蹴り捨てた奇跡   作:遠名 彬

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勿忘草

 旅をするのは冬の方がいい。僕は暖房の効いた電車のシートで缶コーヒーを飲みながら、何となくそう思った。窓の外は長閑な田舎の風景が延々と流れていて、僕は思わず欠伸をした。膝の上に乗せた読みかけの文庫本には、三分の一ほどの所に栞が挟まっていた。ボックス席の向かい側の椅子では、ダウンコートを膝掛けにしてスマートフォンを弄っている同行者が、これまた暇そうに大欠伸をしている所だった。水波レナさんは僕と同じ大学に通う同級生だった。中学生の頃から同じ学校に通っていたが、その頃は特に関わりがあったわけでもなく、話すようになったのは高校二年生の時からだった。いつも不機嫌な目付きをしている怖い彼女と一緒に旅をする仲になるとは、中学生の自分には百回言っても信じてはくれないだろうと思っていた。(今でも、偶に信じられない気分になる。)

「……あと何駅だっけ」

 水波……レナさんは僕を見ずに訊いた。(レナさんは水波さんと呼ばれると他人行儀だと怒るのだ。)僕は頭の上に路線図を思い浮かべて、それから最後に聞いた車内アナウンスを照らし合わせた。「……あと二駅、ですね」

 ふーん、とだけ返事をして、レナさんはまた黙り込んだ。ワイヤレスのイヤホンを耳に詰めて、リズムゲームを再開したようだった。僕もレナさんも、あまり人と世間話をしたり、場を盛り上げようとか考える性格では無いから、僕はいつも文庫本を読んでいるし、レナさんはモバイルバッテリーの残量をいつも気にしていた。

 窓の外は斜陽だった。赤く燃える太陽は僕が見ているのとは逆側の窓の中に落ちていって、空はもう薄暗く夜の準備を始めていた。本当なら日が落ちる前には目的地の駅に着いている筈だったけれど、僕たちはそうしなかった。昼頃に通った乗り継ぎの駅で、僕は一度降りてみようという気になったのだった。トンネルを抜けた先に広がる冬の海を見て、僕はあまりの美しさに思わず溜息を吐いていた。それで一回降りてみたいな、と考えていると、レナさんは改札の方を名残惜しそうに見る僕の考えなどお見通しだと言わんばかりだった。

「降りたいなら降りたいって言って。……アンタのそういう所、ホントに嫌い」

 不承不承という風だったが、彼女自身も誰かに引っ張り回されるのを望んでいるようだった(そうでないと一緒に旅になど来ないだろう)から、何でこんな奴と、なんてぶつぶつ文句を垂れながら僕の前を歩いていた。(それには全く同意見だった。)改札を出て駅の外に出ると、厳しい冬の風が頬を打った。厚手のダウンコートを着込んでもこもこになっているレナさんは、ポケットに手を突っ込んで縮こまりながら歩いていた。僕は持参した手袋があったから、海の方から吹き荒ぶ潮風の中でも多少はましだった。風の音ばかりが耳の中を支配する中で、僕たちは黙って海の方へと歩いていった。南国を思わせる装飾のリゾートホテルが、凍えそうな空気の中で場違いに佇んでいた。波の音は遠くから聞こえているように感じた。細々とした建物の間を抜けていくと、不意に目の前が開けた。目の前には広大な海が広がっていた。潮風が僕たちに吹き付けていた。太陽はもう傾いていて、事前に考えていた予定に大きくずれ込んでいた。レナさんは着くなりポケットからスマートフォンを取り出して、誰も写っていない海の写真を一枚撮った。(きっとブログのネタにしたのだろう。)僕はただぼうっと眺めているだけだった。白波の立った海は荒れ模様だった。このまま太陽が水平線の向こうに落ち切る時まで、ここで立ち尽くしながら眺めていたいような気が起こった。

「……そろそろ行くわよ」

 隣で歯を鳴らしていたレナさんが僕を見上げながらそう言うものだから、それは結局叶わなかった。海に背を向けて僕たちは駅へと帰っていった。途中でコンビニへ寄った。遅れて店内に入ってきたレナさんは、僕よりも背の高い大人びた女性に変身していた。(童顔でしょっちゅう年齢確認をされるので、されないようにしているらしい……。魔法の無駄使いだ。)僕は暖かいブラックの缶コーヒーを買った。レナさんは暫く店の中を見て回って、甘ったるいカフェオレと一番安いガスライターと、店員の後ろに並んだカラフルな箱の中の一つを買っていった。誰にも何も訊かれていないのに、「持ってくるの忘れたの」と言い訳を呟いていた。

「ほら、次で降りるわよ」

 ぼうっと車窓を眺めていた僕の頬を、レナさんの平手がぺちぺちと叩いた。レナさんは自分の時間を邪魔されると烈火の如く不機嫌になる繊細さがある癖に、他人のそういう時間には容赦なく土足で上がり込んでくる無神経さも持ち合わせている。僕は彼女のそういう所が嫌いだった。(面と向かってそれを言えばどうなるかは分かりきっていたから、言わなかった。)

 僕は文庫本を隣の席に置いてあるリュックサックへと仕舞って、すっかりぬるくなった缶コーヒーを一気に飲んだ。レナさんはとっくにダウンコートを羽織り荷物を全部しまっていて、僕が動き出した辺りで立ち上がっていた。寂れたホームに滑り込んだ電車から僕たちは荷下ろされた。蛍光灯が照らす駅の中には誰もいなかった。青春十八切符を持っていた僕たちは、自動改札の隣に開きっぱなしになっていた有人改札通路を通って外に出た。本当はここから眺めのいい場所に行こうと思っていたが、太陽はすっかり地平線の向こう側へと隠れてしまっていたから、僕たちは無言のまま駅の近くにあるビジネスホテルへと歩を進めた。暗くなりたての田舎の中で、ホテルだけはきらきらと人工の光で輝いていた。フロントには誰もいなかった。呼び鈴を何度か鳴らすと、バックヤードからやる気のなさそうなホテルマンが姿を現した。僕がチェックインの手続きを進めている間、レナさんはホテルのロビーにある喫煙ルームに行ってしまった。料金を現金で全額支払い、素寒貧になった財布を仕舞って鍵を受け取った辺りで、漸く帰ってきた。全身に煙草の臭いを染み付かせた彼女に対して僕は露骨に嫌な顔をしてしまったが、レナさんは特に何かを言う事もなく、僕の手からカードーキーをひったくってエレベーターに向かって行ってしまった。ツインのルームはベッドと小さなテーブル位しか物が無く、レナさんが奥のベッドに荷物を放り投げたのを見て、僕は手前のベッドにリュックを置いた。

「……何か、食べに行きましょう」

 今度はちゃんと言えた僕の言葉に、レナさんは鼻を鳴らすだけで答えた。彼女と顔を合わせるようになってから知ったのだが、レナさんは空腹になっていると普段の三割増しで不機嫌になるのだ。一度それを阻止する為に菓子類を与えようと思ったのだが、たかが機嫌を取る為だけに自分のバイト代が消えていく事に計り知れない馬鹿らしさを感じて、結局実行する事はなかった。(今から思えば、一回位は試してみても良かったような気はする。)

 僕たちはホテルと同じ通りにある、赤い看板のファミレスへと入店した。夜のピークタイムより少し前の時間の店内はまだ空いていて、夜に向けて店員達が慌ただしく準備をしていた。レナさんはハンバーグにソーセージや卵が乗った大盛りのプレートを頼んで、それにライスとドリンクバーを付けた。僕はオムライスを頼んだ。メロンソーダをなみなみと注いだコップをテーブルに置いて、レナさんは煙草を取り出した。しかしこの店は全席禁煙だったから僕がそれを手で咎めると、向かいに座る僕に聞こえる程の舌打ちをして煙草を仕舞って、不服そうにストローで緑色の液体を吸い込んでいた。僕は忘れないうちに小さい手帳とペンを取り出して、今日見た景色を思い出しながら文字を刻んでいた。絵日記を付ける事は、中学生時代から続く僕の趣味だった。いつ無くなるかも知れない僕の人生を、その欠片を、何か形にして残したいと強く思うようになったのは、やはりあの時、奇跡を蹴った時からだろう……。物思いに耽りそうになった所で、僕のオムライスが先に運ばれてきた。僕は手帳とペンを片付けて、シルバーセットからスプーンを取った。レナさんは相変わらず不機嫌そうな顔をしたまま手持ち無沙汰にしていた。たっぷりとソースの掛かったオムライスからは既製品の味がした。僕が食べている間にレナさんの方にも肉が運ばれてきて、レナさんはそれをマナーのなっていないナイフとフォーク捌きで野蛮に食べ始めた。僕は食べるのが遅いから、運ばれてくる順番が先でも食べ終わるのはレナさんが先だった。僕がオムライスの最後の一口を食べる頃には、レナさんは食後の紅茶(ミルクとガムシロップを三つも四つも入れた、舌の焼けるような甘さのやつだ)を飲み込んでいた。そうして彼女は無言で席を立って、トイレへと歩いて行った。僕は伝票を広げて自分の分の会計をする為に財布を見たが、その空っぽの中身を見て、まだホテルの代金を貰っていない事を思い出した。トイレから帰ってきたレナさんにホテルの領収書を突きつけると、レナさんは面倒臭そうに財布を開き、それから今は持ち合わせがないのだと言った。何とか二人分の飲食代を払えるくらいはあったのでそれで会計を済ませた後、僕たちは近くにあったコンビニへと寄った。例によって変身しているレナさんがATMを操作している姿を後ろから覗き込むと、そこにはとても直視できない口座残高が表示されていた。レナさんはあるだけお金を引き出した後、僕にホテル代の半額程度を押し付けて、アルコールの並ぶ冷蔵ケースへと歩いて行った。ファミレスの代金を差し引いてもホテル代は足りなかったが、それを一々追求して請求しようとは思わなかった。(口座に一銭も残っていないレナさんを見て、少しだけ同情心が湧いたのだと思う。)度数の強い缶チューハイを一本買って、僕たちはホテルへと帰った。

 部屋に入るなり、レナさんは荷物の中から下着の上下を取り出して、「シャワー浴びるから」と言い出した。僕はもうレナさんの唯我独尊に付き合う気力も無かったので、適当に頷いて流した。リュックからノートを一冊と鈴蘭の彫られた金属製の筆箱を取り出して、小さなテーブルの上に広げた。中学三年生最後の冬に起こったあの奇跡から、僕はノートを新しくした。何かがある度に絵日記を書いていたのだが、歳を経る度にその数はどんどんと目減りしていって、未だにノート一冊分すらも書けてはいなかった。僕が新しいページを探して捲っていくと、その中には灰色の日記がずらずらと並んでいた。一枚、また一枚と紙を捲る度に絵の色彩が失われていくのが手に取るように分かって、僕は思わずノートを閉じた。筆箱の中では黒色の色鉛筆ばかりが主張を強めていた。後ろで扉の開く音を聞いて振り向くと、下着姿のレナさんがこちらをじっと見つめていた。僕はその態度が癇に障って睨み返すと、彼女は無関心そうに目を逸らして、自分のベッドの上へ座った。僕は自分の心の中に生まれてきた蟠りに苛々して、シャワーを浴びる為に自分のリュックを探った。そこから下着と寝間着を取り出して、ユニットバスの中へと入った。使われたばかりの湯船にはまだ暖かい水滴が散らばっていた。

 僕がユニットバスから外に出ると、レナさんはこちらに背を向けてテーブルの近くに立っていた。僕の日記は初めのページが開かれていて、レナさんが缶チューハイを片手にそれを眺めていた。僕はその光景を見た瞬間に、怒りが心頭に発した。ノートと筆箱をレナさんの後ろから取り上げた。いつもは眉間に皺を寄せた不機嫌な顔をしているレナさんは、この時ばかりは擦れた目で僕の事を見ていた。それがあまりにも腹立たしく感じてしまって、僕は思わずその顔を平手で打った。(今でもこれはやりすぎたな、と少し反省している。)乾いた音がホテルの部屋に響いた。レナさんは打たれた格好のまま、何も言わなかった。

「レナさんのそういう所、本当に……嫌いです」

 彼女は暫く黙り込んでから、「そう」とだけ言った。僕はノートと筆箱をリュックの中に乱暴に放り込んで、自分のベッドの中に潜り込んだ。

「アンタはさ……」レナさんは言いかけて、「れんはさ……」と言い直した。

「何であの時、羽根を取らなかったの」

 人の日記を無断で見た挙句にそんな質問をするレナさんに、僕はずっと神経を逆撫でされていた。僕はそれには何も答えなかった。沈黙のまま何分かが経った。空のアルミ缶がゴミ箱に投げ入れられた軽い音が寂しく鳴った。

「レナはさ……。怖かったの」

 ぽつりと、レナさんは呟いた。それから一つ大きな溜息を吐いた。僕は何も言わなかったし、レナさんの方を見ようともしなかった。レナさんは無言で枕元のスイッチを操作して、部屋の電気を切った。僕は暗闇の中で、隣のベッドの主が発する布が擦れる音だけを聞いていた。

「やあ、ちょっといいかな」

 そんな時、雰囲気をぶち壊す声が聞こえた。隣のベッドから盛大な溜息と共に大袈裟に布団を跳ね飛ばす音が聞こえて、部屋の電気が再び付いた。僕も流石に体を起こした。いつの間にか小さなテーブルの上に、キュゥべえがちょこんと座っていた。

「……出てって」

 レナさんが低い声を出した。キュゥべえはそれには動じずに、何故だか僕の方を見た。

「実はちょっと困った事になってね。君たちの力を借りたいんだ」

 レナさんの醸し出す圧倒的な殺意も、感情を理解できないキュゥべえには通じないのかもしれない。(むしろ僕が怯えていた。)僕はレナさんが衝動のままにキュゥべえを刺殺しない内に、話だけは訊いておきたいと思った。

「……こ、困った事、ですか」

「この近くで魔女が出た。退治に向かってくれないかな?」

「縄張りが、ありますから……」

「それは分かっているよ。だけど君たちに行ってくれないと、新人が死んでしまいそうなんだ」

「……そんなの自己責任でしょ。魔法少女なんて、みんな……」

 刺々しい感情を隠そうともしないレナさんが、キュゥべえにそう言った。(きっとレナさんは、もうこの時点で諦めていたんだと思う。)取りつく島もない彼女に頼るのは初めから諦めているのか、キュゥべえはずっと僕の方を見ていた。

「この一帯にはその新人しか魔法少女がいないんだ。素質がある少女もいなくてね。今回だけでいい。力を貸してほしいんだ」

 レナさんは何故か振り向いて僕を見た。その目はいつものように怒ってはいなくて、泣き出しそうな綺麗な眼をしていた。僕はそれで、不思議とこれまでのレナさんの事を全部許せるような気分になった。

「……わ、分かりました。場所を、教えてください」

 僕は魔法少女としての衣装を身に纏った。そうして開かないように締め切られた窓を魔法で開けた。キュゥべえは形だけの礼を言って、先導として夜の町に出た。窓の外からは町を見下ろした時、僕はふと、いつかの光景のフラッシュバックを見た。ここから垂直に飛び降りれば、確実に死ねると思った。けれど今の僕には自殺をしようという気はさらさら無かった。それよりも今の僕には、どれだけ無情でも今を生きなければならないという気持ちの方がずっと大きかった。(今でもそうだ。いや、今はもっと強いかもしれない。)きっとそれは後ろにいる運命共同体によってもたらされた気持ちなのだと、僕は勝手に感じていた。僕は窓辺から後ろを振り返った。シャワーを浴びる前まで着ていた服を雑に着直したレナさんが、ポケットに煙草とライターを仕舞っていた。僕たちは魔法少女となって暗い町に落ちていった。

 キュゥべえの言う通り、結界は然程遠くはなかった。魔力の反応も強くはなく、これまでの僕たちの経験からするととても苦戦しそうな相手ではなさそうだった。既に結界の内部では誰かが戦っているようだったが、その反応は酷く弱々しいものだった。

「……無理ね、これじゃあ」

 僕の隣に立ったレナさんが、震えた声でぼそりと呟いた。僕は無言で結界の入り口をこじ開けた。肩に飛び乗ってきたキュゥべえと一緒に、僕たちは結界の中へと飛び込んだ。

「あれ、は……」

 異界の地を踏んだ僕の目の前で、少女が血飛沫を上げながら肉塊へと変わっていた。僕の耳には劈くような少女の悲鳴と、肉を叩き潰す不快な湿った音と、隣のレナさんが息を飲む音と、キュゥべえが尻尾を振る小さな音と、魔女の悍ましい嗤い声と、僕の心臓の破裂しそうな鼓動の音がいっぺんに届いた。僕たちは、眼前で動く魔女の赤い絵具遊びをただ呆然と眺めている事しか出来なかった。それは二分と経たずに終わった。手前にいた僕の白い魔法少女の衣装には、少しだけ飛沫が掛かってしまっていた。満足したのか魔女はゆっくりとこちらを見た。魔女はその身体が砂で出来ているらしく、ザラザラと表面を代謝させていて、見知らぬ少女の血液はものの数十秒で綺麗に魔女の身体から消えた。潰された少女の死体も蟻地獄のような結界の流砂に飲み込まれて、確かにそこに居た彼女の痕跡はすっかりと消え失せてしまった。魔女は身体を構成する砂を固め、銃弾のように僕らに向けて射出した。僕もレナさんもそれには瞬時に反応をして、左右に跳んで避けた。二人で戦うときはレナさんが前に出て、僕が後ろからバックアップをする。二年以上を共に戦ってきた僕たちは、それを暗黙のルールとしていた。魔女の動作に合わせて砂の竜巻が立ち上がり、前に出ようとするレナさんの進路を塞ぐ。僕は後ろで杖を回し、魔力の弾を生成して、放つ。魔女の竜巻は呆気なく霧散し、レナさんが魔女の目の前に飛び込んだ。魔女が何かの反応をするより前に、飛び上がったレナさんの槍が魔女の脳天を貫いた。そのまま落下しながら地面まで槍を振り切り、魔女を見事に一刀両断。魔女の身体は統制を失い、唯の砂粒となって結界の地面へと散らばっていった。

「こんなに簡単に倒してしまうとはね。流石だよ」

 僕とレナさんは、二人で砂地の上に立った。名前も知らない魔法少女は確かにそこに居たのに、崩れゆく結界と一緒に全てを失くしてしまう。それが魔法少女の運命だと改めて現実を突きつけられて、僕は何も言えずに黙り込んでしまった。隣で震えながら煙草を取り出したレナさんも、きっと同じ事を考えているのだろうと思った。

「……さっきの新人、名前は?」

 細く煙を吹いた後に、少し震えた声でレナさんが訊いた。キュゥべえはゆっくりと尻尾を振りながら、少女の名前を僕たちに教えた。どこにでも居そうな平凡な名前だった。僕はスマートフォンを取り出して、その名前をメモ帳アプリに打ち込んだ。路地裏の室外機に腰掛けてゆっくりと煙草を灰にしているレナさんの姿が、途方もなく惨めに見えた。底冷えする夜だった。僕たちは無言のままホテルの部屋へと帰った。

「……ねえ、れん」

 布団に潜り込もうとした僕を、レナさんが呼び止めた。

「レナは、忘れないから」

 だかられんも、とは続いてくれなかった。僕は何も言えずに震えていた。顔も知らない魔法少女の凄惨な最期、そして誰にも知られないまま流砂に沈んでいくあの姿が脳裏にこびり付いて離れなかった。翌日の朝、僕たちはチェックアウトの催促をする電話で叩き起こされた。(結局僕は一睡もできないままだったし、隣のレナさんも酷い顔をしていた……。)

 ──────

「れん? もう学校に行く時間よ」

 ノートに鉛筆を走らせていた僕は、母親の声で現実に呼び戻された。部屋の中の掛け時計を見やれば、もう家を出なければ遅刻してしまう時間だった。僕はノートを閉じて、鉛筆を筆箱に仕舞った。椅子から立ち上がって、いつも使っているリュックの取手を掴もうと思った。ちょうどその時、リュックの前ポケットの所に縛りつけられた可哀想なモカウサギが、じっとれんの方を見ていた。あの日に羽根を掴まなかった僕たちは世界に二人ぼっちになっていて、結局僕が一人ぼっちになってしまった。

「私は……。きっと、私も怖かった……」

 あの日、僕の目の前に奇跡の羽根が舞い降りた時、それが本当の意味で僕たちを指輪の呪いから解放するものだと分かっていた。けれど僕には何も無い自分の姿があまりにも恐ろしく感じられて、結局羽根を掴む事は出来なかった。僕たちは二年以上も一緒にいて何度か共に旅までした癖に、結局自分たちについてちゃんと話す事は一度も無かったから、あの日のレナさんが何を恐れていたのかは終ぞ僕には分からなかった。けれどモカウサギの綺麗な眼を眺めていると、不思議とレナさんも僕と同じような気持ちだったのかもしれない、と根拠もなく思えた。僕は今日、初めて大学をサボった。

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