昼休みの修了間近の穂群原学園の教室にて。
生徒たちは自分の教室に帰ったり、机の上を片付けたりして次の事業の準備をしている。
衛宮士郎と柳洞一成も席について授業開始のチャイムを待っていた。
そこへ、ガラガラッと教室のドアを開けて1人の生徒が教室に入ってきた。
「あれ慎二、帰ってきたのか?」
「間桐、新都まで昼食に行って戻ってきたのか」
入ってきたのは間桐慎二だ。
昼休み前に慎二は、今日は新都で女の子とランチをしてくる、と言い残して出かけていった。
「新都まで出て行ったら午後の授業までに戻って来れないぞ」
と士郎は忠告したが、
「そのまま午後の授業はフケるよ、じゃあな。君たちはいつも通りに寂しく男だけの昼休みをすごしたまえ」
慎二はそう言って出て行ったのだ。なので教室に戻ってくるとは思わず、士郎と一成は少し驚いていた。
「間桐、おぬし今日はもう戻ってこないつもりではなかったか?」
一成が嫌味混じりに突っ込むと慎二はフッと鼻で笑いながら答えた。
「おや、僕はそんなことを言った覚えはないね。一成、オマエの記憶違いだろう。そっちこそアタマ大丈夫?」
「そうか? オレも慎二がそう言ったのを聞いたはずなんだけどな」
士郎が一成の擁護をするとますます慎二はムキになって言い返してきた。
「だから、言ってないって言ってるだろ! 本人がそう言ってるんだからそうに決まってるだろ!」
「わかった、わかったよ。オレたちの聞き間違いだ。なあ一成」
なぜか慎二は機嫌が悪い。新都で何かあったんだろうか?
士郎はとりあえず慎二に話を合わせてこの場を収める事にした。士郎は一成に目配せする。一成は不満そうだったが黙ってくれた。
「そういえばさぁ」
慎二が口を開く。話の流れを変えて険悪になりかけた空気をごまかそうとしているようだ。
「午後の授業は何だ? 出席にうるさい藤村の英語じゃないだろな」
「歴史だよ。藤村先生の英語は午前に終わったぞ、慎二。オマエ、午後はフケてもたいして問題ない授業だから新都まで行くって言って出かけたじゃないか」
士郎が慎二の発言の矛盾を指摘すると慎二は気まずそうに言葉を濁す。
「そ、そうだった……かもね」
あまり慎二を追いつめるのはよくない。士郎と一成もなるべく話をそらすことにした。
「そういえばさ、慎二が今日行った店はどうだんったんだ。うまかったのか?」
「おぬし、ヴェルデに新しいCD屋ができたからついでに見てくると言ったな。それはどうだったのだ?」
「え? あ、それは……まあ」
慎二はあきらかにたじたじとしている。実に慎二らしくない。普段ならここぞとばかり新しい店のチェックを欠かさない情報力だとか、的確に店のサービスやインテリアを批評するセンスだとかを誇示してくるというのに。
「そうだね……。レストランは思ったより庶民っぽい雰囲気だったけど、味はまずまずだったよ。新しいCD屋も品揃えは普通だったし悪くないんじゃないの……」
答える慎二の口調には徐々にイラつきが混じってきていた。
「ていうか、さあ。いちいち細かい事を聞くなよな」
いつもの慎二ならこの手の質問が大好きで、むしろ積極的に彼のイカした意見を聞いてやらないと機嫌を損ねるところなのだが今日は何か様子がおかしい。いや、様子がおかしいのは先ほど教室に戻ってきてからだ。
一成がちらりと士郎の方を向いて言った。
「衛宮、間桐がイラついてるのは、きっとランチを一緒した女の子とうまく行かなかったのだろう」
その発言を聞きとがめてすかさず慎二が割り込んでくる。
「女の子? 何を言ってるんだオマエら。僕はそんなことを言った覚えはないぞ」
士郎と一成は目をあわせて頷きあった。2人はそれぞれ慎二の横に回り込んで、がしっと腕を絡めた。そのまま教室の外に慎二を引きずりだす。
「おいこら、衛宮、柳洞。なにするんだよ!」
「慎二、いいからついてこい!」
断言できる。今日の慎二は、何かがおかしい。
士郎と一成は慎二を生徒会室に連れ込んだ。
「な、なんのつもりだよ衛宮。急にこんなところに連れ込んで。まさか暴力を振るう気か」
部屋の中に入ってから慎二の腕を放してやったが、強引に連れてきたこともあって慎二は怯えてパニック気味になっている。
「そんなことしないから、おちつけよ慎二」
一成が緑茶をいれてくれた。それを慎二の前に差し出す。
「ささ、まあお茶でも飲めよ」
慎二は渋々お茶を口に運ぶ。慎二の様子が少し落ち着いたかな、とみえたところで士郎は切り出した。
「さて慎二、質問があるんだが」
「なんだよ」
真剣に慎二の目を見つめながら士郎は尋ねた。
「まず、おまえの名前と年齢は」
「……っ。衛宮オマエ、僕をバカにしてるのか」
「まあまあ、怒らないで答えてくれ。真面目な質問なんだ」
「ふん、仕方ない、馬鹿馬鹿しいけど答えてやるよ」
あきれた表情を士郎と一成に向けて慎二はぶっきらぼうに言った。
「間桐慎二、17歳。これでいいだろ?」
オーケー。では次の質問だ。
「ここはどこだ」
「穂群原学園の生徒会室。何? ボクに聞きたい事ってそんな変な質問ばかりなワケ?」
慎二は不満そうに鼻を鳴らしている。士郎と一成は顔を見合わせて、その辺りの記憶は大丈夫らしいな、とコソコソ相談していた。
「じゃあ慎二、次の質問だ。今日、朝は何をしていた?」
「何って衛宮。それは朝、いつも通り起きて……」
慎二の言葉が止まる。
「何時に学校に来た? 一時限目の授業はなんだった?」
「う……あ……」
士郎は畳み掛けるように質問する。慎二の返事は完全に止まって呆然とうめき声を返すばかりだ。
「衛宮」
「ああ、一成」
士郎と一成は目を合わせて、頷き合った。そして二人とも慎二に向き直って真顔で告げる。
「慎二、やはりオマエ今日の記憶がないんじゃないか?」
「……あ———うわあああああ!」
慎二は思わず叫んでしまった。そして頭を抱えて机に突っ伏す。
———そうだ、僕は今日の記憶がない。何も、思い出せない!!
「おい慎二、大丈夫か?」
「出かける前のおぬしは変ではなかったぞ。新都で何かあったのか、間桐?」
「こんにちはー! 宅配便でーす!」
生徒会室のドアの向こうから元気な大声がした。
一成が、そういえば今日は注文していた備品が届く予定だったと言って席を立ち、ドアを開ける。
「こんにちは。アオイヌヤマトです。いやあ配達遅れちゃってすみませんでした!
って、あれ?」
ドアの向こうにいたのは宅配便のお兄さん、なのだが青いロン毛に赤い眼の外国人だった。そう商店街や港でよく見かけるアイツだ。
「よう、衛宮の小僧に間桐の兄ちゃんじゃねーか」
「ランサーじゃないか。何やってるんだよって……そうか今は宅配便の仕事してるのか」
まさか学園内でこうしてランサーと出会うとは。
この男と知り合いなのか衛宮、と一成が士郎の肩をつついてくる。ああ、と返事しつつ士郎は一計を思いついた。
突然の慎二の記憶喪失。ランサーならもしかしたら記憶を戻す方法を知っているかもしれない。
「ふーん……」
慎二が記憶喪失だからみてやってくれないかと士郎に頼まれ、ランサーは慎二の様子を見ていた。椅子に座っている慎二の周りをぐるっと一周まわって全身をくまなく眺める。
「なあ兄ちゃん、おでこに文字が書いてあるぜ。それ自分で書いたんじゃねえんだろ?」
ランサーは慎二の額を指差した。士郎と一成が覗き込むと前髪で微かに隠れるところに幾何学模様のような図形がかき込んである。慎二は生徒会室の備品の鏡をつかって自分の額を確認した。
「なんだよこれ……。なんでこんなのが書かれてるんだ。まぬけじゃないか。くそっ。消えない!」
慎二は額をハンカチでゴシゴシとこすった。だが額の落書きは全然落ちていなかった。
「そいつはこすったぐらいじゃ消えねえよ。そいつはルーン魔術だ」
「ルーン!?」
ランサーが慌てる慎二に向かって言った。士郎、一成、慎二の3人は驚いてランサーの方を向く。
「兄ちゃんの記憶がないのはそのおでこのルーン文字のせいだ。そいつは忘却のルーンだよ。オレが消してやろうか?」
「消してくれ、頼むよ!」
慎二は即座にランサーに頼み込んだ。しかし、ランサーは腕組みをして、うーん、と少し考えている。
「そうは言ったけどな兄ちゃん、こんなのが刻まれてる以上はもしかしたらとんでもない記憶かもしれないぞ。記憶が戻らない方がよかった、ってこともあるかもしれないけど本当にいいのか?」
「構わないよ、落書きを消してくれよ。記憶喪失なんてイヤだ!」
じゃあ消すぜ、とランサーは慎二の額に指を近づけた。一瞬淡い光が浮かんですぐに消えた。それと同時に慎二の額に書かれていた文字もきれいになくなった。
そして慎二の記憶が蘇る。
「う、わ……」
慎二の顔は見る間に青ざめ、座っていた椅子から床に転げ落ちて悲鳴をあげていた。
「ああああ……うわあああああああああああああああ!!!」
「慎二、おい慎二!」
慎二は頭を抱えて床を転がりまわりながら叫んでいる。ランサーはそんな慎二を見下ろしてあちゃー、と額を押さえた。
「いわんこっちゃない。消されていた記憶の中で兄ちゃんはよっぽど怖い思いをしたらしいな」
士郎は叫んで転がる慎二を助け起こした。慎二をなだめようとして声をかける。
「慎二、あまり気にしすぎるとハゲるぞ」
「うるさい衛宮、ハゲないよ! ボクはそんな歳じゃない!」
士郎と慎二の様子を見ながら、一成が不思議そうに呟いた。
「ううむ、それにしても誰が間桐にこんなことをしたのだろうか」
ランサーは声には出さず心の中である人物の姿を想像していた。
———まあ、オレの知る限りでこんな事をするやつは1人しかいないが……
昼休みに新都へ出た慎二は街角である光景を見た。
「あなたはクビです」
「そんな……勘弁してください」
「店の皿は片っ端から割るし、店の設備は壊すし、酔っぱらい客と喧嘩して救急車を呼ぶハメになるし」
「次からは気をつけますので、どうか……」
「ダメです」
とある飲食店の裏口だったのだが、どうも店主がダメなアルバイトをクビにしているところに出くわしたようだった。クビを言い渡されているのは背の高い外国人の女。なぜかサラリーマンのように黒のスーツを着込んでいる。形だけはぴしっとした格好をしているのが、この状況ではかえって情けなさを増幅させているだけだ。
「ぷぷぷぷっ。いい歳して、あんな立派そうな格好して、それでレストランのバイトすらできないなんてダメな女もいるもんだ。ダサイったらありゃしないねえ」
慎二は物陰からこっそり笑っていたつもりだったが、ふと気がつくとその女と目が合っていた。その視線が、やけに鋭い。
…………ヤバい。あの女はなんかヤバい。
身の危険を察知し、慎二は逃げ出した。
「待ちなさい」
後ろから声をかけられたが無視して全力で走る。
しかし、回り込まれてしまった!
黒スーツの女はいつの間にか慎二の真正面に立っていた。両拳を握って固め、ふるふると肩を震えさせている。女はゆっくりと、静かに口を開いた。
「見ましたね」
「見てません、ぼぼぼボクは、何も見てません!」
ぶんぶんぶんぶん、と慎二はこれ以上なく高速で首を横に振った。振り過ぎで慎二の首が飛びそうなくらいに。
「問答無用です」
そういうなり女が慎二の胸ぐらをつかむ。ひいぃ、殴られる……、と慎二は思わず目をつぶった。
女の指が慎二の額に伸び、ルーン文字を書き込んだ。慎二の今日の記憶が消えていく。かすれていく意識の中で慎二は微かに女の声を聞いた気がした。
「運がありませんでしたね少年。———でください。」
言うまでもないが、慎二の額にルーンを書いたのはバゼットである。
バゼットは自分の醜態を笑って逃げようとした少年を取っ捕まえ、少年が見聞きした事を忘れさせようとした。
バゼットが書き込んだのは一日を意味するルーン
バゼットは自分の失敗さえ忘れてくれればそれでいいと思っていた。しかしバゼットは戦闘以外の細かい魔術はおしなべて不得意である。
結果として慎二の今日の記憶は丸々失われたのだった。
そしてバゼットは今、ランサーと一緒に宅配便の配達の仕事をしている。
「ランサー、追加の荷物を持ってきました。この部屋でいいんですよね?」
バゼットはがちゃりとドアをあけて部屋の中に入った。中にはランサーの他に3人の少年がいる。その少年の中の1人がバゼットを見て硬直した。彼はバゼットを指差してわなわなと震えている。
「お、おまえは、あの時の……!」
「え?」
バゼットが慎二の事を思い出すよりも早く、
「うわああああああああああああああ!」
慎二はバゼットの脇をすり抜けて全力ダッシュで生徒会室から逃亡していった。
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dagaz(ダガズ)
象徴:一日
英字:D
意味:一日の太陽の運行を象徴し、継続、安定の意味を持つルーン。基本的に穏やかで順調な生活、安定して豊かな日常を繰り返すことを示す。未来の新しいサイクルに着実に前進している状態を表すルーンである。
ルーン図形:
ピンポイントで都合いい記憶喪失になれると便利だなあと思う。