「ねぇ、これはどういうことかな?」
晴れて恋人になった俺と智香が屋上から下りると待っていたのは、何やら不機嫌そうな渚さんである。
恋人になって早々、腕に腕を絡めて離さない智香を見るや、渚はいい笑顔で出迎えてくれた。が、言葉には祝福とは無縁の背筋が寒くなるような何かが込められており、渚の様子の変化に俺は思わず目を泳がせてしまった。
「ふふ、今日から私達恋人になりました」
それに怯みもせず、智香は堂々と恋人関係を告げる。
すると渚の顔から、すとんと表情が抜け落ちた。
何故か俺は、瞳のハイライトさえ消えた義妹の表情に嫌な予感を覚える。
どうしてか寒気がして鳥肌が立ち、背筋には刺すような痛みを錯覚する。
「ねぇ、瑛太……嘘だよね?」
「いや、その、まぁ……あれだ。お試し期間的な?」
どう説明したものか迷う。
ただそれだけで十分な反応であった。
否定しないということは、そういうことだと。
渚は理解した。
「ふーん。そうなんだ」
「そう、そうなんだよ。あははは……」
「元いた場所に返してきなさい」
「そんな捨て猫みたいに」
捨て猫を拾ってきた子供を叱る母親のようなことを言い出す渚を無視して、腕には智香が抱きつき「にゃー」と楽しそうに鳴きながら頰を擦り付けてくる。あざと可愛い仕草に思わず鼻の下が伸びるが、そんなことで渚は前言を撤回することはなかった。むしろ厳しい視線を智香に向ける。
「泥棒猫も捨て猫も一緒でしょ」
「泥棒猫とは人聞きの悪い。別にあなたのものではありませんよね」
「あたしのだよ。ね、瑛太」
「俺はいつの間にご主人様に飼われるペットになっていたんだ……?」
むしろ、渚や智香のご主人様になってメイドさんにしたいという願望はさせておいて、返答に困ったのでわざとボケておく。女同士の争いには極力介入しないのが、生き残る処世術だ。漫画でそう教わった。
「……人間用の首輪ってどこかに売ってるかな」
「渚さん?誰につけるつもりですか?」
「瑛太にそういう趣味があるなら、あたしは構わないけど……」
「ないからそんな趣味!」
「瑛太君は可愛い彼女さんに首輪をつけたいんですよね」
「……そんな趣味もない」
智香の首に首輪がついた姿を想像して、悪くないなと思ってしまった自分がいる。ものは試しとも言うし、未だ試したことはない故にそういう性癖がないとは言い切れなかった。
「帰りに買ってみますか?」
耳元で内緒の相談をするかのように、囁く智香。
そんなものどこに売っているのかと思ったが、エロゲにも出てくるくらいだし探せばあるのだろう。たとえば、何でも売っている店の十八禁コーナーとか。
未成年なので入れるとは思わないし、買えるとも思わない。あとついでに言うならそんなものを堂々と買う勇気もないが。
「智香、もう少し段階を踏もう。アクセル全開すぎるだろ」
「うふふ、瑛太君とお付き合いできるのが嬉しくて少しはしゃいでしまいました」
「ほどほどにな」
「でも、瑛太君だってそういうことは興味あるでしょう」
「まぁ、それはおいおい」
「そうですね。まだ、始まったばかりですし。私は瑛太君が望むならいつでも心の準備はしていますけど」
献身的なのは嬉しいが、ちょっと暴走気味の恋人を諌めてなんとかことなきを得る。
「……瑛太の–––」
恋人ができたことに浮かれて、つい渚の存在を忘れていた。
名前を呼ばれたことにより状況を思い出し、再び意識が渚の方に戻される。俯いた顔は身長差から覗き込むことができず、表情を窺えなかった。
室内なのに、何処からともなく水滴が煌めいて床に落ちる。
それが涙だと気づいた時には、顔面に学生鞄が迫っていた。
「–––瑛太のバカ!もう知らないッ!!」
顔面に直撃する学生鞄。
なんとか鼻先への直撃を避けたものの、顔面への衝撃に怯み一瞬だけ視界が明滅する。
僅かに滲む視界で、捉えたのは走り去る大切な義妹の姿。
声を掛ける間もなく、渚は学校を出て行ってしまった。
「あ、おい!……あのバカ、顔面に鞄を投げつけやがって」
思わず悪態を吐いてしまったが、どうにも渚が泣いていたように思えて怒りも湧いてこない。
追い掛けるべきか迷っているうちに、彼女の姿は見えなくなってしまった。
「大丈夫ですか?瑛太君」
「あぁ、なんとか。それより放っておくと面倒だし、追いかけた方がいいかな」
「そうですね。私はそっちの方が嬉しいですが。でも、今は放っておいた方がいい気もします」
「……ふむ、悩みどころだな」
人間感情が荒ぶっていると誰とも会いたくなくなるものだ。
俺の場合親父と喧嘩したら顔も合わせないし口も利かないが、それを渚相手に当て嵌めていいものかどうかも謎だ。
喧嘩の原因だって俺が彼女を作ったことにあるわけだし、もしかしたら追いかけて欲しいのかもしれない。
思えば喧嘩したのだって、初めてだ。
そんなに怒ることもないと思うが、渚なりに気に入らない理由があったのだろう。
……たとえば、俺のことが好きとか。
さすがに自惚れが過ぎる気がするので、そんなことは言えないが。
だとしたら、追いかけた方がいい?
追いかけて欲しいタイプかもしれない。
一人にして欲しいタイプかもしれない。
–––わからない。そこで俺が考えたのは、無難な策だった。
「よし。ご機嫌取りのために、渚が好きそうなスイーツでも買いに行こう」
「どうしてその結論に至ったのか聞いてもいいですか?」
「女子って甘いもの好きだろ。だから、甘いもので機嫌を直してもらおうかと」
「食べ物で釣れるほど甘くないとは思いますが……」
「まぁ、ないよりはマシだろ」
渚が投げた鞄を拾い上げて肩に掛ける。
多少重いが、罰として甘んじて受け入れることにした。
「ふふ、ではご一緒してもよろしいですか?」
「おう。あ、アドバイスはいらんぞ。なんか余計に怒らせそうだから」
こういう贈り物をする時に、ライバルの意見を取り入れたラブコメの主人公がヒロインの機嫌を更に悪くするという展開を知っていた俺は予防線を張って、更なる被害を未然に防ごうとする。
–––それがまったく無駄な努力とも知らずに。