長雨がようやく終わりを見せ始め、雨続きだった週の中にぽっかりと空いた秋晴れの空を、僕は教室の窓越しに眺めていた。普段は黒板のよく見える前の方の席に座るけれど、直前の講義が遅れた都合で大講義堂の目ぼしい席はすっかり取られていて、ぽつりと空いていた中途半端な窓際の席に座ったのだった。一つ席を開けた隣では仲の良さげな女子グループが喧騒に一役買っていて、誰も座っていない椅子の上にまで鞄と荷物を広げていた。神浜市立大学のあたりは都市化が進んでいて、窓から見えるキャンパスとその外側はコンクリートばかりだった。高い位置に掛けられたアナログの壁掛け時計が、気にかける度に少しずつ短針を進めていた。予定時間を過ぎても始まらない講義を待つ間、僕は時折車道を通る車種も分からない車を無意識に目で追っていた。この必修講義が金曜の最後の講義で、これが終わった後は同じ魔法少女であるレナさんと魔女探しをするのが最近の流れだった。レナさんは大抵最後尾の席で机に突っ伏して眠っているから、毎週僕が人波の引いた後に起こしにいくのだが、どれだけ人混みの喧騒に飲まれようが眠っているその図太さは流石の一言に尽きる。講堂の空調は秋の寒くはない気温には過剰な容赦のない暖房で、その熱気に負けて僕も少し浮ついているところはあったけれど、抑える講師のいない大学生たちの騒ぎの渦中にいては、とても意識など飛ばしてはいられなかった。
そんなどうでもいいことを考えていた僕の視界に、ふと見覚えのある後姿が飛び込んできたことで、暑めの空調でぼんやりとしかけていた意識は一気に覚醒した。窓の外、キャンパスの外へと続く門の辺りを、レナさんが一人、堂々と歩いていた。今は始まっていないとはいえ必修講義の時間の真っただ中であり、当然レナさんもこの講義を落とせば卒業要件を満たせない。あの傍若無人な魔法少女が留年しようが退学しようが僕には何の影響もないのだが、この後に控えている魔女探しをどうするつもりなのか。
「えー、はい。こちらのトラブルで少々遅れましたが、これからキャリアデザインの講義を始めます」
マイクを通した講師の声が講堂に反響して、僕は正面に向き直った。いつもより少し遠い教壇に立った男性の講師が、いつの間にか垂れ下がっていたプロジェクターに映った資料を背にして、中々収まらない大学生のざわめきに立ち向かっていた。十五分遅れで始まった講義に学生達が向き合うのには、もう五分ほどが必要だった。
就職活動へ向けて気持ちを扇動する講師の話が終わる頃には、僕は慣れないグループワークで疲弊していた。生まれてから今まで付き合い続けている自分の症状が場面緘黙症という名前であることを知ったのは高校生の時で、心因性の症状は魔法でも簡単には治せないことを知ったのもその時だった。何だかんだ長い付き合いになるレナさんの前では多少話せるようになってきたものの、初対面の他人の前では相変わらず僕は唖者で、腫れ物扱いをされるのも相変わらずだった。隣で賑わっていた女子大生グループの一人は、友達も多く活発な女性という印象で、声の高さがいつかの彼女に似ていたから、それで余計緊張していたところもあった。結局ろくに話もできないまま時間を使い果たし、僕はほとんど白紙のワークシートを提出することになった。筆箱とノートを鞄に仕舞った頃にはもう出口に学生が殺到していて、隣にいた彼女達もその人混みの中に消えていた。立ち上がることなく、僕はもう一度窓の外に視線を向けた。今日はいつもの最後尾にレナさんが居ないのだということをそれで思い出して、僕はスマートフォンを取り出した。お気に入りの夕焼けが写ったロック画面を開くと、メッセージアプリにはもう通知が届いていた。
〈終わったら呼んで〉
たった一行のメッセージだが、無言で消えていた頃よりは随分と良くなった。
〈終わりました〉
と返信した。それから場所を言うのを忘れたと思って、
〈図書館に居ます〉
と追加した。スマートフォンを鞄に仕舞い、疲れと空調で寝ぼけ気味な体で思い切り伸びをした。ものの数分ですっかり人気の無くなった講堂を、僕は一人で抜け出した。
大学の図書館は高校生まで使っていた市の図書館よりも蔵書が充実していて、生来読書が好きな僕は入学と同時に図書館の住人になっていた。顔馴染みになっている受付カウンターの司書さんに頭を下げて、僕は真っ直ぐ二階へと向かった。足音の鳴らない絨毯敷きの館内は静かだったが、自習スペースの席はかなりの着席率で、ペンが走る音とキーボードを叩く音が耳についた。僕はその中から空席の一つに座った。両隣はパーテーションで区切られているから、講義室の長机と違って隣人の顔を見ないで済むのは楽だ。今学期の講義で扱われる短編小説を読み返そうとした時、どこからともなく表れたキュゥべえが、ひらりと机の上に降り立った。
「やあ、れん。調子はどうだい」
キュゥべえは魔法少女の素養がある人間にしか感じることができない。不自然にならないように当初の予定通り教科書を取り出して、適当なページを開いた。
「何の用ですか?」
魔法少女になって最も便利になったと思う時は、テレパシーで会話をしている時だった。脳内に浮かべた言葉をそのまま相手に送ることができるこの方法で話している間は、僕は緘黙と吃音とを気にすることなく会話をすることができるのだ。とはいえこの方法で違和感なく会話をできるのは魔法少女かキュゥべえ相手の時だけで、レナさんは普通に会話ができる状況でテレパシーを使うことを妙に嫌がるから、あまり話すこともないキュゥべえ相手以外では殆ど使えないのだ。
「様子を見に来たのさ。また無謀な突撃をされても困るしね」
キュゥべえは感情が無いと自称していて、デリカシーも無い。猫のように前足で顔を弄りながら、何の配慮も感じられない声で僕の失態を抉る。
「君は自分の魔力が衰えてきていることを自覚すべきだ。もう数年前のようにはいかない」
「そうはいかないんです。強くなるって、約束をしたので」
キュゥべえはゆっくりと首を横に振った。その仕草が何か馬鹿にしているように見えて、僕は無意識に奥歯を噛みしめていた。
「それは無理だね。れん、君は元々そこまで強い魔法少女じゃないし、今の時点で全盛期と比べて魔力の減衰も大きい。これから強くなる可能性は皆無だと断言できる」
何食わぬ顔のまま、キュゥべえは淡々とそう告げた。僕は掴んでいた教科書にシワができていることに気付いて、ひとつ深呼吸をした。何より一番不愉快なのは、キュゥべえの言葉が僕の中で正しいのだと思わざるを得ない事だった。
「ああ、そうだ。君たちに相談したい事があるんだ」
暫くの沈黙の後、机上を我が物顔で寝そべり寛いでいたキュゥべえが突然そう切り出した。僕が本から一瞬目を外して続きを促すと、猫のような柔らかい体躯を起こしながら、そのがらんどうの目が僕の方をじろりと見た。
「最近、ようやく魔法少女の素質を持った少女達が再び現れ始めてね。君たちは経験が豊富な先輩になるから、新人へのレクチャーをお願いしたいんだ」
「正気ですか?」
「そう言われてもね。この辺りで活動している魔法少女は君かレナしかいないだろう。別に二人のどっちでもいいんだけど」
「正気ですか?」
僕は初めてキュゥべえを愚かだと思った。
「私もレナさんも、新人教育なんてできませんよ」
「向いているかどうかで言えば間違いなく向いていないけれど、君たち以外に人がいないんだよ」
堂々巡りになってきた。僕は何処の誰とも知れない中学生に魔法少女のいろはを教える自分を想像しようと試みたが、それは徒労に終わった。
「何話してんのよ」
再び寛ぎ出したキュゥべえを眺めていた僕に、テレパシーに乗ったレナさんの声が聞こえた。振り向けば、ガラスの壁に腕を組んだまま寄り掛かっているレナさんの後ろ姿が見えた。僕が教科書を仕舞って席を立つと、椅子を戻している間にキュゥべえが肩に乗り移ってきた。
「行くわよ」
部屋を出た僕に向かって、レナさんは歩き出しながら小声を出した。僕は無言で頷いて後に続いた。暫く歩いたあたりで、キュゥべえが同じ話を切り出した。
「新人教育? なによそれ」
「魔法少女としての戦い方とかを、簡単にでいいんだけど。れんはやりたくないみたいだけど」
レナさんは横目で僕を睨んだ。そんな目をされても僕にはどうしようもなかったから、緩く首を振った。レナさんの特大の溜息が聞こえたのを、聞かないふりをした。
「……仕方ないわね。私がやる」
レナさんは割と最近になって、自分のことを私と呼ぶようになった。僕はレナと自称している方が似合うと密かに思っている。
「それは助かるよ。早速だけど、明日はどうだい?」
「……え?」
キュゥべえにワンテンポ遅れて、僕は驚きのあまりレナさんを見た。僕は大学でレナさんが僕以外の誰かと話をしているところは見たことがなかった。
「何か文句あんの?」
「……い、え」
僕が少し言葉に詰まっている間に、レナさんはさっさと歩いて行ってしまったから、僕はその後ろを少し早歩きでついて行った。
何年魔法少女を務めていても、魔女探しの方法に進歩はない。ソウルジェムが魔力の反応を捉えるまでただひたすらに街中を歩き回り、見つけ次第結界に侵入して、倒す。それだけだ。魔法少女が二人いるから、僕とレナさんはいつもチェックポイントで二手に分かれて、ある程度の時間でまた戻る、という方法を取っていた。この方法になったのはつい最近で、レナさんは明言しようとしないけれど、僕を心配しているのだという雰囲気はひしひしと伝わってきていて、それが余計に居心地の悪さを助長していた。
すっかり日の暮れた後、僕は一通りの見回りを終えて、待ち合わせ場所の公園に向かっていた。今日は空振りだった。繁華街にも住宅街にも魔女の気配は全くなく、もう何年も前になる魔女が溢れ返っていた頃の神浜市とは別の場所のようだった。公園の近くは少し背の高い木々が立っていて、風に揺れてざわめく音が真っ暗な中から聞こえてきていた。僕は長袖の上着を着直して、もう少し厚めのものにしてこなかったことを後悔した。ぽつりぽつりと立った街灯の光を鈍く反射する銀色の車止めを越えると、砂利を踏む音がいやに耳についた。名前も知らない鳥の声と、どこからか聞こえる機械の駆動音が、人気のない公園の中に踏み込んだ僕を囲った。そよ風が吹いて、ふわりと煙草の臭いがした。摺り足にならないように気をつけながら歩いていくと、三方を壁に囲まれた自動販売機の前に、空を見上げている人の影があった。夏以外は年中同じモッズコートを着ていて、右手に持った煙草から煙を立ち上らせている少女は、砂利の音で気付いたのか、だるそうに僕の方を見た。何か口を開く前に、左手にあった缶をぐいと傾けて、それからその中に煙草を落とした。
「ボウズ?」
意地の悪い顔だ。レナさんはポケットを弄って硬貨を何枚か取り出すと、自販機で温かいカフェオレの缶を買った。そして取り出し口から出したそれを、僕に向かって投げ渡した。キャッチした後に長袖越しに持ち直している間に、レナさんは缶を足元に置いて、二本目の煙草に火を付けていた。
「ま、余裕はあるし……」
呑気にそう言いながら煙を吐くレナさんは、僕の目線を感じたのか横目でこちらを見た。煙草を咥えて開いた右手でポケットからグリーフシードを取り出して、掌で見せ付けるように転がしていた。
「……き、今日は、どこを探したんですか?」
レナさんは答えない。ただグリーフシードを握り込むようにしてポケットに戻して、咥えていた煙草を口から離し、ひとつ息を吸ってから、大きく煙を吐き出した。その一挙手一投足が、僕には不愉快だった。少し冷めた缶のプルタブを開けて、その中身に口を付けた。缶のカフェオレは甘ったるくて、とてもコーヒー飲料とは思えない味がした。
「サボっちゃないわよ」
たっぷり時間を取ったくせに、それだけだった。真偽を確かめる為にキュゥべえに聞こうとして、そこではじめてレナさんについて行ったはずのキュゥべえがいないことに気付いた。僕が周りを見回していると、レナさんは小さな欠伸をした後に、
「アイツなら途中でどっか行った。例の新人を見に行くってね」
レナさんはそう言って、短くなった煙草を缶の中に突っ込んだ。
「アンタも少しは気を抜きなさいよ。毎回毎回そんな気張ったって、無理なもんは無理なんだから」
レナさんは僕がそう言われるのが嫌いなのを分かって言っているのだ。僕が無言を貫いている間に、レナさんはひとつ大きく伸びをして、眠そうに目を掻いた。その様子を見ている僕も無意識に欠伸が出そうになって、咄嗟に手で口元を隠した。自販機横のゴミ箱に空き缶を放り込んだレナさんは、コートのポケットからスマートフォンを取り出して、両耳にワイヤレスイヤホンを詰めた。
「じゃ、またね」
すれ違い際にそう言って、振り向きもせずにレナさんは夜の街に去っていった。段々小さくなっていくその後姿を眺めながら、僕はカフェオレを飲み干した。空になった缶をゴミ箱に入れながら、何かを言い忘れたような気がしていた。少し考えて、それが今日のレナさんがサボった授業の話だと思い出した。けれど就職とか進路とかの話をしてもあのレナさんが真面目に取り合うとは思えなかったから、切り出さなくてもいいな、と思った。
夜道を歩いて家に帰ると、ちょうど晩御飯が用意されているところだった。レナさんと行動を共にし始めた頃から、僕は家に帰るのがよく遅くなった。魔法少女仲間のことをどう説明すればいいのか分からず、友達が出来たのだ、と説明した時、母はわざとらしいほどの笑顔を見せた。僕がそれを見るのは二回目で、二回とも全く同じ理由だったけれど、その笑顔を向けられて少しだけ嘘を付いたように感じてしまったのは初めてだった。
「おかえり。ご飯、すぐ食べるでしょ」
「……ぅん」
上手く言葉が出なかった。僕は自分の部屋に戻って、通学鞄の中身を外に出した。弁当箱を取り出して立ち上がろうとして、一番上のファイルに仕舞われたプリントが見えた。母は僕が魔法少女だということを知らない。僕が自殺を仕損なったことも、何度も魔女に殺されかけていることも、遠からず死んでしまうだろうことも。この就職対策も、きっと無駄になる。
ふと、レナさんの事が頭に浮かんだ。僕にはあの人が何を考えて生きているのかはさっぱり分からなかった。けれど彼女だって、魔法少女の行く末くらいは実感がある筈なのだ。
「れん? どうかしたの?」
母が部屋に入ってきて、僕は部屋の中でぼうっと立ち尽くしていたことに気付いた。
「……なんでも、ない」
首を横に振る僕の事を少し心配そうに見ている母の目が、僕はあまり好きではなかった。
一限に追われることがない日にも、目覚まし時計はいつもと同じ時間に鳴った。ベッドから上体を起こした体勢のまま、僕はぼうっとしていた。朝に鳥のさえずりが聞こえるというのは文章の中の話ではなく、僕よりも早く起きる母がリビングで付けているテレビの音が壁越しに聞こえてくる。何か変な夢を見たような気がしたが、ぼやぼやと浮かんでくるイメージ以外には何も覚えていなかった。ふと、自分の部屋がやけに殺風景に思えてきた。いつかお邪魔した誰かの部屋は大抵ごちゃごちゃと物が置いてあったイメージがあった。僕の部屋はベッドと机と本棚くらいしか特筆すべき家具がない。これではまるで生き急いでいるようだ……と考えて、それは間違っていないな、と帰結した。寝起きの安定しない頭が徐々にしっかりしていくのを感じながら、僕はベッドから降りた。フローリングの床は冷たかったから、クローゼットの中から靴下を取り出して履いた。
朝食をとり終わった後、予定の何もない今日をどう過ごすか、ホットミルクを飲みながらぼんやりと考えていた。日頃の自習の成果なのか急いでこなさなければならない課題は残っておらず、僕が人と話せない事情を理解してくれているバイト先の古本屋にも今日は顔を出す必要がなかった。魔法少女としてもグリーフシードには余裕があったし、レナさんは例の新人教習に行くと言っていた。本当は一人でも魔女を放置してはいられないのだが、あのレナさんがあれだけ僕一人での活動に暗に釘を刺してきていると、どうしてもそれを無下にする気は起きなかった。
結局特にやる事も無かったので、僕は午前中に簡単な予習復習を済ませた後、幾つかの積読を鞄に入れて喫茶店へと向かった。休日の昼過ぎにしては人通りもそこまで多くなく、気持ちのいい秋晴れの道をゆっくりと歩く事が出来た。葉の落ちた街路樹の間を抜けていくと、見慣れた街並みの中に、行き慣れた喫茶店のテラスが見えた。大通りから少し外れた立地だからか若者の姿はあまりなく、元気よくお喋りする初老の女性たちの横を通って店内へと入った。
ホットコーヒーを机に置いて壁際の席に座ると、小ぢんまりとした店内の様子がすっかり見渡せた。少し前まではどこの喫茶店にも置かれていた銀色の灰皿はここ最近はとんと見かけなくなり、コーヒーの香りが煙草に邪魔されることもなくなった。少ない席はまばらに埋まっていて、テラス席の近所迷惑を考えない喋り声がここまで届いていた。僕は鞄の中からペーパーバックを取り出して、文字の世界に意識を沈めていった。
傾けたコーヒーカップが空っぽになっていて、僕はふと顔を上げた。秋の日は釣瓶落としだと言うが、気付いた時にはもう斜陽の赤い光が差し込んでいる今日のような日は、まさにその通りだと思った。それからきりのいいところまで読書を進め、会計を済ませて通りへと出た時には、もうすっかり日は落ちてしまっていて、肌寒くなった気温と、星の少ない真暗な空の下で、僕は帰路を歩いていた。見慣れた景色の道は代り映えがない。決まった道をいつものように歩いていた僕は、街灯に照らされた道路の上でこちらを見ているキュゥべえに気付いた。僕がそれを無視して通り過ぎると、キュゥべえは隣の塀の上を歩いて付いてきた。しばらく放置して歩いていった僕は、ふと聞きたい事を思い出した。
「キュゥべえさん、レナさんはどうなりました?」
「ああ。……まあ、君の言葉が正しかった、と言ったところかな」
キュゥべえにしてはやや困っているような声だったから、僕は思わず笑みを溢してしまった。
「レナなら、一人になってすぐに居酒屋に行ったよ。随分荒れていたけど、あれは仕方ないよ……」
聞いてもいないのにつらつらと喋るキュゥべえに乗せられて、僕も段々とレナさんの事が気になってきた。居場所を聞くと、そこまで離れた場所でもなかった。時間を確認すると、夕飯の時間までにはまだ少し余裕があった。僕はスマートフォンで親に少し遅れる旨を連絡して、キュゥべえを肩に乗せた。
すっかり日が落ちていても、繁華街は昼間のような明るさだった。居酒屋や飲み屋の多くなってくるエリアに近づくにつれ、鼻につくアルコールの臭いも強くなってきて、僕は思わず眉間にしわを寄せた。成人してから酒を飲んだのは一度きりだが、それ以降酒を飲もうと思ったことはなかった。初めてであんなに酔っ払えるのは才能があるのだとかなんとかレナさんは言っていたが、夜に会うと酒と煙草の悪臭を纏いながら面倒な絡みを強要してくるレナさんの姿を見ていると、とてもではないがそうなりたくはなかった。
細い路地の奥には、所狭しと飲み屋の看板が置かれていた。僕は一瞬二の足を踏んだ。キュゥべえがその看板の上を器用に八艘飛びをしていくので、僕もその後に続いて足を踏み入れた。暖簾の向こう側からは男性のうるさい笑い声と、きついアルコールの臭いが漏れ出ていた。キュゥべえがおもむろに立ち止まって、僕もそこで止まった。小さな店だった。カウンターといくつかの客席しかないその店の中は、外から見回すだけですっかり見通せた。満席の客席の中には、見慣れた姿は見当たらなかった。僕と同じくらいの女性の姿すらもなかった。しばらく見ていると、酔い潰れているように突っ伏していた男性の一人がふと僕の方を見て、それから露骨にぎょっとした顔になった。足元にレナさんがいつも使っているのと同じ鞄が置いてあった。僕はそれで確信して、狭い店内を縫うようにして入り、レナさんの後ろに立った。
「……何?」
酒のせいか焼けた声で、レナさんは他人行儀にそう言った。どうやら僕に構う気はないようだった。レナさんはグラスに残った透明な酒をぐいと傾けて、それから吸殻の詰まった灰皿の上で新しい煙草を一本取り出して吸い始めた。僕がその姿をぼうっと眺めていると、木の机を叩く音が聞こえて、カウンターの向こうの店員らしき男がこちらを見ているのに気づいた。
「あんた、その人のツレ? 悪いけど、見ての通り満席なんだよね」
呆れたような目に見つめられて、僕の頭は停止した。何か返答を返さなければならないのは分かっていたが、喉の奥に落ちたままの言葉は上がってくるわけもなく。周りの酒飲み達の視線が自分に集まってきているような気がして、その目が軽蔑の色をしているのは見ずとも分かるから、僕はなんとかこの場から逃げ出そうと思ったけれど、両足は張り付いたように動かないまま、ただ無意味に唾を飲み込んで、刺激臭が鼻の中を通っていって、息を出来ていないことに気付いたが、けれど息の仕方を忘れたように苦しくなってきて、突然右手を掴まれて、はっと手元を見た。
「……これ、勘定。ほら、いつまで突っ立ってんの」
見知らぬ青年の姿をしたレナさんに腕を引っ張られて、半ば強引に僕は店の外へと連れ出された。自分に好機の目線が集まっているのは背中越しにも分かってしまって、顔から火が出る思いだった。
少し奥まった人気の無い路地でレナさんは変身を解いて、電気の消えたビルの階段に座り込んだ。僕はその対面に立ち尽くしていた。下を向いているレナさんを見下ろして、その姿に違和感があった。いつもと髪型が違うのだと気付くのに、少し時間がかかった。いつもは二つにまとめていた髪の毛を、今日は頭の後ろに一つでまとめていて、それだけで随分と雰囲気が変わるのだと思った。冷たいビル風にあてられて、僕は思わず身震いした。
「……何しに来たのよ」
レナさんが小さく呟いた。僕は何か返答しようとして、しかし失敗を詰りに来たわけではなかったから、少し考えた。
「……レナさんが、教習……を終わらせて、自棄酒してるって、聞いて……」
そこまで言ったところで、レナさんは大きな溜息を吐いた。それから座ったまま俯いて何やらぶつぶつと呟いていた。僕は手持ち無沙汰になって、ビルの壁に背を預けて上を向いた。月明かりと街の灯りに照らされて、星はほとんど見えなかった。
「……もういい。帰る」
隣に置かれた鞄をひっつかんで、レナさんはふらりふらりと揺れながらビルの合間を歩き出した。僕はそれを後ろから眺めていたが、ふと視界の端に落とし物を見つけた。古くなった紐が切れたのか、レナさんがいつも鞄につけていた手のひらサイズのウサギのキャラクターのぬいぐるみだった。所々汚れてはいたが、数年間付けっぱなしにしては綺麗だった。
「……ぁ、あの」
僕の静かな声はコンクリートに反響して、レナさんは赤らんだ顔を嫌そうに歪めながら振り向いた。僕の手の中にあったぬいぐるみを見つけると、少し驚いたように目を見張って、何秒か固まっていた。それから何かを吐き捨てるように鼻を鳴らして、
「……それ、あげる」
と言った。予想外の返答にすっかり僕は思考を止められてしまって、その言葉の意味を理解する頃には、もうあの背中はどこかに消えてしまっていた。僕は手の中に残ったそのぬいぐるみを軽く揉んでみた。何となく、レナさんが選びそうなものではないな、と思った。知らない内に目の前にいたキュゥべえと目が合って、僕とキュゥべえは揃って首を傾げていた。