今日は平凡な朝だった。五十鈴れんはもう何年も使っている聞き慣れた目覚まし時計の音で目を覚ました。いつも通りに顔を洗い、朝食を取り、歯を磨き、何の変哲もない私服を着こんで、いつも通りに家を出た。天気予報では今日は一日快晴で、星座占いは五位だった。愛用しているリュックサックの中には今日の講義分の資料と教科書と筆箱と、親が用意してくれたお弁当、それと読みかけのペーパーバック。れんはいつも通りに最寄りのバス停からバスに乗って、神浜市立大学へと向かった。一限に遅れまいとする人の波の中を一人で歩いた。長机の並ぶ講義室の一番ホワイトボードに近い席が、れんのいつもの席だった。奥側から埋まっていく教室の中に一人で入ったれんは、ふとその人の群れの中に見慣れた顔を見つけた。水波レナも、一人で人の群れの中を歩いていた。向こうはれんに気付いていないようで、れんも一々気付かせようとも思わなかった。
一限の講義は平凡に終わった。れんが密かに気に入っている老教授の講義は、生徒の間では睡眠時間だと専らの評判である。資料を仕舞って立ち上がり、生徒たちが次々に退室していく教室の後ろを見たれんの目が、じっとれんの方を見ていたレナの目と衝突した。レナはそのまま席を立ち、ずんずんれんの方へと歩いてきた。れんは思わず身構えた。
「ねえ、今日は何限までだっけ」
レナは一回り身長の高いれんを見上げながらそう聞いた。三限までだ、と答えようとして、その言葉が喉に引っ掛かった。れんはいつもそうだった。何かを伝えたくて、何かを言いたくても、れんはそれをはっきりと言葉として伝えるのが極端に苦手だった。家の中で親と会話をする分には何の支障もないのだが、ひとたび外に出るといつもこの調子だった。れんは何とか言葉を絞り出そうと努力をするが、その間にも目の前にいる小柄な少女の不機嫌な表情が刻々と険しいものになっていって、それがまた喉の奥に言葉を押し込んでしまう。れんは観念して、右手の指を三本立てた。
「……レナも今日は三限までだから」
不愉快そうな顔でそれだけ言い捨てて、レナはれんに背を向けて教室を出て行った。れんは誰もいなくなった教室に一人で取り残された。れんとレナは同じ大学に通っているが、所属している学科が違っていたから、二人が顔を合わせる講義はそこまで多くは無かった。れんはある程度レナの予定を把握していたが、レナはれんの予定を把握する気がないようで、時たまこうして講義後の魔女探しの時間を確認する時がある。学校でれんがレナと話をするのはその時くらいで、それ以外の時はお互いに学内ですれ違っても他人だった。それでも二人が魔法少女としてコンビを組んでいるのは、偶々この近くにいる魔法少女が二人だけだったからというだけに過ぎなかった。
二人が出会ったのは二年前で、れんとレナは当時高校二年生だった。大勢の魔法少女が魔法少女でなくなった中学三年生のあの日以来、れんは孤独に魔女と戦う日々を送っていた。それまでは複数人でチームを組むのが常識だった中で突然一人で戦場に放り出されたれんは、死に物狂いで魔女と戦う毎日を、精神をすり減らしながらも何とか生き残っていた。そんなある日、れんは大物の魔女と遭遇した。キュゥべえの忠告を無視して魔女に戦いを挑んだが、魔女は一人の手に負える相手ではなかった。そんな時にれんの前に現れたのがレナだった。二人はなんとか魔女を討伐し、夕暮れの街でれんとレナは初めて向かい合った。
「……アンタ、名前は?」
不躾な態度だな、というのが第一印象だった。何に怒っているのか不機嫌そうな顔と睨みつけるような目をれんに向けて、レナは吐き捨てるように聞いた。れんはそんな不良のようなレナを前にして、思わず背筋が伸びた。名前を言わなければ。そう思う程に喉の奥につっかえた言葉は大きさを増していって、どんどんと外に出すのが難しくなった。レナのローファーがコンクリートの床を打つ音が段々と大きくなっていった。それはれんの心臓の鼓動でもあった。何も言えずに黙り込んでいるれんの前で、レナは盛大に溜息を吐いた。
「アンタ、喋れないの?」
れんは否定するために首を横に振った。レナの呆れた顔を見ていられなくて、れんは俯いてしまった。ただ名前を言うだけだというのに、そんなこともできない自分が酷く惨めだった。
「……時間の無駄ね」
ついに諦めたレナが踵を返した。顔を上げたれんに一瞬見えたレナの横顔は寂しげだった。れんは弾かれるように声を出した。
「あ、あの!」
振り向いたレナに向かって、れんはもう一度声を絞り出した。
「五十鈴、れん、です……」
「……れん、ね。レナは、水波レナ」
それだけ言って、レナは神浜の街へと消えて行った。れんはその後姿をぼうっと見つめていた。れんとレナが再び会ったのはその翌日で、場所は高校の中だった。どこかで見たことのある人だったな、とぼんやりと考えていたれんは、隣の教室へと入っていくレナの姿を見つけて思わず声を出してしまった。同じ中学と高校に通っていたのに、一回もまともに話したことがなかったから、顔を見て名前を聞いても同級生だとは気付かなかった。それはレナも同じだったようで、高校の中でれんを見つけた際には思わず二度見をしてしまったのだった。それから特に話をするわけでもなかったが、気付けば自然と二人で組むこととなっていた。かつてチームを組んで魔女と戦っていたれんもレナも、たった一人で戦い続ける日々に疲れていたのだった。
それから二年が経ったが、れんとレナの関係はあの頃から一歩も進んではいない。エスカレーター式に同じ大学に進学した二人だったが、相変わらず魔女退治を共にする以外の交流は殆ど無く、今日もまた日課の魔女探しをするだけだった。れんは待ち合わせ場所のベンチに座って、文庫本の続きを読んでいた。予定の時間をとっくに過ぎた後に、レナは待ち合わせ場所へと現れた。
「……ほら、行くわよ」
来て早々遅れた事を謝りもせずに、レナは歩き出した。れんはレナの刺々しい態度がどうしても苦手だった。そしてレナがれんの緘黙に苛立っていることも、魔女との戦いにおける実力の差に不満を持っていることも分かっていた。けれどれんにそれをどうにかできるわけでもなく、レナも殆ど諦めているようだったから、れんは結局いつも通りに過ごすしかなかった。
通学路、大通り、繁華街、ゲームセンター……と、れんとレナはいつも通りのルートで魔女を探した。しかし、今日は魔女はおろか手下の結界すらも反応がなかった。一通り巡り終わった後でも、太陽はまだ沈み切っていなかった。れんが探していない場所を考えながら辺りを見回すと、一つの雑居ビルが目についた。それはれんにとってはある意味因縁深い場所だった。懐かしい記憶が刺激されて、れんの胸がざわついた。誘われているようにすら感じた。そこに視線を奪われていると、前を歩いていたレナが気づいて立ち止まり、れんの視線の先にある建物を一瞥した。
「……あそこ?」
レナはれんが答えないのを知っていたから、そう言いながらもう足はビルへと向かっていた。れんはただ何も言えずに、レナの後ろについて行くしかなかった。階段を上る足取りは重く、処刑台に連行されていくような気分だった。脳のどこかが、行ってはいけないと警鐘を鳴らしていた。二人は小さなビルの屋上に出た。鍵はかかっていなかった。あの時と同じだった。れんは屋上の縁から通りを見下ろした。あの時と同じ見慣れた光景が足元に広がっていた。れんはそのまま暫く景色を見つめていた。小さく見える自動車が何度も視界を横切って行った。歩道を歩く人々は中黒のようで、まばらに打たれたそれらは一定の規則性を持って流れていた。れんは景色に吸い込まれていくような感覚を覚えた。段々と頭が真っ白になっていた。あの日の感覚がれんの内に湧き上がってくるのを感じていた。暮れ方の街は闇に飲み込まれていくところだった。視界の中で、街灯が一斉に光った。目の前が真っ白になった。ふらりと身体が揺れた。
「──ちょっと!」
縁から落ちそうになったれんの身体を、レナは咄嗟に襟首を掴んで止めた。シャツの首が喉元に食い込んで、れんは一瞬で現実へと戻ってきた。茫然と尻餅をついたまま黙っているれんの後ろで、レナは息を整えた。
「……アンタ、何やってんの。バカなの、ホントに……」
れんにはレナの声が遠かった。自分がどうして飛び降りようと思ったか分からなかった。ただ懐かしい景色を見つめていたら、気付いたら身体が勝手に落ちようとしていた。レナが後ろにいなかったら、きっと自分は飛び降りてしまっていたのだ。首の痛みが引いていくにつれて、徐々にそれを実感した。そうしてその事実が頭の中に積もっていくたびに、れんの心の中には言い知れない恐ろしさが湧き上がってきていた。レナは一応れんの首筋を確認して、そこに魔女の口付けがなかったことで逆に不安げな顔をした。れんにはレナが自分を心配するような顔を見せるとは思ってもいなくて、じっとレナの顔を眺めていた。
「ちょっと。大丈夫なの?」
眼前で手をひらひらと振るレナに向けて、れんは何とか頷いた。レナは安心したように一つ溜息を吐いた。れんはその時初めてレナの眼を正視した。綺麗な眼だった。世界全部に喧嘩を売っているような普段の態度からは想像もつかないような、綺麗で澄んだ眼をしていた。小さく風が吹いて、れんの鼻にふわりと煙草の匂いが届いた。ちょうど視界の先、レナの向こう側にある屋上の扉の前に、吸いかけの煙草が煙を上げて転がっていた。れんはレナの手を借りて立ち上がった。小さな手だった。日は沈んでいて、街は人工の光で輝いていた。
「……ねえ、れん」
レナは初めてれんの事を名前で呼んだ。それはとても自然で、長年の友達の事を呼ぶような言い方だったから、れんは一瞬自分が呼ばれていることに気付かなかった。
「今日、何か予定ある?」
れんはゆっくり首を横に振った。少し嬉しそうなレナの顔もれんには初めて見るもので、少し居心地が悪くなった。
スーパーマーケットで幾つかお酒とおつまみを買った後、れんはレナの家へと招待された。今日は友達の家に行くと親にメールで連絡を入れると、やたらと調子のいい絵文字付きの許可が返ってきた。
「お、お邪魔します……」
真っ暗なリビングの電気をつけると、絵に描いたような一般家庭の部屋が出迎えた。れんは誰かの家にお呼ばれする事など数えるほどしか経験していなかったので、自分の家とは違う誰かの家という異郷の中はざわついた不安を煽った。れんは恐る恐るレナの後ろにぴったりとくっ付いて歩いた。レナの部屋だという扉の前で、レナは手に持った買い物袋を床に置いた。
「……ちょっと片付けてくるから」
と言って、レナが先に部屋に入った。手持ち無沙汰になったれんは買い物袋の中を覗いた。何かと話題のアルコール度数が高い缶チューハイが何本かと、普段お酒は飲まないれんのために買ったらしき度数の低い缶チューハイがいくつか。おつまみとして買った徳用のチョコレートに、スナック菓子の袋が見えた。慣れた手つきで買い物カゴの中に物を入れていくレナの姿を後ろから眺めていただけのれんには、自分より小さいはずのレナの背中がずっと大人に見えていた。扉の向こう側からはどたんばたんと何かを投げ飛ばすような音が聞こえてきて、その合間にレナのやたらと不機嫌そうな独り言が飛んでいた。少ししてレナの部屋の扉が開き、中から出てきた少し疲れた顔のレナが買い物袋を拾い上げた。
レナの部屋に入ったれんは、「色がうるさいな」という感想を持った。壁に貼られた最近話題のアイドルグループらしきポスターだったり、年頃の女の子らしい明るい色のカーテンや布団だったり、所狭しと並べられたかわいらしいぬいぐるみだったりの統一性のない鮮烈な色彩が、れんの目を奪った。レナはどこからか引っ張り出してきた折り畳み式の小さなテーブルを組み立てて、その上に買い物袋を置き、胡坐をかいて座った。れんは鞄を邪魔にならなそうな部屋の隅に置いて、レナと対面するように正座をした。レナは袋から缶を二本取り出して、度数の低いほうをれんの前に置いた。自分は度数の高いものを手にとって、それのプルタブに指をかけたところで、何かに気付いたように動きを止めた。
「……夜ご飯がない」
れんはもう一度袋の中を見た。入っているのはチョコレートにスナック菓子、あとはお酒の缶だけだ。どう贔屓目に見ても食事にはならない。レナはそれでチューハイの缶をテーブルの上に戻して、少し考え出した。そう言われてみればれんも昼にお弁当を食べただけだったので、既に夕方を越えて夜になっている時間ではお腹が空いているような気がしてきた。レナは徐に立ち上がり部屋を出た。れんはレナの部屋の中で一人ぼっちになった。目の前には青い色をしたチューハイの缶が佇んでいた。れんは普段、まったくお酒を飲まない。飲んだことがあるのは正月の御屠蘇くらいのものだった。れんは少し震える手で缶を持った。冷たい缶は手の中にちょうど良く納まった。背筋にぞわりと不思議な感覚が起こった気がした。れんは自分の中に誰か別の自分が居るような気がした。その誰かは今まさに法律で禁止されている栓を開け、その中に封じ込められた禁断のエキスを飲もうとしている自分自身だった。れんは缶に口をつけて、その中身を口内に流し入れた。普段飲む清涼飲料水と似た味がして、少し安心しているみっともない自分がいた。けれどそのすぐ後にふわりと立ち上ってきた刺激的な感覚が鼻を抜けて、れんは思わず顔を顰めた。
「冷凍食品しかなかったけど……」
バイト先で慣れているのか、冷凍パスタが乗った皿を器用に片腕で二つ支えながら、レナがドアを開いて部屋に帰ってきた。れんは見られてはいけないものを見られた恥ずかしさで、思わず缶をテーブルの上に叩き付けるように置いて姿勢を正した。レナはそんなれんが少し可愛らしく見えて思わず笑い、それでバランスを崩しそうになって両手で持ち直した。パスタは両方ともミートソースだった。テーブルの上にギリギリ乗った二つの皿を、れんは追い出された自分のチューハイを手で持ちながら見ていた。レナは改めて自分の分のチューハイの栓を開けて、それをれんの方へと掲げるように出した。れんは少しの間固まって、レナが乾杯をしようとしていることに気付いた。既に口をつけてしまった自分の事がまた恥ずかしくなって、れんはレナの顔を見ないように目を伏せながら缶を上げた。アルミ缶同士が衝突した軽い手ごたえが伝わってきた。
普段フォークとスプーンを使ってパスタを食べているれんが少し苦戦している間に、レナは手早くパスタを口に運んでいた。れんはあまりアルコールに強くないのか、もしくは元々色白だからなのか、弱い缶チューハイ一本を飲みきる前にその端正な顔を赤く染めていた。レナは先に食べ終えると、口元に少しソースをつけたれんの綺麗な顔がパスタを頬張る姿を眺めていた。レナからすると、れんは大学の中でも指折りの美人に見えた。講義の際に背筋を伸ばしてノートを取っている姿はお世辞抜きに綺麗だし、あまり大胆な動き方をしない所作には奥ゆかしさすら感じる。けれど片目が殆ど隠れてしまうくらいの前髪と、他人とは目を合わせようとしないおどおどした雰囲気が合わさって、大学内では全くと言っていいほど存在感がない。誰が話しかけてもうんともすんとも答えない癖に、やけに自分の意思ばかりをしっかり持っていて、思い通りにいかないと不満げな空気を出している。そんなれんがレナには気に食わなかった。
二人分の皿が空になった頃には、お互いに缶を一本空にしていた。レナが皿と空き缶を流し台に置きに部屋を出ると、ちょうど母親が帰ってきていた。
「レナ、ただいま。お友達が来てるの?」
やけに嬉しそうな母親を見て、レナはつられて少しだけ嬉しくなった。思わずはにかんだ自分の口角を下げるのに必死になった。
「……まあね。部屋、入らないでね」
「はいはい。お酒は控えめにね?」
扉の前で一度深呼吸をして、普段どおりの顔に戻したレナが部屋に戻ると、れんはもう二本目の缶を開けていた。そればかりかテーブルの上にチョコレートを広げ、勝手に食べ始めていた。レナが元の場所に座ると、対面には顔を真っ赤にしたれんが姿勢悪く座っていた。
「……レナさん」
レナも二本目を開けたところで、不意にれんが声を出した。二年以上いて、れんから話しかけられたのは初めてだった。レナはつい情けない声を上げてしまった。
「え?」
「なんで、私を、拾ったんですか?」
れんの声は静かで、どこか冷たい声だった。れんの透明な眼は酔いのためか少し焦点が合っていないようだった。レナはチューハイを一口飲んだ。強いアルコールが喉を焼いた。自分の顔がとてつもなく熱くなっているような気がした。
「……助けなかったら、アンタが死んでたから」
レナは自分の答えがひどく事務的なように思えた。きっとれんが聞きたい事はそういう事ではないとも感じた。れんは普段からは想像もつかないような苦い顔をして、自分の分のチューハイを呷った。
「私が弱いから、ですよね」
れんは不思議と饒舌だった。レナは、それはきっとアルコールのお陰なのだと思った。そしてそれに嬉しさを感じている自分が卑怯者にしか思えなくて、じっと見つめてくるれんと目を合わせられなかった。
「魔女はたおさないといけないのに、私はよわい……」
独り言のようだった。れんは空になったチューハイの空き缶を無造作にテーブルに置いた。空の缶が空しい音を立てた。
「戦いもレナさんにたよってばっかで、わたし……」
レナはれんの言葉を黙って聞いていた。そのままれんも黙ってしまった。レナは目の前に座る少女に、かつて共にチームを組んで戦っていた親友が重なって見えた。そう考え始めると、レナの口は勝手に動き始めた。
「……そんな思いつめても、死んだらどうにもならないじゃない……」
いつの間にか、レナの手の中の缶も空になっていた。
「わたしは、しんでもいいんです……」
「……え?」
「どうせ、しんだにんげんなんですから。魔女をたおせなかったら、わたしわ、なんのために、いきてるのか……」
段々呂律が回らなくなってきているれんは、この世の終わりを見ているような顔をしていた。レナは熱で浮かれ始めた思考を何とか回して、グリーフシードの予備が机の中に入っていることを思い出す。
「それだけじゃ、ないでしょ……」
「それだけなんです! わたしには……!」
いきなり鋭い声を出したれんがテーブルを乱雑に押しのけて、対面に座っていたレナの胸倉を掴んだ。封が開いたままだったチョコレートの袋が床に落ちて、中の個包装された粒が散らばった。れんは一人で泣いていた。レナは顔を近づけて初めてそれに気付いた。れんはそのまま勢いを無くして、レナの胸に寄りかかるようにして嗚咽を漏らし始めた。レナは震える肩に手を伸ばそうとして、けれど自分の手も負けじと震えていることに気付いて、静かに手を下ろした。
「……れんが何をそんなに思いつめてるのかは、レナにはわかんないわよ」
レナは優しくれんの手を胸から外した。れんは意外そうな顔で固まったまま、レナの前にへたりこんでいた。床についているれんの左手の指輪をさりげなく見やると、その宝石には形を持った穢れが蠢いていた。
「でも、弱い自分を許せないんだって気持ちは……、わかる、つもり」
レナは立ち上がって、自分の机の引き出しを開けた。そこから使っていないグリーフシードを一つ取り出して、れんの目の前に座りなおした。
「でもね。どれだけ考えたって、自分じゃない誰かにはなれない。なれないの。絶対……」
ソウルジェムを浄化されている間、れんは目を閉じていた。静かに涙を流しているれんの姿は、今は情けない鏡像のようにも見えた。
「……じゃあ、わたしわ……」
「どうすればいいかなんて、レナにはわかんない。わかんないけど、れんは、その……レナの、仕事仲間みたいなもん、でしょ? だから、死なれたら、レナが、困るの」
レナはそんな事を口走りながら、顔から火が出る思いになっている自分を、何も成長していない子供だと感じていた。思わず手近に置いてあった缶を思い切り傾けたが、空の缶からは何も落ちては来なかった。れんは呆然とレナの方を見ていた。レナは顔ごと目を逸らして、机の上に置かれた写真立てに視線を逃がしていた。
「……わらしは、つよくなります。つよく……」
次にレナがれんの方を見たときには、れんは座ったままゆっくりと船を漕いでいた。軽く揺すっても、声をかけても、れんは起きる気配がなかった。レナはひとつ溜息を吐いて、れんを自分のベッドに寝かせた。掛け布団を掛けてあげた後、レナは足元に落ちたチョコレートの一つを拾い上げて、口の中に放り込んだ。アルコールが回って重くなった頭を抱えながら、机の前のキャスター付きの椅子にどっかりと座った。ついさっきまで泣きながら喚いていたれんは、今は頭だけを布団から出して、綺麗な寝顔を見せていた。ホントに図々しい酔っ払いだ、と口の中で言ってみて、普段だったら不機嫌になっている筈の自分が、今は冷静な事に気付いた。レナはそれも全部アルコールのせいだ、と自分の思考を納得させた。
「……ほんと、なにしてんだか……」
何となく椅子をくるくると回しながら、レナはぼうっと周りを見ていた。机の上の写真立てで笑うかつての親友と、目が合った。
「……レナがお節介なんてガラじゃないって、思ってるんでしょ?」
彼女なら、きっともっと上手くやったのだろう。レナはまだまだ子供で、相談に乗ることも、いわんや誰かを救うなど、とても出来ない。そんなことは誰よりも分かっていた。けれど、目の前で自殺未遂をしようとしたれんをそのまま放っておくこともレナにはできなかった。レナは不器用だから、お酒の力に頼るような狡い真似しか出来なかったけれど。レナは机で頬杖をついたまま、しばらく写真を眺めていた。中学三年生の夏、レナが一番幸せだった時の記憶がそこにあった。そのまま五分か、十分か。時間の感覚が曖昧になったレナは、そのまま意識を失った。
翌日、レナは椅子の上で目を覚ました。机に突っ伏した体勢のまま眠ってしまったらしかった。振り返るとベッドは綺麗に整えられていて、昨日のゴミも知らないうちに片付けられていた。部屋に置かれたままのテーブルの上に、見覚えのない白い紙が置かれていた。レナは椅子から立ち上がって、少しふらついて机に手をついた。二日酔いで痛む頭を抱えながら、テーブルの上の紙を手に取った。そこには几帳面な文字で「ありがとうございました」とだけ書かれていて、紙の下には千円札が二枚だけ置かれていた。ベッドの近くに置かれた目覚まし時計の針は昼前を指していた。レナは今日の予定を考えて、講義は午後からだったことを思い出す。手癖で頭を掻くと、昨日学校から帰ってきた時のまま、少しべたついた髪も解いていない事に気付いた。
「……とりあえず、シャワー浴びよ」
今日は、平凡な昼下がりだった。レナは一人きりの家の中でシャワーを浴びて、私服を新しく着直して家を出た。天気予報では今日も快晴で、昼のバラエティでは新進気鋭のアイドルグループの特集をやっていた。歩いて大学へと向かう道中のコンビニに寄って、サンドイッチとお茶のペットボトルを買った。レナはそれを食べながら、いつも通りに歩いて大学へと向かった。三限の教室にはもう生徒たちが詰め掛けていて、いつも座る後ろの座席はすっかり埋まってしまっていた。空いている席を探して周りを見回すと、一番前の席にぽつんと座っているれんの後姿が見えた。レナは少し考えて、それでもいいか、と思った。賑やかな学生同士の会話の中を通り抜けて、レナは一番前の席に向かった。