彼女はなにを願いましたか?   作:風遊

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少女。つまり、誰が仔猫を殺したのか?


 少女はじっと天井を見ていました。白い天井。ぴたりと閉じられた白いカーテンの向こうから、月の光がうすぼんやりと滲んで、天井の隅の方に、夜の欠片みたいな暗がりを作っていました。

 体を包む白い掛け布団。身を横たえている白いシーツ。頭の下の白い枕。周りを囲む白い壁。そして天井。どれもこれも、言葉にするならば「白」以外の何物でもないのに、しかしそれが、少女の知る白色であるのは、陽の光の中でのことでしかないのでした。だから、きっと白いのはそれらではなくて、太陽の光に違いないのだと、少女はそう思いました。

 だとするなら、月の光というのは、青い色をしているのです。天井も、カーテンも、掛け布団も、シーツも、枕も、壁も、何もかもは今、頼りない月の光の中で、暗い青色に沈んでいるのですから。

 あるいは、それは青ではなくて、夜という時間の中では、それこそを白と呼ぶべきなのかもしれません。あらゆるものはそれ自体では何も語らずに、すぐ隣にある何かとの、あるいはどこか遠くにいる誰かとの、その違いの中で存在するのですから、陽光の中での白色が、今、月光に照らされた夜の中で全て青であるならば、それは白色と言っても差し支えないのです。では、夜の中で青が白であるなら、夜の中の青は、何色をしているのでしょうか。

 少女は目を閉じました。月明かりは弱々しくて、瞼の裏に光を――光とは色と同じ意味だけれど――届けはしません。暗暗と闇ばかり。そこは純粋に自分だけの世界だと少女は信じていました。しかし薄い瞼は、実際は何も遮ってはくれずに、そこに映る闇は、夜から生まれたものかもしれない、と不安になりもしました。だとするならば、少女が純粋に少女であるための逃げ場所は、この世界のどこにもないのではないか、と。

 瞼には様々なものが浮かびました。夜の中、濡れたアスファルトの上、外灯や信号機や、車のブレーキランプを反射する水たまりの表面が、霧雨に揺らめくイメージ。海の底でたゆたう珊瑚の卵たちが、水中を渡り散乱する月光に、きらきらと踊り、プランクトンと戯れるイメージ。七色というにはもっときらびやかなまばゆいネオンサインの残像が、幾重にも重なりあうイメージ。それらのイメージは、ひとつひとつ順番に、独立して浮かび上がるのではなくて、全ては同時に現れ、混じり合い、しかし一つにはならないのでした。たくさんのものたちは、それぞれ色も形も、何もかもが違うのですから、当然のことでした。

 やがて、信号機やブレーキランプが、珊瑚の卵たちが、ネオンが、連なり、どこでもない場所に、線を紡ぎだします。線はねじれ、膨らみ、重なり合い、元の形を失ったそれらは、もうそれぞれに意味を失って、そのうちにたくさんの、新しい形を作るのです。色は溶け合い、暗闇に白く――少女の知っている白色――輝きだしました。少女はその形の一つ一つを知っている気がしました。

 ――これは文字だ。たくさんの文字。

 少女はぼんやりと気づきました。そして、文字は文字であるがゆえに、意味を求め出します。それが彼らの役割であるのだから、当然のことなのでした。

 羽虫のような小さな文字たちが、いくつもいくつも、連なり、重なり、言葉となり、文となりました。少女はその文字の連なり、言葉の重なりを、どこかで見たはずだと思いました。それは、この瞼の裏の世界が、純粋に少女だけの世界ではないのだということを――そこにあるものは、結局全てが、自分以外からしか生まれようがないのだと――何よりも証明していると、しかし少女は、未だ気付かないままでした。

 どこで見たのだろう、と少女はのんきに考えました。このベッドの上か、それとももっと、昔のことか。やがてそれは、いつ見たともわからないままに、しかし昔、たしかにどこかで見た、新聞の記事だと気が付きました。小さな小さな記事。地方紙の社会面の下の方、わずか十数行をさかれている程度の。少女は自分が何故そんな記事を覚えていたのか、まるでわかりませんでした。

 その内容は、仔猫が無残に殺されたという事実を、淡々と告げているものでした。捨て猫を狙った犯行で、犯人は十六歳の少年。動機は家庭問題のストレス。近隣の町でも似たような事件があり、余罪を調べている。と、最低限の情報が、掌に収まるくらいの小さな箱にぴったりと詰められるようにして、書いてありました。

 ひどいことをするものだ、と少女は思いました。それを初めて読んだときにも、同じことを思った覚えがありました。何がひどいかといえば、もちろん仔猫を殺してしまったことでした。殺された仔猫がかわいそうだとも思いました。犯人を許せないとも。それらもまた、過去に同じことを思ったのでした。しかし同時に、今の少女は考えました。仔猫は何故殺されなければならなかったのだろうか、と。

 少年が、仔猫がいたところの近くではないどこかに住んでいたとしたら、仔猫が殺されることはなかったのでしょうか。それともそのときは、どこか別の場所で、彼は別の仔猫を殺していたでしょうか。

 仔猫が別の場所に捨てられていたとしたら、殺されることはなかったのでしょうか。そのときはやはり、別の仔猫が殺されていたのでしょうか。だとするならば、仔猫が死んだことで、殺されずにすんだ別の仔猫がどこかにいるのでしょうか。

 少年の家庭に問題がなければ、仔猫を殺すという行動には走らなかったのでしょうか。あるいは、そもそも誰かが仔猫を捨てさえしなければ。

 少女の頭のなかで、因果という名の輪が連なって、長く、重くなっていきました。それは際限なく、どこまでも続いていき、時には枝分かれをして、巨大な樹木のようになりました。けれども、そんな連鎖が何か意味を持つのかと言えば、少女もわかっている通り、何も意味などないのでした。殺された仔猫がいて、仔猫を殺した少年がいて、世界はそのように、その瞬間に、その一点においてだけは、完結してしまっているのでした。

 なので、今更何かが変わるわけではありません。いくら考えたところで、その可能性は少女の頭のなかにしかなく、すでに因果の結ばれた世界は、このとおりでしか無いのです。少年の存在。仔猫の存在。

 少年がそもそも存在しなければ、仔猫は殺されることはなかったのでしょうか。だとするなら、少年の両親が出会うことがなければ。少年の両親が存在しなければ。少年の両親の両親が出会わなければ。

 あるいは、運命という名の理不尽の象徴は、少年の存在にかかわりなく、仔猫を殺すでしょうか。いっそ、仔猫のほうこそ最初から存在していなければ。仔猫の親が、その親が、さらにその親が。どこまでたどれば、仔猫は殺されずにすむのでしょうか。

 少年も、仔猫も、あらゆるものの存在と存在の間には、深く果てのない因果が横たわっているのでした。例えば、少女もまた、あるときある場所で、ある交差点を東に曲がらなければ、そこからさらに巡り巡って、少年と仔猫が出会うことはなかったのかもしれません。延々と続く連鎖のどこかでは、誰かと誰かが、何かと何かが、誰かと何かがいつだって関わりあい、からみ合って、結果とはその連綿と続く営みの、ごく一部の区切りでしかないのでした。だからそのどこかでは、必ず、少年のそれと、仔猫のそれと、そして誰かの――少女の――それとも、確かに交わるのです。だとするなら、少女もまた、仔猫が殺されなければならなかった、その理由の中にいるのでしょうか。

 殺された仔猫に限らず、殺した少年にかぎらず、今ベッドに横たわっている少女に限らず、全ての事物の、まばたきよりもはるかに短い一瞬。それらは全ての結末であり、あらゆるものの因果の果てにあって、同時にあらゆるものの始まりでもあると。

 そのことに気付いたとき、少女は絶望しました。先ほど気付かなかった事実に、ようやく思い至ったのでした。それぞれに、それぞれとして存在していると思い込んでいたものたちは、みんなつながっているのです。この宇宙のどこにも、自分だけの世界なんてものはありませんでした。

 瞼はあまりにも薄く、そこから染み込んで眼球を満たし、視神経を伝い、脳髄を満たすものは、暗闇なんてちっぽけなものではなくて、少女以外のすべてのものなのでした。すべての事物の因果は、一つの根に通じるしかないのですから、考えてみれば、どんな幻想よりも、当然のことなのです。

 白も青も、黒も赤も、瞼の裏に映る様々な色は、比べることさえ必要なく、あるいは色というもの自体、必要ありませんでした。それらは結局光でしかないのですから。光とはたったひとつの粒であり、波であり、確率であり、存在であり、非存在であり――そして光にかぎらずすべてのものは、頼りない一本の、因果の象徴である紐でしかないのかもしれないのだから――目を凝らせば凝らすほど、考えれば考えるほど、境界はぼやけて、塊となるのでした。

 塊となったそれは、もう色ではなく、つまり光でさえなく、猫でもなく、少年でもなく、少女でもなく、次の瞬間には光さえ追いつけない速度で膨れ上がりました。それは少女ではないのに、少女のすべてであり、世界ではないのに、世界のすべてであり、すべてが少女であり、すべてが世界であるのでした。

 そこにあるあらゆるもの――天井、カーテン、掛け布団、シーツ、枕、壁、太陽、月、アスファルト、信号機、外灯、車、海、珊瑚、ネオンサイン、文字、仔猫、少年、そして少女――は、すべて塊の内側にあり、塊の内側にいる少女は、同じように、あらゆるものを内包した塊を、瞼の裏に映してシーツに沈んでいるのです。

 少女は猫を殺しましたか?

 ちっぽけで無意味な問いはついに黙殺され、少女は目を閉じたまま、合わせ鏡の向こう側を見つめ続けるみたいに、果てのない果てを抱いて、震え続けるのでした。白色の夜に包まれたまま。

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