運動会だなんだと学校が盛り上がっていたのは先月のことで、気がつけば教室の中は中間考査の話題で持ちきりになっていた。休み時間の教室の中でレナは何をするでもなく、一番後ろの窓際の自分の席に座ったまま、ただぼうっと窓の外に広がる暑苦しい青空を眺めていた。今日は最悪な一日だった。スマートフォンの充電を忘れたせいで寝ている間に電池切れになり、当然鳴るはずのアラームも鳴らずに起きた頃には既に遅刻ギリギリの時間だった。両親ともに朝早くから働きに出ていくレナの家では用意された朝食などもなく何も食べていないし、昨日済ませた筈の宿題が家の勉強机の上に出しっぱなしになっていることに気付いたのは、一時限目の授業が始まった後だった。教室の中にはレナに話しかけてくるような仲の同級生はいないことが、レナにとっては安心できる環境でもあった。
にわかに騒がしくなった教室の中に視線を戻すと、数人の女子生徒が、レナの席からちょうど対角の席の辺りに集まって何かをしていた。その席に座っていた暗い雰囲気の女子生徒は、周りで騒ぐガキ大将気取りの声の大きい女子生徒とその取り巻きに、なにやら詰め寄られているようだった。教室中に響く下品な笑い声にレナは空腹からくる軽い頭痛を刺激されて、小さく舌打ちをした。いじめが起こっているのは、どこの学校でもさほど珍しい話ではない。レナは転校するたびにいじめの現場を見てきたし、被害者になったことさえあった。いま顔を伏せている暗い少女の周りで笑っている少女たちは、一年前にはレナの席の周りにいて、レナもまた、その被害を黙って受け入れていた立場だった。ふと、その取り巻きのうちの一人と目が合った。レナはついと窓の外に視線を逸らして、小さく溜息を吐いた。昼休みまでには、まだ授業が残っていた。
学校を転々としたのも今は昔。すっかり通いなれた中学校の授業はつつがなく終わっていった。ホームルームが終わった途端に教室の中の生徒たちは色めき立ち、それぞれの集団となって騒ぎ出す。レナは教室の隅の席で鞄を机の上に置いたまま、何をするでもなくただ座っていた。周囲の席から続々とクラスメイトが消えていく中で、レナもその流れに乗ろうと腰を上げた時、また対角の席に目が行った。あの少女だった。俯いた顔は垂れ下がった髪に邪魔されてよく見えなかった。周りを取り囲む女子生徒たちに自身の通学鞄を取られてしまっているようで、帰ることもできないままじっと震えていた。レナはその後姿をぼんやりと眺めていたが、取り巻きの背中に隠れてその姿が見えなくなったので、通学鞄を持ち直して教室を出て行った。
校門を出るあたりで制服のポケットを探ったレナは、いつもの癖で机の中にスマートフォンを入れたままなことに気付いて足を止めた。同じ制服を着た少年少女達の波の中で、レナは誰にも聞こえないように小さく舌打ちをした。そうして踵を返して、もう一度校舎の方へと歩き出した。周りからの奇異な目線が余計に苛立ちを誘って、今度は少し大きめに舌打ちをした。
校舎の中は放課後の部活動が盛んに行われてはいるが、すれ違う生徒の数もあまり多くはない。いつもなら四方八方から聞こえてくる騒めきも今日は静かで、どこからか聞こえてくるギターの高音がいやでも耳についた。中等部の教室が並ぶ廊下はがらんとしていて妙に静かだったが、歩を進めるたびにうっすらと耳障りな声が聞こえてきた。いつぞや聞いたことのある笑い声や、床と靴が擦れる音、椅子や机を引き摺る音。大きさや方向から明らかにレナが向かっている教室からで、レナは再三の舌打ちをかました。教室の扉は閉まっていたが、磨りガラス越しに数人の生徒が何かをしているのは見えた。そしてそれは黒板から一番遠い窓際の席の辺りでもあった。レナはひとつ深呼吸をして、教室の後ろ側の引き戸を開いた。扉が軋む音が妙に大きく聞こえた。レナの視線の向こう側に、机を囲んでいた数人の女子生徒がいた。彼女たちは突然現れたレナの姿を認めて数秒固まっていたが、しばらくすると睨みを利かせた顔で何かを喚きだした。レナはまた一つ大きな舌打ちをして、女生徒たちの声を無視して歩を進めていった。声高に何かを言う割には少しずつ後退っていく女生徒たちの中で、床に仰向けに倒れた少女と目が合った。右目にかかった長い前髪がゆっくりとずれていって、それで初めてレナはいつも対角に座っっている根暗な少女の素顔を見た。埃か何かで少し汚れてはいたものの、思いのほか綺麗なままだった。レナは机の引き出しの中を乱雑に探ると、その中から手帳型のカバーのついたスマートフォンを取り出した。中のポケットに刺さったICカードを確認した後で、レナは様子を窺っていた女生徒達に向かって鼻を鳴らして、そのまま踵を返して教室を出て行った。後ろ手で扉を閉めるとまた耳障りな喧騒が戻り始め、それを聞かないようにレナはワイヤレスイヤホンを耳に詰めた。
次の日にレナが教室に着くと、いつもレナより早く席に座っていた対角の少女が欠席していることに気が付いた。レナの時も見て見ぬ振りをしていた担任の教師は今回も特に何かを言及することはなく、一人欠けた教室は何も変わらないまま、昨日と同じ今日を進めていた。レナもいつも通りに教室の隅の席で頬杖をついたまま、教卓で流れていく授業を聞いているふりをしていた。その日は一日中、対角の席は誰も座ることがなく、空席のままだった。
一日の終わりを告げるチャイムが鳴り、誰もが帰りの準備を進める中、レナがふと顔を上げると、目の前に不快な人間が立っていた。昨日、対角に座る根暗な同級生をいじめ倒し、欠席にまで追い込んだいじめグループの主犯格だった。彼女はにやにやと笑いながら何かを言っていたが、レナの目は彼女の左中指に向かっていた。そこには指輪はなかった。すっかり興味を失ったレナが彼女を無視して立ち上がると、何やら難癖をつけてくる彼女がついにレナの胸ぐらを掴もうと手を伸ばしてきたから、レナの堪忍袋の緒が切れて、その手を軽く払い除けた。睨まれたから睨み返し、何かを喚き散らす少女の鳩尾目掛けて足を上げ、蹴りを入れた。レナは相手が死なないように軽くやっているつもりだったが、魔法少女の蹴りはレナの思っているより強かったようで、相手はその衝撃で後ろに倒れ込み、机を二つ巻き込みながら派手な音を立てて地面に転がった。教室内の空気が凍ったのを肌で感じたが、レナは周りを一切気にせず、倒れた少女が息を荒くしているのも構わずにその襟首を掴み、その顔をレナと突き合わせた。相手の目はすっかり怯えてしまって小刻みに震えていて、慌ててレナの手を振り払うと、そのまま転げながら教室から逃げ去って行った。レナはそんな相手の後ろ姿を見た時、その首筋に妙な紋様を見た。音を聞きつけた教師が怒鳴りながら教室に入ってきた時には全てが終わっていて、レナはぐしゃぐしゃに倒れた机たちの前でただ立っていた。
もはや顔馴染みになっていた生徒指導の教師に散々怒られた後、教室の後片付けを終えたレナが学校を後にする頃には、すっかり日が落ちていた。レナは一人で学校の校門をくぐった後で、ふと思い返してもう一度学校に足を向けた。あのいじめっ子についていたものは、間違いなく魔女のくちづけであった。レナはひとつ溜息を吐いた後に、校舎の明かりに照らされた自分の左手を空に翳した。中指に嵌められた宝石が、青空みたいな色できらりと煌めいた。
その魔女を見つけるのに、さほど苦労はかからなかった。むしろこれまで学校に通っていたにもかかわらずこんな近くに魔女が潜伏していたのだとすると、意外と近場にも取り逃がしている魔女がいるのかもしれない、とレナは考えていた。その魔女の結界はレナが見つけた時には妙な揺らぎ方をしていて、その魔力が強まったり弱まったり、不規則に変化していた。それでレナは直感的に、もう中に別の誰かがいるのだと悟った。とはいえ自分に手を出してきた魔女を他の誰かに譲ってやる気もさらさらなかったから、レナは躊躇なく変身して、手に持った三叉の槍を振るって結界へと突入した。結界の中はかなり異様な雰囲気を放っていた。それが魔女の結界特有の気味の悪さだけではなく、所々に残る何かが着弾した後や、不自然なほど鋭利に切られたまま放置された手下らしき残骸などが、他の誰かが通った後だとしてもあまりに乱雑で過激だったからで、結界の奥へと進むレナの足は自然と早足になっていた。
魔女の居所にたどり着くまでの間、一度も手下と出会うことはなかった。一体残らず手下まで倒さないと気が済まないかのように、あらゆる場所で手下たちが残骸となっていたからだ。レナは魔女へと続く扉を開けようとして、その取手に赤黒い何かが付いていることに気付いた。それはドアの下からレナが通ってきた道の方に点々と続いていて、先は見えなかった。レナは呼吸を整えてから、取手を引いて扉を開けた。
扉を開いた瞬間、レナは全力で走った。足元に引かれた赤い線が続いていく先に、白い装束の少女が俯いたまま蹲っていたからだった。走りながら、レナはその後ろ姿に見覚えがあるような気がしていた。魔女らしき大きな敵が吐き出した巨大な塊が少女に達する前に、レナはなんとか間に合った。その二つの間に横から割り込むと、塊を槍の穂先で突き刺し、それを真後ろに高く放り投げた。少女の頭上を通り越し結界の床に落ちた塊は、大きな音と砂埃を上げて崩れていった。レナが振り向くと、少女は脇腹を両の手で押さえていて、その周りだけ白い綺麗な装束が赤黒く染まっていた。荒い呼吸で俯く少女はレナのことにも気付いていないようだったので、レナは一つ鼻を鳴らして、魔女と向き合った。魔女は威嚇するようにからからと鈴のような体を鳴らし、平べったい手のような触手を振り回して、レナへと襲いかかった。自分へと襲い来るものだけを的確に弾き飛ばしながらレナは魔女へと駆けた。至近距離、レナが地を蹴って飛び、魔女の眼前へと辿り着いたその時、魔女は再び塊を吐き出そうと力を込めた。レナはその動きを見るのは二回目だった。攻撃の隙はそこにあると思っていた。レナの槍が魔女の射出孔を的確に刺し貫き、そこから変身。細身だった槍は身の丈ほどの大振りな剣へと瞬時に変わり、魔女の内部にあったそれが急激に体積を増やした瞬間、魔女は苦悶の叫びを上げた。剣の刃を下に向け、レナは力の限り魔女の体に突き刺さった剣を真下に振り抜いた。空中で縦に一回転したレナはそのまま地面へと降り立ち、体の中程から下を真っ二つに切断された魔女は、耳障りな悲鳴と嗤い声を上げながら、黒い霧となって消えていった。変身を解いて元の姿に戻ったレナは、足元に落ちたグリーフシードを拾い上げると後ろを見た。少女は蹲ったまま気を失ってしまったようで、しかしその脇腹の血は確かに止まっていた。レナは地面に落ちた頭を、首筋を触ると、仄かな暖かさと鼓動を感じて、安堵の息を吐いた。それから脇腹の負傷に簡単な治癒魔法をかけて、楽なように身体を起こしてやり、すぐ横の壁にもたれかからせてやった。そうして顔が上向いた時、レナはその少女が今日学校を休んだ対角の席の同級生であることに気付いた。通りで見覚えがあるわけだ、とレナは苦笑して、いま手に入れたグリーフシードを近くに落ちていた彼女の鞄の中に入れてやった。
翌日、いつも通りに登校したレナが教室の扉を開けると、それだけでクラスメイトたちがざわめいたが、レナは鼻を鳴らすだけで何も気にすることなく、一番後ろの自分の席についた。そうしていつも通りに頬杖をついた時、ちょうど対角に少女が座っているのが見えて、レナはひとつ、溜息を吐いた。担任の教師がホームルームのはじめに、今日休んだいじめっ子のことに言及しているのを聞いて、レナはもう一度溜息を吐いた。今日の天気も快晴で、心地よい日差しにあてられて、レナは大きく欠伸をした。