アイルランド出身ウマ娘さんと、それを見守る一般人さん 作:佐月檀
ただただ、唖然とするしかなかった。
宗正にとっては、夢のような光景。試しに頬を引っ張ってみても、パドック上に設置されたステージには、ひとりのウマ娘が立ったまま。
確信する。これは夢ではない、現実だと。
それでもまだ、現実味などなかった。
まさか今になって、唐突に
やがてシャーガーはジャージを拾い上げると、背を向けてステージの裏に消えていく。
なにがなんだか、理解が追いつかない。宗正の思考が複雑に絡まっていく。
なぜシャーガーが
だというのに、なぜ? 今となっては、長期間ウマ娘関連の情報から離れていた自分を呪うしかなかった。
「シャーガー……お前も、ウマ娘になっているとは……」
自然と独り言が零れる。誰にも聞こえない小声で発せられたそれは、すぐに観客の驚嘆で掻き消される。
まさかあれが可憐な美少女になっているなんて……想像すら容易く超えるこの世界に、つい溜め息を吐いてしまう。
「…………この世界、ある意味で恐ろしいな」
未だに理解が及ばない思考を巡らせつつ、そのように呟くしかなかった。
ショートしかけな脳を以て、肉体を駆動させる。
あれから思考は打ち切った、いや、打ち切るしかなかった。
あのあと、宗正に残った選択肢はひとつ。
今からシャーガーが走るというこのレースを、見届ける他ない。
新潟レース場、芝1600m、晴れ、良馬場、8人立て――。
それらの要素を照らし合わせ、結果を予想してみる。シャーガーというウマ娘を軸として。
「……流石は1番人気、だな」
目を細める。この時点で、宗正の中では一瞬で結果が出てしまう。
すなわちシャーガーの圧勝。出走メンバーを鑑みても、そうとしか考えられない。
あれがここで飛ぶなどあり得ない。宗正はそう結論づける。
「他の娘には悪いけどな……あれは強すぎるんだよ……」
なぜだか自嘲気味に唇を歪めてしまう。
今の自分には関係ないというのに、ほんの少しだけ申し訳なさが残る。
「そういや、トモちゃんはどこ行ったん……」
と、いきなりどこかへ姿を消した男の存在を思い出す。
前世ではシャーガーの鞍上だった男と同姓同名で――
そこで思い当たる。思い当たってしまう。
「――待てよ、まさか」
なるほどあとでしばく。そのような決意を、宗正は胸に秘めた。
「頑張れーっ! 応援してるぞーっ!」
「負けないでーっ!」
観客たちが声援を送り届けていることに気づく。
視線をターフに切り替えると、そこには体操着とゼッケンを着用しているウマ娘たちが各々ゲートに入りつつあった。
緊張している様子のウマ娘もいたが、今の宗正の目には留まらない。
彼は目線を、
一方のシャーガーはというと、このゲートに懐かしさを覚えていた。
まだ入ったことなどないのに、なんだか懐かしい。そう思ってしまうのは、やはり前世があるからだろう。
スタートの態勢を取る。
その行為だけでも、自然と笑みが零れる。
ああ――楽しみたい、楽しみたい、楽しみたい!
衝動にも近い感情を、もはや抑えることなどできやしない。
いや、元から抑えなんて必要ない。
そうしていると楽しめないのもある。だけれどなにより、あの人に無様な姿を晒しかねない。
「さあ」
――誰よりも楽しみましょう。
シャーガーが独り言を発したと同時、ゲートが開く。
宗正は息を呑む。3番のウマ娘がいいスタートを決めていたため、ひとまずは胸を撫で下ろす。
「頼むぞ……!」
3番手という脚質からは若干前目の位置取りを選択したシャーガーに、消え入りそうな小声で祈る。
長髪を靡かせて、地面を蹴る。
そこにあるのは、彼に自分を認識してほしいという想い。
認識してくれているのなら、あとは楽しみつつ勝つだけ。
まずはこのメイクデビューから。ここから夢を駆け上がる。
新潟の直線は長い。だから後方から追い込むようなウマ娘が有利だというのに、シャーガーは敢えてそのアドバンテージを捨てた。
トレーナーの友彦からは指示なんてない。ただ「好きに走れ」とだけ。
ならばそれに応えるのが、筋というものだろう。
「ややスローペースか? こうなると末脚勝負だけどなぁ……」
それでもシャーガーは前目につけたまま。本来得意なはずのポジションを無視して、だ。
シャーガーを信頼しているとはいえ、流石にこれはどうだ。
……いや、そうであっても勝つか。恐らく勝ってくれる。不安になっているのは自分だけだ。
宗正は内心で自身にそう言い聞かせる。
『最終コーナーを回って、間もなく直線勝負! 新潟の直線は長いが、ウマ娘たちはどう動くか!』
実況が木霊するなか、宗正は自身が動揺していることに気がつく。
今にも叫んで、想いをぶつけてやりたい。
だけれどここからは彼女たちの舞台。その邪魔をするのは、野暮にもほどがある。
シャーガーはターフを強く踏みしめると――
「――もっと、もっと」
一気に先頭を奪取しに行く。
「私を、楽しませてッ!」
一瞬で逃げていたウマ娘を抜き去ると、後続との差を引き離していく。
『シャーガーだシャーガーだ! やはり1番人気のシャーガーだ! シャーガーが後ろを突き放していく!』
実況と共に、湧き上がる歓声。
少し仕掛けただけで、この独走っぷり。
歓声が上がらないほうがおかしかった。
観客席から見守る宗正の脳裏には、ある光景が走馬灯のように蘇る。
――シャーガーだ! 日本の馬だ! シャーガーが本場のダービーを駆け抜けている!
「ああ……」
目元に熱が籠る。思わず拭いそうになる。俯きそうになる。
だけれど、決して目を逸らさない。
『シャーガーが独走でゴールイン!』
だって彼女の初勝利を、もう一度見届けたかったから。
「やったわね、トモヒコ」
「ああ、見事やったわ、シャーガー」
「……ねえ、少しいい?」
「うん? どないした?」
「
「たぶん観客席やけど……今行ったらまずい。申し訳ないんやけど、あとちょっと辛抱や」
「ああ……会いたい、会いたいの……」
「……まさに重い想い、だな……」
シャーガーが喜びに浸るなか、急に友彦の懐かあら着信音が鳴り響く。
「すまん、シャーガー。ちょっと出るわ」
「……ええ、どうぞ」
「おう、ありがとな」
友彦が耳に電話を当てると――
『トモちゃん、今どこ!?』
「あー……すまん、今トイレ」
『そこも探したけどいなかったぞ!?』
「……お、おう」
『どこにいんだよ! 本当にさー!』
友彦がどう返すべきか迷っているところだった。
「……もしかして、ご主人さまなの?」
「あっ、ヤベッ! 一回切――」
言いかけたところで、友彦の手から電話が取り上げられる。
「あのー……もしもし?」
『……ん? トモちゃん?』
「いえ。――
『……え?』
「こうして声が聞けるだけでも嬉しいの。いつか会いたいね」
『お、おう……』
「ちょっ、シャーガー!」
「次のレース、ぜひ観戦してね。それじゃ、一回切るね」
『アッ、ハイ』
電話を切ると、友彦に手渡す。
「……ふふっ、やっぱり愛しいね。いつかまた、再会したいな」
友彦はもう呆然とするしかなかった。
「ああ、やらかしたわ……」
発せられた独り言は、控え室の天井に吸い込まれていくだけだった。
一方で友彦を探し回ってフードコートにまでやってきた宗正も、呆然と立ち竦んでいた。
「……また、見に行けばいいのかな?」
首を傾げて、再び友彦を探し始める。
しばらくして、関係者のみが入れるウィナーズサークルに友彦が現れたため、宗正は必ずしばくと再度決意した。
夢は姿形を変えても続いている。そう、再び始まりを迎える。
――どのような形であれ、だ。