遠くから聞こえる波の音と、微かに響く女子生徒たちの歓声。
心地よい海風に吹かれながらうとうとしていた俺は、ふと目を覚ましてスマートフォンを確認した。
「……ん、あれ。もう三時半か」
画面に表示された時刻を見て、小さく欠伸を噛み殺す。
いつの間にかかなり熟睡してしまっていたらしい。初日の自由時間も、気がつけば残りわずかとなっていた。
「そろそろ戻らないとな」
俺は借りていたビーチベッドから立ち上がり、パラソルを畳んで海の家のスタッフに返却した。
夕暮れが近づき、少しだけ涼しくなってきた砂浜を歩いて、拠点である大型旅館へと戻る。
旅館に入ると、まずは大浴場へと向かった。
シャワールームで念入りに潮と砂を洗い流し、備え付けのふかふかしたバスタオルで体を拭く。
ここには立派な温泉も備え付けられており、何よりありがたいのは、当然のことながら「男女で完全に分けられている」ことだ。
(なにせ、男は俺と一夏の二人しかいないからな。実質的にこの巨大な温泉が貸し切り状態だ……最高すぎる)
広い湯船に一人でゆっくりと浸かりながら、L社での過酷な特訓や、今日の尾行回避訓練で張り詰めていた神経をじっくりと解きほぐしていく。
温泉から上がり、旅館の客室用に用意されたパリッとした浴衣に着替えると、丁度良く自由時間の終了を知らせる館内放送が鳴り響いた。
「よし、時間ぴったりだな」
俺はタオルを首に掛け、自分たちの割り当てられた部屋へと戻った。
扉の前に立ち、いきなり開けるような無粋な真似はせず、コンコンと控えめにノックをする。
「山田先生、〇〇です。着替え中じゃないですか? 開けても大丈夫ですか?」
「あ、はいっ! 大丈夫ですよ、どうぞー!」
中からパタパタという足音とともに、山田先生の明るい声が返ってきた。
俺は「失礼します」と声をかけて、ふすまを開けた。
「おかえりなさい、〇〇君。海、楽しめましたか?」
振り向いた山田先生の姿を見て、俺は思わず動きを止めてしまった。
彼女もすでに温泉に入ってきたらしく、旅館の浴衣に着替えていた。うなじが少し見えるようにまとめられた髪と、湯上がりでほんのりと桜色に染まった白い肌。
いつものスーツ姿や、昼間の眩しい水着姿とも全く違う、しっとりとした和の装い。
(……いつもと違う格好だと、こんなにも魅力が変わるんだな)
俺が呆然と見惚れていると、山田先生も俺の浴衣姿を見てハッとしたように目を丸くした。
「あ……〇〇君も、浴衣に着替えたんですね。その……すごく、似合ってます」
「っ……あ、ありがとうございます。山田先生こそ……その、すごく綺麗です。いつもと雰囲気が違って、なんていうか……見惚れちゃいました」
素直な感想を口にすると、山田先生の顔がボフッと音を立てそうな勢いで真っ赤に染まった。
俺自身も、言った直後に自分がとんでもなく恥ずかしいことを口走ったと気づき、急激に顔に熱が集まっていくのを感じた。
「き、綺麗だなんて……! そ、そんなことないですよぉ! 〇〇君の方こそ、なんだか大人っぽくて、その……ドキッとしちゃいましたし……っ」
「そ、そうですか? いや、単に旅館の浴衣が立派なおかげですよ」
お互いに顔を真っ赤にしながら、視線を泳がせてしどろもどろになる。
沈黙が落ち、波の音だけが部屋に響く中、俺は照れ隠しのように頭を掻きながら、ふと微笑んで言った。
「なんだか……こうしてこの部屋割りで、浴衣姿で二人でいると、学園生活の延長みたいですね」
俺のその言葉に、山田先生はきょとんとした後、ふわりと柔らかい笑顔を咲かせて頷いた。
「ふふっ……そうですね。学校とは違う場所なのに、なんだか放課後みたいで、不思議な感じです」
「ですね。外に出れば生徒たちがわいわいやってますし、修学旅行の夜みたいな気分というか」
「あはは、確かにそうですね。〇〇君も、今はL社のお仕事のことは忘れて、ただの学生としてゆっくりしてくださいね」
山田先生が柔らかく笑いかけてくれたことで、先ほどまでの妙に緊張した空気はスッと抜け、部屋の中にはとてもリラックスした、穏やかで落ち着いた空気が満ちていった。
部屋の奥にある広縁(ひろえん)に置かれた座椅子に腰を下ろし、俺と山田先生は窓の外を茜色に染めていく夕暮れの海を眺めていた。
「ふぅ……海風が気持ちいいですね」
「はい。こうして温かい日本茶を飲んでいると、なんだか心からホッとしますね」
湯気を立てる湯呑みを両手で包み込みながら、山田先生がふんわりと微笑む。
海での騒がしさが嘘のような、穏やかで静かな時間。そんな贅沢な空気を二人で味わっていると、部屋のスピーカーから『ピンポンパンポーン』と館内放送のチャイムが鳴り響いた。
『生徒の皆さんに連絡します。夕食の準備が整いました。各自、一階の大宴会場へ集合してください』
「お、晩ごはんの時間ですね」
「行きましょうか、〇〇君。海の近くの旅館ですから、お料理も楽しみですね!」
俺たちは浴衣の袖を軽く整え、連れ立って大宴会場へと向かった。
大宴会場は、百人以上の生徒が一度に入ってもまだ余裕があるほどの広大な畳敷きのスペースだった。
座席は特に指定されていない自由席スタイル。俺が適当な席を見つけて座ろうとすると、すでに着席していた織斑先生の隣に山田先生が座り、俺はその山田先生の隣に腰を下ろすことになった。
「あ、〇〇。ここ、空いてる?」
「お、シャルロット。ああ、いいぞ」
俺の反対側の隣には、浴衣姿も可憐なシャルロットがちょこんと座り、結果的に俺は山田先生とシャルロットに挟まれるような形になった。
すると、向かいのテーブルから、親友の恨みがましい声が飛んできた。
「……〇〇。お前、裏切り者〜っ」
「ん? なにがだ?」
「なにがじゃない! なんでお前は、いつもそうやって平和な席を確保してるんだよ!」
一夏が涙目で俺を睨みつけてくるが、それもそのはず。彼の周囲では現在進行形で、昼間の海岸と全く同じデジャヴのような光景が繰り広げられていた。
「一夏! 昼間は逃げられたが、夕食の席はそうはいかんぞ! 私が隣に座る!」
「抜け駆けはずるいですわ、箒さん! 一夏さんの隣はわたくしがいただきます!」
「二人ともどいてよ! 幼馴染の私が隣に座るのが自然でしょ!」
「お前たちこそ退け! 嫁の食事の世話をするのは私の務めだ!」
「「「「……またか」」」」
箒、セシリア、鈴音、ラウラ。
一夏の両隣というたった二つのプラチナシートを巡り、四人がバチバチと火花を散らしている。
その光景を見て、俺、織斑先生、山田先生、そしてシャルロットの四人は、見事なまでにシンクロした深いため息をついた。
「……たく。飯の時くらい静かにできんのか、あいつらは」
「あはは……織斑君、本当に休まる暇がありませんね」
「一夏も大変だね。まあ、自業自得な気もするけど」
シャルロットが苦笑いしながら見守っていると、向かいの席ではついにじゃんけんによる厳正なる決着がつけられていた。
「「勝った!!」」
歓声を上げたのは、箒と鈴音の幼馴染コンビ。
二人は勝ち誇った顔で一夏の両隣を陣取り、負けたラウラとセシリアはギリッとハンカチを噛みちぎりそうなほど悔しそうな顔をして、残った正面の席へとドカッと座った。
「よ、よし! 全員座ったな!? じゃあ、冷めないうちにいただこうぜ!」
一夏が無理やり場をまとめるように声を上げ、ようやく夕食が始まった。
旅館の料理は、海が近いだけあって絶品だった。磯の香りが漂う海産物の炊き込みご飯に、今日水揚げされたばかりの新鮮な魚を捌いた舟盛りの刺身など、海の幸がこれでもかと並んでいる。
「わあ、お刺身がキラキラしてますね!」
「本当に美味しそう。……あ、お刺身といえば」
シャルロットは小皿に醤油を注ぐと、添えられていた緑色のペースト――『わさび』を箸の先で少しだけ取り、器用に刺身に乗せてパクリと口に運んだ。
「んっ、美味しい! わさびの風味がちょうどいいよ」
「シャルロット、わさび使えるんだな」
「うん! 前に学食で、〇〇や一夏と一緒にわさび入りのお寿司を食べたじゃない? あの時にコツを教わったからね」
得意げに笑うシャルロット。しかし、その光景を見ていた向かいの席のヨーロッパ組――セシリアとラウラの二人は、小皿の端に乗っているその『緑色の物体』の正体を知らなかったらしい。
「ふむ……シャルロットがあのように食べているということは、あの緑色の薬味を乗せるのがこの国のマナーなのだな?」
「そういうことですわね。郷に入っては郷に従え、ですわ!」
ラウラはシャルロットの真似をして、箸の先でちょこんと少量のわさびを刺身に乗せ、口に運んだ。
「……むっ!? 鼻にツーンとくる未知の刺激だが……悪くない。むしろ魚の旨味が引き立つ。美味いぞ!」
「さ、さすがラウラさん、適応が早いですわね。ならばわたくしも……!」
セシリアはなぜか対抗心を燃やし、あろうことかわさびそのものを箸でゴソッと大量に掬い取り、そのまま醤油もつけずにパクリと口の中へ放り込んだのだ。
「……えっ。ちょ、セシリア!?」
「待て、それは流石に――」
俺と一夏が止める間もなかった。
数秒後。
「~~~~~~っっ!?」
セシリアの顔がみるみるうちに真っ赤になり、目からは滝のように大粒の涙が溢れ出した。
「けほっ、ごほっ! げっほ、げほっ!! カ、カラい!? いえ、痛い!? は、鼻がもげますわーーーっ!?」
「お、おいセシリア!? 大丈夫か!? ほら、水! 早く水飲め!」
あまりの刺激にむせ返り、涙目で喉を押さえるセシリアを見て、一夏が慌てて自分のコップの水を差し出し、背中をさすってやる。
すると、その『一夏がセシリアの世話を焼いている光景』を見た両隣の箒と鈴音が、ピクッと眉を吊り上げた。
「……一夏? お前、なぜセシリアばかり構っているんだ?」
「ちょっと一夏! 私の隣に座ってるのに、前ばっかり見てんじゃないわよ!」
心配して介抱しているだけの一夏に対し、二人はあからさまに嫉妬の炎を燃やし、ジロリと鋭い睨みを利かせ始めたのだ。
「ええっ!? いや、セシリアが死にそうにむせてるからだろ!? 頼むから今は理不尽に怒らないでくれよ!」
パニックになりながらツッコミを入れる一夏。
その一部始終を少し離れた席から傍観していた俺、織斑先生、山田先生、シャルロットの四人は、再び見事なまでにシンクロした感情を抱いていた。
((((……いや、そこは一夏を睨むところじゃないだろ……))))
「……アイツら、本当に食う時くらい静かにできんのか」
「あはは……まあ、賑やかで良いんじゃないでしょうか……?」
「一夏、胃に穴が空きそうだね……」
あまりにも不憫すぎる一夏の姿に、俺たちはただただ苦笑いを浮かべながら、美味しい海の幸を平和に堪能し続けるのだった。
旅館の部屋にあるあの場所を広縁というらしい