その日、水波レナは一人になった。桜の舞う夕暮れの新西区を行き場もなくふらふらと歩いていた。コンクリートの地面にローファーが当たる硬い音が耳に響いていた。寂しげなカラスの鳴き声と耳障りな車の走行音ばかりが街の中を占めていた。部活帰りの誰かがレナの前を横切った。レナはふと周りを見回したが、見慣れない景色が周囲を覆っているだけだった。物思いに耽っている間に、随分遠くまで来てしまったようだった。そうして暫く周りを観察していると、ある一角に見覚えのある景色を見つけて、レナは何となく自分の居場所を把握した。この辺りには調整屋があったはずだった。ついさっきまで会っていたももこが、今日は調整屋は休業日なんだ、と言っていた事を思い出した。桜が綺麗に咲いたから花見でもしようと誘ったら、調整屋には珍しくにべなく断られたのだとももこは笑っていた。そんな事を思い出していると、レナの足は自然に調整屋の方へと向かった。特に深い意味は無かった。何となく、謎に包まれた調整屋こと八雲みたまが、花見を断ってまで何をしているのか気になっただけだった。調整屋が調整屋に居なければ、そのまま家へと帰るつもりだった。ほんの少しの好奇心に誘われて、レナは町外れの廃墟の前に辿り着いた。
調整屋の扉には、「本日休業」という襤褸看板が掛かっていた。ノブに手をかけて引くと、扉はなんの抵抗も無く開いた。レナはスパイか怪盗にでもなったような気分で、抜き足差し足忍び足。レナの鼻につんと刺す煙草の煙が届いたのは、入ってすぐの事だった。いつか嗅いだ、そして自分で吸った煙とはまた違う匂いだった。部屋の中心に近づくたびにその煙は濃度を増していて、見慣れた調整屋のソファーが白く霞んで見えた。そこには八雲みたまが魔法少女服のままだらしなく座っていた。換気が効いていないからか、みたまに近づくたびに空気が濁っていくのを肌で感じた。防災訓練よろしく服の袖で口と鼻を覆っていたレナは、ふとみたまが顔をこちらに向けるのを見て、慌てて後ろに下がろうとしたが、それで隠れられるはずも無かった。煙の向こうのみたまは、いつもの営業用の笑顔とは程遠い、感情の乏しい顔をしていた、ように見えた。レナを見つけたみたまは、それまでの表情が嘘のようににっこりと笑って、手に持っていた煙草を灰皿の上に置いてから口を開いた。
「あら、レナちゃん。今日は調整屋はお休みよ?」
レナはそれで、笑顔の仮面を貼り付けたいつものみたまと今日のみたまが、何か違うような気がした。
「……レナ、客じゃないわよ」
レナは咄嗟にそう言ったが、後に続く言葉は出なかった。みたまはまたあの貼り付けたような笑顔で「そうなの」と言った。灰皿に置いた火が点きっぱなしの煙草を一息吸って、部屋をまた白く染めた。そうして行き場がなく突っ立っていたレナのほうを見て、
「そんなところで立ってないで、ほらほら」
レナを椅子のほうへと促した。言われるがままにレナは椅子に座った。ちょうどみたまとガラスのテーブルを挟んで対面するようになった。よく見ればみたまは二つの灰皿をテーブルの上に置いていて、その片方はとっくに吸殻で溢れ返っていた。レナは座ったまま、無言でみたまが煙草を一本灰にするまでを眺めていた。空いている方の灰皿に新しい吸殻が押し付けられ、その短い生涯を終えた。
「レナちゃんは、今日は一人なのね。珍しい」
「レナだって、一人でいる時もあるわよ。悪い?」
思い返してみれば、ももことチームを組んでからというものの、レナは一人でいることのほうが少なくなった気がした。みたまは相変わらずの笑顔のままで、
「相変わらずねえ。最近はちょっと柔らかくなったと思ったのに……」
レナはみたまのへらへらした態度が嫌いだった。きっとそれはみたまも分かっているはずなのに、今ですら営業用の仮面の笑顔を止めないみたまの顔を見るたびに、レナの心に棘が刺さっていくようだった。
「そういえば、レナちゃんと二人きりで話すのは初めてね。ずっとももこと一緒だったし」
「……そうかも」
「わたし、一回こうしてレナちゃんと話してみたかったのよお」
新しい煙草を取り出しながら、みたまは仮面のまま微笑んだ。馴れた手つきでガスライターを取り出して、白く煙った空間に再び煙を吐き出した。レナはそれを見つめていると、いつか自分で吸った煙草の味が思い出されてきて、舌の根が痺れてくるようだった。
「……ん~?」
視線に気付いたみたまが、煙草を咥えたまま悪戯っぽく笑った。そうしてしまっていた煙草の箱を取り出して、ライターと一緒にテーブルの上へと置いた。
「レナちゃんも、吸ってみる?」
みたまの手袋を付けた手が引いて、レナは初めてその煙草の箱を見た。目が覚めるような色をしていた。見たことの無い模様の箱を、レナは吸い込まれるように手に取った。既に殆ど中身のない箱の中の空洞でレナの指が遊んだ。レナはその中から一本の煙草を抜き出してみた。いつか手に取った同種のそれと比べても、手の中にある煙草は華奢で今にも折れてしまいそうだった。レナは片側を口に咥えて、ガスライターを近づける。その滑らかな一連の流れを、みたまは意外そうな顔で眺めていた。肺の中に一気に煙を入れないように慎重に吸って、口から煙を吐き出した。レナの口から出た煙も、部屋の中の白煙に仲間入りしていった。その霧越しにみたまの驚いた顔が見えて、レナは少しだけ得意になった。
「煙草の吸い方くらい知ってるわよ」
いつかの煙草と違って、その煙は甘い匂いがして、レナは少しだけみたまを見直した。それから、二人は暫く黙って煙突になっていた。先に終わったみたまは魔法少女服のスカートを軽く叩いた後に立ち上がり、テーブルの横に置かれた冷蔵庫を開いた。そこからアルミ缶を二つ取り出して、一つをレナの前に置いた。金色に光るその缶は、レナも家で何度か見た事のあるものだった。
「じゃあ、こういうのはどう?」
みたまはやっぱり悪戯っぽく笑うのだ。レナはその缶はあまり好きではなかった。父親がたまにそれを呑むと、アルコールの独特な臭いがレナの鼻を不快にくすぐって、それで家の中でも気が逆立ってしまうのだ。みたまはいつもやっているように、自然な手つきでプルタブを開けた。気持ちのいい開栓の音と、それからみたまが缶を急な傾斜で傾けて中身を呑み込んでいく様子とが、レナの目には不思議と寂しく映った。缶から口を離して、みたまはよくももこがやっているような“オッサンくさい”歓声を上げた。そしてその様子をじっと見ているレナの方を見て、仮面の外れかけたような、少し虚ろな目を向けるのだ。レナは思わず息を飲んだ。
「……レナちゃんも、何か嫌な事があったんでしょ?」
みたまは何でも知っているような口ぶりだった。その態度がレナの知っている誰かと被る。
「まあ、ね……」
「みたまお姉さんが、いいこと教えてあげる」
いつのまにか、テーブルに置いた煙草の箱はみたまの手の中にあった。みたまの色白な肌が、煙草の煙に紛れてしまいそうだった。
「
「……一応聞くけど、みたまさんって未成年でしょ?」
「やだあ、わたしはピチピチの十七歳よお。……でも、わたしたち魔法少女って、そこいらの大人たちよりずっと大変な事をしてるんだもの。これくらいは、ね?」
軽そうな缶を顔の横で振りながら、みたまはそう言って妖艶に笑むのだ。そう言われると、レナの中の何かも柔らかく変わっていくような気がしていた。テーブルの上に置かれた未開栓の缶の周りには、しっとりと結露の水滴が付いていた。レナはそれを恐る恐る手に取った。片手で持つには少し重かった。プルタブに指を引っ掛けて引くと、炭酸飲料のそれと何も変わらないように呆気なく開いた。空き口から立ち昇るアルコールの独特の臭いが鼻をついた。レナは一息覚悟を決めて、黄金の液体を口の中に流し込んだ。思ったよりもきつい炭酸の泡から麦の匂いが上ってきて、舌の上でぐるぐると回っていた。レナはそれを気合で飲み下した。口の中に残った苦い後味がレナの眉間に皺を寄せた。
「……まっず」
レナは飲みかけの缶をテーブルの上に置いて、別の飲み物を求めて冷蔵庫を無断で開けた。中には同じような金色の缶がずらりと並んでいた。扉のポケットに刺さっていた水のペットボトルを抜き取って、レナはもう一度椅子に座り直した。みたまは何も言わなかったが、じっとレナを見つめている目は笑っていないようだった。アルコールが仮面を剥いだのだろうか、とレナは何となく思った。レナはそこで自分の肩に桜の花びらが乗っていることに気付いて、手で払って落とした。前々から気に食わなかったみたまのへらへらした態度の裏側を見れたのならば、あの不味いアルコールも悪くはないのかもしれない。レナは水で口内を洗浄しながら、そんなことを考えていた。
「……みたまさん」
「んー……?」
みたまはまた新しい煙草を咥えて、レナの飲みかけだった缶を自分の方に持っていっていた。気の抜けた返事からはいつもの調整屋としての雰囲気をまるで感じなくて、レナは突然、この場に自分がいてはいけないような強烈な居心地の悪さを感じた。それでつい「そろそろ帰る」と思ってもいないことを口走った。
「そう。気を付けてねえ」
返事は淡白なものだった。みたまはそこに誰もいないような態度で煙草を吹かしていた。その視線は天井の方を向いていたが、何かを見ているわけでもなさそうだった。
「……次来るときは、変身してから入ってきた方がいいわよ」
レナの背中に、みたまの声が届いた。レナは冷蔵庫の後ろを通るときに、からん、と足で何かを蹴った。それで周りをよく見ると、ちょうどレナの座っていた椅子からは見えないところに、大量の金の空き缶が転がっていることに気付いた。みたまは空になった缶をその墓場に無造作に投げ捨てた。大袈裟な音を立てて、また一つ抜け殻が増えた。レナはそれを見なかったことにした。
「制服にニオイが付いちゃうから……」
調整屋の扉を出たレナは、思わず自分の服の匂いを嗅ぎ回った。しかしそれなりの時間あの煙の中に居たレナの鼻はとっくに麻痺してしまっていて、煙草の甘い残り香ばかりが身体中に纏わりついていた。外はとっくに暗くなっていた。帰路は街灯で明るく照らされていた。レナはふと思い立ってスマートフォンを取り出すと、連絡先の中の一人に電話をかけた。三コールと少しで相手が出た。
「もしもし、レナだけど……」
夜空では、半月が雲の向こう側からちょうど顔を出していた。レナは、次に調整屋に行く時も、制服のままで行こうと思った。