ぽたり、ぽたりと、落ちていく黒い液体が、秒針の刻む音に似ているようで、雫は客用のカウンター席に座ったまま、ぼんやりとそれを眺めていた。冷え込みもましになってきた初春の空がいっぱいに広がった小窓を見て、世界はどこでも同じ空が繋がっているのだろうか、と思った。灰皿で半分だけ灰になっていた煙草を拾い上げると、それはまだ火が付いたままで、先端に長く張り付いていた灰がふわりと皿に落ちた。フィルターを咥えてぐっと吸い込むと、背徳的な香りの煙が喉を通り、肺の中にするりと入りこむ。少しの間息を止めて、それからゆっくりと息を吐きだすと、溜まった煙がゆるやかな曲線を描きながら、芳醇な豆の香りと混じりあって、アンティークの食器棚に消えた。静かになったドリッパーにポットから湯を注ぎ足して、雫はまたカウンター席に座りなおして、小さく伸びをした。短針は右側にかかり始めて暫く経っていたが、今日は店の中に喧騒が響くこともなく、雫一人がゆっくりと煙を燻らす音と、秒針が進んでいく音と、黒い水面が少しずつその水位を増していく音が、その小さな世界を満たしていた。体重を預けられた骨董物の椅子がぎこちない悲鳴を上げたから、雫はなんとなしに姿勢を正して、それからもう一度煙草を拾い上げようとしたが、靴が砂利を擦る音が聞こえてその手を止めた。
ドアベルの涼やかな音が、小さな喫茶店に来客を告げた。雫がゆっくりと振り向くと、傍若無人な魔法少女が、店の最奥のテーブル席を目指して歩いているところだった。
「いらっしゃい」
「いつもの、よろしく」
ウサギのマスコットが付いた私用の鞄を乱暴に席に投げ置いて、水波レナは古めかしい椅子にどっかりと座った。雫はカウンター席から立ち上がり、ゆっくりと境界を越え、裏のキッチンへと足を運んだ。冷蔵庫に綺麗に並べられたショートケーキの一切れを丁寧に平皿に乗せ、カウンターに一度置いて、それからソーサーを一枚手に取り、少し考えてからもう一枚手に取り、それらを盆に乗せた。少し汚れが目立ち始めたカップウォーマーの蓋を開け、綺麗に磨かれた真っ白なコーヒーカップを二つ取り出すと、取っ手が逆になるように並べて置いた。カウンターに置き去られていたドリッパーの中にはちょうど二人分くらいの珈琲が揺れていたから、ゆっくりとそれを持ち上げ、真っ白な陶磁器の中に慎重に注いだ。ぴったり同じだけの余白を残した双子のカップを盆ごと右手で持ち上げて、左手にケーキを乗せて、雫はレナの座るテーブルへと向かった。カップの乗ったソーサーを優しくテーブルに置いた時、レナはその右手に火の付いた煙草を挟んでいて、その口から勢いを持った紫煙を吐き出しているところだった。珈琲を見るや、レナはテーブルに備え付けられた籠からコーヒーフレッシュをひとつ取り出して、黒い海に白い液体を注ぎ込み、その後に銀色の容器の口を開けてトングを掴み、綺麗に仕舞われた角砂糖を器用にも二つ掴み、珈琲の中に突っ込んだ。そうしてソーサーの上に乗せられた小さなスプーンをマドラー代わりに珈琲をぐるぐるとかき回し、すっかり白く濁ったそれを満足そうに口に運んだ。そんなレナの一通りの所業を、雫は対面の席から眺めていた。そしてレナの手元に置かれた煙草の箱が、いつか見慣れた青いパッケージであることに気づいて、思わず呟いた。
「あ、ハイライト」
雫の鼻腔を擽る匂いが、遠い記憶を引き寄せてきた。煙の向こう側に座っていたのはレナではなくて、ケーキと珈琲が置かれていたテーブルには見慣れない写真とくしゃくしゃの地図が広げられていた。銀色の灰皿の上にはシケモクが詰まっていて、ミルクだけを入れた珈琲をゆっくり味わう青年が、雫の顔を見て微笑んだ。
「色々試してるだけよ」
はっとして前を見ると、つまらなそうな顔をしたままのレナが、ケーキにフォークを差し込んでいた。ふわふわのスポンジの上に真っ白な生クリームが贅沢に乗り、差し色の赤はカットされた苺の赤だ。糖分の塊をレナはしばらく咀嚼して、口の中で転がし、そして満足そうに一つ頷いて、これもまた砂糖水を飲んでいるのかというような珈琲を流し入れ、一息ついた後に灰皿に残った煙草を咥えた。じりじりと先端から灰になっていく煙草の、その生き様とでもいうべき煙がゆっくりと中空に消えていくのを、雫はぼんやりと眺めていた。
「からっ」
そう言ってまだ半分ほど残っていた煙草を灰皿に押し付けて、レナはもう一口珈琲を飲んだ。その姿が昔の自分にすこしだけ被って見えて、雫は自然にハイライトの箱に手を伸ばしていた。
「吸い方が違うの。一本ちょうだい」
不満そうな顔のレナが何も言わないのを確認した雫は、灰皿の横に捨てられたように横たわるソフトパックを手の中に収めて、その天面の厳封が千切られた容器から煙草を一本取り出して、テーブルの上に寝かせた。
「これ、パックの開け方も違う」
「うっさいわね」
文句を言いながら投げ渡されたターボライターを受け取って、雫は煙草のフィルターを優しく咥え、右手の親指で火を灯した。煙草の先端を火の中に入れて、唇で挟んだフィルター越しに優しく息を吸っていく。先端に小さな火種ができたことを確認した後に、すぐにライターをテーブルに置き、雫は一度煙を吐き出した。そうしてもう一度煙草を咥えて、ゆっくり、慎重に、じりじりと、フィルターを通して煙草を燃やしていく。
「ゆっくり吸うんだよ。ゆっくり」
初めて煙草を吸った日のことは未だにはっきりと覚えていた。目の前で彼が実に美味しそうにふかしていた煙草がどうしても吸いたくなって、親に内緒で一本吸わせてもらったのだが、何も分からなかった雫は無遠慮に吸い込んだ煙草から肺に煙が入っていく刺激に噎せ返り、大笑いされてしまった。それからその煙草の吸い方をレクチャーされているところで両親に見つかり、彼共々大目玉を食らったのはいい思い出だった。
「焦らずに、少しずつ」
ラム酒のフレーバーがあるんだ、と教えてもらっていたが、雫はラム酒なんて、それ以前にお酒は飲んだことがなかったから、あの時はいくら注意深く嗅いでもよく分からなかったけれど、この煙の中に紛れている少し甘い香りがきっとそれなのだろうな、と、そんな曖昧な推測ははっきりと浮かんでくる位には、今の雫は煙草の味が分かるようになっていた。
「……そっか、これなんだ」
薄く煙を吐き出しながら、そう無意識に呟いたのを、目の前のレナが少し驚いた顔を見てから、少し自分の行動を思い返して、それで漸く認識した。
「……なによ」
思わず席を立った雫の背中に、レナの棘のある言葉が刺さった。そこに座っていて欲しいのはレナではなくて、ハイライトの香りをよく味わおうと目を閉じて、涙が流れているのだと気づいて、それが何故なのかは考えずともわかってしまって、暫くそのまま後ろを向いていた。「穴があったら入りたい」という諺が、なんとなく頭に浮かんできた。
甘ったるい珈琲とケーキをすっかり平らげたレナが、ブラックの珈琲を啜る雫を置いてトイレに向かっていったのは、それから煙草を二本灰にした後だった。軽い煙草でいいと言うレナにメビウスの箱をぶんどられ、代わりに押し付けられたハイライトのソフトパックを弄んでいた雫は、レナの食べ散らかした食器を一纏めにした後、自分の珈琲の残りを飲み干して、それと一緒にカウンター裏のシンクに入れた。相変わらず店の中にはレナ以外の客はおらず、そのレナも今は客席を離れ、雫は一人、カウンターから店の中を眺めていた。テーブルを拭いておこうかと濡れ布巾を手に取った時、戸口から少し高い少女の声が聞こえて、ドアに顔を向けた。
「いらっしゃい。……ももこ、かえでちゃんも」
「よっ、雫。ケーキセット二つな」
レナが店を訪れるようになってから、連れられて来たことがある二人もたまに訪れるのだが、レナは純喫茶を喫煙所か何かと勘違いしているようで、誰かを連れて来ることはそれ以来一度もなく、ももこが一人で来ることも、レナが釣れなかった日に二人で寄ってくることもあったから、いつかこうなる日が来るのだろうと雫は想像していたが、いざその状況に直面してしまうと、丁度鉢合わせないタイミングで来てくれたことに少しだけ幸運を感じていた。
「なんか、タバコくさい……」
顔を顰めたかえでを横目に、雫は煙草の箱を死角に隠して、二人分の珈琲とケーキを取り出す作業に入った。女三人集まれば姦しいとは言うが、静かな店内には少女二人分の声でも十分に響き、カウンター裏の雫の耳にも会話は筒抜けになっていた。
「レナちゃんも、最近よくタバコくさいんだよねぇ……」
「あー、アイツはな………」
「体に悪いしやめてって何回も言ってるんだよ? でも、聞いてくれないし……」
ケーキを皿に乗せながら聴き耳をそばだてていた雫は、今この瞬間にレナがトイレから出てきたとしたら相当厄介な事になるのだろうと、灰皿から煙が上がっている無人のテーブル席を視界に入れながら、店の中に香る煙草の匂いにも負けない珈琲を淹れていた。
「ねえ、ももことかえで、そこにいるの?」
何の前触れもなく飛んできたレナからのテレパシーに驚いて、雫は思わず肩を跳ねさせてしまったが、話し込んでいるかえでとそれを聞いているももこには気付かれなかったようで、平静を装いながら準備を進めることができた。
「いるけど、一緒に話さないの?」
暫く待っていても返答はなく、従業員らしくケーキセットをももことかえでにサーブしていると、いつの間にか二人の話題はかえでとレナの喧嘩に移り変わっていて、かえではケーキの皿を受け取りながら、尖がらせた口で悪態をついていた。
「タバコの臭い酷いんだよ? レナちゃんが怒られないように言ったのに、ウザいはひどくない?」
「うーん……」ももこはかえで越しに奥の席をちらりと見て、「アタシはレナの気持ち、ちょっとわかるかもなあ」
「えー!」
「かえで、最近ちょっと世話焼きすぎじゃない?」
ももこはケーキを口に運びながらそう言った時、かえでの姿越しに見えるトイレのドアが開いて、そこから見慣れない女性がつかつかと歩いて奥のテーブル席に座り、吸いかけだった煙草を綺麗な指で拾い上げている一連の動作を、じっと見詰めていた。少しふくれっ面のかえでが同調を求めるような目で見てきたから、雫は持っていた盆を脇に抱えて、少し考える素振りをした。
「……私は、部外者だから」
見知らぬ女性に変身したレナが横目で見てきているのに気付いたが、雫は視線を合わせることなくカウンターを越えて、盆を棚に戻し、レジスターの横に置かれたスツールに腰掛けて、柱の陰に隠されていたハイライトのパッケージを改めて手に取り、それを弄んでいると、その中の一本をまた吸いたくなってきたが、近くには灰皿が置いていなかったし、なにより再び煙草をふかし始めたレナの煙でかえでが露骨に嫌な顔をし始めたので、雫はそっとパッケージをエプロンのポケットに仕舞った。
「そういえば、今日はあのバイトの人がいないねえ」
散々レナに対する愚痴を言い終わった後に、かえでが何気なくそう言った時、雫はちょうど二人の席を眺めていたから、ももこの肩が露骨に跳ねて珈琲を少しこぼしたのを、はっきりと見ていた。
「ももこちゃん?」
「いや、なんでもないよ。なんでもない。残念だなあ、なあ、かえで?」
乾いた笑いとともに全力で誤魔化そうとするももこの姿をかえでは訝しんでいたが、少しするとはっと何かに気づいたようで、それから今日一番の笑顔に変わり、その笑顔のままレジ台に頬杖をついていた雫の方を見て、
「雫さん! あの人、次は何曜日に来るんですか?」
などと言い出すものだから、ももこはまた慌てて何か意味のないことを喚きだすし、雫は少し考えてから、
「それはプライバシーだから」
とやんわりと断ると、ももこがわざわざ振り返ってまで残念そうな顔を向けてくるものだから、雫はなんだかおかしな気持ちになってきて、思わず笑いを零してしまった。椅子を引く音で奥に座っていたレナが立ち上がり、伝票を片手に少し速足で向かってきたので、雫はスツールから立ち上がって、レジのキーを回した。
「……我儘だよね」
雫が代金を受け取りながらそう呟くと、レナは軽く鼻を鳴らして、レシートも貰わずに店を出て行った。涼やかなドアベルの音色が店内に響いた後で、雫はポケットの中のハイライトを軽く握った。