けれど少しだけ切なさの混じった優しい笑顔を浮かべた。
「……そう、なんですね。本当に、毎日大変ですね、〇〇君」
「まあ、慣れですよ。それに、こういう時のためのラッシュガードですから。黒なら引き締まって見えますし、一石二鳥です」
「ふふっ、そうですね。よく似合ってますよ。……じゃあ、せっかくの海ですし! 色んなことは一旦忘れて、今日は二人で思いっきり羽を伸ばしちゃいましょうか!」
山田先生は俺の痛みを包み込むように、あえて元気に明るく声を上げてくれた。
その声音に込められた微かな震えと深い優しさに、俺は密かに胸を打たれながら、「はい、行きましょう!」と力強く頷いた。
窓の外では、夏の太陽が海面をキラキラと照らしている。
俺たちは並んで部屋を出て、どこまでも青く広がる夏の海へと続く、旅館の廊下を歩き出すのだった。
どこまでも続く青い空と、太陽の光を反射してきらきらと輝く白い砂浜。
海岸に出ると、すでに海へ駆け出していた女子生徒たちが、思い思いの形で夏の海を満喫していた。
波打ち際ではしゃぎながら水を掛け合うグループ、砂浜でビーチバレーをして歓声を上げるグループ、大きなパラソルの下で日焼けをしないように優雅に寝そべっている子たちなど、まさに青春の1ページといった光景が広がっている。
「あ、〇〇君。一夏君、あそこにいますよ」
隣を歩いていた山田先生が、砂浜の中心あたりを指差した。
その視線の先を追うと、案の定というか何というか、一夏はすでに凄まじいことになっていた。
「一夏! わたくしのこの水着姿、いかがですの!?」
「ちょっとセシリア! あんた近すぎよ! 一夏、私の水着の方が似合ってるでしょ!?」
「二人とも離れろ! 一夏、貴様はどう思っているんだ!」
「ちょっ、お前ら引っ張るな! 腕が千切れるっ!」
いつもの箒、セシリア、鈴音の三人に加え、他クラスの女子生徒たちまでが色とりどりの水着姿で一夏を何重にも取り囲み、熾烈なアピール合戦を繰り広げていた。
その輪の少し外側では、シャルロットが呆れ顔で誰かの腕を引っ張っている。
「ほらラウラ、そんなにガチガチにならないで。可愛い水着なんだから見てもらいなよ」
「む、無理だシャルロット! このような破廉恥な布切れなど、私の肌に直接触れるだけでも落ち着かんのだ! 頼む、このタオルは絶対に剥がさないでくれっ!」
頭の先からバスタオルでぐるぐる巻きになり、ミノムシのような状態になっているラウラが、顔を真っ赤にして必死に抵抗していた。
「相変わらず、とんでもない騒ぎだな……」
「あはは……一夏君、本当に大人気ですね」
俺と山田先生が苦笑いしていると、その騒ぎから少し離れたパラソルの下で、ビーチチェアに深く腰掛けている人物が目に入った。
大人の色気を隠しきれない、黒のシックなビキニ水着を身に纏った織斑千冬先生だ。
千冬先生は、頭を抱えるように片手を額に当て、地獄の底から響くような深いため息を吐いていた。
(……千冬先生も、あの一夏の絶望的な鈍感さと唐変木っぷりには、心底苦労してるんだな……)
日頃の厳格な姿からは想像もつかないほど疲弊している千冬先生の姿に、俺は思わず深い同情を寄せてしまった。
そんな光景を眺めていると、ふいに横から明るい声が掛かった。
「あれ? 〇〇君と山田先生だ!」
「本当だー! 一緒に海に来たの?」
浮き輪を抱えたクラスメイトの女子数人が、俺たちを見つけて駆け寄ってきた。
「ああ、ちょっと部屋で準備するタイミングが被ったから、一緒に来たんだ」
「へぇ〜? タイミングが被った、ねぇ」
「なんかさ、こうして二人で並んで歩いてると、完全に『恋人同士』みたいだね!」
「わかるー! 美男美女のカップルって感じ!」
「「えっ!?」」
クラスメイトからの突然のからかいに、俺と山田先生の声が見事に重なった。
「ち、違いますよ! 先生と生徒なんですから、そんなわけないじゃないですか!」
「そ、そうですよぉ! 皆さん、からかわないでくださいっ!」
俺も山田先生も、顔を一瞬で茹でダコのように真っ赤に染め上げ、お互いにバッと目を逸らしてしまった。
しかし、そのあまりにも初々しい反応が、逆に女子たちの導火線に火をつけてしまったらしい。
「えー? 何その反応! 目を逸らすあたり、余計に怪しいんですけど!」
「あはは、山田先生すっごく顔赤いですよー!」
きゃあきゃあと騒ぎ立てるクラスメイトたち。俺が必死に話題を逸らそうと口を開きかけた時、一人の女子が俺の服装を見て小首を傾げた。
「そういえば〇〇君、なんでラッシュガード着てるの? 泳ぐなら脱げばいいのに。暑くない?」
「あ、ああ、これか」
俺は用意していた言い訳を、できるだけ自然な笑顔で口にした。
「日焼け止めを塗るのが面倒なのもあるんだけど、ちょっと前に派手に転んで体を擦りむいちゃってさ。海の水が直接当たると沁みて痛いから、カバーしてるんだよ」
「えっ、そうなの? そっかー、それは大変だね。無理して泳いで傷口化膿させないようにね!」
あっさりと納得してくれたクラスメイトたちを見て、俺は内心でホッと胸を撫で下ろした。
これでL社での凄惨な特訓の傷跡を怪しまれることはない。完璧な言い訳だった。
だが、隣に立つ山田先生だけは、俺のその「嘘」を聞きながら、ほんの一瞬だけ切なそうに目を伏せていた。(俺はそれに気付く余裕はなかった)
「あ、〇〇〜。山田先生も〜。こっちこっち〜」
間延びしたマイペースな声が聞こえ、振り向くと、水着姿の布仏本音が、大きなビーチボールを抱えて手を振っていた。
「本音。どうした?」
「今からみんなでビーチボールで遊ぶところなんだけど〜、〇〇も山田先生も一緒にやらない〜?」
「おっ、いいのか?」
「うん〜。人数が多いほうが楽しいし〜。ほら、早く早く〜」
手招きする本音の誘いに、俺は山田先生を振り返った。
「どうします、山田先生? 俺は参加しようかなって思いますけど」
「はいっ! 私もせっかくですから、一緒に遊ばせてもらいます!」
山田先生も先ほどの照れを振り払うように、パッと明るい笑顔を咲かせた。
「よし、じゃあ行くか。本音、手加減しないからな!」
「ふふ〜、〇〇が泣くまでスパイク打ってあげる〜」
波の音とセミの声が響く中、俺と山田先生は、クラスメイトたちの待つ白い砂浜へと駆け出していった。
誰かに命を狙われることも、血を流すこともない。ただ純粋に笑い合える、眩しい夏の時間がそこにあった。
波打ち際から少し進み、腰のあたりまで海水に浸かる心地よい深さ。
俺たちはクラスメイトたちと一緒に円を作り、ビーチボールを使ってバレーボールのトスのようにパスを回して遊んでいた。
「はいっ、〇〇君!」
「おっと。じゃあ次は……本音!」
「ふふ〜、もらった〜。えいっ」
ぽーん、ぽーんと平和な軌道を描いてボールが行き交う。
途中から、一夏を巡る凄まじい女の戦いからそっと抜け出してきたシャルロットも混ざり、遊びはさらに盛り上がっていった。
「シャルロット、そっち行ったぞ!」
「任せて! ……それっ、ちょっと速いよ!」
「うわっ、鋭い! 先生、カバーお願いします!」
「きゃああっ!? な、なんとか……いけぇっ!」
山田先生が少し不格好に打ち上げたボールが、ふわりと高く舞い上がる。
ゆったりとしたパス回しに時折シャルロットの速い球が混ざり、海には俺たちの楽しげな笑い声が響いていた。
しかし、高く上がったボールが不意に吹いた強い海風に乗ってしまい、俺の頭上を大きく通り過ぎて背後へと流されてしまった。
「あ、ごめんなさい〇〇君! 変な方向に飛ばしちゃいました!」
「大丈夫ですよ、俺が取ってきます」
俺はプカプカと浮いているボールに向かって、海の中をざぶざぶと歩いて向かった。
あと少しで手が届く、とボールに手を伸ばしたその瞬間。
(……んっ?)
海中の見えない砂地にぽっかりと空いていた窪みに足をとられ、バランスを崩した。
「うおっ!?」
バシャアッ!!
俺は見事にすっ転び、頭まで派手に海水に突っ込んでしまった。
「あははははっ! 〇〇君、何もないところで転んでるー!」
「顔からいったね! 大丈夫ー?」
「……ぶはっ! げほっ……い、いや、今のは海底に窪みがあってだな……」
顔についた砂と海水を拭いながら立ち上がると、クラスメイトたちが腹を抱えて笑っている。
俺もばつが悪くなって、苦笑いで返すしかなかった。
そんな和やかな空気の中、一緒に遊んでいたクラスメイトの一人が、ふと遠くの砂浜を指差した。
「ねえ、あそこで物凄い勢いで逃げてるのって……織斑君じゃない?」
「えっ?」
全員の視線が砂浜へと向かう。
そこには、まるで命でも狙われているかのように砂浜を全力疾走する一夏と、それを追いかける凄まじい数の女子生徒たちの集団があった。
そして、その大集団の先頭を形成しているのは、当然のようにあの4人だ。
「待て一夏! だから何故逃げるのだ!」
「一夏さぁん! わたくしの特製オイルを塗らせてくださいませーっ!」
「一夏! あんた、私の水着の感想まだ言ってないでしょ!」
「嫁! 逃げるな! 私と共に深淵(海)へ身を投じるのだ!」
ラウラ、セシリア、鈴音、箒。
先頭集団の鬼気迫る形相と、一夏が上げる悲鳴のような叫び声が、風に乗ってここまで聞こえてくる。
「……モテモテだなぁ、一夏」
「あはは〜。おりむ〜も大変だね〜」
俺が呆れたように呟くと、隣で本音さんがのほほんと笑いながら首を傾げた。
「ふふっ、本当に。織斑君も罪作りですね」
山田先生も口元に手を当てて、困ったような、けれど面白がるような笑みを浮かべている。
あまりにも日常的で、しかし傍から見れば異常なその光景に、俺たちは肩を揺らして笑い合ったのだった。
ひとしきり海で遊んだ後。
お昼休みになり、旅館が用意してくれた海の家(貸切)で昼食をとることになった。
予想通りというか何というか、一夏の隣の席を巡って女子生徒たちによる壮絶な椅子取りゲームが勃発していた。
俺はその喧騒から少し離れたテーブルに避難し、屋台で買った焼きそばをすすっていた。すると、隣の席にドカッと千冬先生……織斑先生が腰を下ろした。
「……たく。どこに行ってもアイツは騒ぎの中心だな」
「お疲れ様です、織斑先生。大変ですね」
俺の向かい側の席には、シャルロット、山田先生、本音さんの三人が座り、みんなで同じように焼きそばやフランクフルトを食べている。
「アソコまで鈍感だと最早才能だな」
織斑先生は、遠くでヒロインたちに囲まれてオロオロしている弟を見やりながら、半ば呆れ果てたように深くため息をついた。
俺も焼きそばのパックを持ったまま、深く頷いて同意する。
「本当にそうですよ。……まあでも、偶にはああいう目に合わないと、コッチも割に合いませんよ」
「ふんっ。お前も大概、アイツの巻き添えを食らっているからな」
俺の愚痴に、織斑先生は鼻で笑って同意してくれた。
そんな俺たちの会話を聞いていたシャルロットが、箸を止めて不思議そうに首を傾げた。
「それにしても……一夏は誰が好きなんでしょうね? みんなあんなに一途にアピールしてるのに」
「そうですねぇ。織斑君、誰に対しても優しいですから、女の子たちは余計に気になっちゃうんでしょうけど……」
「おりむ〜は、みんな平等〜って感じだよねぇ」
シャルロットの疑問に、山田先生と本音さんも同調して一夏の方を見つめる。
すると、隣で缶コーヒーを開けた織斑先生が、非常に冷徹で、かつ的確な分析を口にした。
「アイツの事だから、『全員好きだ』と真顔で言うだろうな。……だが、その『好き』の中に、恋愛感情は1ミリも入っていないだろうがな」
「「「あぁー……」」」
織斑先生の身も蓋もない、しかし絶対的な説得力を持つ弟の評価に、俺を含めたテーブルの全員が深く納得の声を漏らした。
その間にも、あちらのテーブルの攻勢はさらに激しさを増していた。
「ほら一夏、私があーんで食べさせてあげるわ! 口を開けなさい!」
「抜け駆けはずるいですわ! 一夏さん、わたくしの唐揚げを!」
「お、お前たち、一夏が困っているだろう! ……い、一夏、私が作ったおにぎり……食うか?」
「お前らこそ邪魔だ! 嫁の食事の管理は、私の役目だ!」
「ちょ、お前ら一斉に口に突っ込むなっ!? もごっ、息が……っ!」
箒、セシリア、鈴音、ラウラ。
四方向からの強烈すぎる物理的なアプローチにタジタジになり、最後には息すらできなくなっている一夏の姿。
傍から見れば夢のようなハーレムだが、当の本人にとっては完全な拷問である。
俺は最後の一口を飲み込み、心からの本音をポツリとこぼした。
「……うん。羨ましさが全然無いなぁ」
その言葉に、織斑先生、シャルロット、山田先生、本音さんの四人は、無言のまま見事なシンクロ率で深く深く頷くのだった。
遠くで繰り広げられる一夏の地獄絵図(ハーレム)を眺めながら、平和な昼食の時間を噛み締めていた俺だったが、唐突にその平穏は打ち破られた。
「ところで〇〇。お前は好きな人いるのか?」
隣で缶コーヒーを飲んでいた織斑先生が、ニヤリと悪戯っぽく口角を上げて、爆弾のような質問を投げかけてきたのだ。
「――っぶ、げっほ! げほっ、ごほっ!」
「あらら、大丈夫〜?」
あまりにも不意打ちすぎる質問に、俺は食べていた焼きそばを勢いよくむせてしまった。
背中をさすってくれる本音さんに片手で感謝を伝えつつ、必死に気管を整える。
「な、何ですか急に……っ」
「いや? アイツの騒ぎを見ていて、ふと気になっただけだ。お前は随分と落ち着いているからな。意中の相手でもいるのかと思ってな」
「い、いや、それは……!」
俺が必死に誤魔化そうと言葉を濁していると、向かいの席に座っていたシャルロットが、ひまわりのような満面の笑みを浮かべて身を乗り出してきた。
「ふふっ、僕も聞きたいな。〇〇の好きな人」
シャルロットは、俺が山田先生のことを好きだという事実を『知っている』。その上で、明らかに面白がって援護射撃をしてきたのだ。
「なっ、シャルロットお前……!」
「うんうん、それも気になる〜」
シャルロットの言葉に便乗するように、本音さんものほほんとした笑顔で同調する。
その隣では、当事者である山田先生が、さっきまでの和やかな顔から一転、首の先まで真っ赤にして俯き、手元の割り箸をカタカタと震わせていた。
さらに運の悪いことに、この一連のやり取りは、近くのテーブルで昼食を食べていた他のクラスメイトや女子生徒たちの耳にもバッチリ入ってしまっていた。
「えっ!? 〇〇君って好きな人いるの!?」
「うそ、誰誰!? 同じクラスの子!?」
「ちょっと、詳しく聞かせてよ!」
年頃の女の子たちの恋愛ゴシップに対する嗅覚と食いつきは、ハイエナよりも恐ろしい。あっという間に周囲の女子たちから興味津々の視線を向けられ、逃げ場は完全に塞がれてしまった。
(……くっ。ここで『いない』って言い張っても、この包囲網じゃ絶対に逃げ切れない……!)
数秒の葛藤の末、俺は観念したように深いため息をつき、頭を掻いた。
「……いますけど」
「「「キャーーッ!!」」」
その一言だけで、周囲の女子たちが割れんばかりの歓声を上げる。
「いるんだ! どんな人!?」
「可愛い系? 綺麗系!?」
「いや、でも……」
俺はチラリと、限界まで縮こまっている山田先生を一瞬だけ視界の端に収め、自嘲気味に言葉を続けた。
「俺じゃ、その人に迷惑がかかってしまうから。……だから、見ているだけで十分なんです」
俺が『L社』という特異な組織の人間であること。そして何より、相手が『先生』であること。
その越えられない壁を暗に込めた俺の言葉に、周囲はさらにドッと沸き立った。
「なにそれー! 切ないっ!」
「叶わぬ恋ってやつ!? 余計に応援したくなるじゃん!」
盛り上がる女子たちを他所に、織斑先生は空になった缶コーヒーをテーブルに置き、俺の顔をじっと見つめた。そして、どこか優しい、姉のような声音で口を開いた。
「ふっ……。深く詮索はしないが、少し自信を持ったほうがいいと思うぞ。お前はアイツと違って、十分に真っ当で、よく周りが見えている男だ」
「織斑先生……」
「そうだよ、〇〇。僕もそう思う。だから、頑張って!」
「うん〜。私も応援してるからね〜」
シャルロットがガッツポーズを作り、本音さんがふんわりと微笑む。
周囲の女子生徒たちからも、「頑張って!」「なんか手伝えることあったら言ってね!」と温かい(そして少し面白がっている)声援が次々と飛んできた。
「あはは……ありがとうございます」
俺が照れくさそうに頭を掻いていると、ふいに女子生徒の一人が、ピタリと動きを止めている山田先生の異変に気がついた。
「あれ? 山田先生、どうかしましたか? 顔、すっごく真っ赤ですよ!」
「ほ、ホントだ。汗も凄いし……もしかして熱中症ですか!?」
「ひゃうっ!? い、いえっ! 違います、大丈夫ですっ! ぜ、ぜんっぜん熱くなんかないですからぁっ!」
顔からシューシューと湯気が出そうなほど真っ赤になり、カチコチに固まったまま両手をぶんぶんと振り回す山田先生。そのあまりにも不自然で挙動不審な姿に、女子たちは「無理しないでくださいね?」と本気で心配し始めていた。
(……まったく)
その様子を横目で見ていた織斑先生は、内心で静かに呆れ、そして少しだけ同情していた。
(あそこまで両想いが見え透いているのに、お互いにそれを言えないというのは……辛いだろうな)
織斑先生は知っている。二人が『教師と生徒』という社会的関係にあること。
そして何より、〇〇が『L社』という、いつ死ぬとも知れない、あるいはいつ世界中の組織から命を狙われてもおかしくない過酷な立場に身を置いていることを。
公に「好きだ」と言葉にしてしまえば、山田先生をその危険な世界へと深く巻き込んでしまうかもしれない。〇〇が「迷惑がかかる」と言った真意は、間違いなくそこにあるのだろう。
(一夏のあの騒がしすぎる馬鹿騒ぎと比べれば、遥かに純粋で平和な光景だ。……だが、あの二人が抱えている障害は、ずっと重くて大変だな)
織斑先生は誰にも気付かれないように小さく息を吐き、これ以上二人をイジるのはやめにしてやろうと、口元に微かな笑みを浮かべて海へと視線を戻すのだった。
昼食を終え、再び夏の太陽がジリジリと照りつける午後。
腹ごなしも済んだ俺は、「せっかくだから本格的に泳いでみるか」と思い立ち、海へと飛び込んだ。
ラッシュガードの抵抗を少し感じつつも、クロールや平泳ぎを交えながら、ブイで区切られた遊泳区域の境界線ギリギリ、少し遠いところまで泳いでみる。
海水を立ち泳ぎで掻き分けながら海岸の方を振り返ると、そこには多種多様な臨海学校の光景が広がっていた。
俺と同じように泳ぎに自信があるのか、遠泳に挑戦している数人の女子生徒の姿。
午前中と同じように、元気いっぱいにビーチボールやビーチバレーでキャーキャーと歓声を上げている集団。
砂浜に座り込んで、何やら巨大な砂の城……いや、あれはISの機体の精巧な砂アートを作っている職人肌のグループもいる。
中には、海には入らずに早々に旅館へと戻り、「旅館の中を探検しよう!」と盛り上がっているインドア派の生徒たちの姿も見えた。
(……それにしても、見事なまでに女子しかいない空間だな)
IS学園は、俺と一夏という世界でたった二人の男性例外を除けば、全校生徒が女性だ。
これだけの人数が集まっていて、男が俺たち二人しかいないというのは、改めて客観的に見ると本当に異様な光景だった。
俺は海に浮きながら、周囲の地形へとぐるりと視線を巡らせる。
L社での癖で、無意識のうちに周囲の警戒網を計算してしまっていた。
(この海岸一帯は、IS学園の臨海学校のために完全に貸し切り状態になっている。一般客が入り込む余地はないし、周囲は自然に囲まれていて死角も少ない。……強いて言えば、あっちの小高い山の中腹くらいか。あそこからなら、超高度な軍用レベルの望遠機器でも使わない限り、特定の個人の顔までは認識されないだろうな)
アルガリアさんや他の敵対組織が、こんな学生の行事にまでちょっかいをかけてくるとは思えないが、用心に越したことはない。
安全確認を終え、ひと通り体を動かして満足した俺は、ゆっくりと海岸へ戻ることにした。
――ザパーン、と波に揺られながら砂浜に上がる。
「ふぅ……結構泳いだな」
濡れた髪をかき上げながら、海の家で貸し出しているビーチベッドへ向かう。
一つ空いていたベッドに腰を下ろし、持参したタオルで軽く水気を拭き取った。大きなパラソルを開いて日陰を作ると、心地よい海風と波の音が、心地よい眠気を誘ってくる。
「……少し、仮眠でもとるか」
そう呟いて、ビーチベッドに背中を預け、目を閉じようとした――その時だった。
「だーかーら! 俺を引っ張るな! 何度も言わせるな!」
「ああっ、一夏さん! 待ってくださいませ! わたくしの手作りトロピカルジュースを!」
「一夏! あんた、逃げるってことは私の水着に魅とれて照れてるんでしょ!?」
「ええい、一夏! この私が自ら背中を流してやると言っているのだぞ!」
「一夏君! 私も一緒に泳ぎたいなっ!」
ドタドタドタッ!! と、砂浜を蹴り上げる派手な足音と、切羽詰まった声。
パラソルの下から薄目を開けて見てみると、一夏が午前中と全く同じ……いや、昼食時よりもさらに増員された女子生徒の大集団に追われ、涙目で砂浜を猛ダッシュで駆け抜けていくところだった。
(……学習能力がないというか、なんというか)
俺は心底呆れたように小さく息を吐いた。
あれだけモテモテなのだから、誰か一人、あるいはグループに絞って一緒に遊べば、あんな風に命からがら逃げ回る必要もないだろうに。
彼のあの「無意識の全方位対応(かつ恋愛感情ゼロ)」が、結果的にすべての火薬庫に火をつけ、大爆発を引き起こしているのだ。
「……まあ、誰かと遊べばいいのにって言っても、あいつじゃ無理か」
俺は苦笑いしながらポツリと呟き、波の音と一夏の悲鳴を遠くに聞きながら、今度こそゆっくりと目を閉じて仮眠をとるのだった。
海水浴もいいけど湖水浴もしてみたい